意味の意味

-ラカン諸テクストによる意味の意味、あるいは狂信と信仰を巡る試考-
3002



構成

1 立論

2 シェーマL
 主に「セミネール」第2巻を参照し、ラカンの基本的ターム、主体、自我、対象、〈他者〉の四つ組を紹介する。

3 シニフィエ、意味作用、意味、並びにそれらとシニフィアンの関係
 主に「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」を参照し、これらのタームを導入する。

4 欲求、要求、欲望、そして欲動
 主に「フロイトの無意識における主体の壊乱と欲望の弁証法」を主に参照し、これらのタームならびに欲望の弁証法を導入する。

5 転移、分析家の現前、分析家の欲望
 主に「セミネール」第11巻を参照し、これらのタームを導入する。

6 問いの回帰、対象a
 対象aの概念を展開しつつ、問いへの回答の準備を行う。

7 精神病
 主に「セミネール」第3巻を参照しながら、精神病と神経症の関係から、立論において提出された問いへの暫定的回答を試みる。

8 信仰と狂信
 上の二者関係と、信仰と狂信の関わりを思考し、当初の問いにさらなる回答の展開を試みる。

9 結語


注:本文中の「É」は、Jacques Lacan: Écrit, Seuil, 1966 を示し、ページ番号もこれに準拠する。「01」等の表示は、別ファイルとなっている注を表す。「エクリ」収録のもののみ本文中で引用箇所を示し、他のものは注にまとめてある。特に指定のない論文名は、Écrit収録のものだが、通称で表記してある箇所もある。



1 立論 意味の意味

 極めてナイーヴな図式化から始めよう。
 世界を把握しようとする営みには、二つの極を持つ一つのラインを想定することができる。
 世界、あるいは「私」という存在に特別な「意味」を求め、それらを突き動かす「生命」等の力を認めようとする方向と、逆にこれを疎外し、構造という無機質で無時間的なものへと還元しようとする力に引き裂かれる、一つの対立軸である。
 一方にあるのは客観性であり、分析であり、可逆性であり、無意味である。「無機的」世界観と描写することもできる。
 今一つの極とは、主観性であり、総合であり、不可逆性(時間性)であり、意味である。これは「有機的」視点と言ってもよい。
 近代科学は、世界の認識から目的論的な意味を排除することによって成立したと言われる。我々は誰も、机の上から落ちるコップに、下方へと向かう目的が内在しているとは考えない。我々は一応、機械論的な世界観をもって生きていることになっている。このことが、世界の内部における因果律から目的を排除することにより、世界そのものの目的を保存する結果を陰画として持っていようとも
01、我々は少なくとも、機械論的な世界把握こそが「理性的」であり「客観的」であると、漠然と信じている。
 一方で、もし手に持ったコップを地面に落とした人が「重力のせいだ」と言ったとしたとしたら、これはある種の機知か、言い訳としてしかとらえられない。我々は物質の運動には目的も意味も見い出さないが、少なくとも人間や、擬人的に捉えられる動物に関しては、価値判断というものを保持している。正確には、「私と似たもの」には、何かしら意味によって構成された世界観を投影する。
 あるいはより世俗的な「人生観」を巡る語らいを援用し、次のような対立を描くこともできるだろう。人生には意味があるのか、はたまたないのか。目的があるのか、ないのか。この対立は、微視的に捉えられた行為一つ一つについての意味の有無と、相似的な関係にある。
 人生にいかなる意味も目的も見い出さない者は世俗語で「ニヒリスト」と呼ばれ、「非人間的」であるとされる。多くの人々は、「ニヒリスト」は「本当の自分」を隠して生きる欺瞞的人物であると捉える。あるいは彼は、単に「ないものはない」と主張している徹底的なリアリストであるかもしれないが、いずれにせよ、本当に一切の意味といったものを排除して日常生活を送っている者がいるのかは疑問である。意味や価値判断といったものは、簡単に世界から放り捨てられるほど、弱々しい根しかもたないものではない。
 他方、些細な出来事に過剰に意味を呼び込む者もまた、異常とみなされる。占いや世俗宗教のような価値体系を何にでも当てはめ、ちょっとしたシンクロニシティに大騒ぎをする者がいたとしたら、病人とは言わないまでも、「ちょっと変な人」という扱いを受けることは避けられない。
 言うまでもなく、我々が日常的に選んでいる道とは、これら両極の中庸にあるものである。「意味」を求める力、そして逆にこれを疎外しようとする力、両者の葛藤とバランスが「正常」な人間を形成している。
 我々は日常生活において、自然に世界に意味を認めている。あるいは、意味を意味として認識することすらない。要するに、少なくとも「世界は無意味」とは積極的に考えない。積極的に何らかの価値体系を導入していなかったとしても、意味一般を一切排除して生活するという事態は、想像し難い。
 しかし、これだけでは何一つ明らかにしたことにはならない。薄く世界に意味を求めながら、なおかつ「大きな意味」に人生のすべてを巻き込まれることのないスタンス。それが正確にはどういった姿勢を指しているのか、我々は分節していかなければならない。

 分かりやすい譬えを使おう。ラカンがその学位論文でも取り上げているパラノイアである。
 ラカンの言う所のパラノイアparanoïa−−これを精神病理学における妄想型分裂病paranoyde typeと同一視することはもちろんできないが、少なくともそれを参照点として理解を容易にすることはできる−−、その発症の初期において見られる症状に、個人的意味作用signification personnelleの出現というものがある。例えば、家の前に赤い車が駐車してある。それを見た途端、車がCIAのものであり、彼を誘拐しようとする者がおり、その企みは……といった意味付けが形成される。
 これらの意味が、動かしがたいストーリーとして秩序づけられ確立されるには、一定以上の時間が必要である。つまり、確固たる妄想形式を築くのは、意味付けの後のことではある。最初に「何か意味がある」という直観がある。
 このような現象を前にした時、何かに意味を見い出すということは、多かれ少なかれ、パラノイアにおける個人的意味作用に類似したものがあるのではないか、という疑念が起こってくる。つまり、我々が日常的に行っている、「世界に対して主観的な色をのせていく」という作業は、どこか既に狂気じみたものが含まれているのではないか、という不安である。
 我々の主観性が、本質的にパーソナルなものである以上、そこには客観的な確証がない。我々が世界把持において行っている世界の意味付けは、客観的なものではない。
 極端に言えば、もしかすると我々は、主観であることそれ自体において、既に狂い始めているのかもしれないのである。何であれ意味を見い出すということそのものが、狂気の始まりである、と考えられなくもないのだ。
 しかし一方で我々は、世界の諸現象に何らかの意味を見い出すという行為一般について、狂気として理解してはいない。むしろ、意味の発見は主体であることの条件である。世界に何ら意味を見い出さない主観性というのは、形容矛盾ですらある。

ただ主体のみが意味sensを了解comprendreすることができ、翻って、意味の現象のすべては主体を含意している。(É p102)

 ここに一連の葛藤が整理される。つまり、我々が主体である以上、意味sensの了解を避けることはできない。一方で、意味を了解してしまう、ということには、パラノイアにおける個人的意味作用の出現といった、非正常性の端緒がある。
 よって、我々が問うのは、「我々は世界に意味を認めてもよいのか」「意味を認めることが、いかなる形で『正常』な行為として認められるのか」という問題である。
 パラノイアにおける個人的意味作用の出現と、我々が日常的に行う世界の意味付け、世界に対する意味の導入の間には、何らかの差異があるはずである。そうでなければ、我々はすべてパラノイアであると言わざるを得なくなる。
 確かに、パスカルの警句にあるように、我々は「正常であるために十分に狂っている」。それでも、一般的な言葉づかいの中で、我々が意味を認める時、常にパラノイア的であるとは言い難い。
 「意味はいかなる形で正常に導入しうるのか、あるいは導入しえないのか」と整理しうる我々の問題は、すなわち意味の意味を問うことでもある。そしてこの問いの向こうには、「我々はいかにして『狂信者』であることなく、信仰者たりうるのか、あるいはあり得ないのか」という、深遠な淵が横たわっている。さらなる飛躍を許して頂くなら、これらの問いには、「私の意味」とでもいうべき、幼児的ではあるが致死的な疑問が連なっている。

 このようないささか子供じみた大きな問題設定に向き合う為には、相応に構造化された鋭利な剪定鋏が必要になる。ここで我々は、ジャック・ラカンの諸テクスト、諸概念を利用したい。そのために、まずラカンの基本的タームについて、簡単な整理を行う。この迂路を経た上で、我々は上記の問いに一定の回答を求めていこうと思う。
 おそらくはこの打回路自体が、意味の意味をたずねるという我々の問いに対するある種の回答であり、意味の意味とはまさに、問いに対して答えを求める運動それ自体と表裏一体であることを、示すことになるだろう。


2 シェーマL−−意味の舞台における登場人物紹介

 シェーマLは、1954-55年のセミネール『フロイト理論と精神分析技法における自我』において初めて示された図式である。『エクリ』収録論文では、58年の「精神病のあらゆる可能な治療に対する予備的問題」に、簡略化した形で登場している。ただその示す所は、既に48年の「精神分析における攻撃性」にも参照点を持つ。いずれにせよこのシェーマは、ラカンの最も基本的理論である「鏡像段階論」をよく映し出したものである。
 このシェーマについては、既に多くの論者が無数の語りを展開しており、今さら何も加えるべき言葉はないかもしれない。
 しかし、ラカンのテクストを扱うという選択自体を一つの問題とする我々としては、その登場人物がよく描写されたこのシェーマを、我々なりに咀嚼することによって、本論の端緒としたい。

 左上にSがある。これはフロイトの第二局所論
02におけるEsでもあり、またsujetのSでもある。それは「分析的主体」であり「全体性としての主体」ではない。この主体は、「自分が何を言っているのか知らず」「自分が何であるのかを知らない」03
 Sとは、「出生時の特異な未熟性」(É p96)によって特徴付けられる、言葉を話せないinfant乳児と考えてよいだろう。この乳児は、自分の全体性を知らず、ただバラバラの部分欲動pulsion partinelleによって突き動かされるだけの、寸断された身体corps morceléである。子宮という楽園から追放された乳児は、ただ襲い来る欲動に翻弄されるままの、己を知らない肉片の集まりである。いや、集まりとしての統合すら、彼はこの時点では持っていない。
 このSに対し、右下隅からA、すなわち大文字の他者が語りかける。大文字の他者とは、上のような未熟な幼時にとっての大人達、大人達の交わす言葉の雲と言えるだろう04
 この語りかけは、しかし、「ランガージュの壁」によって阻まれる。aとa'によってひかれるラインがそれである。この壁は、文字どおり「言葉の壁」だと思えば、イメ−ジしやすい。乳児は言葉を解せないゆえに、大文字の他者のメッセージは彼には届かず、無意識となる。
 寸断されているSが、己の統一を得るのは、鏡像においてである。つまり、その身体的未熟に先行する形で与えられた視覚能力によって、鏡の中のイメージとして、己の統一像を獲得するのである。これが右上のa'である。
 そこから鏡のこちら側にあるものとしてSが想定する想像的自己像が、aとなる。この位置には、後に自我moiを示すmの文字が配置されるのが一般的になる。逆に言えば、自我は鏡像から推測されるものにすぎない。つまり自我とは、初めにある統一でも、自我心理学の主張するような分析によって強化されるべき砦でもなく、想像的な虚像にすぎないのである。
 これがラカンのいわゆる「鏡像段階論」の概説である。一般に乳児は、六ヶ月から十八ヶ月の間にこの段階を経験すると言われている。しかしもちろん、この「段階」は、実際の発達論的段階ではなく、論理的想定物と捕らえるべきである。それは、フロイトおよびアブラハムによる「口唇期」「肛門期」等の一見発達論的タームが、単に通時的段階として理解されるべきでないのと等しい。
 また言うまでもなく、この鏡とは、物理的な鏡である必要はない。Sの発見する自己像a'はAと同じ右側に配置されているが、これはつまり、a'がAの中に、つまり大文字の他者の語らいdisucoursの中に発見される、ということである。自己像とは、必ずしも物理的光学的像ではなく、大人たちの語らいの中で語られているものとしての「己のイメージ」のことである。
 「もし主体が自分が何を言っているのか知っているとするならば、主体はこんな場所にはおらず、シェーマの右下の方にいるはずである」とラカンは言う。つまり、主体が何であるのか知っているのは大文字の他者である、ということである。この事実は、乳児が何者であるか知っているのは、乳児本人ではなく周囲の大人達である、という身近な事実を想起すればわかりやすい。
 Sはこの語らいの中の像a'に同一化する。「〈私〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」において、ラカンはこれを「一つの同一化une idéntification」であり、「鏡像段階は、その内的衝拍が不十分さから先取anticipationへと沈澱する一つのドラマ」(É p97)という。つまり人間は、己を内的に把握する以前に、先取りとして、「外在性において」(É p95)自己イメージを獲得するのである。
 しかし、これが「一つの同一化」と言われるのは、それによって獲得される理想自我je-idéalが、「二次的同一化の起源」(É p94)であるからである。どういうことか。
 主体は鏡像a'において自己像を見い出し、自我を獲得するが、厳密にいって、鏡像と自我は同一ではない。この両者は「想像的関係」すなわちイメージの力によって糊付けされているだけだ。つまり、想像的に同一化されてはいるが、同じものではない。
 我々は日常において、鏡の中の像と自己自身の像と考えて疑わない。そこに不安を覚えることも健常者においてはあり得ない。しかしこれが可能となるために、我々はもう一つのステップを既に踏んでいるはずなのである。そのステップとはつまり、「両者の間に鏡がある」ことを認めることである。
 もし自我の形成が、単に想像的次元、対象的次元だけにおいて行われるとしたら、それは「私かお前か」という二者択一の鏡地獄の陥ってしまうだろう。これは「想像的揺れ」と呼ばれる。

もし外に知覚された対象がそれ自身のまとまりを持つなら、それはそれを見る人間を緊張状態に置く。なぜなら、この人間は、自分自身を欲望として、満たされない欲望として知覚することになるからである。逆に、人間が自分自身のまとまりを得るときには、翻って世界が破壊され、その意味を失い、疎外され、不調和な様相の元に表れることになる05

 これは「私があるとしたらお前はいない、お前がいるとしたら私はいない」という抜き差しならない双数=決闘duel関係である。「狂人とはまさに、この想像的なものに純粋かつ単純に張り付いている者のこと」07と言われるように、これは合わせ鏡のようなパラノイア的状況である。自我は、「パラノイア的疎外」(É p98)の元に成り立つのである。
 この関係を仲裁するのが、大文字の他者Aの審級である。Aとは大人達の語らいの空間であり、「フロイトの無意識における主体の壊乱と欲望の弁証法」おいて「シニフィアンの宝庫」(É p806)と言われるように、象徴的場である。大文字の他者の仲裁とは、象徴的次元の導入であり、時間差の論理の介入である08
 a'とmが共存するために必要なのは何か。それは時間差である。つまり、「今はそれはないが、実はあるのだ」という、「『無い』がある」という次元によって、両者が共存できるようになるのである。象徴的なものにあって想像的なものでは表現できないこと、それはこの 「『無い』がある」というコトである09。我々は言語の導入によって、初めて何かが「無い」ということを表すことができるようになる。動物にできなくて、人間にできるもの、それは不在の存在を示すこと、すなわちreprésenterする働きである。「不在が言語を通じて現前となる」のである10
 ラカンは「対象を名付ける力が知覚そのものを構造化する」「人間が対象を何らかの一貫性において存続させるのは命名によってである」と言う。また、「語は(……)対象の時間的次元に対応する」とも言い換えている11
 これが象徴的同一化、自我理想の導入である。自我理想とは、理想自我、すなわち「理想的な自分」を、見ていてくれる視点である。しばしばそれは、鏡像の中で、幼児を抱き上げ見つめている親の視点として語られる。
 あるいは、次のように言うこともできるだろう。自我理想の導入とは、ある「無さ」に対する同一化、「無い」ポイントを自らの中に刻み込むことである、と。
 フロイトの有名なFort-Daにおいても、幼児が悦びを示したのは、対象の出現ではなく消失においてであった。それはつまり、ある「無さ」に対して主体が同一化した、ということである。
 乳児は、鏡の中の自己像に同一化するというよりはむしろ、鏡を見てそこから振り向いた時、視界から消失するものに同一化するのである。あるいは、消失そのものfadingに同一化する、と言ってもよい12
 それゆえ、実はこのシェーマLは、それ自体としては神話にすぎない。というのも、ここで示されている同一化のメカニズムが完遂されたとき、Sは既にそれ自体としてはあり得ず、疎外された形、つまりマテームS/によって表されるべきだからである。さらに、Aもまた、完全者としてはあり得ず、斜線をひかれたA/、「欠如あるもの」「他に欲望を持つもの」としてしか成立し得ない。これについては「欲望の弁証法」等のテクストを元に、後述する。
 フロイトが『文化における不安』において示した父殺しのドラマが、文化人類学的事実というよりは一つの神話であるように、さらに言えばエディプスコンプレクス自体がフロイトの神話である如く、鏡像段階はラカンの始源に想定される神話なのであり、遡及的にしか示すことのできない一つの構造である13。原光景は再体験されたものではなく、再構成されたものなのだ。
 
 とはいえ、この神話とシェーマの有効性は、改めて強調するまでもない。
 例えば、我々はこのシェーマを使って、端的に分析家と被分析者の関係を考えることができる。
 セミネールの編者であるジャック=アラン・ミレールも指摘していることだが、分析はmとa'の想像的関係ではなく、SとAの象徴的関係において行われなくてはならない14。つまり、分析家は患者にとって、彼の似姿semblableであり、同情し感情移入してくれる「人間」ではあってはならない。ヒステリーが親しい人間関係においてその症状を最も激化させることからもわかるように、このような関係は決して治療的効果を生み出さず、むしろ神経症を助長してしまうだろう。分析家は鏡像であってはならないのだ。
 あるべき分析家とは、鏡像ではなく、鏡そのもの、つまりAでなくてはならない。話しかけるのがいささか滑稽な程、甲斐のない鏡でなくてはならない。
 とはいえ、分析家は壁ではない。彼は一人の主体として想定される。しかもそれは、後述するように、「知っていると想定される主体」である。
 何を知っているのか。それは彼の症状の意味、まさに本論で我々が巡っている、「私の意味」である。やや結論を先取りする形になってしまうが、分析家はそれを持っていると、患者の背後において(寝椅子の後ろに)想定される。無意識の主体の想定と言ってもよい。
 分析家は鏡Aとして振舞うことにより、Sにその像を提供する。それは最も初めに主体から分離されたもの、主体がそれであることを諦めることによって主体として成立し得たもの、つまりラカンの用語に言う対象a objet aを映し出す。この鏡としての機能、象徴的機能においてこそ、分析は機能するのである。

 シェーマLをより単純化し、主体、対象、他者を図式化してみよう15

 患者がsujetの位置にいるとしたら、分析家はもちろん、Autreでなくてはならない。objetは文字通り対象であり、分析家はこのような「人間的」位置に立ってはならない。ここに来るのは、例えば話題の人物などである。
 ラカンがフロイトの文献のうち最も読むべきものの一つとして上げている『機知−−その無意識との関係−−』において、既に似た三角関係が示されている。フロイトは滑稽と機知を区別するものとして、第三項の導入をあげている。つまり、滑稽においては「私」と「対象である人物」の二人で十分であるが、機知においては、第三者、つまり他者がいなくてはならない、という。つまり「話す私」「ネタとしての対象」「笑ってくれる他者」という三項関係である16。対象はその場に現前しない。対象は単に表象représentationとしてある。一方、他者は現前se présenterしている。ちょうど落語において、客はse présenterしているが、ネタの中の登場人物はそこには居合わせないように。
 対象は鏡像に過ぎないが、他者は現前する。精神分析の分脈でいえば、「分析家の現前」である。分析家は、大文字の他者の役割を負って、文字どおりその場(セッション)に「居合わせるse présenter」17
 我々はさらに、ここから子供の「今日の一日報告」を連想したい。小学生ほどの年齢の子供が帰宅して親に対して行う、その日の出来事の「報告」である。子供はしばしば、帰宅するなり「お母さん、あのなぁ、今日なぁ、タカシ君ががなぁ……」等々と、その日の起こった事を一方的に「報告」する。この時、他者(母親)は現前しており、タカシ君は単に表象として話の中に登場するにすぎない。お母さんは大抵夕飯の支度中で、子供の話を真剣には聞いていない。「あらそう、ふぅん……」。ただ、まるで無視しているわけではなく、的を射たような射ていないようなコメントを返すこともある(解釈)。
 子供も、母親が全神経をかけて聞いているとは思っていないはずだ。もし母親がそういった態度を取れば(あるいは子供によってそう想定されれば)、子供は射すくめられたように語りを滞らせてしまうだろう。
 だからといって、子供は壁に語りかけているわけではない。両者の関係は、被分析者と分析家の関係に相当に類似している。前後関係こそ逆であるが、両者とも双方がほぼ同じ方向を向いていることも興味深い。
 お母さんは聞いていないようで聞いている。とはいえ、その関心の中心は目の前の料理であったり、ワイドショーの話題であったりする。これはちょうど「分析家の欲望」と言われるものに呼応する。

 「今日の一日報告」の譬えには、まだまだ分析との相似点が見出せるかも知れないが、敢えて展開は保留しておこう。
 というのも、この先に進むためには、転移の概念を導入しなければならないからである。それは本論の核心であるゆえに後に詳述を譲るとして、我々はここから、しばしの迂路へと入ろう。


3 シニフィエ、意味作用、意味、並びにそれらとシニフィアンの関係−−意味の包囲

 ラカンのタームの中で、日本語の「意味」という語を訳語としたくなる語に、次の三つがある。すなわち、signifié, signification, sensである。さしあたって我々は、それぞれを、シニフィエ、意味作用、意味(あるいは意味=方向)と訳出しておこう。
 「意味の意味」を整理する過程として、この三つについて、ラカンの用語法を概説してみたい。そのためにはまず、シニフィアンsignifiantの概念の理解が必要になる。

 シニフィアンとは何か。この語は周知のように、ソシュールによってシニフィエとのカップルとして現代思想の中に姿を現した。その示す所は、いわゆる音素と概念の対応であり、そしてこの対応の恣意性に主意があったことは、改めて説くまでもないだろう。
 ラカンはソシュールからこのシニフィアンの概念を借りてくる。しかしその用法については、大きな隔たりがあると言わなければならない。
 ラカンは、「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」において、以下のようなユーモアをもって、シニフィアンの概念を簡潔に提示している。

 左の図では、arbreとういうシニフィアンに対し、そのイメージ(概念)が対応している。これが従来のシニフィアンとシニフィエの了解の仕方であった。音素には概念が一対一で対応しているが、木がarbreと呼ばれることに必然性はない、ということである。
 一方で、ラカンの言うシニフィアンとシニフィエの関係は、右の図のようなものである。ここに示されているのは、もちろん、よく見るトイレの二つの入り口である。左は男子用、右は女性用であるが、その扉の形状には何の差異もない。両者を分節しているのは、単にその上にかかげられたhommesとdamesというシニフィアンのみである。
 つまり、ラカンにおいて強調されているのは、シニフィアンとシニフィエの対応関係ではなく、シニフィアンとシニフィアンの差異なのである。

 この式は次のように読まれる。シニフィアンがシニフィエの上にあり、上のものは、その二つの段階を分轄している棒線に呼応している(É p497)

 この式では、分子の位置にシニフィアン、分母の位置にシニフィエが置かれている。重要なのは、両者を隔てている棒線barreである。ラカンのシニフィアンは、いかなる形でもシニフィエとは対応しない。ただシニフィアンとシニフィアンの関係だけがあるのである。

もう一つ別の意味作用に返送されないで成立するような意味作用は一つも存在しない(É p498)

 それゆえ、この式は、シニフィアンとシニフィエという仮構的位置関係を示しているとも言えるが、ある種のシニフィアンとシニフィアンの関係(隠喩−−これについては後述)の教示でもある。

シニフィアンとシニフィアンの相関性のみが意味作用の探究全体の原基を供する(É p502)

 このシニフィアンは、「欲望の弁証法」において、「あるシニフィアンは、主体をもう一つのシニフィアンに向かって表象する」と定義される(É p819)。つまりシニフィアンとは、シニフィエを示すものではなく、それを印した主体を表象しているのである。
 別の場所でラカンのあげている譬えを借りるなら、砂浜に足跡があったとすれば、それは単に記号signeであり、「誰かに対して何かを示している」ものだが、もしその足跡を消した跡があるとすれば、それはシニフィアンである。この「消し跡」は、別のシニフィアン(つまり消された足跡)に向かって、消した主体(消えた主体)を表象している。この主体の消滅は、前述のfadingとも呼応する。つまり、主体は消え去ったものとしてしか成立し得ない、ということである。
 そのようなシニフィアンの連鎖があり、ただその関係からのみ意味作用が発生する。シニフィエとは、意味作用が生じる位階の名にすぎない。

 このメカニズムを、もう少し精緻に見ていこう。
 「文字の審級」では、上の図解に続いて、言語の基本的修辞法として、換喩と隠喩について語られる。
 換喩とは、語対語(mot à mot)の関係において成り立ち、フロイトの夢作業における「移動」に相当する機能であり、隣接性の原理に基づくものである。換喩によって、シニフィアンは「存在の欠如を対象関係の中に据えつけ」られる。換喩は語から語へと飛び水のように逃げ去っていく欲望désirの基体であり、そこにおいてはシニフィアンとシニフィエをまたぐ棒線は越えられず、つまり水平的関係だけがあり、新たな意味作用は生じない。
 一方、隠喩は、一語に代わる一語(Un mot pour un autre)の関係によって成り立ち、夢作業における「圧縮」に対応し、相似性の原理に支えられるものである。隠喩において、シニフィアンはシニフィアンに置き換えられ、垂直的に棒線が越えられ、意味作用が生じる。つまり、一つのシニフィアンがシニフィエの位置に滑り込むことによって、あるシニフィアンが別のシニフィアンを「意味するsignifier」する作用が生まれる。このシニフィアンの下に敷かれたシニフィエの位置とは、消失する主体の位置であるゆえ、隠喩における滑り込み作用は、主体の機能を示すと言ってもよい。

 この意味作用のメカニズムを、「欲望の弁証法」でのシェーマを使って別の角度から見直してみる。

 これは「欲望の弁証法」で順次提示される四つのグラフの一番基本的なものであり、隠喩の構造をよく表している。
 SからS'へ向かうラインは、シニフィアンの連鎖を示している。それが、ΔからS/へと逆方向に遡行するラインによって、「ひっかけられる」。それゆえに、このグラフの示すところは「マットのつまみle point de capiton」と呼ばれる。
 通時的に考えると、これは例えば、発話の文末決定性を表現しているとも言える。つまり、Δから伸びた矢印がシニフィアンの連鎖を横切る最初の点、そこでシニフィアンはひっかけられ、一つの区切りが入れられるのだが(句読点)、その点から遡行し、次の復路の点の意味が決定される。時間軸はSからS'の方向に走っているのだが、意味の作用は、その言い終わりから遡行して決定される、ということである。日本語における「文末の決定性」などを思い浮かべればわかりやすい。
 このポワン・ド・キャピトンによって、一つの隠喩が成立する。つまり、前のシニフィアンが後のシニフィアンのシニフィエの位置に滑り込むことにより、意味作用が生成する。そして元々シニフィエの位置にあったと想定される主体が、連鎖の外に放り出されると共に、引き裂かれた形で成立する。この想定は、事後的にしか行われ得ないゆえ、抹消されたものとしてしか、消え去りゆくものとしてしか、主体はあることができないのである。
 以上で、シニフィエと意味作用の関係を粗描できたかと思う。シニフィエとは仮構的な位置の名であり、概念やイメージ、物自体といった何かがあらかじめ有るわけではない。そして意味作用とは、シニフィアンがシニフィエの位置に滑り込むことによって発生する作用である。向井雅明は、これを「一つの文法的に正しい文には必ず成立する意味」と表現している
18

 それでは、残された意味=方向sensとは何か。同じ場所で向井はこれを「nonsens、ナンセンス、無意味な所に生じる意味」と表している。
 無意味の意味、このフレーズから、我々はフロイトの『機知』を想起しないではいられない。機知によって無意味の中から成立してくるような意味、これがsensである。それは意味作用の一つとも言えるし、あるいは意味作用の作用、意味作用のもたらす方向性とも言える。
 表面上無意味な意味にも、もちろん意味作用は成立している。だから、無意味であっても、少なくともそこには意味作用がある。ただしこの意味作用は、我々が日常語で言うところの「意味のない」ものである。そのような「意味のない」パロールから意味の飛び出す時、そこにsensがある。
 『機知』の中に、次のような機知の例がある。
 ある貧乏な男が、金持ちの知人に無心して、なんとか金を借りる。翌日、金持ちの男は、貧乏男が自分の貸した金でマヨネーズをかけた鮭を食べているのを目撃する。「なんだ、お前は私から金を借りておきながら、そんな贅沢をしているのか」と金持ち男はなじる。すると貧乏な男が答える。「金がない時はマヨネーズをかけた鮭なんか食べることはできないし、金があるときには食べてはいけないと言われる。それでは一体、いつ私はマヨネーズをかけた鮭を食べたらいいんですか?」と19
 このように、機知とは、それによって危機を脱する手管でもある。この逃げる方向、ナンセンスであることによって発生する方向が、意味=方向sensである。意味とは飛び出し、すり抜けであり、「脱出マジック」、主体のテレポーテーションであり、忍術である。

 ラカンは、Cogito ergo sumをもじって「私は私の存在しない所で考える。それゆえ、私は、私の考えない所に存在する」と言い、続けて「私が私の考えにもてあそばれる場所には、私は存在しない、私が考えると考えていない場所で、私がそうであるものについて考えている」(É p517)と言い換える。

この二つの面を持ったミステリーは、二つの事実に結ばれる。一つは、そこを通ると創造におけるいかなる「リアリズム」も換喩の効力をおびるアリバイ証明の次元においてのみ、真理が呼び起こされる、という事実である。今一つは、鍵が一つしかないのに、意味sensがその入り口をゆだねるのはただ隠喩の二重の屈曲部doubule coude de la métaphoreにおいてである、という事実である。(É p518)

 一つ目の事実では、まず、いかなる写実的リアリズムも、もの自体を示すのではなく、シニフィアンは水平的にズレていく、ということが言われる。指し示されるもの、それは常に逃げ去っていくシニフィアンにしかすぎず、もの自体は常に不在である。つまり「アリバイ(不在証明)」がある。この「何事も言えなさ」においてのみ、ただ「何事かを言える」、つまり真理の次元がありうるのである。
 二つ目の事実は、次のことを意味している。二重の屈曲部とはつまり、隠喩とはシニフィアンのシニフィアンによる代理でありながら、同時に両者は同じ次元にはない、ということである。つまり、シニフィアンとシニフィアンの等価性という一つの軸がある一方で、両者の位階の絶対的垂直的差異、つまりシニフィアンとシニフィエという絶対のズレという軸がある。隠喩の二重の屈曲部とは、シニフィアントとシニフィアンという水平的ラインと、シニフィアンとシニフィエという垂直的ラインが交わる、仮構的交点を示している。これは一つの隠喩という作用でありながら、二つの相矛盾する機能の交差でもある。
 シニフィアンは分節さえることによってのみシニフィアンであるのだから、その間には常に飛躍がある。そして、シニフィアンとシニフィエの間には、ただ隠喩によってのみ忍術的に飛び越えられる棒線が横たわっている。二重の意味で、二項の間には溝があり、ましてその交点など実体的にはあり得ない。
 しかしここに一つの鍵がある。つまり、隠喩である。隠喩とは意味作用の生成のメカニズムであるが、同時に意味=方向という不可能な忍術が可能になる唯一の点でもある。水平的飛躍と垂直的飛躍の交わる点という、不可能な点、「二重の屈曲部」「二重肘」のどちらにも合うはずもないのに(そもそも鍵穴がない)、両方に合う鍵である。無いはずの鍵穴のための唯一の鍵は、換喩的な水平運動の行き詰まった窮地において、主体を引き裂きテレポートさせる「脱出マジック」の鍵なのである。
 換喩的思考の存在しない場所に、私は存在する。思考対象としての私(énoncéのsujet)が存在する場所に、考える私、言表行為(énociation)の主体はいない。そこではない場所で、私は考えられている私について考えている。「そこと思えばここ、ここと思えばあそこ」、この忍術が隠喩であり、それによって可能になるもの、それが無意味の意味、意味=方向sensである。

隠喩は、意味sensが無意味non-sensの中から生じるまさにその場所において、位置付けられる(É p508)



4 欲求、要求、欲望そして欲動−−弁証法的な、弁証法への迂路

 「欲望の弁証法」にもう少し留まることにしよう。これは、欲望を巡る一連のラカンのタームを整理し導入するための、弁証法的迂路である。
 

 前のグラフに続いて、上のグラフが提示される。Aは「シニフィアンの宝庫」であり、s(A)は、「意味作用がそこで完成品として構成される句読点」である(É p806)。つまり前述のように、Aの点においてひっかけられたシニフィアンの連鎖は、s(A)において一つの意味作用として結実する。これは一つの確言assertionである。この確言は、その確実性を、「それ自体は何も意味しないinsignifiantシニフィアンの構成の内に自らを先取することに向けなおされる」。つまり、初めにシニフィアンがある。それは単にシニフィアンであり、何かを予め意味しているわけではない。それが大文字の他者Aの場であり、先験的物質的構造である。シニフィアンが、文字通り何かをsignifierするということは、主体の消失的成立と同時的なのである(「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する」)。
 ここにおいて、「主体のシニフィアンへの従属」が達成される。前のグラフでは終点にあったS/が、今度は始点に、つまり神話的始源におかれている。これが神話である限りで、つまり主体が一つの消失においてしか成り立たない限りにおいて、確言の確実性の根拠として主体が初めに存在する、ということは不可能である。主体は大文字の他者というシニフィアンの宝庫の中に疎外されることによってのみ、成立するのである。主体は、「数えられなくてはならないと同時に欠如の役割を演じなくてはならない」(É p807)。

これは遡行翻位(rétroversion)の効果である。これにより、主体は、各段階において、それが今しがたまでそうであったものになる。そしてただ前未来形によってのみ、つまりそれがそうあったことになるだろう、という形でのみ現れる(É p808)。

 そして、最初のグラフのS/に代わって終点に置かれているのは、I(A)自我理想である。つまり、象徴的同一化の審級である。それゆえ、この二番目のグラフは、大文字の他者の導入そのものを示しているとも言える。

 このグラフの導入に続いて、欲求besoin要求demande欲望désirというタームを巡る論が展開される。この三つの術語について、概説しておこう。
 例えば、「パンが食べたい」という欲求がある。欲求は対象を持つものであり、対象によって満たされるものである。動物的水準に属するとも言えるかもしれない。日常語において「欲求」「欲望」といった語から我々が連想するものには、ラカンのターム言えば「欲求」besoin(「欠乏」という訳もある)が相当する。
 しかし、もしも「パンが食べたい」という欲求がランガージュの次元に表れるとしたら、つまり「パンが食べたい」というパロールとして発言されるなら、既にこれは動物的生理的水準にはない。
 例えば子供が母親に向かって、「パンが食べたい」と叫ぶ。それは要求demandeとなる。要求は、発話された欲求とも言える。
 人間がその本質において言語に巻き込まれている以上、存在するのは要求からであり、動物的欲求といった生理的還元は、一つの遡行的神話にすぎないだろう。要求は発話され、想定される主体に向かって叫ばれる。要求は本質的に常に愛の要求である。「お母さん、パンを食べたいボクを見てよ!」。
 それでは、欲望désirとは何か。

 欲望は、要求が欲求から引き裂かれる余白margeにおいて形をとりはじめる。この余白は、その呼び掛けがただ大文字の他者に対してのみ非制約的でありうる要求が、欲求がそこにもたらす可能的欠如の形のもとに、普遍的満足はないということによって(不安と呼ばれるもの)、開くものである。この余白は、直線的なものであろうと、大文字の他者の気まぐれの象の足踏みによって覆われていないところが少しでもあると、その目眩を生じさせる。この気まぐれはしかし、大文字の他者の亡霊を導入する。それは主体からではなく、大文字の他者からであり、この大文字の他者にその要求が据えられる(今やこの馬鹿げた決まり文句を、きっぱりと、万人に対し、それ自身の場所へと戻される時かもしれない)。そして、この亡霊とともに、〈法〉によって手綱をとることbridageの必要性も、大文字の他者に据えられる。(É p814)

 欲求は大文字の他者の場、ランガージュの次元に表されることによって、要求となる。しかし、この時何かが取り残される。大文字の他者とは象徴的審級だが、要求の発せられる時、象徴化できなかった余白が残る。この不可能な辺境の場に向かうのが、欲望なのである。
 ラカンは、象徴化によって取り残される残余を現実界le réelと呼び、いわゆる「現実」すなわち現実性réalitéという想像的なものから厳しく区別するが、欲望はこの象徴の彼岸にほの見える現実界に、その対象と原因を持つ。
 この欲望dによって、グラフは上方に向かって、無意識に向かって展開する。グラフ上段は、「大文字の他者のディスクール」であるところの無意識の領域である(É p814)。無意識は、主体と大文字の他者の間にあって、「現に働いているen acteそれらの裂け目」(É p839)である。それは問いという形、あるいは時間的拍動として、現れる。

 Che vuoi?汝何を欲するか? すなわち、大文字の他者の欲望を探る問いが、大きなクェスチョン・マークとなって展開する。その先には、幻想fantasmのマテームS/◇aがある。aとは、対象a objet aを示すが、この対象aとは「欲望の対象にして原因」と言われる。
 aは、シェーマLにおいて鏡像として示された小文字の他者autreのaでもある。つまりそれは、主体がその成立において、振り向きざまに消え去るものとして自分から切り離した部分であり、主体そのものでもある。正確には、「今しがたまで、主体であったもの」である。主体は一つの欠如としてしかあり得ないのだから、その欠如に向かう不可能な欲望の果てには、飛び水のように逃げ続ける対象があるはずであり、この対象は、それ自体で存在するというよりは、欲望という欠如の現象の原因として遡及的に想定されるものである。これは主体成立の神話の想定に並行的である。対象aはこの始源において、主体の消失と永遠の滑り出しをスタートさせた、欲望の原因である。
 この対象aと抹消された主体S/が◇で結ばれているのが、幻想である。◇は疎外aliénationと分離séparationの運動を示すものとしてセミネール11巻や「無意識の位置」で詳述されているが、その詳説はここでは省こう。ここはひとまず、その両側にある二項が、錐によって結び付けられていると理解されたい。S/とaは同時に成立し、永遠の余白に向かって走り続ける欲望のゲームを始動させるのだから、我々の生きる世界はその両者の結びついた幻想によって完全に包囲されていると言えるだろう。

幻想はまさに、最初から抑圧されたものとして見い出される〈私〉の、そしてただ消失においてのみしか言表行為のそれとて示し得ない〈私〉の、「生地」(étoffe)である(É p816)。

 この幻想が、大文字の他者の欲望の問いという形でクェスチョン・マークの先端に位置付けられている。なぜなら、最初のグラフにあったように、主体は大文字の他者の場、ランガージュの場に疎外されることによって成立するものだからだ。この疎外において、主体から分離され、以後その欲望の原因として対象であり続けるのが、対象aである。
 最初のグラフにおいてΔによって表示されていた「始源の何か」は、大文字の他者の場に居場所を求めて、その欲望を問う。つまり、大文字の他者における欠如を、自らをはめ込める隙間を、探し求める。その結果は、大文字の他者における「空集合」(大文字の他者における、空隙の無さ)に対し、fadingそのもの、無rienを投機する、というものである。つまり、自分自身の存在の無さを、大文字の他者における無に賭けるのある。
 ちなみに言えば、これこそが分離と呼ばれる運動である。つまり分離とは、二つの無を重ねることによって、主体が大文字の他者への疎外から身を引き剥がし、独立する運動である。
 まさにこの賭けにおいて、主体は消失と同時に成立するのだが、この時切り離された主体自身、主体の存在の無さそのもの、抜け殻のようなものが、対象aである。両者は結びあって、幻想という形で、大文字の他者の欲望の問いとなる。

このように提示された幻想について、図の記すところは、欲望が、身体の心像に対する自我の場合と同じように、自らを調整するということだ(É p816)。

 こうして、「汝何を欲するか?」の問いから、グラフは完成に至る。

 グラフの下段において大文字の他者があった位置に来るのは、S/◇Dである。これは欲動pulsionのマテームと言われる。
 欲動とは何か。その原語はTriebだが、従来「本能」「衝動」などといった訳語が充てられてきた術語であり、「身体的衝拍を示す何か」を連想しないではいられない言葉である。分析理論において、それは主体の基本的なエネルギーであり、バラバラの身体を突き動かしている力である、とされる。
 ラカンは「欲動は本質的に死の欲動である」と言うが、それは欲動のこの部分性を指してのことである。欲動とは部分欲動である。つまり、統合された自我から発するのではなく、論理的にこれに先行するバラバラの肢体が、それぞれにdriveされているエネルギーのことである。正確に言えば、まさにこの「バラバラさ」自体が、一つの死、文字であり、すなわち死の欲動なのである。
 それは「一つの知un savoir」であるが、「眠っている間に頭皮に彫られた入れ墨のように」「ほんのわずかな認識connaissanceすら含まない知」である(É p803)。
 この欲動が、S/◇D、すなわち抹消された主体と要求によって構成されるマテームによって表され、この場所に据えられている。どういうことか。

主体は自分が話していることすら知らないので、それを言表内容énoncéの主体として、つまり分節する者として、どこにも示さないでいることは難しい。それがわかった以上、無意識の主体を支えている機能に問いを向けなければならなかったのだ。ここから、欲動pulsionの概念が生じる。こにおいて主体は、口唇的、肛門的等々の器官的目印によって示され、この目印は、主体は話せば話すほど話すことから遠ざかる、という要請を満たすものである。(É p816)

 言表内容の主体とは、実際に文の中で指示される主語のことである。主語が示されざるを得ないのは、主体が「自分が話していることすら知らない」からである。もしも知っているとすれば、前述のように、SはAである。
 言表行為énociationの主体そのものは、例えば虚辞のneといった形、消えゆきつつも行為の主体を彼方に示すものとしてしか、言表内容の中には現れようがない(É p800)
20。それゆえ、主語が、言表されているものとしての表示が必然的に要請される21
 逆に、言表内容の中には虚辞のne等としてしか現れ得ないこの主体、「真の主体」、つまり無意識の主体をどこか具体的に求めるとすれば、それは身体的な目印の中に見い出すより他になくなる。無意識における「シニフィアンの宝庫」の位置に、欲動が位置付けられる所以である。

しかし、もし我々の完成図が欲動をシニフィアンの宝庫として位置付けることを許すなら、その(S/◇D)としての符号化は、通時態と結ばれることによってその構造を保つ。欲動は、主体がそこに消失する時、要求から生じるものである。要求もまた消えるにせよ、これは自明であり、ただ裂け目coupureは残る。というのも、この裂け目は、欲動が住み着いている器官の機能から欲動を区別するもののうちに、すなわちその文法的技巧のうちに、現前し続けるからだ。この文法的技巧は、その対象への、そして源泉への、分節の先祖返りréversionにおいて、非常に明白である(この点について、フロイトは汲み尽くせない)。(É p817)

 「シニフィアンの連鎖におけるこの裂け目は、主体の構造を現実界における不連続として確かめる唯一のものである」(É p801)。フロイトが『精神分析入門』の末尾に示した著名なフレーズ、Wo Es war, soll Ich werden(エスのあったところに、自我が生じるだろう)、これをラカンは様々な箇所で様々に読み替えているだが、ここではLà ou c'etait (それが今しがたまであった所に)と半過去の特徴をもって訳し、その場所に「〈私〉は、自分の言葉から姿を消すことによって、存在に至る」としている(É p801)。言表行為の主体は、言表内容から消え去ることにより、主体として存在に到達する。ただ跡には、裂け目だけが残る。それが身体の裂け目であり、ここにひっかけられた欲動である。
 こうして欲動は、他者への果てしのない愛の要求に主体がはまり込む、という形で現れる。要求とは愛の要求であり、愛とは「無いものを与えること」である以上、抹消された主体は、この無いものに自分を重ねて、欲動の形を整える。要求との関係において抹消された主体が一つの幻想を作り上げる、ということである。これがマテームS/◇Dの示すところである。

 一方で、グラフ下段においてシニフィカシオンの結実としてS(A)があった場所には、マテームS(A/)が配置される。これは「大文字の他者における欠如のシニフィアン」と読まれる(É p818)。その示す所は、「大文字の他者の大文字の他者はいない」ということである。あるいは、「話されるのが可能なメタ言語は存在しない」と言ってもよい(É p813)。大文字の他者という第三者の審級に対するさらなる第三者、メタAは存在しない、ということである。
 この大文字の他者における欠如のシニフィアン、それは、「それに向かってあらゆる他のシニフィアンが主体を表象しているシニフィアン」であり、「このシニフィアンが欠けると、他のすべてのシニフィアンは何も表象しなくなる」ようなシニフィアンである。「その言表内容はその意味作用に等し」く、「シニフィアンの集合に対する、ひとつの(-1)の内属によって象徴しうる」(É p819)。つまり、Aには欠如があり、それゆえにシニフィアンの流動性が確保される。もしこの-1がなければ、Aはコードとなってしまい、シニフィアンの置き換えは起こらず、意味作用は生じないだろう。しばしば聞く譬えだが、碁盤の目状にブロックが配置されブロックを一つずつ動かすことで図形等を完成させる玩具では、一つだけ空きのコマがあるからこそブロックを動かすことがことができ、遊びが成立するのである。
 このシニフィアンは、「その言表内容はその意味作用に等し」いゆえに、「文字の審級」で提示された隠喩のアルゴリズムによって、そのシニフィエが-1という虚数として導出される。
 つまり、グラフ上段は「汝何を欲するか?」という大文字の他者の欲望の問いから形成されたが、その最終的回答は、無いということである。「無い」という回答があるのではなく、何の回答も無いのである。虚数がマイナスとしても無理数としても数直線上に位置付けられないように、回答それ自体が「無い」。それがこの「象徴ゼロの欠如のシニフィアン」(É p821)の示すところである。
 大文字の他者の欲望の問いは、大文字の他者の欲望、すなわち「大文字の他者における欠如は何か」というものだった。主体は、その欠如に自らを投機しようとする。
 神経症者においては、この欠如が他者の要求と同一視される(É p823)。つまり、大文字の他者の欲望は明示され、主体はその言葉に答えることができると信じるのである。その結果、主体はS/◇D、すなわち要求と結ばれた欲動の場所にしがみつくことになる。
 大文字の他者の無回答、この恐ろしい現実性に直面し、神経症者は恐れをなし、要求へと回答を求め、欲動に場に身を置く。これは、あくまでも大文字の他者から何らかの回答を得ようとする態度である。
 我々としては、オモチャ売り場で仰向けになって、手足をバタつかせて駄々をこねる子供の姿を想像したい。そのオモチャがいかにつまらないものであれ、彼はそれを言葉にし、要求し、なんであれ回答を得ようとする。買ってもらえたオモチャは、きっとすぐにゴミ箱行きである。それでも彼は要求することをやめない。神経症者は、このように、次々とオモチャを換えて要求し、大文字の他者から決定的回答を引き出そうとし続ける。

 ところで、「意味の意味」を巡って思考する我々としては、ここから一つの連想を働かさないわけにはいかないのではないか。問いに対する答えに固執する態度、それは、根源的な意味というものをどこまでも追求してやまない、我々の弱い心と呼応する。すると、意味はやはり一つの病理としてしか成り立ち得ないのか。
 そうとも言えるし、そうではないとも言える。分析治療の場面においては、やはり回答は与えられない。分析家は主体を象徴欠如のシニフィアンに向き合わせ、彼の期待を裏切る。これが解釈によってなされる技法上の操作であり、後述する「分析家の欲望」の機能である。
 だからといって、意味を求める神経症的態度のすべてが否定されるわけではない。我々がこのように答えをはぐらかすのには、理由がある。
 その理由を開示するには、次章での転移概念の理解が不可欠である。ゆえに、我々はまたしても問いを宙づりにしたまま前に進む。

 しかし、幾つかのノートをここに残しておこう。
 回答=意味=方向を期待するのは、確かに神経症的態度ではある。だが、神経症的であるということは、ほとんど健常であるということと同義である。というのも、我々の考察の領野には、精神病と倒錯という、これとの絶対的差異を強調しなければならない項目が残されているからである。
 もう一つメモを残そう。ここで、意味は「求められている」。つまり、意味は初めにあるのではなく、問いへの答えとして期待されている。神経症者は意味にこだわり続けるが、それを手にしているわけではない。まさにそれが欠けているからこそ、大文字の他者の中に求めてやまないのである。


5 転移、分析家の現前、分析家の欲望

 転移とは何だろうか。
 まずは通俗的に理解されている転移概念から始めよう。
 転移とは、「患者の分析家に対する強い情動的な関係」である
22。転移現象自体は、分析場面に限らず、あらゆる強い感情移入を伴う人間関係に現れうる。乱暴な言い方をすれば、深い人間関係にはほぼ常に転移的現象を見い出すことができる。
 一般に転移は、陽性転移と陰性転移に分類される。陽性転移とは、愛に、少なくとも似ている現象である。我々としては「恋着」という日本語をもってこれを表現したい。この愛は、「本物の愛」ではなく、いわば「一時の気の迷い」であり、擬似的なものとされる23
 一方、陰性転移とは、分析家に対する憎しみにも似た、攻撃的感情である。両価性という言葉でもって表されることもある。
 要するに、転移とは「愛憎あいまった」関係である。ただし、それが精神分析における狭い用法において、単なる一般的恋着から区別されるのは、転移が何かの再現前化である、という点においてである。
 新宮一成は、『無意識の病理学』第二章において、転移概念を次のように整理している。すなわち、第一に、転移は「何かの転移」である。つまり、どこかに転移の「原版」がなければならず、転移はあくまでその再現前化である。
 第二に、その転移の原版とは、抑圧された無意識の欲望でなければならない。感情転移という語法はミスリーディングであり、感情は既に欲望の派生物である。「転移される欲望は一たん抑圧されていなければならない」24
 第三に、転移は反復強迫の原則にのっとってあらわれなければならない。転移とは、本質的に、自我に不快をもたらすものの反復なのである。

 転移は、分析において決定的な役割を果たす。一般に、転移が成立していなければ、つまり分析家への強い信頼や恋着等が発生していなければ、分析はその本領を発動させることができない。すなわち、「解釈を与えるには、転移を待たねばならない」。
 しかし一方で、一般に、転移とは抵抗性のものであると言われる。抵抗とは、分析家の介入に対して自我が抗い、症状を守ろうとすることである。転移は分析の進行を妨げる邪魔者としても働く。
 つまり転移は、それがなければ分析が成立しない決定的要素でありながら、同時に抵抗でもある、という諸刃の剣なのである。この実に逆説的な転移の本性について、主に『セミネール』11巻を参照しながら、考察を深めていこう。

 ラカンは「知っていると想定される主体sujet supposé savoir」という概念を導入する。何を知っているのか。「本当の意味」である。例えば、「私の症状の意味を知っている」である。この「意味」を「知っている想定される」「誰か」が、sujet supposé savoirである。
 ラカンの寓話をそのまま援用させてもらおう。
 ある人がチャイニーズレストランに食事に行ったとしよう。そこでメニューが差し出される。しかしそこに書かれているのは、中国語の文字列であり、彼はその意味がわからない。そこで店主に彼は尋ねるのだが、返ってくるのは「皇帝のパテ」とか「春の巻物」といった答えである。その意味sensはさっぱりわからない。そこでとうとう、彼はこう言うだろう。「おまかせでおねがいします」。つまり、私の欲望を知っている者、それはあなたです、というわけである25
 患者にとって、分析家はそういうポジションにいる。彼は症状に苦しみ、その意味を理解できないでいる。遂に精神分析治療の門を叩くにあたり、彼は考える。分析家、この先生なら、私の症状の意味を知っているに違いない、と。どうか私の症状を解読して下さい、と。
 同時に、知っていると想定される主体とは、無意識の主体という意味でもある。つまり、「本当の私」なら、症状の意味を理解しているはずだ、ということだ。症状を形成しているのは、どこか背後にいて、私を特急列車の先頭に括りつけるように、症状という現実性の嵐にさらしている「本当の私」である。これは「真の自己」という限りで、愛すべき者であると同時に、私を意味不明の症状の台風へと叩き込んでいる、憎むべき敵でもある。
 精神分析では寝椅子の上に患者が横たえられ、その背後に分析家が座る。つまり、分析家は「症状を解読できる偉い先生」として、同時に「私の背後にいて私を操っている真の私」すなわち無意識の主体として、この位置に座るのである。
 「知っていると想定される主体、それがある時、常に転移がある」とラカンは言う。私は、わけのわからないヒエログラフを前にして、ただ翻弄されている。その意味が私にはわからない。だが誰かが知っている。知っている者、それは絶対的な第三者として、我々を見下ろしている者、全体を把握している唯一の者、すなわち大文字の他者である。この位置に、分析家は座る。
 それゆえ、「知っていると想定される主体がある時、常に転移がある」のである。転移とは、何者かが私の意味を知っている、という想定の元に成り立つ。その何かは、抑圧されて無意識にあるゆえ、私は直接に知ることはできず、代わりに誰か、すなわち「無意識の主体」や「偉い先生」が知っている。かつて誰かが知っていたものが、今ここで背後の主体の知として再現前化する。すなわち、「転移とは無意識の現実の現勢化であるmise en acte」26

 我々はここで、シェーマLおよびその簡略化としての三角形を思い出すべきだろう。
 患者と分析家の関係は、SとAの関係にある。Aは現前する。つまり、今ここにある現実として、背後に座っている。一方、対象は表象である。かつて現前していたが、抑圧されたもの、それが現前する大文字の他者の元に再現前化する。すなわち、無意識の現実の現勢化である。
 再現前するのは、三角形の頂上に位置する「対象」である。この対象objetは、かつて現前したが、失われてしまったものである。そのような、今は無きもの、話の種でしかないものが、次々とこの位置に滑り込んでくる。そして最終的にここにやってくるべきものは、一番最初に分離された対象、原抑圧によって失われた対象、対象aである。それゆえに、分析は対象aを巡って進行する。
 このように、「主体」「知っていると想定された主体としての大文字の他者」そして「表象としての対象」という三項関係が、転移によって形成される。ただし、これは分析の条件であって、最終形では全くない。というのも、先に述べた通り、転移とは抵抗でもあるからである。

 転移が「知っているはず」という想定のもとに現れる以上、そこで一度、分析家はある種の完全者として仮定される。もしも分析家が本当に知っているなら、それは単に知の配分が行われたというだけであり、状況としては静的に完結している。大文字の他者と主体が癒着し、一種のコードを形成してしまう。「先生が知っているなら安心だ」というわけである。
 このような単なる恋着としてある限りでは、転移とは無意識の閉鎖であり、開示ではない。私とあなたの想像的双数関係により、むしろSとAの回路は閉ざされてしまう。つまり、想像的な関係が状況を支配してしまい、無意識が場に入り込む余地がなくなってしまうのである。
 ここにおいてこそ、解釈が介入する。解釈とは一つの意味作用の提示である。ラカンはこれを区切りscantionという。つまり、想像的なベッタリとした語りに、区切りを入れる、ツッコミを入れるのだ。
 ここにおいて、自我は転ぶ。例えば、言い間違いが起こった時点でセッション区切られる。あるいは、症状の不可思議な解読が示される。その区切り点、ツッコミ、句読点によって、自我と対象の想像的な関係が躓き、無意識が開く。
 分析とは、このような無意識の閉鎖と開示を繰り返しながら進められるべきものである。その軸となるのが、「分析家の欲望」と呼ばれるものである。

 「分析家の欲望」とは何か。
 分析家は、「知っていると想定される主体」である。しかし、想定はされているものの、本当のことを言えば、当然のことながら、彼は何も知りはしないのである。つまり、AはA/であり、S(A/)なのである。
 この事実は、患者自らによっても察知されている。当然のことながら、分析家がどんなに偉大に見えようが、神ではない。それゆえ、彼は間違える可能性もある者として想定される。患者は分析家を信頼するものの、彼が間違えるのではないか、さらにいえば、自分によって騙されてしまうのではないか、と考える。つまり、自分の語りよう如何によっては、「誤診」したり、間違った解釈をしたりするのではないか、と疑われる。
 何か残りがある。知っていると想定はされるものの、やはり依然としてその主体は全能の他者ではない。何か残りがある。この残り、大文字の他者に斜線を引いているもの、それは分析家における欠如であり、分析家の欲望である。
 この欲望、大文字の他者の欲望(神の欲望!)をめぐって、分析は回転していく。もちろんこの欲望は、単に分析家個人の欲望ではない。「人間の欲望は大文字の他者の欲望である」(É p814)というように、この欲望は主体の欲望でもある。患者が分析家と想像的関係ではなくSとAの関係にある限り、問題となる欲望は双数ではなく、一つの欲望しかない。それが分析家の欲望、大文字の他者の欲望である。
 ラカンは転移と逆転移といった対称関係的理解を笑うが、それは、転移において問題になっているのが、唯一大文字の他者の欲望であり、人間的想像的欲求などでは全くない、ということである。この唯一の謎をめぐって、分析は展開する。

 ここで我々は、「欲望の弁証法」の第三のグラフを思い出さなければならない。つまり、「汝何を欲するか?」という、大文字の他者の欲望の問いによって、大きく上方へとはり出したクェスチョン・マークである。これが、転移における、分析家の欲望の位置の働きである。
 大文字の他者の欲望とは何か? すなわち、「真の私の望んでいるのは何ですか?」。この巨大にして深淵な問いが、転移において現れる。逆に言えば、転移とは、この問いのある限りにおいて起こりうる現象である。転移とは想定であるが、同時に問いでもある。想定である限りで、無意識の閉鎖だが、問いである限り、無意識の開示でもある。想定が確信ではないことが、転移を問いとして保留させている。
 もしもこの問いがグラフの上方へと展開しなければ、Aは全き完全者にとどまってしまう。この状況では分析は不可能である。これは、いわゆる精神病の状態と言ってよい。精神病においては転移が起こらない、というのはフロイトの有名な定式である。
 一方で、神経症においては、転移が可能である。彼は分析家を知っている者として想定するが、同時に知らないのではないか、あるいは間違えるのではないか、騙されるのではないか、という問いを保留している。彼は疑っている限りにおいて想定しているのである。
 神経症者は欲動S/◇Dに固着し、際限のない要求の嵐に曝されている。しかし、解釈の介入によって、あるいは問いの残る限りにおいて、S(A/)、つまり「回答なし」という過酷な現実がやってくる。患者は必死で「知っているはずだ」「知らなければ困る」と抵抗するが、その度に分析家の無知が、能面のように返ってくる。彼は手をかえ品をかえ、分析家への恋着を、要求という形で表現する。「あなたの望んでいるのはこれですか?」「それともこれですか?」。ヒステリ−者が隠喩の天才と言われる所以である。
 しかし、依然として答えはない。圧倒的に、答えはない。「神様は何も言わないよ」「言わなくなって何年にもなる」27。このS/◇DとS(A/)の「何年にも及ぶ」振り子運動の中で、何かが析出されてくる。奇妙なものが、空缶のように、空しく主体の足元に転がってくる。
 それは、主体が最初にそれと分離されることによって、抹消された形で成り立ったものである。つまり、対象aである。この時、対象aは何でもないものrienとして現れる。ゴミクズのような何かが、次第に、「君はこれだよ」と析出されてくるのである。というのも、対象aとは、原抑圧によって抑圧された、私がそれであることによって、それを捨て、切り離され、存在へと帰ったものだからである。このあっけない結末、何でもなさ、そこにおいて始めて、主体の自由な決断が可能になる。
 もしもここで「いや、あくまであなたは知っているはずだ」とこだわるなら、分析は終わらない。神経症者はこの要求に固着するゆえに、分析は簡単には終了に向かわない。だが、決断は迫られる。この決断は、早急なアクティング・アウト28と横顔を類似させながらも、全き反対物である。真の自由における決断、それは行動化ではない。ゴミクズのようなもの、それはゴミクズゆえ、ゴミ箱行きなのだ。つまり「勝手にしやがれ」なのだ。患者はこの時、初めて分析家が何を考えていようと、何を知っていようと、そんなことにはお構いなしに、一つの決断を下す自由を手にする。
 大文字の他者の無返答、それを前に、主体がついに決断を下す時、すなわち「もうどうでもいい、私の好きにする」という時、それが分析の終わる時である。彼はゴミクズをゴミ箱に放り込むことによって、自らに刻まれた欲望、大文字の他者の欲望を引き受けたのである。


6 問いの回帰、対象a−−結語のための助走

 問いは返ってくる。
「意味はいかなる形で正常に導入しうるのか」。あるいは、「我々はいかにして狂信者たることなく信仰者たりうるのか」。この壮大な問いが返ってくる。
 これがいかなる問いであるか、というよりはるか以前より、これは一つの問いであった。つまり、少なくとも何かが問われていた。だからこそ、我々はここまで進んできたのだ。あたかも大文字の他者の欲望の問いのように、我々は大きくクェスチョン・マークを展開した。この大きな問いは、そのまま我々の大きな迂路に重なる。
 問いは問われる。ここまでの打回路を共に歩まれた以上、意味の意味とは、問いを問うという行為自体と不可分であることがわかるだろう。「何かがそこにある」「意味がある」という想定、あるいは期待が、我々に問いを問わせるのだ。問いは答えを求めて問われる。しかし当然のことながら、我々の元にかえってくるのは、大したものではない。それどころか、何も返って来ない。「神様は何も言わない」のだ。ただ問いだけがこだまし、問うものは失われた意味を巡って迂回し続けより他にない。我々の主観が意味と一体である以上、迂回をやめるわけにはいかない。この回路の中で、回答の抜け殻のように、何かが転がってくる。空缶が。何でもないものが。
 この「何でもないもの」、我々が決定的答えとして求めてやまないにも関わらず、常に逃げ去り、ただ空虚な痕跡としてしか手にできないもの、それがラカンのタームで対象aと呼ばれるものである。
 『セミネール』11巻第13講において、対象aとしての眼差しregardの機能を説明するにあたり、ラカンは珍しく若い頃の思い出話をする。それは次のようなものである。
 若きジャックは、よくいる活発で利発な青年の一人として、自らのインテリとしての優遇された生活に疑問を覚えてか、荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。この時、船の上で、彼の同僚である無教養な男が、海上を指差した。そこにはどこから流れてきたのか、一つの空缶が浮かんでおり、強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。「こっちからは向こうが見えてるけど、向こうからはこっちが見えていないんだぜ」。しかしこの時、ラカンは、「違うのではないか、むしろ向こうこそがこちらを眼差しているのではないか」と直観した。
 眼差しとは何か。それは例えば、催眠術師の使う「光るもの」であり、擬態を使う昆虫の背負った眼状の斑紋である。眼差しは、声、糞便、乳房などと並んで、「主体が成立するために手放した器官としての何か」である対象aの一例である
29
 暗い部屋に一人入り、誰かの視線を感じてハッと振り返る。何かが光った気がした。が、良く見てみると、それは鏡であり、誰かが見ていると思ったのは、鏡に映った自分の視線だったのだ。この「なんだ、私か」と気付く一瞬前の輝き、それが眼差しである。
 若きジャックが、この輝くものが我々を眼差しているとう事実に、つまり我々が見るより前から我々を眼差しているものがあるということに気付いたのは、まさにその時の彼が、無教養で粗野な漁師達の中で、斑紋のように場違いに浮き立ったシミ的存在であったからである。つまりこの時彼は、「あ、あれは私じゃないか」とハッとしたのだ。海の上ではカンが浮いていて、船の上ではラカンが浮いていた、というわけである。
 この時の空缶、眼差し、何でもないもの、すなわち対象a、それがカラカラと空しく足元に転がってくる。雄大な答えの代わりに、肩透かしのようなあっけないものが転がってくる。
 我々の足元にも、何かが転がってきた。
 拾い上げてみる。


7 精神病

 神経症と区別される限りでの、精神病とは何か。このような問いに対し端的に答えるのは、もちろん行き過ぎた冒険であるが、とりあえず、「象徴化が実現しない時、これに代わって出現する病的過程」30と言ってみよう。
 ラカンは、精神病においては、父の隠喩が、抑圧されるのではなく、排除forclusion Verwerfungされる、という。父の隠喩とは、A/、つまり他者に欠如があることを示すシニフィアンである。
 神経症においては、このシニフィアンS(A/)が抑圧され、欲動への固着が起こる。前述のように、彼らはここにこだわり、際限のない愛の要求を投げ続ける。ただ、神経症者は、このシニフィアンを持っていないわけではない。ただそれが抑圧され、無意識化されているということであり、大文字の他者における欠如自体は、象徴化されている。つまり「『無い』がある」という地平に立っている。
 ところが、精神病では、この「無い」自体が無い。「無い」を示す最終参照項としてのS(A/)が、そもそも導入されていないのである。大文字の他者が、文字通り完全無欠の他者としてとどまっているのだ。それは、人格神や全体者のようなものが、具体的生活、想像的世界に、直接出現するということを意味する。
 精神病者は、「想像的な欺瞞の戯れを、自分と類似の他者aとの間にではなく、現実化祈保証人である他者Aとの間に持っている」。そのため、「a-a'の横軸とS-Aの縦軸が、いわば重なりあい」、神のごとき絶対者が想像的対象として出現する31
 始源の象徴化が行われていないがために、何かが取り残され、現実界に留まっている。それが想像的世界、つまり我々が普通に言うところの現実の中に、知覚の水準で出現するのである。
 このことは、『精神病』のセミネールにおいて、他者が除名exclusionされている、と表現されている。シェーマLで言えば、Aの審級、すなわち象徴的次元が導入されないため、想像的関係にベッタリ張り付いた状態になってしまう。別の言い方をすれば、AがAとして、つまり第三者としてではなく、想像的関係の中に出現する。その結果、例えば神が彼に直接語りかけてきたりするのである。
 S(A/)が導入されない、ということは、「欲望の弁証法」のグラフで言えば、上段がなく、下段の段階だけですべてが完結してしまっていることになる。
 神経症者においては、大文字の他者の欲望が問われる。つまり、大文字の他者に欠如があることが認められる。しかし、精神病では、この欠如が受け入れられないため、そもそも問いが起こらない。結果、グラフは上に延長されない。このレベルでは、大文字の他者は、文字通りの閉じた完全者、すなわちコードとなってしまっている。
 Aは「コードを意味しない」(É p806)と言われる。それはつまり、主体がそこにおける欠如を求め、これに自らの存在を賭けている、ということである。しかし、精神病においては、これがコードなってしまい、シニフィアンの流動性は失われ、シーニュがベッタリと世界を覆いだす。

精神病の主体においては、コードのメッセージとメッセージのコードが純粋な形で区別されるだろう。精神病者は、このあらかじめの大文字の他者に自足しているのだ(É p807)。

 メッセージとはパロールの構造のことである。すなわち、「主体は己のメッセージを他者からひっくり返した形で受け取る」ということである32。Aの審級とは、鏡面そのものであるため、主体は己のメッセージを反射され、返される。これによって、つまり大文字の他者というランガージュの場において、初めて主体は語ることができる。主体が、自我(鏡像)において、語るのである。あるいは、主体とは大文字の他者の次元に一回疎外されることで成立するものである、と言いかえてもよいだろう。
 それでは、コードのメッセージ、メッセージのコードとは、それぞれどういうことだろう。コードとはもちろん、シーニュの集合体のような、一対一対応関係の集まりである。それゆえ、コードのメッセージとは、コードによるメッセージ、つまりそれ自体で完結し、他に参照項を持たない語による、一方的なメッセージのことである。
 精神病者においては、シュレーバーにおける基本語33、あるいは語唱34といったように、お経の如くある文句が絶対的意味を持ち、それ自体で完結し、繰り返される、という現象が見られる。これがコードのメッセージである。
 一方、メッセージのコードとは、メッセージの形式、シュレーバー症例で言えば「今、欠けているのは……」等々と、途中で途絶えて、欠けた所に語を期待するような、メッセージの形式自体がコード化しているもののことである。
 正常な言語活動においては、意味作用は他の意味作用に回付されることによって初めて意味を伝える。しかし、精神病では、コードのメッセージやメッセージのコードといった、硬直した形でしか言語が働かない。これは厳密に行って、偽言語とでも言うべきものであり、オウムの言葉が真に言語とは言えないように、言語を真似たようなものにすぎない。つまり、象徴的審級が導入されていない。大文字の他者は、そこに欠如のあるようなもの、つまり欲望の次元があり得るようなものとして導入されない。
 そのため、グラフを上に延長するための問いが発生しない。精神病における意味は、ほとんど「存在」と同じことを指している。同語反復のように自分自身を示し、「ここ、ここ」と言い続けるように、硬直した意味、意味とは言えない意味だけがある。
 言い換えれば、最初に答えがあり、問いがない、という状態である。精神病における意味作用は、意味作用としての正常な働きをしていない。つまり、他の意味作用へと参照されない。一見正常に見える活動があったとしても、それらはオウムのような偽言語であり、意味はどこにも方向を見い出さず、そのもの自体に中に埋没している。つまりこれは、語の真の意味では、意味=方向とも言えない代物である。

 機知のことを思い出そう。機知において、意味=方向の発生とは、主体が危機から脱出する、忍術のような働きをしていた。しかし、精神病的主体においては、この主体のすり抜け、あるいはずり落ちがおこらず、硬直したままそれ自体で自足してしまっている。
 精神病の主体では、意味=方向が本来の仕方では出現しない。意味は、本来問いから生まれる。一つの窮地からの脱出として、問いの彼方に「想定される」。しかし精神病では、初めにベッタリと想像的世界にはりついたシーニュがあるだけで、問いは問われず、硬直した擬似的な「意味」、何も示さない「意味」だけがある。
 一方で、神経症者では、問いが立てられる。「知っていると想定された主体」を想起しよう。そこで知は、つまり意味の知は、私の知ではなく、大文字の他者の知として、想定された。確かにそこには、意味がある。しかしその意味は、精神病者におけるように、個人的意味作用として初めにあるのではなく、彼方に、自分ではなく誰かが知っているものとして、想定されるのだ。
 つまり、初めにあるのはあくまで問いである。大文字の他者の欲望の問い、つまり唯一の問い、対象aを軸に回転する唯一の欲望に向けた問い、これが最初にある。意味=方向は、その彼方に、あると「想定」された時のみ、非精神病的な形で成立し得るのだ。


8 信仰と狂信

 改めて、大文字の他者について考える。
 大文字の他者とは、精神病をめぐる問いの中で、「再認reconaiîreされているが認知conaîtreされていないもの」とも定義される
35。つまり、それが存在することは認められているが、どんなものかはわからないもの、ということである。言葉なき幼児を抱き上げ鏡の中へとその像を投げ込ませる、力強い父親の視線、それがこの大文字の他者の審級である。
 認知されていない、ということは、大文字の他者がコードではなく、完全者ではないことを示している。すなわち、そこには欠如がある。前述の通り、ここに向かって、最初の問いが立てられる。少なくとも、神経症者においては、この欠如、大文字の他者の欲望が、要求とすり代えられ、徹底的に問われる。
 我々は、まさにこの問いの有無、あるいは問いの位置において、我々の問いに対する暫定的な回答が与えられる、と言おう。

禁じられた傾向や意味作用などが惹起するのとは、異なる形の防衛がある。それは、問いに対する答えのない場所には近づかないという防衛である。
そうすれば人はより平静でいられるし、結局それが、普通の人々の特徴である。「問いを立てない」、人はそう教えるのであり、それによって我々はここにいる。しかし同時に、我々は、精神分析家である限りにおいて、問いを自らに課してしまった不幸な人々を明らかにしなければならない。神経症者がある問いを自らに課していることは確かである。精神病者については、これは定かではない。答えがおそらく問いより先にあったのだろう。これは一つの仮定である。あるいは問いがそれだけで立てられたのだろう。これも考えられないことではない。36

 神経症者においても、健常者においても、精神病者においても、意味は、ある意味ですべからくある。だが、その位置づけが異なる。
 神経症者では、あくまで最初に問いがある。神経症であるということは、要するに問いを立ててしまった、ということであって、健常と言われる人間も、多かれ少なかれ、神経症的ではある。彼らは問いを自らに課す、という苦行を選ぶことを避け、防衛しているだけであって、いつでも問いのやってくる余地を残しているからである。
 このような問いの先立つ体勢においては、意味があるにしても、それは苦境を奪取する方向として、彼方に想定されるものである。神経症者は意味を求める。健常者は意味について深く考えない。だがいずれにも共通して言えることは、彼らにとって、意味は手元にあるものではなく、彼方へと去り、何度でも何度でもそれに向かって問いかけるべき対象である、ということだ。
 一方で、精神病における意味は、これとは異なる。それは、「疑似意味」とでも言うべき、硬直したシーニュ、あるいはその集合体としてのコードとして、初めに与えられる。「答えが問いより先にある」のである。つまりコードのメッセージである。
 問いがそれだけで立てられるとは、硬直化した問い、すなわちメッセージのコードである。「今、我々に欠けているのは……」というフレーズは、一見何かの意味作用を持っているようで、実はメッセージの形式自体をただ常套的に反復しているだけのものにすぎない。

 このような精神病的主体の姿勢は、我々にいわゆる狂信者の態度を連想させる。我々は初めに「意味はいかなる形で正常に導入しうるのか、あるいは導入しえないのか」という問いを立てた時、その向こうには「我々はいかにして『狂信者』であることなく、信仰者たりうるのか、あるいはあり得ないのか」というより深遠な淵が張り付いていることを示した。今ここで、これらの問いに、いささか飛躍を含みつつも、やはり暫定的な見通しを与えてみたい。

信仰によって生気づけられているように見えるパラノイアそれ自体の根底に、「不信仰Unglauben」の現象が支配している。これは、「信じない」ということではなく、信仰の諸項の一つ、すなわちそこにおいて主体の分轄が示される一項目が欠如しているということである。結局、満ち足りた完全な信仰ががないということは、その根底において、信仰が明らかにされるべき最終的次元が、そこにおいてその意味が消失する契機と、厳密に相関的であることを想定しない、そのような信仰などない、ということである。37

 個人的意味作用を発見し、これに基づいて構築した妄想を信奉しているかに見えるパラノイアにおいて、真に働いているのは、「不信仰」である。つまり、大文字の他者という象徴的次元による仲裁の欠落であり、正確には大文字の他者における欠如の排除である。精神病者、あるいは狂信者は、最終的次元で欠如をもつものとしての無限定者を、徹底的に信じていない。
 欠如を欠いた大文字の他者は、シニフィアンの流動性を失い、硬直したコードの体系と化してしまう。これは厳密に言って、信仰の場ではなく、言えるとしても「狂信」でしかない。
 真の信仰は、逆説的にも、その根底において完全性が損なわれるものである。つまり、シニフィアンの柔軟性が残されなければならない。
 信仰は完結しない。信仰とは象徴的次元の導入である以上、大文字の他者の視点の元に主体がfadingとして成立する、ということと同義なのだ。一見、完全者が想定されているように見える信仰においても、問いは保留されており、すなわち大文字の他者の欲望の次元が残されている。神が欲望を持つ限りにおいて、信仰は狂信から分かたれる。神が疑われ、神が問われる時、初めてその信仰は、不完全なものとして成立する。

あらゆる信仰を支えているのは、基本的な疎外の実践であり、すなわち次のような二重の点においてである。つまり、信仰の意味作用が最も深遠に消失する契機において、主体の存在が、厳密に言ってこの信仰の現実性と言うべきものから顕らかになる、ということだ。38

 信仰の礎にあるのは、主体が大文字の他者というランガージュの場における疎外によって成立する、という疎外の運動である。しかしこの疎外は、大文字の他者における無として、主体がそこから身を引き剥がす、分離の運動の支えでもある。
 問いが残される限りにおいて、つまり信仰に疑いの余地が残る限りにおいて、初めて主体が疎外によって成立する。まさに問いかけによってこそ、主体は、消失として、大文字の他者の次元に同一化し、抹消されつつ生まれるからだ。主体は、「主体的」という日本語の語感に反し、まさにsujet臣下として従属し疎外されることで初めて、主観的=主語的subjectifなものとして成り立つ。
 そしてこの疎外と分離の運動と同時的に、コードではないA、圧倒的な無回答者としてのAが、斜線を引かれて不−成立する。大文字の他者の欲望、それが認められるからこそ、信仰は信仰たりうる。もちろんこの欲望とは、ただ問われるのみであり、対象として示されることはない。「何も言わない」神であるからこそ、主体=臣下は信仰という関係を投げかけることができる。つまり、残余のあるものとして、永遠に問われ続けられるものとして、なおかつ答えの無いものとして、絶対的第三者の次元が定立される。
 問いは問われ続けなければならない。問いを問わない、答えのないような問いを問わない、それは確かに、一つの防衛としては成功かもしれない。しかし一度問いを立ててしまった者が、そこからある種の「健全な眠り」へと戻る戻るためには、徹底的に問うことが必要だ。問い尽くすことによって、初めて問いの休止が可能になる。S/◇DとS(A/)の間の揺れ、つまり問うても問うても答えなし、という実践においてこそ、分析も信仰も実践し得る。
 この問い続ける運動の中で、最後にやってくるものが、対象aだ。最初に抑圧された、何でもないものである。この最終的な自由の場においてのみ、主体は文字通り主体的に決断することができる。
 信仰は問いかけであると同時に、問いからの撤退という、不可能な次元に向かっている。この不可能性は、問いを忘れる、という、一つの不可能性の可能性において初めて、可能な何かへと、方向付けられる。

 あるいはこうも言い換えられよう。信仰に「目覚める」ということは、その晩には健やかな眠りにつくことである、と。信仰とは、制度への疎外と私的信仰心への分離という二重の運動から構成されているものだ。眠りを容れない信仰は、硬直した狂信となる。「機知」を参照して言えば、他者の視点が導入されず、ユーモアの欠如したものになる。一般に狂信者に最も欠けているもの、それはユーモアである。
 もちろん、両者の差異は極めて微妙であり、危険である。それでも我々としては、何度でも何度でもこの差異を叫び、この空隙に向かって問いを投げなければならない。それこそが唯一、狂信者を信仰の元につなぎとめる方法であり、また我々が最小限の健全さを失わずに信仰を保つ術でもあり、さらに言えば、我々が主体である為の条件であるからだ。


9 結語

 我々の回答は、答えとしてはいささか乱暴に過ぎるだろう。
 まだまだ問われていない、残余がある。例えば、倒錯の領野について、我々は触れることができなかった。また、疎外と分離の運動や、現実界・象徴界・想像界の三つ組ついて、随所で関わりながらも、それ自体を独立して詳細に扱うことができなかった。また、精神病者と狂信者を単純に並べて扱うことにも、もちろん無理がある。
 ここで精神病と呼んでいるものは、ラカンがパラノイアという語によって示そうとした、妄想型分裂病からパーソナリティの歪みとしての人格障害にわたる、極めて広汎かつ横断的領野であって、世に言われるところの「精神病」とイコールではない。だがこれについても、粗雑な二項関係に押し込んで議論を圧縮せざるを得なかった。狂信者の多くは、精神病的主体であったり、ある種の人格障害を備えていたとしても、分裂病の発症者ではない。
 まさに、問いは残されている。我々は更に問うことで、語ることをやめず、彼方にほの見える意味に向かって、シニフィアンとフィニフィエを遮る横棒barreをまたいでいかなければならない。この垂直的飛び出し運動においてのみ、意味は、一つの不可能性の実践として、忍術的に成立するものだからだ。
 本論自体もまた、グラフの上部に展開される巨大なクェスチョン・マークのごとく、迂路の形をとった問いであった。ある疑問に答えようとして、大きな疑問符という迂路détourを描いた。その末尾において、暫定的な見通しを示したつもりだが、もちろんこれは仮縫いにすぎない。あるいは、いささか的の外れたところでピンをとめてしまったかもしれない。書かれた途端に書き損ないになるのはテクストの本性だが、問いとは問いつくせない限りにおいて正常な問いである以上、我々は希望をもってよいだろう。というのも今や、立論で予告したように、意味の意味とは問いに対して答えを求める大きな打回路それ自体と表裏一体であることが、一つの自由として、我々の元に降りてきたからである。

 これ以上の飛翔を続けるには、我々の翼はいささか疲れ過ぎた。ひとまずは、止まり木barreの上で、しばしの休息につくことにしよう。

 問いが残され、疑いが残る限りにおいて、信仰は生きる。



「それゆえ、これは失敗である。だがまさに同じところから、一つの過ちerreurとしては、成功である。もっと良い言い方をするなら、一つの散策errementとしては」(Lacan, J.: Télévision Seuil, Paris, 1974, p9)

(神を信じるか、という問いに答えて)
「私が信じるのは、眠りだ」(ブルース・リー)
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