病気五原則




 なぞなぞ。例えば、病気について考えてみよう。
 なぞなぞ。五つの定言。根拠も何もない。何故五原則なのか、は原則を立てた上でこれから考えよう。だからこれはなぞなぞだ。型や文法のようなものだ。
 なぞなぞだから、面白くシャレっ気がなくてはならない。

病気五原則
一、全員病気。
一、他人の病気は良く見える。
一、病気は治療されるが、それは新たな病気の獲得である。
一、病気は伝染る。
一、病気は伝染すと治ることがある。


 勿論、ここで言う病気は、一般に病気と言われているものとイコールではない。新たに定義しなおされた操作概念である。だが、ともあれここでそれを我々が「病気」と呼ぶことは無意味でも無作為でもない。主にこの言葉を神経症からの連想として援用する。ともあれ、病気はイヤなものだし、治したいものだ(病気でも構わないのなら、ここでの病気からは外れる)。
 さて、全員病気である。言いふるされたことなので、この点については特に繰り返す必要はないだろう。だがこれだけだと単なる相対主義の導入になってしまい、「病気/健康」図式をそのまま鵜呑みにするより、なおタチが悪くなってしまう。
 「病気/健康」では勿論ない。健康者は存在しない。全員病気だ。だがそれでもなお、「健康」は存在する。全員病気であるにも関わらず、「健康」は存在する。そのようなものとして、「全員病気」を考えなければならない(逆に言えば、そういうものとしての「健康」とは何かを考えなくてはならない)。「全員病気」は平衡ではなく定常である。「人は誰でもいくらか病気である」などということでは決してない。
 全員病気が病気である上で、「他人の病気は良く見える」。そして「病気は治療されるが、それは新たな病気の獲得である」。つまり、全員病気ではあるが、病気の内容は変動していく。
 病気が嫌悪され、治したいと言われるのは、「その」病気であることが許せないということなのだ。病気は病気だから許されないのではなく、「その」病気だから許されない(「性格」について想像せよ)。逆に言えば、病気が病気であるのは、「その」病気だからだ。だからこそ、「その」病気でなくなりさえすれば、健康にはなる。それゆえ、健康は存在する。しかしそこで獲得したものもまた病気であるから、「この」「この」は永久に続くことになる。
 これは「健康もまた一つの病である」などということでは全くない。それでは精神病を認識の一変種として見るような脳天気さと変わらない。もし健康が現象として現れるとしたら、それは病気と病気の関係としてである。この関係の方向性を治療という。
 だから「治療は新たな病気の獲得」なのだ。病気は病気なのだから、治療したいものだ。治療が望まれるということ(病気が「悪い」ものであること)と、「他人の病気は良く見える」のはほとんど同じことである。
 さて、ここまでなら割と手垢にまみれた感のある議論だ。我々に新しい点があるとすれば、この後である。
「病気は伝染る」。例えば、物語を享受するというころは病気の伝染である。精神病院に行くと色々な病気の人がいて、別段彼等が突然首を絞めてきたりなどということはないし、また神経症が空気感染する訳もないのだが、確実に待合い室で病気は伝染していく。ある種の人格の人と行動を共にする事で、その「薫陶」を受ける。これらは総べて、「病気は伝染る」ということである。
「伝染する」ということは、我々が既に伝染可能性を獲得しているということであって、他者はそんなに遠い所にいる訳ではないということだ。見えない背中を通じて我々は共同体に参加している。
 作品を作るということは、病気を伝染すことだ。そして伝染こそが、ほとんど唯一の治療法(新たな病気の獲得方法)だ。観客は、新たな病気を獲得することで治療される。
 また、「病気は伝染すと治ることがある」。伝染されるだけでなく、伝染させることによって病気が変化し、治療されることがある。作品を作るモチベーションには、色々な階級で色々なものがあるだろうが、その重要な一つに「そうしなければ自分自身を維持出来ない」ということがあるだろう。青臭い見方かもしれないが、作品を作ることで作家は自分自身を治療し、病気の内容をズラしていく。つまり、「自分を維持する」ということは自分自身をズラしていくことだ。
 作家が自身の治療の為に作った作品の感染力が十分で、他人の病気まで変化させていく力を持つ時、作品は共同体に帰っていく。
 毒素をまき散らして人を巻き込むことを礼讃しているのではない。寧ろ逆だ。病気はイヤなもので、そこから抜け出したいものなのだから、どこにもないが確かに存在する「健康」だけが作品の質を評価する基準になる。毒を吐くだけなら作品にならない。
 
 病気五原則は危ういバランスの上に成り立っている。一歩間違えば毒を讃えるだけになってしまうし、どのような人格にも等しい価値を認める無責任な相対主義に堕してしまいかねない。我々はそんなことを言いたいのではない。
 全員病気だが、この全体像は平衡ではなく定常である。流れがあってこその全員病気なのだ。固定化してしまった平衡としての病気は、病気というよりむしろ単に死である。
 病気は死に向かいかねないものでありながら、同時に生きている者だけ獲得できる。我々が生きているということは、病気を通じて既に他者と関係出来ているということだ。それは果てしない壁を越えてやっと達成するような目標ではない。ただ他者について想像すると、すればする程遠のいていってしまうというだけだ。
 この場所には、沢山の人間がいる。だから、「病気/健康」と軽々しく言いたくなる。これが一番分かりやすい図式だからだ。だが我々はこのウソに気付いてしまった瞬間から、相乗りすることが許されなくなる。
 だからといって、平衡のような凍った病気関係を想像する必要はない。そのような絶望を叫ぶ者は、「最も醜い人間」でしかない。
 世界中に「健康者」が一人もいないことを確認して、その上で我々は「健康」を信じなければならない。「健康」を目指し、とにかく我々は死んでいないし、作品を作ったり仕事をしたりする。それでもなお治療の高原は続く。

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