バービーモモイの読めない本が見つからない

 ユニくん、と彼女はわたしのことを呼ぶ。
 その時も「ユニくん?」とわたしに声をかけた。わたしは待合い室で、英語のリスニング教材のスクリプトを読んでいるところだった。顔をあげると、バービーモモイの姿があった。
 ライオンのような金髪のヘアスタイル、少し時代遅れのダークチェリーのギャル系コートと、あまりマッチしていないベージュのタートル、オフホワイトの巻スカートに黒の柄ストッキングという出で立ちだった。わたしはすぐに彼女を再認できた。嵐のような彼女の振るまいはとても目立って、ここでは有名人なのだ。
 最初わからなかったよ、と彼女は言った。わたしは二週間程前に、前髪のある前下がりのレイヤーボブに髪型を変えたところで、カラーも以前に比べるとかなり抑えていた。少し雰囲気が変わっていたのだろう。
 彼女はガスストーブの前で足を摺り合わせ、乱雑な手つきでストーブの設定温度を勝手に上げていた。スリッパを履けば、とわたしは言った。彼女は微笑んで、それから受付けに向かって、薬が足りない旨を大声で訴えた。
 バービーモモイにはいくつか名前がある。少なくとも、本人はそう主張している。早口で連呼された通称群を、わたしはよく覚えていないが、それらの名前の間には姉妹やライバルなどの関係があるらしい。とはいえ、本名で呼ばれることに違和感を覚えているわけでもない。わたしも皆も、面倒なので本名で呼んでいる。
 受付けの職員とバービーモモイの間で、何度も見た光景が繰り返されていた。薬を出した、貰っていない、足りている、足りていない、の押し問答だ。わたしはあまり関わりあいになりたくはなかったが、彼女はここで積極的に話しかけてくれる数少ない人物なので、微笑みを絶やさないまま、スクリプトをバッグにしまった。とはいえ、別段親しいわけでもなんでもなく、待ち時間に何度か短い会話を交わしたことがあるだけの関係だ。
 彼女はまた唐突にわたしを振り向いた。わたしは内心緊張しながらも、当たり障りのない挨拶を微笑みの中から投げた。彼女は一瞬機械のように固まりながらも、キチンと答えを返してくれた。そしてスリッパを履いた。それから、わたしの新しい髪型をかわいいと誉めてくれた。
 わたしはサイドの髪をいじりながら、言い訳のような言葉を並べた。「仕事でさ、カラー抑えるように言われちゃってさ、それに」こんな所に来るのにちゃんとメイクしてきたりするのも面倒だし、などと。
 実際、わたしは恥ずかしかった。その時の格好が、黒白チェックの厚手のシャツの上にキャメルのクルーネックセーター、ウェストの絞られたグレイのダウンジャケット、下はジーンズ、という、至っていい加減なものだったからだ。正に手を抜いた「ユニセックス」なカジュアルファッションだった。こんな格好では「くん」付けも仕方ないのかもしれない。
 でもいいよ、それもいい、と言いながら、彼女は束ねていた髪をほどいた。金髪がたてがみのように広がって、ますますライオンのようになった。わたしは思わず「ライオンみたい」と言ってしまった。彼女は笑いながら、よく言われる、と答えた。
 バービーモモイは落ち着きがない。身体中にぶらさげたアクセサリをジャラつかせながら、頭に飛び込んで来た言葉をそのままわたしに投げつけてくる。ほとんど脊髄反射のような反応だ。わたしはあまり考えないように、適当な言葉を返した。
 バービーモモイが二階を見上げて言った。「ユニくん、煙草は?」
 吸うけど、やめたい。そう答えると、彼女はわたしを二階に誘った。二階には喫煙スペースがあるし、彼女が常連のデイケアの施設もあるのだ。そして彼女はヘヴィな喫煙者なのだ。
 わたしと彼女は二階に上がると、空いているカウンセリングルームに入り、そこの低いテーブルを前にして、絨毯の上に直接座った。据え付けられたソファには、ただ背中を預けた。この部屋には、いつもデイケアのメンバーや、喫煙する通院患者がゴロゴロしていて、絨毯は煙草による焦げ跡だらけになっている。
 バービーモモイは、すぐにメンソールの煙草に火をつけた。せき立てられるように、吸い込んだ煙をすぐに吹き出した。それからダンスのような素早い動作でわたしを振り返った。
 なんか今日オバサンくさい、そう言われて、わたしは焦った。え、どこが、どこが?
 なんかね、この辺。彼女はわたしのウェスト辺りを示した。わたしはダウンジャケットが悪いのかと思って脱いだ。あ、胸あるね、アタシよりあるかも。わたしは少し嬉しい気持ちになった。しかし既に彼女の関心は別に移っていて、今度は、バッグがオバサンくさい、と言う。わたしは少しもそう思っていなかったので、「え、そう? かわいくない?」と上ずってしまう。かわいいけど、ちょっとオバサンくさい、と、彼女は容赦がない。
 わたしがお気に入りのバッグを悲し気に見つめていると、彼女は「水とってくる」と立ち上がった。バービーモモイの関心は、バッタのように予想を裏切って飛躍する。すぐにグラスを二つ持って戻ってきた。大きな彼女用のグラスと、小さなわたし用のコップ。どちらの水にも、何か白いものが浮かんでいた。一瞬気味悪く思ったが、どうやら水道水のカルキ臭を誤魔化すためのレモンの滓だとわかって安心した。
 バービーモモイは大量の水を飲む。半リットルくらいあったグラスの水があっという間に空になる。すぐに水さしから注いで、また飲む。その気持ちが痛いほどわたしにはわかった。乾いてるのね、とわたしが言うと、彼女はグラスを傾けたまま頷いた。
 実際、見た目だけからも、彼女は乾燥しきっているような印象を与える。痛んだ薄茶色の肌、傷だらけの腕。「血が薄くなっちゃうの。だから点滴してもらってる。あと、胃の薬?」。彼女の症状の一つが摂食障害なのは明らかだった。
 二人の位置関係のせいか、わたしは奇妙に落ち着いてきていた。床に並んで二人で座るのは、悪い気持ちではなかった。もちろん、わたしは粗暴な彼女に恐怖心を抱いてはいたのだが、それ以上にポエジーに溢れる放言に魅了されていた。
 バービーモモイがわたしに煙草をすすめた。わたしが一本抜き取ると、彼女は火をつけてくれた。ほんとはね、良くないんよ、精神には問題ないんだけど、わたし、別の薬も飲んでるから。貰い煙草をしていながら、わたしは煙草を飲んではいけない理由を口にしていた。「血栓症の確率が増えるんよ、血が固まって、血管につまっちゃうの」
 突然、彼女は乱暴に手首からブレスレットを外した。パープルのハート型の樹脂製ブレスレットだ。そしてわたしの左手首を物のように手に取ると、無理矢理はめようとした。
 痛い、痛いよっ。そう言っても彼女はやめなかった。入るって、こうやって斜めにしたら。それでもブレスレットはギリギリの所でわたしの手の甲を通過しなかった。ようやく彼女も諦めてくれたが、とにかくそれをわたしに譲りたいらしかった。わたしが、ネックレスにするよ、と言うと、あ、それいい、かわいい、と喜んだ。わたしは手甲に残った跡と、彼女に出来るブレスレットがはまらなかったという敗北感の方に気持ちが向いていた。
 なんとはなしに、お互いの仕事の話をした。彼女は以前キャバクラ嬢をやっていて、五百万貯金があるという。ただその通帳は父親に握られていて、今は無職らしい。わたしは何故か、「本職」にでもなるかも、でもそのためにはもっと大都会に出ないと、といった内容を無防備に語っていた。この街にもその手のお店はあったが、お笑い系だけだったのでやはり東京に行きたかった。そんな仕事だけが生きる道ではないとは知っていたけれど、半ば自暴自棄な軽躁感で乗り切ろうとしていた。「踊子やりたいんよ、ダンサー」と言うと、彼女は、アタシもアタシも、とはしゃいだ。そして鞄から大判の封筒を取り出し、その中の書類を見せた。
 数枚のタレントオーディションの合格賞だった。タレントになりたいの? そう尋ねると、なりたかったの、と、鼻孔から煙を吹き出して答えた。見ると、賞状の日付けは四年程前のものだった。「入学金五十万とか言われて」「そっか。商売なんよね、そういうの、結局」彼女は少し遠くを見て頷いた。
 また唐突に、「リストバンド買うの忘れた」と彼女が叫んだ。「でも買い物しちゃった、どうしよう、お金ない」どうして、と口に出して、しまった、と思った。目的は決まっているのだ。彼女は傷だらけの手首を黙って見せた。ごめんね、とわたしが言うと、彼女は首を横に振った。ふと、彼女は正常だ、とわたしは感じた。ただ答えのない所に問いを立ててしまっただけなのだ、と。少しだけ気まずい空気が流れた。いや、気まずさを感じていたのはわたしだけかもしれない。バービーモモイの感情は、疾風のように移り変わっていくのだ。
 そんなタイミングで、バービーモモイの携帯が鳴った。彼氏かららしかった。彼女の恋人の話は、以前に少しだけ聞いていた。その時、わたしはシャネルのクリスマス限定の微妙に紺の入ったブラックのマニキュアをしていて、彼女がそれを誉めてくれたのだ。そして彼女の恋人もマニキュアが好きだ、という話をしたのだった。
「今ねぇ、ユニくんと一緒。え? えっとね、」それから、彼女はわたしの年齢のことを言った。わたしは、それを言うな、というジェスチャを示した。本当に話題にされたくなかったからだ。「あとね、英語ペラペラ。大学院。インター。え? まだ待ってるとこだよ」
 すぐに電話は切られた。「お昼になったら電話するようにって言われてて。でも別れようかどうしようか、ってトコ」。携帯に貼ってあるシールのツーショット写真を、わたしは見せてもらった。カッコイイじゃん、と本心から言うと、ユニくんの方がいい、と言う。わたしは複雑だった。言葉を探していると、「そっち行っていい?」と肩と肩が触れあうほどに近付いてきた。
 彼女は常にわたしの思考より速く行動する。わたしの思考が遅いのではなく、彼女の行動が、思考というもの一般を越えているのだ。彼女をドライブしているのは、もっと遥かにスピードのある何かなのだ。
 そしてまた乱暴に、三つほどしている派手な安物の指輪の一つを外すと、わたしの左手の薬指に有無も言わさずねじ込んだ。それに対する反応も待たずに、彼女の言葉が飛んできた。
「ねぇ、歳サバ読んでるでしょ、逆に」バービーモモイがいぶかしげに言った。確かに、わたしは実年齢よりかなり若く見える。もちろん、悪く思ってはいない。正直、実年齢のことは本気で気にしているので、そんな風に言われて嬉しくないわけがない。「いや、ホントに歳だよ」と照れて俯き気に言った。乗せる気もなくただ口を動かしている彼女に、踊らされているのはわたしの方だった。
 そんなわたしをよそに、彼女はおもむろに鞄から飛び出した円筒状の賞状入れを取差し出した。それはさっきからわたしも気になっていたものだった。賞状ケースを持ち歩くライオン女。気にならないわけがない。筒を開くと、中にあったのは小学校の卒業証書だった。熊本県の聞いたこともない町のものだった。「九州ガール」とわたしが言うと、彼女は頷いた。何故卒業証書なのか、尋ねても無駄だと思い、敢えてそのまま綺麗に丸めて元に戻した。彼女は目を輝かせてわたしを見つめていた。
 わたしは彼女の接近を阻もうとするかのように、少し顔をそむけて、オペしたいんよね、と口にしてしまった。自分でもそんな話をしているのが不思議だった。「やめなよぉ!」と彼女は大袈裟な身ぶりをした。「血が止まらなくなるよ、腐って」。わたしは、そんな大層なものじゃないんだ、と慌てて釈明した。
「でも子供欲しくないの?」と言われ、「もうできないし」と、少し芝居がかった表情を作る。「どうしても欲しくなったら、親のいない子供をひきとるし」。自分で声に出しながら、ウソくさい、と思った。ウソではないのに、何か後ろめたかった。彼女の言葉が、あまりにも核心だけを正確についてきていたからだろう。わたしは恐ろしい反面、その飛躍する言語感覚に、いつの間にか何かを期待していた。そのスピード感は、わたしにはないものだった。バービーモモイの言動の印象は、夢の中のものに似ていた。
 一方で、彼女の方もわたしに何かを期待しているのは明らかだった。ただアプローチのテクニック、それが尋常ではないのだ。マグナムライフルで雀を撃つような接近の仕方だった。しかも彼女にはそれしか銃がないのだ。痩せ細ったバービーモモイに、使いこなせる訳もない、ただ暴発するためだけの武器なのだ。
 そして決定的な一撃が閃いた。
「本当はお母さんが怖いんでしょ」
 わたしは凍りついた。何の脈絡もなく放たれた言葉だった。胸元に刃先をつきつけられたようだった。
「お父さんじゃなくて、お母さんが怖いんでしょ。だから病気なんでしょ」
 言葉を失った。
 彼女は天才だ。「どうして」などと尋ねても、答えなど返ってこないのはわかっている。理由など、彼女自身にも不明なのだ。だから天才なのだ。だから詩人なのだ。だから病気なのだ。
 わたしはただ、静かにぎこちない笑みを浮かべて、「占い師になったら?」と言った。「結婚できなかったら、なるつもり」と彼女は答えた。バービーモモイは、彼女なりに自分のことをわかっている。時に「霊能力がある」とうそぶくのも、まんざら見当違いの表現ではないのだ。
「お母さんが怖い」その言葉がグルグルとわたしの脳裏を巡っていた。わたしは何かを恐れていて、あるカウンセラーは、いつもセッションの最後に、「それが誰かが問題やなぁ」と何気なく呟いていた。わたしは答えを教えてくれない彼に苛立ったこともあった。誰かが怖い。だからわたしは思うように生きられない。岸壁を登るように、全力で乗り越えようとしていた壁だった。本来の身体に戻るために。しかしやはり葛藤があって、その葛藤は「誰か」に叱られるのではないか、という恐怖心から来ている、と、そこまでは見当がついてはいた。そして多分、ほとんど答えを知ってはいたのだ。ただ言葉にしてしまうと、今までの自分がすべて崩れてしまいそうで、蓋をしていたのだ。
 まるで動揺をおさえられないわたしをよそに、彼女はネックレスの一つを外そうとしていた。その手付きは不器用でたどたどしい。すべての所作が、焦りで空滑りしている。そしてわたしに胸元を向けると、「コレ、自分で買ったヤツだから」と外すように促した。またもわたしへのプレゼントのようだった。
 彼女はヘッドをチェーンから取り外そうとしたが、無理なのを悟ると、丸ごとわたしの胸元に押し付けた。どうやらチェーンだけを預けたかったらしい。ヘッドはハートに十字架が描かれたシルバーの派手なものだった。わたしはあまり気が向かなかったが、とりあえず首にかけてみた。「いいよ、オトコっぽい」わたしの気持ちなどお構いなしに、彼女は言い放った。そしてほとんど体重を預けるように接触したまま、わたしの目を見つめて言った。
「ねぇ、女の子とキスしたこと、ある?」
 わたしは半ば諦めのように、あるよ、と答えた。ただ一応、無駄と知りつつ、「ここどこだかわかってる? 人が見てるよ」と付け加えた。「みんなやってるよ」いや、やってないよ、と返す前に、彼女の唇がわたしの口を塞いでいた。
 短いけれど魅惑的なキスだった。正直、わたしの心臓は高鳴っていた。欲情していた。オンナに欲情するなんて、と胸の内でかぶりをふりながら、明らかにわたしの身体は反応していた。理由はわかっている。わたしもまた、答えのないところに問いを立ててしまった者だからだ。ただ同族だというのではない。彼女がわたしに期待するように、わたしもまた彼女に、いや正確には彼女のようなオンナに、何かを期待してしまうのだ。そしてそれが絶対に開いてはいけない泥沼の扉だということは、経験上知っていた。
 バービーモモイはカウンセリングルームで寄り添いながら、巧みに、弄ぶように、わたしの太股に指を這わせていた。唇が、首筋と耳たぶに、タップするように触れた。「んっ」と声が漏れてしまう。知ってる、この感じ、危険だ、危険だ。そう自覚しながら、彼女の動きの一つも拒めなかった。性的な発情など忘れたと信じていたのに、その壁も簡単に押し崩されていた。
 こんなことをやめるために、わたしはここまで来たのに。これだけ変わったのに。すべて無駄な抵抗だった。また繰り返しだ。彼女がわたしに求めているものが何か、手に取るように分かる。乳房のあるオモチャのようなオトコなのだ。オンナのようではあるけれど、あくまでオトコなのだ。冗談じゃない、と否定しようにも、彼女の求めている何かこそ、真理であるということも直観できた。恐ろしかった。彼女は本当のことを言い過ぎる。目を閉じて何もかも忘れたかった。その扉に触れて欲しくなかった。最も感じ易い扉に。
 彼女にはペニスがない、何故発情する、とわたしはわたしを問いつめた。だが答えは明らかだった。ないペニスを求めてやまないオンナ、そういう者によって、わたしという存在が作り出されたのだ。だから彼女のようなオンナの前では、人並の拒絶すら出来ないのだ。わたしは開け放ったままのドアの外を気にしながら、漏れそうになる声を押し殺すのが精一杯だった。
 再び彼女の唇がわたしの下唇をとらえた。鳥肌が立った。自分の愚かしさを呪いながらも、わたしは自分から舌をからめていた。頭の中が惚けたように真っ白になり、このまま彼女に犯されたいとすら感じていた。長い長いキスだった。
 突然、アナウンスがわたしの名前を呼んだ。順番が来たのだ。夢から醒めるように、わたしたちは離れた。「行ってくるね」そう言ってわたしは立ち上がった。天の助けだった。しかし、「待ってるから」と彼女はわたしの逃げ口に先回りした。構わずに、わたしは足早に階下に降りた。

 こんな異常な状態で診察室に入るのは初めてだった。だが、医師はとりたてて何も察していないようで、いつもどおりに手短な診察が進んだ。「どや、調子は」
 わたしは報告した。このごろの状態、今後の考え、そして遠い町の専門の病院まで、自分の「病気」の為に足を運ぶ決意をしたこと。オペを望んでいること。
「ええ考えや。君が自分を確かめるためにも、お金ためて行ったらええんや」。医師はそう言ってくれた。でも新幹線に乗って行くんですよぉ、と、わたしはすっかりオンナに戻っていた。「大切なことや。惜しい金やない」
 そして労働するための薬を、いつもどおりに処方してくれた。よく出来た医者なのだ。バービーモモイも通う訳だ。

 診察室を出ると、一階の待合い室の、最初のガスストーブの前で、バービーモモイがまた足をすりあわせていた。わたしもまた、薬待ちのために、元いたパイプ椅子に座った。彼女はわたしに目線で合図を送っていた。照れくさくて仕方がなかったが、微笑みを返すしかなかった。
 また受付けと彼女の問答が繰り返された。「決められた分だけ飲まなあかんやろ。出したのにまた出したら、こっちが心配になるわ」中年の薬剤師が、とうとう彼女を引き下がらせた。いつもだったら切れて怒鳴りかねない彼女だったが、素直に頷いていた。そしてわたしのそばに来て耳打ちした。
「英語の本を買ってん。ユニくんに解釈して欲しいねん。金と銀のキレイな本なんやんか」
 どんな本なのか見てみたかった。待ち時間に勉強する予定だった語学学習の代わりになるかもしれない、とも思ったのだが、それだけではなかった。彼女が読めるはずもないのに買ったという、その本自体に関心があったのだ。とても読書などしそうもなく、まして外国語など読める筈もないバービーモモイが買った洋書なのだ。興味が沸いた。
 わたしは少し好奇心が強すぎるのかもしれない、そう思った。実際、支払いを済ませて薬を受け取ったあと、わたしたちは一緒に彼女の部屋に向かってしまったのだ。余りにも危険な賭けだった。いや、賭けすら成立していなかった。
 予報通りの雨が降り始めていた。わかっていたのに、わたしは傘を持たずに来院していた。こんなことがよくある。「ほら、うまくいかなかったでしょ」と、敢えて失敗して安心する、コドモのやり方。そして彼女もまた、傘を持っていなかった。わたしたちは共に自転車で、ほど近い彼女のマンションに急いだ。
 踏切りが一度わたしたちの行く手を阻んだ。警報機が鳴っている時、「コーヒー好き?」と冷たい雨に曝されたままの彼女が言った。わたしは、飲めるよ、とだけ答えた。踏切りが上がり、わたしたちはペダルを踏み込んだ。彼女の部屋は、そのローカル電車の線路のすぐそばだった。

 一見こざっぱりとした、学生マンションのような建物だった。が、この地区独特の乱雑さが、やはり溢れていた。建物の前には、自転車と不法投機の粗大ゴミが無秩序に放置されていた。彼女は踊るようにして二階への階段を登った。後ろから見て、十センチ近いヒールを履いていたことに初めて気付いた。わたしは背が高く見られるのが嫌で、あまり高いヒールの靴は履かない。たまに履くと、慣れないせいで、よくバランスを崩す。彼女のステップは軽やかだった。
 部屋番号が、わたしの前の部屋のそれと一緒だった。符合している。そんな風に考えてしまうこと自体、既に彼女のマジックにはまりこんでいるせいなのだ、と知りながら、やはり考えないではいられなかった。正確には、これは彼女によるマジックですらない。彼女もまた、トリックにかけられている側なのだ。わたしたちは、一つの幻想の中に一緒に飲み込まれつつあるのだ。
 彼女は無味乾燥な鉄の扉を開くと、わたしを先に通した。平凡なワンルームだった。セミダブルのベッドが部屋の大半を閉め、あとはテレビとMDラジカセ、コタツ、化粧台、クローゼットくらいしかない。思ったより整った部屋だった。本など一冊も見当たらない。雑誌すらない。壁には女性歌手のポスターが何枚も大きく貼られいている。紛れもなく「オンナの部屋」だったが、どこか普通ではなかった。しかし、それが何なのかは、わたしにもはっきりと示せなかった。
 バービーモモイは、コタツのスイッチを入れると、わたしをその場に残し、コーヒーを入れてくれた。そしてカップを二つ持つと、彼女の「定位置」らしい、テレビを正面に見据える奥の席に戻った。わたしは彼女の右手に、コタツに脚を入れて座っていた。
「ビデオ見る?」と彼女は言い、答えを待たないでミュージッククリップを流し始めた。ヴィジュアル系のバンドの映像だった。そしてその間に、本を探し始めた。小物入れの下を覗いたり、乱雑にバッグを押し込んであるダンボールを探ったりしていた。本はなかなか見つからないようだった。
 代わりに一冊のアルバムを取り出し、わたしに手渡した。開くと、セミヌードを中心とした彼女自身のポートレイトだった。よく撮れた写真だった。光線の使い方が玄人じみていた。彼女の身体は、言葉通りあまり胸がなく、本当にわたしと似たような体型だった。少なくとも、わたしの方がウェストが絞られていた。最後のページに、フォトグラファーの名前がプリントしてあった。「プロに撮ってもらったの?」「二万円」
 わたしは二周ほど丁寧に写真を眺めると、気に入ったものを指差した。「肩のラインが中性的でいいよね」
 彼女はまたも、その写真の一葉をわたしに渡そうとした。わたしは、こういうのは大事にしなきゃ、と慌てて拒んだ。すると、彼女はわたしに水をとってもらえるよう頼んだ。「冷蔵庫にあるし」わたしは立ち上がり、キッチンに向かった。
 1ドアの冷蔵庫の中には、水道水を入れたコーラのペットボトルが並んでいた。「これでいいの?」と、わたしは取り出して見せた。バービーモモイは嬉しそうに頷いた。彼女のコーヒーはもう空になっていた。また彼女の異常な水分補給が始まった。
 わたしは見ているだけで尿意を催され、トイレを借りた。便座がレッドウッドのものに取り替えられていた。元々据え付けられていたプラスチック製のものは、その傍らに無造作に立て掛けられていた。洗面台が、水を張った洗面器で塞がれていた。不思議なバスルームだった。用をたしたわたしは、携帯を持ってもう一度そこに戻り、写真を一枚撮らせてもらった。なかなかの映像が撮れた。
 それを見た彼女は、ツーショットの写真を撮ろう、とねだった。わたしは照れながら寄り添い、シャッターを切った。何も言わずに彼女はわたしに覆い重なり、また唇を重ねた。そして「キスしてるとこ、撮って」と言った。わたしは奇妙な姿勢のまま、シャッターボタンを押すしかなかった。
 その画像を、メールするように彼女はせがんだ。わたしたちは番号とアドレスを交換した。彼女に電話番号を教えるのには、不安が伴った。それを察したかのように、チャッキョしないでね、と彼女が上目使いで言った。「チャッキョ?」とわたしが尋ねると、着信許否、と彼女が言った。そんな言い方は初めて聞いたので、少し感心してしまった。
 送った画像を、彼女はすぐさま待ち受け画面に設定した。キスしていない方だったのが幸いだった。そしてわたしの名前を、「ユニくんすき」と入力した。
 携帯をバッグに戻そうとすると、そこには既に、またも「贈り物」が仕込まれていた。トイレに立った間に入れたらしかった。安物のネックレス、ガスライター、そして小さな人形。「アタシだと思ったらいいかな、と思って」わたしは人形だけは拒んだ。「ヒトの形してるのは苦手なんよ。ごめんね」彼女は黙って引き下がってくれた。代わりに携帯を取り出し、手早く彼氏のメモリを呼び出してかけた。
「もう終わりなんよ。わかった?」
 それだけで通話は終わった。三十秒もかからなかった。携帯を畳んで、彼女はまたダンスのような動作でわたしを見て、ニコ、と微笑んだ。
 一刻も早く撤退すべきだった。しかしその気持ちを察するかのように、案の定彼女はわたしの首に手をかけ、また唇を求めてきた。しかしわたしはさっきよりずっと冷静になっていた。興奮もなかった。あくまでもわたしをオトコとして扱おうとする彼女に、今頃になってやっと許否反応が表れたのかもしれない。しかしこの遅れは、わたしの確信より彼女の直観が正しいことの証左のように思えた。
 わたしはオトコとしてオンナと接することは心底不快だ。少なくとも、そう信じたかった。だが、実際の反応は、遅れてやってきた。カウンセリングルームでの反応は、わたしの中では女性的なそれだったが、彼女がわたしをオトコとみなしていたのは間違いなかったのだ。わたしはまた、ウソをついているつもりもないのに、後ろめたい気持ちになった。
 感情を交えずにひとしきり触れあった後、わたしは冷たく尋ねた。「英語の本は?」
 彼女はまた本を探し始めた。ダンボールや衣裳ケースが次々とひっくり返された。ふと手にとった服を、何故か「買って」と差し出した。薄汚れたピンク色のカットソーだった。わたしは要らないし、お金もなかった。
 着ないよ、たぶん、と柔らかく辞退しようとするわたしに構わず、「盗まれたかもしれない」と、頓狂なことをいう。大学生に鍵を渡してから、泥棒が入るようになった、という。本当なのか、彼女の妄想なのか、微妙なところだ。電話も盗まれた、と主張する。「でも本は盗まないんじゃない?」と言うと、「大学生だから、勉強するかもしれない」と答える。そんな筈はないのだが、それはそれで理にかなっているような気もした。本当に盗まれたのかもしれない、と思った。「読めないから、ユニくんに読んで欲しかったのに」わたしもますます本のことが気になっていた。
 しかしとうとう、本は見つからなかった。代わりに、彼女は一葉の写真を取り出した。それは、件の本を撮った写真だった。
 化粧台の上に、鏡と並んで立て掛けられた本の写真だ。この本なんよね、金と銀でかわいいんよね。確かに綺麗な装丁の本だった。だが当の本はなく、ただ本の写真だけがあった。タイトルの文字すら、判読できなかった。
 奇妙な感覚だった。バービーモモイは読めない本を買った。そして写真を撮った。今、読めるかもしれない人を連れてくるのに成功した。しかし本はない。盗まれたのかもしれない。ただその写真だけが残っている。
 わたしはその写真に魅了されて、手にとってじっと見つめてしまった。そうしていると、先程の彼女の言葉がぶりかえしてきて、バカバカしいと思いながらも、問い尋ねてみた。
「本当はお母さんが怖いんでしょ、って言ったよね」
 彼女はちゃんと覚えているようで、頷いた。どうしてそう思ったの、と続けたかったが、質問を変えてみた。
「あなたは、何が怖いの?」
「ドラム缶みたいなお父さん」
 バービーモモイの返答は素早かった。初めから用意されていたかのようだった。ドラム缶。その言葉が気になったが、敢えて追求しなかった。ただ、夢は見る?と尋ねた。彼女は首を横に振ったが、それから、やっぱり見る、と付け足した。どんな夢、ときくと、ある男性歌手の名前をあげた。その男に犯される夢を見たという。
 その男から連想するものを尋ねると、「福岡でヤンチャしてた」と答えた。また九州だ。そしてヤンチャしていたのは彼女自身の筈だ。わたしは半ば了解しかけていたが、それもここで追求をやめた。遊びでなくなる可能性が、あまりに大きかったからだ。これ以上、負けるだけの賭けを打つ訳にはいかなかった。
 わたしは初めて、自分から物を求めた。
「この写真が欲しい。これが一番いい」
 彼女は少し不思議そうな顔をしたが、いいよ、あげる、と快く本の写真を譲ってくれた。
 バービーモモイは少し眠そうだった。「眠いの?」と尋ねると「点滴したから」と答える。わたしは写真をバッグにしまい、この機にいとまごいすることにした。
「イズミヤに寄って、食べ物買わなきゃダメだから」
「あそこのには毒が入ってるよ。病気、治ってきたのに、あそこの食べ物でまた悪くなったから。カナートにしたらいいよ」
 わたしは黙って頷いた。そして部屋を後にした。バービーモモイは、キチンと玄関まで見送ってくれた。

 冷たい雨が続いていた。彼女の言葉を信じた訳ではなかったが、わたしは行き先を変えてカナートで買い物を済ませた。そして部屋に帰り、貰ったネックレスと指輪を外して、引き出しにしまった。
 写真を取り出して見た。ただ本が映っているだけだった。

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