>残響塾



[4002.12.12]

 もうバラバラの小鳥のように、ハンペンをちぎって空に巻いたように、すべての交換を諦めて。



[4002.10.18]

 眠りの中へ目覚めたその覚醒よりも、時折不覚にも目覚めてしまう眠り、一瞬舟を漕ぐうたたね、そこに名の次元がある。祝福された者、首に矢の刺さった者は、眠りの中で目覚める謂れなき名が語る。



[4002.09.20]

 実際上の社会関係となると、途端に適応/不適応というモデルにまで撤退するのは、卑劣というより他にない。正に「卑劣さ」とのあり得る次元、つまり卑劣であったりなかったりするナルシシズムの内部へと事態を矮小化しているのだ。「実際上の」という退路としての想像的領域、適応/不適応モデル(自我心理学的な)、そして卑劣さの可能性、すべてが同時的に行われる。
 ただし、この水準を「突破せよ」と外側から語ることはできない。亀裂は箱庭の内部にみつけなければならない。肉を恐れず、肉の戦場でもまた骨の流儀で戦わなければならない。
 貧しさすら防衛の一つだとしたらどうか。
 もちろん、ここで勇猛さを発揮したとしても豊かさが約束されるわけではない。ただ借財=罪により身を守るのをやめるだけだ。財=善bienのステージを手放し、財でも善でもない何かを手にしてしまう不安の中へと進むのだ。
 手にしたものがガラクタだったとして、それがどうした?
 防御してはならない。なぜなら防御は存在せず、ただ防衛技術を巡る閉じた語らいがあるだけだからだ。攻撃したり、しなかったり、それだけである。



[4002.09.01]

 呼び掛けを排除するものを病者と呼び、抗う者を人と呼ぶ。
 呼び掛けをすべて引き受けてしまう者は英雄であり、この象徴的自決においてのみ、主体は望みも予想もしなかった者に生まれ変わり、世界を驚かせる。



[4002.07.30]

 「神は死んだ」と発話されなければならなかった時というのは、神が死んでいることに人々が気付かなくなった時だ。神はずっと前から死んでいるのであって、ただ神だけが死んでいるのに気付いていなかった。ただ人々が、彼が死んでいる自分に気付かないよう振る舞う限りで、神は生きていたのであり、だからこそ神が「本当に」生きているかのように人々が語り出した時、神が自らに気付いて「本当に」死んでしまわないために、「神は死んだ」と叫ぶ必要があったのだ。
 信仰者であるということは、神を信じる以上に、神が神自身を信じられるよう、与えらた借財を燃焼させることである。ここにこそ、意味の領野が信仰と不可分である所以がある。なぜなら、借金の全返済というあり得ない幻想に「生の意味」は依拠するのであって、この幻想に投機することが再生産だからだ。
 だが注目すべきは、この再生産によって生じる余剰である。再生産システム自体がそれだけで完結するとしたら、人々は神が「本当に」生きていると信じてしまうだろう。剰余は意味の経済からこぼれ落ちることによって、人々の教義を揺さぶる。これによって、信仰はかろうじて狂信からわかたれる。

 意味を構成するためには意味をもたないものが必要だが、一方で生贄の羊は一匹とは限らない。



[4002.07.06]

 例えば、エロトマニアが男性の妄想だとしても、エロトマニアの「実在」が否定されるわけではない。妄想する女の総べてが妄想だとしても、だ。「願望」という地が心理学的主体や社会とセットになった幻を使ってやるなら、「願望」されたからこそ、エロトマニアは「存在」するようになる(もちろん、スクリーンの上に!)。「願いは必ず叶う」。なぜなら、「存在」するものとはそうやって産出されているからだ。
 とはいえ、真に産出物と呼ぶべきは「願望」の方であって「存在」ではない。

 物事には原因と結果があるが、必ずしもこの順番とは限らない。



[4002.06.23]

 「似ているもの」。愛憎。近親者。人間。肉。子供。犠牲というナルシシズム。自我の迷宮。想像的なもの。
 「違うもの」。鏡面。それ自体として映らないもの。裸であることをしらない王。永遠に計算する神。骨。マトリクス、座標軸という幻想の映る場所。スクリーン。象徴的なもの。
 「同じもの」。目にみえないもの。現実的なもの。



[4002.06.18]

 もちろん、「生殖そのもの」が問題なのではない。性行為と生殖は無関係である。
 ただ性行為が、法の狭間に挿まれたロボットのように生殖の周りを回る。「おや、入れるところがないぞ?」。
 それが生殖に与すると「自然」へ還元する粗暴さはもちろん、生殖のためではない性行為もまた、滑稽な肥満児の踊りである。



[4002.06.17]

 肉の父と骨の父がいる。  未だ生殖に溺れる「生まれながらの者たち」は、「自然」という想像的なものを支えに幻想を形成し、粗野で体臭のする肉の父に仕える。
 生殖可能性を放棄した者だけが、骨の父、秩序の主人の婢となる。

 もしも現実が剥き出しになる瞬間があるとすれば、それは「自然」のスクリーンの上などではなく、象徴的座標軸に「不自然」な影として映り込む。
 借金=呪いを継がせることを諦めた者だけが、継がされた箱の中身を見る。



[4002.05.30]

 「神しか信じない」のは「神すら信じない」ことかもれない。

 描かれた三角形、三角形とは何の関係もない立体物を通じてわたしたちが三角形を理解するように、神について、世界を通じて「信じ方」を求めなければならない。偶像の禁止とは、禁止するという行為にこそ真価がある。つまりは偶像はあるのであって、それが禁止されることで神があぶり出されるのだ。もちろん、この「あぶり出し」はいつも上手くいかない。名もなく名指されているものについて語るには、その者が名付けたモノたちを訪ね歩くしかない。信仰と布教が不可分の所以である。

 羨望が仲裁されず、いつまでも許されないのは、神が足りないからだ。
 そして信仰は、神の足跡を巡礼することによってしか証立てられない。
 布教者たちが訪問する先は、未だ主の光の届かない者などではなく、薫りの残る遺跡なのだ。そして自分の匂いだけは、自らの背中のように、感じ取ることができない。



[4002.05.25]

 わたしが潜伏するのではない。何かがわたしに潜伏するのだ。



[4002.04.03]

 わたしたちが幸福に宙づりされていても、限られた英雄が欲に身を焼かれ続けるお陰で、神の欲望は展開されていく。常に歴史に一歩先んじる歴史として。あるいは、「わたしたち」の終末として。
 欲望か、幸福か、それが問題だ。
 もちろん、これを選び取る主体が抹消されている限りにおいて、欲望は「わたしたち」の欲望であり、惹いては神の欲望に他ならないのだが。



[40020228]

 「どうして」と疑問を持つことと、人に尋ねることの間には、大きな隔たりがある。
 尋ねる者は、一つにはナルシシズム的回路を巡っているのであり、今一つには他者の語らいの完全性を期待している。つまり、無限に愛を要求しながら、語らいのなかに確かに自らの地位を指定されることを待っている。それゆえ、主体というより自我の審級が機能しているのであり、従者としてのsujetが落ちてこない。
 一方、疑念を抱くものは、尋ねるというよりは尋ねられている。疑問は世界から投げかけられており、世界にとっての謎があることを引き受けようとしている。その謎こそが主体であり、問いを抱きつつ行動する者は、主体として次々とシニフィアンを乗り換えながらも、過剰にナルシシズムの回路に寄り掛かることなく、その症候を愉しむ。



  [40020129]

 信仰、この外的なるもの。
 わたしが祈らないでも、モノが祈っている。物質が信仰している。
 信仰における自由とは、信仰を物質に譲り渡すことによって主体が獲得する自由であり、それは環界なる物質のクラスターによって主体が抹消される瞬間と等価である。
 それゆえ、信仰の「内」にあるものだけが、信仰を「感じる」ことができるし、わたしたちは、ブルジョア的自由において、既に過剰なまでに信仰者なのだ。



[40020122]

 関係性がわたしを制服している。とりたてて去勢と呼ぶほどのことでもない。
 かといって、これに祈り生かされるというほどナイーヴにも考えられない。
 そもそもの初めから、生きているのは一匹の怪物だけだ。リヴァイアサン。
 しかし、より正確には、それは生きてすらいない、不死の「生命体」だ。
 遺伝子の乗り物に心が宿るのではなく、心が乗り物の名前なのだ。  そして乗り継いでいくのは、二重螺旋というよりは寧ろ精液である。



[40020118]

 同性愛は存在しない。なぜなら、性行為は存在しないからだ。
 ヘテロセクシャルな恋愛があるのではなく、ヘテロセクシャリズムが存在する。
 恋愛は性感帯の周囲を巡るが、ヘテロセクシャリズムとの関係は偶然的である。



[30021209]

 ラヴなき世界。お笑い芸人しかいない透明な世界。



[30021206]

 わたしさえいなければ、わたしはうまくいくのに。



[30021129]

 様々な一元論への可能的収斂としての二元論。すると、二元論とは、誤って多神論と呼ばれているものの現実態であるとも言える。
 一元論のナイーヴさとは、「もの自体」に触れられるかのような「科学的精神」にある。「中心主義」に問題があるのではない。結論とは常に、何らかの形で偏った中心を持つものだ。結論が先に来る「排除」の構造、非流動性に致命的欠陥があるのであり、結論を出そうとすることに咎があるわけではない。
 わたしたちを包囲する、あるいはわたしたちが包囲するのは、答えから問いを立てようとする一元論だ。その「科学的精神」(あるいは「科学的社会主義」!)というスペクタルは、合理論と経験論の両方を骨抜きにした形をとり、プラグマティズムと呼ばれることもあるが、実はその名にも値しない蒙昧主義に他ならない。
 一方で、多元論と呼ばれるものは、畢竟相対主義への停滞であり、時間性を排除した結論の順延構造に陥りかねない。つまり、強迫神経症的「生の順延」だ。多元論は神経症的であり、一元論は精神病的であるとも言える。
 フロイトの執拗なまでの二元論への拘泥は、耐えざるヒステリー者との「臨床経験」に導かれたものであることを、忘れるべきではない。



[30021124]

 sujet: 唯一の装置への服従として主体化する。
 性的欲求とは、畢竟装置によって斜線を引かれる、あるいは横断されるということだ。すなわち、「欲望せよ」という法によって刻まれるということ。
 ある主体においては、初めから際限のなく定められた余白の追求として、そしてある主体においては、そのような欲望の回路に身を投じることととして。注意すべきは、諸主体の間の「主体/客体」関係など取るに足らない、ということだ。「能動/受動」とは法の語り口の一様態にすぎない。
 それでも取り残されるのは、欲望に内属する欲望の余白ではなく、欲望を駆動する法の余白だ。
 何か余りがある。
 目の醒める瞬間に取り逃がした夢。



[30021016]

 「本当のわたし」という問いに対して答えとしてやって来るものこそ、神以外のなんと呼べばよいのか。「本当のわたし」を囲っていると思われているもの、鎧、人格、すなわちそれぞれの症候、その臍に当たる部分に、「本当」はある。言うまでもなく、症候を取り払えば、その向こうに実体などない。だがそれは、想像的現実性の水位においてであり、やはり何かが開きはする。空虚な現実の淵が開く回路、それが「本当のわたし」であり、神はそこにいる。
 神は無い。正確には、象徴回路の内部に神は存在しない。まして、それ自体として在る、などとは言えない。ただ、無いというシニフィアン、無さの痕跡が存在する。
 だから、「本当のわたし」を問うてしまう者は、答えのないところに問いを立ててしまった者なのだ。つまりは神経症者であり、普通の人である。その者は無さの痕跡を何度となく振り返り続けるしかない。それが彼/彼女の症候であり、つまり「本当さ」を覆っているものだからだ。反復の中で症候を移動させる以外に、神から逃れる術はない。
 それでも、ここで現れる神は、あくまでも無さの痕跡である限りにおいて、<他者>のディスクールである。闇の中には鏡があるだけで、何度覗き込んでもそこには「わたし」しかいないのだが、「わたし」は鏡像であり、あるのは鏡だ。この鏡こそが<他者>の語らいであり、消えゆく無さの痕跡であり、遍在するラングだ(あるいは、ララング♪と唄うべきか?)。.この神はスピノザの神であり、間違って「凡神論」と呼ばれ、パラノイアたちから「無神論」とも称される、圧倒的なリアリズムの神である。この限りで、鏡を確かめる者は、「病的」であれ何であれ、人間である。
 一方で、そこに人格=症候を備えた神を発見してしまう者もいる。正確には、そのような神に向かって、問いを用意する者がいる。闇の中に鏡を見ないもの、闇に闇を見、存在としての「わたし」をのっぺりと感じてしまう者、彼らは<他者>を知らない。語り流されるディスクールに触れず、ただ硬直したコードに存在として棲む。
 この時、神は針飛びを起こし、スラップスティックにズレながら量産されていく。神は神々となり、しかも「神々」を認めない神となる。神々は諸創造物と共に、想像界に直接現れる。感覚の次元に侵入する。
 ヒトがヒトでなくなる時、ものがイメージとして現れる。最悪にグロテスクな基体として、腐乱した精液でできた粘土として、あるいは粘土の詰められた子宮として。



[30021012]

 社会的genderへの還元は、畢竟共通のディスクールの内部での社会学的ゲームにすぎず、ヘテロセクシャリズムの釈迦の掌である。genderを軸とした言説が上滑りしていく様子は、科学の基礎付けを巡る様々な試みが「もの」の倫理性の前に墜落していく光景を連想させずにはいられない。genderとは自我の領野に属するもので、虚像である。これは、ヘテロセクシャリズムという唯一の装置を通してのみ、sexualityと接続されている。身体という現実めいた想像をもちだしても、同じことだ。
 それでもなお、「様々な性」とでも呼ぶべき現象が立ちあらわれるのは、ヘテロセクシャリズムを織り込んだ象徴回路が、取りこぼしている「もの」があるからである。sexualityはここに根を下ろしている。その場所では、不死の生命、あるいは生まれ損なった幽霊が、言葉によってヒトを再生産し続けている。ゆえに、reproductionとは、男−女の関係という象徴的意味以前に、名前のない者が自らの名前に代えて名前のあるものを生み出す運動である。
 不死の生命、あるいは減数分裂した「分身」たちは、それぞれの呪いによって、ヒトを再生産する。この呪いを運命と呼ぶにせよ、病理あるいは人格と呼ぶにせよ、genderを巡る言説には永遠に触れられない。



[30020826]

 主体と対象は、実に一組しかない。個体の性やその他の属性に応じた諸々のファンタジーなどといった多様性は、相対主義の妄言にすぎない。それゆえにこそ、第三項があるはずなのだ。これがなければ、男と女は互いに嫉妬しあうしかなくなるだろう。
 ところが、第三項が「在り切る」ということもなく、この嫉妬は様々に変奏されて症候を形成する。



[30020818]

 フィクショナルなものを、「娯楽性」というフィクションによらずに基礎付けるには、いかなる方法が考えられるのか。
 例えば、小説は部分的な真理である。真理は常に部分としてしか現れないが、良い小説というものは、少なくともそれを掠め取ってはいる。もしもそうでないとしたら、わたしたちのもとには、結局例の「娯楽性」しか残らなくなってしまう。
 もちろん、「娯楽性」への還元は、一つの説明の仕方として、一定の有効性を持ってはいる。しかしそれは、心理還元主義の一変種に他ならず、「強化すべき健全な自我」をよりどころとする個人心理学のようなはかなさを運命づけられいてる。要するに、「娯楽性」は「娯楽する心」を前提とする以上、そのような自律的諸主体という幻想によって成り立つシェーマの外へは一歩も踏み出せないのだ。「娯楽性」への還元が効力を発揮するのは、むしろジャーナリスティックな分野においてである。つまり、真理を事実から分離することが批評として必要な場面においてだ。
 それゆえ、わたしたちは、小説を真理から考えなければならない。紛れもなく、いくつかの作品は、真理だったのだ。しかしいかなる形においてか。
 小説はウソだ。いかにも逆説ではあるが、小説に書いてあることは統べてウソである。誰もが知っている「事実」だ。当然、そこでは「リアリティ」が求められてはいるが、この「リアリティ」とはすなわち、「いかにうまくウソをつくか」ということであって、真理の次元にはない。
 真理が現れるのは、むしろこの「リアリティ」が破綻する場面においてである。それは、「リアリティ」への試みが破綻した時に、ジャーナリスティックな「事実」が覗き見える、という意味ではない。メタ小説と呼ばれるものは、それ自体としては滑稽なまでに無意味である(文体としての有効性は、使い方次第)。
 「リアリティ」の破綻とは、作家が失敗するということを示している。作家の試みは、外見としてそれが「うまいウソをつく」ことと同様に見えたとしても、単にウソをつくということではない。何らかの形で真理を掴もうとすることだ。真理をフィクションに練り込もうとする限りで、一つの全体性を実現しようとすることだ。「因果律」へと依存した「娯楽小説」であろうと、いわゆる純文学であろうと、この点では変わりがないように見える。作家と呼ばれる人々は、常に何らかの形で、全体を実現しようとしている。そして全体の実現のためには、どうしてもフィクショナルな方法をとらざるを得ない。なぜなら、ジャーナリスティックな領野においては、部分であることが文法的に要請されているからだ。
 それでも、小説は全体にはならない。小説が事実の領野へと還元される、ということではない。作家はし損じるのだ。つまり、小説は完成してしまうのである。
 永遠のリライトを望みながらも、作品が作品である限りにおいて、どこかで完成という点を打たれざるを得ない。このとき、作家は敗北する。小説は全体になりそこない、部分として産み落とされる。正確には、生まれ損なう。
 この時、狭隘な間隙をぬって、部分的な真理が成立する。「全体には成り得なかった」という構造が、真理の部分性をsignifierする。「あれはわたしだった筈なのに、わたしはあれになりそこねてしまった」。この「あれ」が、事実として存在しない限りで、この真理は事実ではない。ジャーナリスティックな視点は、いかようにも真理を事実には還元できない。
 作家の失敗とは、個人としての作家の至らなさのことではない。彼が作家を名乗ってしまった時に、既に運命づけられていた失敗、作品が成り立つ度にやってくる失敗、何度でも何度でも繰り替えされるすれ違いなのだ。そしてこのうまくいかなかったランデヴーが、過ぎ去った日付けに印される手帳のメモのように、小説を部分的真理として成り立たせる。


[30020808]

 消去法的な性を何かの下に潜り込ませる、ということによって成り立っているのがわたしたちの症状であり、そして重要なことに、sexualityというものだ。それゆえ、sexualityとは同一性に依拠しない。sexualityは同一性に先立つ。いわゆるgender identityというものと、sexualityの間には大きな溝が横たわっている。
 genderが問題になるのはmoiの水準においてであり、そこでは同一性が「自己言及性」という無矛盾な逆説(!)によって表現されている。多くの語らいが開かれるが、結局それらはsexualityとは本質的に無関係であり、「男女のうわさ話」の一変奏へと還元されてしまう。
 そして語る存在において、性が消去法的ではなく成り立つ、あるいはそれが何にも代理されない、という状態はあり得ない(そのような者は語るフリをする)ので、実にsexualityとは、語感に反して実体的なものではあり得ない。もちろん、「男ではない」「女ではない」といった形で対称的に象徴化されるのでもない。
 「かつてそれEsがわたしであった所のもの、わたしはそれではない」という疎外がsexualityを起動するが、一方で、「そうでなくなってしまったもの、それはかつてわたしであってわたしでない限りにおいて、それをわたしは欲望しなければならない」という命法によって、一定の幻想を構築する。sexualityとは、不死の憑依体によってモノが骨抜きにされることだ。
 同一性が問題になるのは、そこから後だけである。


[30020719]

 要求されていること。「責任」を求められていること。これはもちろん、個人、というよりは名、の問題と関係している。だがとりあえず、名と<私>の関係は一度おいて、ナイーヴに始めてみる。
 わたしたちは何の責任をとらされるのか。行為、と答えるのは、倫理的水準の話だが、これは論理の後に来るとでも言うべき現象としての倫理であり、敢えて道徳という言葉をもって替えてみてもよいかもしれない。いわゆる意味での社会的回答である。
 社会的意味での法ですら、意図を問題にする。行為とは結果であるとされ、その元の意図、そして欲望が問題になる。もちろん、これが問われるのは行為がうまくいっていない時だけだ。うまくいっているときには、効果としての行為だけがある。「よろしくない」行為には、原因が求められ、意図と欲望が問われる。わたしたちは欲望の責任を問われる。
 だが果たして、わたしたちは欲望に対して責任を持つのか。欲望したことに対して責任を問われるのは、<私>の名である。著名である。しかし、欲望したのが<私>であったにせよ、その欲望を欲望したのは<私>ではない。名と<私>を巡る問題、あるいは神経症の構造を理解する為には、これを知らなければならない。「それは<私>ではない、<私>の名である」と、まったく正当にも主張する人々がいるのだ。もちろん、わたしたち自身のことである。
 このような立論に対し、ただ諦念のみを突き返す愚をとる必要はない。立論自体に穴がない以上、単純に問いを伏せるわけにはいかない。伏せるとしたら、もちろん伏せる者の欲望こそが問われる。伏せなければ守れないものを堅持しようとする、その欲望を。これもまた症状である。
 そして、「それは<私>ではない」という者においても、問題となるのは、その欲望である。もちろん、この場合の防衛的動機は余りにも明々白々としている。ただ防衛的態度を非難するのでは、正に「問いを付せよ」という者と変わらない。「それは<私>ではない」という者の言う通り、わたしたちは欲望したことに対して責任をとることができない。責任は名に回付される。ただ、名に対してわたしたちは責任を持つというだけだ。
 どういうことか。
 わたしたちは、欲望した対象に対して責任を持たされるのでも、欲望したという事実に対して責任を負わされるのでもなく、ただ、欲望せよ、と命じられているのだ。この命令は法によるものである。そして欲望は、正に欲望し続ける限りにおいて、対象を掴み損なうのであって、対象が先立つのではない。対象は「欲望した」という時制によって、遡及的に設定される。掴み損なわれた対象は、幻想の中で様々にパラフレイズされ、現象的な「欲望の対象」を演じ続ける。そしてそもそもの始まりの対象、後になってから始めてそれと示される対象こそ、名に他ならない。
 名は、<私>の論理においては<私>の後に来るものだが、それが他者のディスクールにある限りにおいて、<私>に先立つ。これこそが倫理的水準である。「私が誰であるのか」は、<私>より前に、何者かによって知られている。そして<私>がやって来た時には、すっかり失われている。<私>は、呪文のように動かない名と引き換えに誕生させられる。ただ空虚な名が残る。「それは<私>ではない」と正当にも主張しうるような名だけが。
 だが正に、法はこの名を通じ欲望することを求める。<私>に名が与えられるのではなく、名に<私>が与えられたのであって、<私>は「何者かであれ」という欲望の中で誕生させられたのである。<私>はそのメッセージを正確に反転させて繰り返す。「それは<私>ではない」「私は誰なのか」と。
 それでも、問いより前に、問いを成り立たせているその地平に、名の欲望がある以上、やはりわたしたちは責任を問われるのだ。囲われた生の向こうに、死として生きる性があるが、越境の禁止は欲望を禁じるのではなく、欲望を問うのだ。
 失われた最初の名は、戒名となり、彼岸に去る。<私>は欲望の命令の元に生かされ、責任を問われる。もちろん、名に対して問われた責任を、名への欲望の限りにおいて、引き受けるのだ。この選択は、<私>の選択などではもちろんないが、正に<私>が選んでいないことだからこそ、名における選択として、<私>にも回付される。というのも、<私>が<私>である、という矛盾する自同律(!)は、服従=主体によって成立しているからだ。
 <私>は<私>でない限りにおいて<私>であり、この運動は名の欲望により駆動されている。そこが倫理的責任の場である。  


[30020626]

 かつて「記憶力」ということで何を示そうとしていたのだろうか。
 一つには真理の現れ方(あるいは消え方)と時制の問題だったが、一方で、古典オカルト的に「認識の拡大」として名指されていたような、現在時の拡大だったように思える。後者が主な論点だったのは、相当に以前の話ではあるが、「記憶力」を巡る言説のそこかしこには、やはり残滓がある。
 振り返るに、そのような「網の目の拡大」という現象自体は、別段珍しいものでもなんでもない。周期的な生理物質の増減、空間の大きな移動、ルーティンからの遊離、様々な局面で起こりうる。だがこれは、ちょうど一年ほど前に「世界の沸騰」として、地獄の底から書き付けたように、心理的には認識の偏りとして現れるようなものと、ほとんど変わりがない。記述的には、躁や鬱といった、いわゆる感情障害に収められてしまうだろう。
 そこにあるのは、断念の欠如であって、全体であろうし続けることだ。我々は断念し部分であらざるを得ない以上、このような「拡大」を端的に病理として片付けてしまうこともできるかもしれない。
 しかし本当にそうだろうか。断念が不可避であるにせよ、我々が全体を諦め切るなどということはあり得ないのだ。正に「失われた時間」は、失われたままに現前する。過去は過去として、ないものとして今ある。我々が要求されるのは、断念そのものというより、断念したことを思い出すことであり、なおかつ、その断念した、という過去は遡及的に設定されたものにすぎない。
 重要なのは、その思い出し方、反復の方向性だ。我々が「健康」であろうとしたら、恐ろしく狭隘な記憶の地平をぐるぐると回るより他にない。それが正に断念ということであり、つまりは言語の一部として限定された領野を周回する、ということだ。だがそこには常に、残された部分との関係が含まれており、その関係性が、反復の方向性ということになる。
 全体であることの断念とは、端的に言って、同一化である。主体が臣民として成立する契機である。それゆえに、思い出し方によっては、極めてナイーヴに「全体主義」へと傾倒してしまうこともある。もちろん、ここで言う「全体主義」とは、歴史の教科書で書き散らされているようなエピソードのことではなく、我々を「卑称でありながら価値ある主体」として成立させてくれるもののすべてである。
 他に方法はないのだろうか。一つの可能性として、「わたしは諦めない」と言うことによって正に諦める、という方途があるように見える。手を変え品を変え、全体の代替を放擲し、そこに向かって走り続けることだ。もちろん、視野の狭窄を伴う。これが「全体主義」よりどれほどマシなものなのかはともかく、ある種のドグマを不可避的に導入することにより、常に限界の内側から語る、という点では評価できるように思える。相対主義こそが、全体主義の陰画だからだ。
 力ないひととして、迷い続けるより他にない。それでも、可能性としての相対主義を常に視界にとどめながら、敢えてドグマの内側から語り続けるより、道を知らない。ドグマという全体の夢を用いることにより、全体であることを順延し避け、かつナイーヴな「大きな同一化」に拠らない、この他に方法があるだろうか。
 例えば、書き損ない続けること。  


[30020601]

 方向付けられた者と、身体に問い尋ねる者がいる。とはいえ、どちらも「わたしが」とは言わない。例えば、ある者は痛みを訴える。痛みがなくなった時、それは方向づけられた者に方向づけられる時だ。だが、方向づけられた者も、ただ道が決まっていないと思う時だけ前へ進むことができる。


[30020530]

 結論に注意しなければならない。効果があり、結論があり、原因がある。


[30020519]

 わたしが信仰するのではない。信仰の中に、あなたがわたしとして呼び出されるのだ。

 余りにも部分的な生=性にいつも脅威を感じるが、全体であることはより恐ろしい。一瞬でも全体を経験した者には説明の必要もない。世界が沸騰し、過去が地上を埋め尽くす。アダムとイヴの逸話までもが、一つの名前に回付される風景。
 部分的であることは、一つの死を迎え入れることにより生き延びることではある。トカゲの尻尾切りだ。わたしたちは死せる全体トカゲの偶像をかかげて生きる。しかし逃げ延びた本体は陰もなく、残ったものといえば反射で跳ねる尻尾ばかりなのだ。
 だから


[30020507]

 完全に正常な人間は、「正常」に行動できないゆえ、我々には正常さの前に行動することが要求されている。意志というものを持たない我々は、意志する前に行動せざるを得ない。ただ回付される著名に圧倒されるままに。その圧力の過大なることの前に、防衛として築かれた症状が、別の「正常さ」を形成している。意志したのは自分である、と。つまりは、彼らはマトモである、と。
 このような与えられた状況の元で、何かを構築できるとすれば、それは強迫的、もしくはパラノイア的な何かであらざるを得ず、ファルス的欲望と主体の位置を同期させるよう習慣づけられた性が支配的であるのは、故なきことではない。一方で、そこからこぼれ落ちる者たちもまた、ただ翻弄されるばかりではない。その者たちが、身体の地図の上に防衛を投影するのは、言わずもがなである。なぜなら、その者たちの身体性こそ、「対象」であり、それは彼等自身にとっても同様だからである。
 二種類の欲望があるのではない。まして、二種類の欲求があるのではない。
 逃げるのが宿命である我々であるが、逃げ場所の指示はなく、逃げおおせた者も、自分の場所を地図に書き入れることはできない。わたしはわたしの身体を持て余す。差し出す代わりのものを次々と差し換える症状は、既に移動し、失われた。今や、基礎的な不足がある。過剰さの中に、決定的な欠如があるのだ。


[30020504]

 十分に大人であるような大人などあるわけもないのと同様、十分に子供であるような子供も存在しない。というのは、彼等は子供以外という可能性を既に持っているからであり、その限りにおいて、既に子供ではない。子供時代がそれ自体として存在しないにも関わらず、「それ以外」のありえなさに直面せざるを得ない時、人は大人になるのだろうが、言うまでもなくこれを何の防衛もなく「受け入れる」という事態もまた、彼岸の出来事に過ぎない。我々は、数直線上で語らざるを得ないという限りで、中途半端な大人でしかあり得ない。「時間軸」の上に投影された像、それが語る主体としての我々だが、子供時代はこの軸の上にはない。軸の上の表象群が、我々を形成する。


[30020503]

 あらゆるファンタジーから身を引き剥がすことはできない。一つの病気が終わると、別の病気が始まる。夢と夢の間隙に、沸き立つような不安がやってくる。その覚醒、死の追体験から身を守るには、ただ諸表象との関係を再構築するより他になく、正確にはイマージュとの関係の中に一つの像、防衛的な像を投影するしかない。問題はこの像が主体の名に値するか否かだが、その判別はただ自由の概念にのみ負っている。しかしこの自由とは、勿論「何者の拘束も受けない」などということではない以上(像は諸表象との関係において、痕跡として成立するのだから)、半ば諦念、半ば開き直りのようなものにならざるを得ず、ここでまたファンタジーが口を開けて待っていることになる。つまりは結局、何らかの形でのファンタジーへの屈従においてのみ、主体=臣下は成り立ち、像と重なり得る、ということになるのだろうか。
 欲望の主体は、他者の欲望を介在して、再び主体へと回帰する。自由とはこの運動に他ならない。そしておそらく、この熾烈な回転運動から身を守るには、イマージュの力に頼らざるを得ないのだろう。丁度我々が、三角形とは程遠い三角形のイマージュを通じて、三角形の概念へと到達するように。
 わたしは一つのファンタジーを放棄し、ある欲望を委譲した。しかしそれは他者性の排除ではなく、依然として我々を否定することによって成立させる欲望の嵐はやまず、結局は振り出しに戻ったことになる。ただ経済における身の置き方に、多少のシフトがあっただけだ。
 不具は移動する。調和的な不具というのが存在するのだろうか。そうではない。ここでもまた、ただ自由のみが不具を恒常化させ得る。我々は既に自由な不具者として運動している。


>残響塾