〈飛び出す〉倫理

構成


### はじめに

犯罪者、病人、「クズ哲」


### イラだちを越えるために

イラだち

『カリスマ』


### 〈飛び出し子供〉

「屋上解放」

絶対速度と〈飛び出し子供〉

『ボール』、「暫定性一般」

〈飛び出し子供〉と単独性

空き地、屋上、押し入れ

「居候芸術」、ヒマ

時間がない=時間がある

〈私〉、単独性、『箱男』

無時間と時間の出会う場所

〈飛び出し子供〉は過去に飛び出す

倫理的〈私〉


### 飛び出す今西、飛び出すブルース・リー

今西進化論

ブルース・リーは〈飛び出し子供〉


### 倫理の発見

存在論的・論理/認識論的・倫理

論理・倫理の同時性、〈飛び出し〉



### 破綻する倫理、飛び出す倫理

道徳による神の殺害

善の不可能

説得したくない倫理、弱い神

〈飛び出し〉の可能性


### 待ったなし

可能無限・実無限

「分かる」「分からない」

記憶へ〈飛び出す〉

待ったなしのエチカ

繰り返すこと

勇気


### 残響




### はじめに

犯罪者、病人、「クズ哲」


 ここで試みていることは、まとめて言ってしまうと「犯罪者サヴァイヴァル・マニュアル」のようなものではないかと思う。

 荒木瑞穂という、私の先輩がいる。とにかく多芸多才で、その割に言葉を尽くして説明するということをしない、器用貧乏な人だ。私の知る限りでも、役者やインスタレーションなどの活動の他、ブルースマン、看板職人、レコードコレクター、民謡愛好家、最近は書に凝って某書家の元で修行、更に中国語も学び、アフリカの太鼓を叩いている。独り真理を抱えたまま疾走する、沖縄の血を引く大阪人だ。ちなみに胸毛が濃い。
 要するに何をやっているかよくわからない人で、強いて言えば「荒木瑞穂をやっている」ような人なのだが、とにかく圧倒的な存在感を持ち、時折こぼす異様に説明不足な言葉は、私を何度となくインスパイアしてきてくれた。その荒木が、かつてこんなことを言ったことがある。
「二十代半ば過ぎてブルーワーカーで、かつそれを本業とも思わずブラブラしているような人間は、一芸持たねば犯罪者だ」。
 別に労働者を貶めているのでもなく、ブラブラしていると狭義の犯罪者と同罪だとか、社会的に悪だとか言っているのではない。強いて言うなら、「お天道様に申し開きが出来ない」ということだろうか。それはいわゆる「倫理的な悪」とは違う。
 この「犯罪者」というのは、「病人」にも似ている。こう書いてしまうと、差別的で恐ろしい発言をしていると思われてしまうかもしれないが、「犯罪者」も「病人」も普通に言う意味とは違う。いわば「犯罪者=病人」であるようなありようのことを言っているのだ。この「病気」はある種の神経症なのかもしれないが、普通は神経症としてすら認知されていない。ともあれ、それは「できれば避けたい」「悪いこと」だが、「善いことをしようとすると必ず感染してしまう病気」でもある。

 生業というものを、大雑把に職人的なものと芸人的なものに分けてみよう。もちろん、この場合の職人/芸人は、一般に用いられている使い方とは必ずしも一致せず、術語的に仮に定義するものだ。
 職人というのは広義の労働者のことである。毎日の仕事をこなし、誰にでも出来る仕事というわけではないにせよ、一定のスキルがあれば人物を問わないような業務に従事する人達のことだ。つまり、普通に働いている人達は、ほとんどこの場合の職人になるだろう。
 芸人とは、終わりのある仕事、つまり作品を通じて生業を得るような人達のことである。往々にしてそれは「その人ならでは」のものであり(しかしそれは個性とは異なる)、場合によってはいわゆる「芸人」のようにその人の存在自体がイコール職業であったりもする。芸能人や作家は言うに及ばず、ある種の研究者もこの内にはいると思う。
 芸というのはartであって、つまり技術のことだから、一芸持つというのは技術を磨くことだ。普通に考えれば、技術は段階をおって向上していくもので、誰でも備えうる人間一般のパラメータのようだが、少なくとも一定の段階に達した芸は、職人に求めらるスキルとは明らかに性質が異なってくる。一定といってもどこかに線を引いてあるわけではなく、強いていえばその能力がひとの「理解を越える」ものになった時、それは芸と呼びうるようになる。そうやって生きていく人間が芸人である。伝統芸能の「職人」などは、この場合の芸人とも職人とも言い切りがたいが、別段分類表を作りたいわけではないのでどちらでもよい。
 「芸人にだけはなるんじゃない」という説教はあたっていて、芸人というのはどこで芸人と言えるのか、「理解を越える」ものになるのか、保証がない。芸それ自体は取り引きされない。商業的に成り立っていればいっぱしの芸人なのかどうかも分からない。商業的成功は、必ずしも芸そのものによって導かれるわけではない。だからこそ、「芸人」の世界には生活保証システムとしての徒弟制度が残っているのだろう。
 荒木が件のセリフを発した時、私は正に「二十代半ば」にさしかかり、生業を得ている仕事を正業とも思わず「ブラブラしている人間」だった。別に「ブルーワーカー」はコンビニ店員でも構わないし、もっと「高級」そうな職業でも同じことだ。とにかく、それを本業と思ってそれなりに日々の暮らしをたてているなら、ここで言う意味では、立派な職人である。
 その覚悟も出来ないなら、「一芸磨け」ということだ。つまり芸人であれ、ということだ。実際、荒木は芸と言えるようなものを琢磨し続けている。それが「お天道様に顔向け出来る」、仁義にもとる生き方というものだ。そうでなければ、法に触れたり社会倫理に反するという以前に、「犯罪者」になってしまう。
 これは一見社会的規範とその内面化を問題にしているようで、実は違う。確かに社会規範一般は、我々を内から律している。「いい歳して何やってんだ」という声は内なる監視者から発せられるものだ。だがここでいう「犯罪」は、そうやって倫理観を外部へと還元していった時に、とりこぼされていく道徳によって定められている。「何が罪か」ではなく、「罪を感じる」ことそのものの地平における犯罪者ということだ。
 「芸人だけはやめておけ」という通り、職人として生活出来ることはラッキーなことだ。畑を耕しパンを焼いて生きられれば、一番かどうかはともあれ、十分に(幸福というより)幸運である。
 しかしある種の人間は、畑を耕す代わりにアスファルトやゴルフ場を耕し始めてしまう。正に職人的に正々堂々と耕さんとする余り、見当違いな場所に向かって鍬を振るってしまう。
 すると彼らはたちまち、器物破損その他の罪で追われる「犯罪者」となってしまう。彼らにとって、それは単なる耕作であったにも関わらず、やはり彼らは間違いなく「犯罪者」なのだ。
 場合によっては、そういう人々は、狂人やアウトサイダーと呼ばれるかもしれない。

 件の荒木の言葉を聞いたのは数年前のことだが、その時私は、「ああ、それなら私は犯罪者ではないか」と思った。同時に、この「犯罪者」という薄く「罪を感じる」存在の仕方に気付いた。
 狭義の犯罪者はアウトローであり、伝統的なサヴァイヴァーだ。彼ら「許されざる者」は、非日常のハードボイルド・ワンダーランドを生きる。物語が走りはじめる。分裂病者が赤い車を見てCIAを連想するような、ストーリーある関係世界が展開する。それは歴史と言ってもよい。
 逆に言えば、アウトローもまた、割り当てられた欲望に従い生きる物語の登場人物に過ぎない。ただ物語の主人公たりうるだけの傑出した何かを持っているというだけのことだ。この意味で、アウトローは芸人に似ている。
 そして物語は、それが物語として認識され、見切られてしまった時点で、賞味期限が切れてしまう。我々は必ず、スクリーンのダーティーハリーから観客席の平凡な人物へと帰ってくる。
 かつてアウトローのサヴァイヴァルは、非日常を生きることだったかもしれない。そこでは、さしあたって生きている人間が、死を賭けて戦ったり殺したりしていた。しかし今や、エンドロールは終了し、我々は薄明るい観客席の圧倒的な無事件空間にいる。
 この薄明の中で、"What are you?"という問いに対し、疑いなく職人的解答が出来ればサヴァイヴァル合格だ。しかしそんな答えは、異様な不安を押しつぶしてやっと成り立つ階級にある。我々は、ふとしたはずみにその場所から転げ落ちてしまう。あるいは、最初からそこに立つことが出来なかったり、重要なことに、そこに立つということを自分自身に許可できなかったりする。いとも簡単に、我々は「犯罪者」になってしまう。我々はこの場所でサヴァイヴァルしなければならなくなってしまった。
 これは、日常がサヴァイヴァルの戦場となったということだろうか?

 いつ頃からか、「終わりなき日常を生きる」といったキャッチフレーズを聞くようになった。確かに我々は、倒すべき仇敵も追うべき獲物もないままに、サヴァイヴァルしなければならない。物質的にそれなりに満ち足り、死の危険もなければおおよその将来さえ見当のつく退屈な空間を、それでも生き抜くとういことだろう。我々がここで発見したのは、そのようなサヴァイヴァルのことだろうか。
 このコピーは、余りにもロマンティックすぎるし、甘ったるい。まるで荒野を何日も生き延びたり、砂漠を踏破するような物語性がついてくる。そこでは、「とりたてて何もない」ということ自体が事件になり、超越的に一段現実が上がっただけだ。「終わりなき日常を生きる」は、結局非日常サヴァイヴァルの延長でしかない。物語なき生活に力づくで物語を読み込んでいく、伝統的な阿片の一変種でしかない。もちろん、麻薬を全否定するものではない。阿片で本当にやっていけるのなら、我々はそのような人を深追いはすまい。
 アウトローによる非日常サヴァイヴァルでは、ハードではあるが、とにかく生きている人間がいた。「終わりなき日常を生きる」のなら、それはそれで日常だけは保証されている。そこを出発点として、暗闇の中の光景に非日常を見つけたり、また帰ってきたりするのだろう。
 だが、我々がサヴァイヴァルする場所では、日常そのものが賭けの対象になっているのだ。生きている人間が生き抜くというよりは、今生きているということ自体が疑われる。ここが日常であるということ自体が、重力のように無感覚な対象が、疑われる(重力はそれを重力と名付けるから重力なのだが!)。この場所のサヴァイヴァルは、アウトローというよりはむしろアウトサイダーのサヴァイヴァルである。日常/非日常という地平から滑り落ちかけて、必死で這い上がるサヴァイヴァルなのだ。
 非日常サヴァイヴァルでも、日常サヴァイヴァルでもなく、日常に向かってサヴァイヴする。日常が出発点ではなく終着点となるサヴァイヴァル。我々の誰もが少なくとも一度は経験し、そして何度でも回帰するサヴァイヴァル。それが「犯罪者」か否かを分かつ決戦場だ。

 日常/非日常が成立する以前へと、暗い淵へと我々を引きずり込む重力、それを哲学と呼んでみたい。
 言うまでもなく、哲学が高尚なわけでも、専門家の為の囲い込まれた学問な訳でもない。また、哲学は出来合いの「思想」でもないし、社会的生活を導く実業家の気休めのような「理念」でもない。
 一方でそれは「言葉遊び」でもない。遊んでいる場合ではないのだ。「言葉遊び」などという言葉遊びこそ、膨大な哲学の上にあぐらをかいた無防備な言い種に過ぎない。
 ウィトゲンシュタインは哲学を潜水に例えた。我々は水中に生きる者ではない。できるなら水面を泳ぎたい。泳げる者は泳ぐだろうし、時折興味本意に潜ってみるかもしれない。しかしそれはここでいう哲学とは違う。哲学はカナヅチが必死で水面にあがる努力であり、また同時に彼の足を引っ張り海中深く引きずり込もうとする力でもある。

 私はかつて、哲学を巡って「クズ哲」というダジャレを思い付いた。今や、剥き出しの哲学などありはしない。そう見えるものがあるとしたら、それは潜水レジャーの為の都合の良い「言葉遊び」でしかない。「哲鉱石」は我々にとって余りにも遠いものになってしまった。そもそも「哲鉱石」自体、我々が現在時の物語から生み出した、アナクロニズムの産物でしかない。
 だから我々は、都市を巡り「クズ哲」を拾って集める。「哲」は、リサイクル幻想の渦巻く中、真に再生効率の高い希有な物質である。「哲」は何度も回帰する。その過程では銅の混入があり、化石燃料の更なる消費があるが、それでも「哲」は回帰する。やがて「哲」は「哲」として認められない程不純になり、もはや「クズ哲」としても役に立たなくならなくなるだろうが、その時「哲」は我々にとっての役目を終えたのだ。
 物質は循環するのではなく、一方向に汚染し混濁していく。だからそれを、無理に「循環型社会」の中に巻き込む必要はない。ただ、もしも「クズ哲」拾いが生きる為に役立つなら、あるいはそれ以外に生きる術がないなら、やってみればよい。必要がなくなったら止めれば良いことだ。
 「犯罪者」になりかかった者、あるいは既になってしまった者は、どうすれば良いのか。この問いは、我々すべてが自身の預かり知らない所で勝手に引き受けさせられ、そして既に解答を得ている問いだ。
 ある者はより盗みに巧みになるかもしれない。そしてそれは芸となり、クラッカーが雇われハッカーとなるように、「循環型社会」の一員となるかもしれない。
 それ程器用でない者は、さしあたって何とか犯罪から足を洗わなければならない。生きる為には、仕事を選べないだろう。彼等は「クズ哲」拾いを始める。ゴミ拾いの職人になる。集められた「クズ哲」は溶けて「哲」となり、レールとなり、鉄筋となり、板バネとなり、それと知られないように我々の生活の中に戻ってくるだろう。
 我々は「哲」を使う時、わざわざそれを「哲」と意識したりはしない。その必要はないし、そんな剥き出しの「哲」は、まだまだ我々の実用には不十分なのだ。「哲」がまるでそれと分からない程巧みに共同体の中に戻るからこそ、初めて「クズ哲」拾いは生業として成立する。それは仁義にもとらない仕事だ。

 「哲」は重く、我々を暗い淵へと引きずり込む。この力は、「哲」の重さとも言えるし、重力とも言える。
 重力に抗おうとしてジャンプをしても無駄なことだ。一瞬の無重量感覚の後、より一層はっきりと重力の存在を実感させられるだけだ。我々は重力から飛び出すことが出来ない。逃げ出そうとすればする程、我々は重力を感じる結果になる。慌てる者はぴょこぴょこと飛んだり跳ねたりする。しかしそれではスピードが遅すぎる。そんなエアロビクスのような動作では、とてもこの強力な重力圏で効率良く運動することは出来ない。
 我々は重力=哲学の力に抗って生きるが、同時にこの世界は見えない重力あってのものである。重力に捕らえられてしまった者は、ジャンプしてあがいて幻想のような無重量を味わうのではなく、この重力と調和して生きる方法を見つけださなければならない。「犯罪者」可能性のサヴァイヴァルはそれしか道がない。
 重力圏での効率良い身体運用とは何か。膝の抜きにより一瞬重力に身を任せる。次の瞬間、反動により我々の見かけの体重は何倍にもなる。地面に身を任せるように、滑るように動くこと。我々は我々を地上に縛り付ける忌わしき重力それ自体の力により、重力圏での大きな力を得ることが出来る。地球の力を借りるのだ。
 重力圏を生き抜く為にも、我々は重力を知り、それを味方につける、あるいは敵も味方もない地平に立たなければならない。それは、いつか重力を忘れるということだ。

### イラだちを越える為に

イラだち

 私はイライラしている。
 全く、どうかしている。
 京都の東本願寺の前を通ると、大きな立て看板が立っていて、そこにはポップな書体で「バラバラで一緒……違いを認める社会」といったようなコピーが書かれている。言いたいことは分かる。しかし、どうしようもなくその胡散臭さにイラ立つ。
 「個性を伸ばす教育」「生きる力」「自己表現」。気が狂いそうだ。
 狂いそうで、狂ってしまったり怒ってしまう人もいる。怒り過ぎて、違いがイヤになって統一に行ってしまう人もいる。スキンヘッドになったりする。明らかに間違えている。脳天気な伝統左翼も、宗教も、慎太郎ファンも、結局東本願寺のコピーと同じくらい微妙にズレている。そしてこの微妙なズレこそが決定的なのだ。ズラがズレてハゲがバレるくらい決定的なのだ。
 だからイライラする。

 イライラというと、スピノザという人のことを思い出す。
 スピノザは、十七世紀の哲学者だ。アムステルダム生まれのポルトガル系ユダヤ人という、それだけで十分「異邦人」の来歴に加え、汎神論的哲学故にユダヤ教会からも破門された、「天才の世紀」のアウトサイダーである。
 この哲学者を巡っては、「レンズ磨きで生計を立てた孤高の哲学者」という逸話が有名だ。しかし実際は、スピノザは豪商の家の生まれで、廃業後も信奉者から多額の寄付を受けており、生涯生活に困ったことはないそうだ。だからこの逸話は後生に捏造された「清貧の哲学者」ストーリーでしかないかもしれない。
 しかし、私の勝手な妄想では、暗い部屋に独り座したスピノザが、イライラしながらレンズを磨いている。「バレバレのウソばっかりついてんじゃねえよ、クソ!」。
 この哲学者については後でも触れるが、その主著『エチカ』は、神の定理から初めて、冗談のように幾何学的に構成された「倫理学」の本だ。おおよそ倫理という言葉のイメージからかけはなれた構成・内容の本が、「エチカ=倫理」と名付けられている。本当は、びっくりしなければいけないことだ。
 イライラしながら「倫理」を考え抜いたスピノザを発見できなければ、スピノザを読んだことにはならない。逆に言えば、こういう人がかつて存在したという事実は、我々のイライラに対する救いでもある。
 突破口がない訳ではない。

 イライラして、怒りをあらわにしてしまっては敵の術中にはまるだけだ。
 怒ったとたんに、我々は巨大なストーリーの中のシケた「悪者」と変わらなくなってしまう。そんな中途半端なワルは、結局分かりやすくセコい善悪の物語の一登場人物でしかない。田舎のヤンキーが早々に更正して、イイお父さんになってしまって、しかも東京とは縁もゆかりもないのにジャイアンツファンだったりするのと同じだ。
 さらに言えば、我々を「術中にはめる」敵などというものも存在しない。だから、火炎瓶を投げてもバスを乗っ取ってもこのイライラからは解放されない。

 イライラしながら書く。怒らないでいる為に書くのだ。怒りをあらわにして解放を叫ぶのにはうんざりだが、怒らないでいるには方法が必要だ。怒りを知らない人にも怒りを表す人にも殺したい程怒りを感じるが、怒ってしまっては堂々巡りだ。大人ぶっているのではない。本当のことが知りたいのだ。

 例えば、「母性本能」など存在しない。母性に関連づけられる諸々の個別的反応が偶然的に存在するだけだ。
 ある種の鳥は、「ふわふわしていて」「ピーピー鳴く」ものを無差別に守ろうとする。試みにひな鳥の喉を手術し、声が出ないようにしてみると、母親は小鳥を外敵とみなして殺してしまう。
 「リビドー」「本能」といった一見身体的用語による統一的説明は、ナイ−ヴな還元主義に他ならない(それが「本能」によるものだったとして、何の説明になっているのだ?)。これらは、身体的・物質的条件が精神活動の「原因」であるという、壮大なフィクションに裏打ちされた物語の一つにすぎない。
 しかし本当に重要なことは、こうやって神話を殺すことは、それを奉じるよりなお劣るということだ。神を殺したのは「もっとも醜い人間」(ニーチェ)なのだ。物語を殺す者は、物語を耽溺する者よりなお醜い。罪深い者を裁く者はより罪深い。
 だからといってもちろん、神話をナイーヴに信じているわけにはいかない。神話を文字どおりに信じることは、信じているというそのことに気付いたとたんに嘘になってしまう。
 それでは、殺害者を越えて「超人」に至るべきなのか。教科書的にはそうかもしれない。しかし「越えて」「至る」「べき」などと言ってしまったとたん、「超人」への道は完全に閉ざされてしまう。どこにも至らないから解脱なのだ。
 どうしようもなくニンゲン的な、この手詰まり状況の中で、ありうる戦略を探っていく。

 美しい世界のために。

『カリスマ』

 黒沢清『カリスマ』から始めよう。
 『カリスマ』は木を巡る映画だ。
 犯人と人質の「両方を生かそうとして」結局両方死なせてしまった刑事ヤブイケは、失職してある山奥の集落に流れ着く。そこでは、一本の木を巡る様々な人物の対立が繰り広げられていた。
 「カリスマ」と呼ばれるその「特別な木」は、見た所平原に一本だけ取り残された半ば枯れたような細い木なのだが、キリヤマという若者によって管理されている。キリヤマは、彼が「大人(たいじん)」だという「元病院長」の植えたそのカリスマを、何を犠牲にしても守ろうとしている。市環境保全課職員のツボイは、その木を高く売ろうと企んでいるが、いつもキリヤマに追い払われている。
 一方で、その森では若い木が次々と立ち枯れしていくという怪現象が起きており、ツボイは「その道のプロ」ナカソネに依頼して何とか解決しようとしている。しかしナカソネの頭にあるのは木を巡る権力ゲームだけのようだ。
 生態学者らしいジンボによると、この現象はカリスマのせいらしい。カリスマには他の木を枯らす毒素を出す性質があるらしく、森全体を守るためにはカリスマを倒さなければならないという。もちろん、キリヤマはジンボの意見を極度に警戒している。「強いものが生き残る」、それが森の法則である以上、守るべきはカリスマだと主張する。
 一方で、ジンボの妹によると、ジンボは森の水源に毒を入れ続けているという。「森全体の生態系のためには、一回森を死滅させねばならない」と考えているジンボは、狂っているのだと、彼女は主張する。またジンボの妹は、よそもののヤブイケにただならぬ興味を示し、自分を外の世界へと連れ出してくれることを望んでいる。

 これらの人間関係を「単独性/個別性」の問題から整理すると、とりあえず分かりやすい図式が得られる。「単独性/個別性」はおそらく柄谷行人の用語だろうが、非常に使いやすいので、そのままの言い方を拝借する。
 両者は共に「一つ」を表しているが、「一つ」の取り出しかたが違う。
 例えば、あるクラスに四十人の生徒がいたとすれば、彼等は一人一人それぞれの特徴があるだろう。背が高い、とか、足が速い、など、それこそ「個性」がある。そういった特徴から「一つ」を考える時、これを「個別性」(特殊性)と呼ぶ。
 一方で、背の高さも何も関係なく、山田君は世界に一人だ。彼がどんなに凡庸で、何の特徴もない「個性のない」少年だったとしても、やはり山田君は一人しかいないのだ。この「一つ」は、「沢山ある中の一つ」ではなく、「沢山もクソもなく一つ」だ。こういう「一つ」のことを「単独性」と呼ぶ。

 キリヤマは明らかに「他とは違う何か」としての特殊性=個別性を奉じている。まさに「カリスマ」に心酔する若者である(彼は露骨にファッショを連想させる風貌をもって描かれている)。
 一方でジンボが信じるのは一般性だ。ここでは全体性として立ち現れるてくるこの対立項は、しかし、平易な二項対立を形成することからも明らかなように、同じパースペクティヴに属している。結局彼等の問題系は、「全体か一か」というもので、しかもその「一」は単独性ではなく合理的説明のついた特殊性=個別性に支えられたものでしかない。要するに、その木が「特別」だから守れ、あるいは倒せという構図だ。いわゆるエコロジー(システム論……)はファシズムへと直結する危うさを秘めているが、この二人の関係にはそれがよく現れている。
 ジンボの妹も、一般性に対する特殊性を奉じるという意味ではキリヤマと類似しているが、違うのはそれが既にあるか、あるいはないか、という点だ。キリヤマにとって、「特別な何か」は既に存在している(=カリスマ)。妹にとっては、それは外の世界にある「未だ見ぬ何か」に託されている。粉飾され複雑化し偽装してはいるが、結局の所彼女は「都会に憧れる田舎の少女」(「田舎に憧れる都会人」でも同じ)の末裔でしかない。両者の違いは、躁鬱病的にそれが決定されているか、分裂病的に未来に託されているかの違いとも言える。
 ではこのような全体を見据える構図を捨て、近視眼的に経験則に従って生きる方法が良いのかと言えば、これはむしろ退歩している。つまり、パースペクティヴの成立以前ということだ。このような方法は、個別事例(因習……)への躁鬱系のパラノな固執といっても良い。金という一般性に託されているのがツボイであって、もっと粗野に人間関係そのものに固着しているのがナカソネと言える。
 ツボイの基準は外の世界に因っているという点で、分かりやすい図式に相乗りした形だ。「年上の言うことは聞くもんだ」といった説教と同レベルである。
 これに対し、ナカソネの基準はもっと自分自身の皮膚感覚に即しているように見える。ある意味で彼のような生き方は率直であるとも言えるし、実際田舎に行けば似たような人間をイヤという程見られるが、結局こういった人物は恐ろしく見通しのきかない閉鎖したコードで生きているだけだ。
 都会的なパースペクティヴで生きている人間は、しばしばこういう人物に騙される。「教科書に載っていない、本当のワイルドな生き方」を知っているように見えるからだ。しかしこのワイルドさは諸刃の剣であって、結局会社に適応したか森に適応したかの違いしかない。適応は単に適応であって、良い適応と悪い適応があるわけではない。それが単に適応であるということを知っている点で、まだチャチな俯瞰図を持った都会人のほうがマシだとも言える。俯瞰図(遠近法=パースペクティヴ)があれば、それを突破することも可能性としては与えられているからだ。

 こんな関係の中で、「外の者」として紛れ込んだヤブイケはどう振る舞うのか。結局老木「カリスマ」は倒されるのだが、ヤブイケは別のただの枯れ木を「もう一本のカリスマ」として守ろうとし始める。合理的な特殊性を奉じるキリヤマは、もちろんこれをカリスマとはみなさない。物語の終盤にさしかかって、ヤブイケはジンボの妹にこう語る。長くなるが、全体を引用しよう。

「君は特別な一本の木と、森全体と、どちらかしか生きられないとしたらどっちを選ぶ? これはとても難しい問題だ。でも結局答えは一つだった。両方が生き残るしか道はない。生きる力と殺す力は同じものだ。これは君の姉さんが教えてくれた。さあどうしよう。片方が生きれば、もう片方が死ぬ。両方が生きようとすれば、下手をすると両方が死ぬ。答えはない。というより、そもそもこういうことを問題にするほうがおかしかったんだ。両方が生きようとしているんだから、両方が生きればいい。それがあるがままということだろう? もちろん両方が殺しあえば全滅する。それもあるがままだ。でも、それじゃあ、世界がメチャクチャになってしまう。それを避けるために、法則や軍隊が必要だと、キリヤマ君はそう言った。僕もついこの間まで何の疑いもなく、そういう仕事のまっただ中にいた。でもやっと分かった。僕はあるがままの、平凡な人間でいい。特別な木なんて一本もなかったし、全体というものもなかった。ただ、あっちこっちに平凡な木が一本づつ生えている。それだけだ。(「じゃあ、ヤブイケさんのやっていることは何なんですか」)生かしてみたり、殺してみたり、あるがままだ」

 これは一般性−個別性に対する、普遍性−単独性の軸だと言える。一般的に何かがあり、それとの対比の上で成り立つ特別さではなく、バラバラもクソもなくバラバラな単独性の方向だ。「個物だけが存在する」(オッカム)と言っても同じことだ。単に名前が違うように、カテゴライズしようもない個物が存在する。この意味で、ヤブイケは閉鎖したゲームを突破したと言える。

 と、書くと、もっともらしくは見える。だが本当にそうだろうか? 真の問題はここから始まるのだ。
 確かに、ヤブイケのこの台詞は、軸の転換という意味での価値はある。しかし転換が力を持つのは、水平に対して垂直を打ち立てる、この行為自体においてなのだ。向こう側に行ったところで、何かがあるわけではない。転換だけが何かである可能性を秘めているのであって、そこから先を信じてはまた同じトラップにはまっていく。水平に対して垂直を立てるとは、水平というそのパースペクティヴを相対化しズラすことだが、そこで新たに得られた視点も、さらにそれを俯瞰する立場からいくらでもメタ化していくことが可能だ。こんな仕事には終わりがない。
 「あるがまま」? もちろんその通り。しかしそんな結論なら、誰にでも分かるし、いくらでも転がっている。「あるがまま!」という叫びだけが何ものかでありうるのであって、「あるがまま。」などと言ったところでどうしようもない。ヤブイケのセリフは、まさにフィルムに定着したあの時間にだけ機能するのだ。
 「でもやっと分かった」。非常に危険だ。「分かった!」というヒラメキ自体が価値を持ちうるのであって、分かった「何か」などに固着すると恐ろしいことになる。一回のヒラメキにすっかりハマってしまった発明おじさんと変わらない(もちろん彼等の生き方一つ一つには別の意味で素晴らしいものがあるが)。「分かった!」とたんに分からないことになるのは、禅の公案を見る通りである。
 「分かった」輝きでキラキラしながら、イキイキ生きるか? 確かにそれは、キラキライキイキしている。『カリスマ』のヤブイケのこの台詞後の行動は、まさに輝いている。自分自身の言葉を反古にするような不条理な行動を続ける。件のセリフの後の彼の行動は、「ひとの理解を越える」。そこにこそこの映画の抜きん出た所があるし、劇中数回現れる余りにもチャチなCGなどにも突破可能性が秘められている。映画を見ていて本当に恐ろしい一瞬、突き抜けた感覚を経験するのは、上で語った物語上の問題などではなく、映画それ自体、あるいは物語それ自体に対して飛び出している部分でである。
 狂気だけが狂気を逃れられられるが、当然それも狂気でしかない。「閃いた」後はプライベートな物語だけがある。すべての語りはこの圧倒的なプライバシーのスピードに遅れをとり、その前で空回りする。

 当然、ここで展開している解釈自体、強引な抽象化の産物でしかない。解釈はそれが解釈として固定化した瞬間から、風化していく。『カリスマ』は映画であって、そこには語り尽くせない要素が無数に詰め込まれている。この複合体が映画なのだ。いや、複合体といった解釈可能性の向こう側に映画は存在するのだ。
 しかしだからといって、「実体」としての映画に接するべく『カリスマ』を見ても、アリバイか何かが成立するわけがない。あらゆる理解の形式を拒んで映画を直視することなど不可能だ。それでも「何か」があるはずだ、という欲求、あるいは単なるそれの裏返しとしての「何もないのだ!」という平凡な撤退への焦りが、我々を突き動かすかもしれない。だが、「作品」を直視することで解釈を乗り越えようとする試みは、ちょうどこの映画の中で語られているトラップに自らはまりにいくことでしかない。どこにも「特別な木」などない。裸の真理が転がっていることなどないのだ。
 トラップは、言うならば、これを「作品」と言ってしまった時点で始まっている。「作品」には「作者」がいるし、あらゆる解釈の向こうに「作者の言いたいこと」があるように見える。『カリスマ』の向こうに黒沢清を想像することは、世界の外に世界を創造した神を考えるのと同値だ。あるいは、世界と独立して存在する物理法則などに等しい。だが、黒沢清を拉致監禁してあらいざらい吐かせたところで何も分からないのは、明白だ。
 「本当」トラップはそこかしこにある。『少年は何故凶行に及んだのか』『十七歳が何故!?」』。例えばそんな憶測は幾らでも捏造できるが、彼らの物語はもう我々の手の届かない所にいってしまったのだ。後にはサイコロの目のような偶然性しか残らない。車窓の風景は取り返しようもなく過ぎ去ってしまったのだ。世界はワイドショーの憶測よりはるかに不安に満ちている。

 「特別な木」も無力なら、「平凡な木が一本づつ生えている」というセリフも、瞬間しか力を持たない。
 老木「カリスマ」のインチキ臭さは、映画の観客にとっては自明だ。いわゆる宗教が、今や外見的にはただの気休めにしか見えないように。倫理規範がオッサンの説教にしか聞こえないように。
 だが、この簡単なトラップにすら、少し粉飾されると我々は簡単にハマってしまう。多くの人が、宗教や「特別な木」を笑いながらも、「科学」の実証性や「幸福の追求」による行動の解釈などを信じてやまないのは、実に滑稽なことだ。
 「好きだからやってるんでしょ?」「楽しいんだからいいの」と言う人がいる。あたかも、あらゆる外的価値を振り払って、自律的に人生を基礎付けているようだ。
 だが、幸福ではなく不幸や苦しみを例にとれば、こんな考えも伝統的な「特別な木」を一歩も越えられていない。
 苦しみに対処するということは、自分が今生きているという事実に対して申し開きすることと同じと言ってよい。言い訳の伝統的な方法は、「この苦しみが来世で報われる」といった「弱者は善」というルサンマチマン的転倒である。
 あるいは、生の苦しみそれ自体を目的と考える方法もある(「苦しむために生きている」)。これは「苦しみが未来の喜びによってあがなわれる」という地平からは一段メタに上がったとも言えるが、基本的性質は同じである。
 苦しみを来世で説明するのも、人生の困難を「アタシの幸せ」で説明するのも、何も変わりがない。「神の国」の為に頑張るのと、幸せの為に頑張るのは、共に「特別な木」を信じて生きることでしかない。天国のイメージが地獄の想像に包囲されているように、幸福を求める者は、幸福/不幸という式を立てた時点で、既に不幸が約束されている。
 だが、これらに対し「平凡な木が一本づつ生えている」と言って、それで何かが達成されたのだろうか。少なくとも、「特別な木」が虚しい限りにおいて、一歩「真理」へと近付いたとは言える。「平凡な木が一本づつ生えている」と言える人は、「特別な木」の特別さについてしか語れない人間より、間違いなく「頭が良い」。
 しかし、「特別な木」は多くの不幸の原因となりながらも、少なくとも気休めくらいの幸福は生み出していた筈だし、何にせよ人生を駆動はしていたのだ。ただ「平凡な木が一本づつ生えている」「あるがまま」などと言っているだけの人間は、小賢しい役立たずでしかないし、本人の人生にも空虚しか残らない。つまり、「犯罪者=病人」であり、「犯罪者=病人」は始終イライラし不機嫌に生きていかなければならない。
 それでは、「特別な木」に群がったり、あるいはそれと戦ったりしていればよいのか。だが、一度「犯罪者」の可能性を知ってしまった人間は、そう簡単に「特別な木」など信じられる訳もない。そして重要なことは、「犯罪者」でない人間は、「犯罪者」の存在のお陰、あるいは「犯罪者」可能性自体によって、「犯罪者」であることから逃れられているのだ。丁度、重力に抗いながらも、重力あっての世界に生物が生きるように。
 「平凡な木が一本づつ生えている、特別な木なんて一本もない!」。どう見ても特別な木なんてないのだから、そう言わざるを得ない。問題は、その後だ。「あるがまま」と悟っても、そこで人生が終わりになるわけではない。観客が拍手して、幕が降りてくれるならいいが、まだまだオチはつかないのだ。
 「犯罪者」のサヴァイヴァルは、つまり本当の問題は、ここから始まるのだ。

### 〈飛び出し子供〉

「屋上解放」

 荒木瑞穂と私が「二十代半ば過ぎてブルーワーカーで、かつそれを本業とも思わずブラブラしているような人間」だったころ、我々は屋上にいた。私は荒木の勤める塗装業者に、一夏の職を得ていたのだ。
 その頃、荒木は「屋上解放」という運動を提唱していた。もっとも荒木自身は簡単なチラシや、個別の対話の中で表現するのみで、散文的に不粋に語るということをしない。ここで示すのは私なりの解釈であり、それが荒木の思想を正確に表している保証はない。
 屋上で夏を過ごすと、「屋上解放」を訴えていた荒木の心情が少し理解出来るような気がした。同時にそこは、我々を包囲している物語と、「軸を打ち立てる」突破法に関するヒントに満ちていた。

 屋上はビルの上にある。だから、屋根であるとも言える。屋根は居住用建築物にとってなくてはならない一部分だ。屋上は独立した空間であると共に、別の心地よい空間を確保するための壁であるとも言える。屋上はビルに不可欠だが、ビルの外部にある。ビルの一部であるにも関わらず、屋上はビルの中にはない。外部が内部を支えている。屋上は上から下を支えている。

 夏、屋上は暑い。果てしなく暑い。直射日光を遮るものもなく、防水加工の照り返しも手伝って、光と熱が肌をじりじりと灼いていく。しかし、屋上にはアスファルトの路面と異なり、風がある。屋上には風が吹く。直射日光に熱せられた肌を、風が心地よく冷やしてくれる。甲良干しにはもってこいの場所だ。わざわざ郊外のプールや海に出かけて体を灼く人間が愚かに見える。自分の住居のすぐ上に最適の空間があるのに。
 また、屋上は密会にも最適の場所でもある。昼休みの情事にはぴったりだ。

 屋上は見晴らしが良い。都会の林立するビル群を太古の森のように見渡すことが出来る。屋上の縁に立って風を受けていると、大昔に崖の上から獲物を確認し追いつめた祖先達の魂が甦る気がする。

 しかし、こんな素晴らしい屋上が、多くの場合立入禁止されている。なぜか。なぜ、権力は屋上を排除するのか。
 権力は屋上を独り占めしようとする。太古の森のように都市を眺める視点が公になるのを恐れている。
 屋上は自殺にもってこいの場所だ。多くの管理者は自殺者が出るのを嫌って、屋上を立入禁止にし、高い柵を作る。しかし自殺者はどこからやってきたのか? 自殺者は屋上に生まれたのではない。もっとずっと下の方から、もっとずっと平べったい土地からそこへ登ってきたのだ。最後の手段を求めて。柵を作ったところで自殺志願者が消えるわけではない。
 空間を限定された都市は、やむを得ずその延長として建築物を上へ上へ伸ばしていった。立体を平面の延長として措定することに、生き残りをかけてきたのだ。だから、立体が真の立体として露出することを、都市は恐れている。それは単なる平面の延長でなければならないのだ。特別な場所へ人々が容易に立ち入るのを許すわけには行かないのだ。「ビルは塔ではない、単なる平面の積み重ねだ」。そう権力は訴えているのだ。
 それがへたくそなウソであることは、屋上に出てみればすぐに分かる。

 都市は平面パース的思考様式によって、物理的・心理的に圧倒的な利便性を築いた。それは権力が導いた巨大な箱庭である。監視塔の上には誰もいない、極度に洗練された監獄空間である。
 人々がそれを嫌って空間的に移動しても、行く先々に都市が待ちかまえている。今や都市が農村を包囲しつつある。箱庭的なものは真っ先に農民や地方生活者の精神を犯していったからだ。農村のジャイアンツファンが権力を基礎づけている。だから「イナカグラシ」で権力から逃げることは出来ない。脱出口があるとしたら、もっと近くを探さなければだめだ。空間に逃避することは、既に都市のトラップにはまっているのであり、どこまで行っても釈迦の掌である。

 屋上は死に近い。「天国に一番近い場所」だ。むろん、天国は屋上の上にあるのではない。下にある。確かめたければ、屋上の縁から一歩足を踏み出すだけで事足りる。
 だから、自殺を禁忌とする思想は屋上を封印したのだ。

 都市は人間をビルという平面化される空間に監禁した。雨漏りで困ったときには、「汚い」男達を呼べばいい。人間は涼しい空間で平面的に作業するものなのだ。「汚い」男達は屋上で仕事をする。エアコンの室外機が唸りをあげて熱い風を吹き付けてくる。
「全く、上にいる人間のことも考えろよ!」
 ヒエラルキーの逆転? もう一度回って、別段逆転などしていないのさ! ずっとずっと昔から。

 制止を振り切って屋上に出ろ! 別段屋上に居を構えないでも良い。階段で戻るのも、自由落下で降りるのも、そこでゆっくり考えればいい。

絶対速度と〈飛び出し子供〉

 荒木瑞穂の見い出したモチーフの一つに、〈飛び出し子供〉がある。
 〈飛び出し子供〉とは、国道の横断歩道などにしばしば見かける、走っている子供の形をした飛び出し注意の看板である。既製品もあることはあるが、多くの看板はおそらく自治会などで製作されたであろう木製の手作りだ。一体一体微妙に異なるものが、日本中にある。商品名では「安全坊や」という話もあるが、荒木はあえてこれを〈飛び出し子供〉と呼んでいる。彼らは少しも安全ではない。「危険坊や」の方がまだ近い。常に道路に飛び出そうとするギリギリの瞬間の子供なのだ。
 荒木はこの〈飛び出し子供〉の写真を蒐集し、原寸よりやや小さい程のプレートを大量に制作、壁面にはり巡らすというインスタレーションを行った。会場に入ると、まるで運動会のように、無数の〈飛び出し子供〉達が一方向に壁面を走っている。四面を覆う子供達は、どこにも到達せず、ただひたすらに飛び出し続ける。渦巻きのような速度、しかも「どこにも到達しない」不思議な速度の幻覚が、見る者に降ってくる。
 〈飛び出し子供〉は速度に関係している。
 我々の世界は、速度を目指している。少しでも速く、出し抜くように、「時間がない」「時間がない」と焦り続け、加速を続けている。移動の速度は都市を拡大させる。道路と鉄道の整備=「都市化」によって、すべての地方が「郊外」になっていく。移動そのものが都市とも言える。我々は「より速く」を目指し、自家用車がステイタスになる。
 さらに速度は、空間を越える。情報ネットワークを想起すれば分かりやすい。現実に、都市は、具体的な空間を持たない速度そのものとなりつつある。しかしその果てにあるものは何なのか?
 究極的な「速さ」=絶対速度とは、即時性だ。欲しい情報がすぐに手に入る、という「時間の消滅」こそが、速度の最果てにある。ここでもネットのイメージは有効だ。
 一方で、ネットの速さも完全な即時ではないとういことは重要だ。我々は論理がゼロ時間で進行するというフィクションを生きているが、コンピュータの計算にも時間がかかる。数学の式には「時間が存在しない」。しかし実際には時間をかけて式は立てられ、読み解かれる。
 我々が現実にゼロ時間に到達することなどないにも関わらず、都市は絶対速度を目指して加速し続ける。「止まっているほど速い」速度を追求する。モテる為に速い車に乗るように。生は速度を求めるが、その究極は時間の解消に至る。生の最果てには時間の存在しない死が待っている。
 〈飛び出し子供〉は常に速度をもち、飛び出す直前の姿をしている。飛び出した後に待っているのは悲惨な結果だが、とにかく飛び出してしまうのだ。

『ボール』、「暫定性一般」

 速度についてのヒントとして、半村良の『ボール』という小説を紹介したい。
 『ボール』は道路を滑走する謎の球体「宇宙ボール」についての小説だ。「宇宙ボール」は直径二メートルから三メートルの褐色で、回転しながら時速五十キロから百キロで道路を走る。その正体は不明であり、突然米国や都内の道路に多数出現したらしい。小説では、車を持たない男の視点で、この謎のボールを巡る騒動が描かれている。
 ボールは路上で自動車を発見すると、速度をあげて粉砕する。衝突された車は、どういう原理か跡形もなく粉末のようにされてしまう。さらにボール同士が衝突すると、丁度セックスのように増殖する。一方人間には全く興味がなく、積極的に攻撃もしないが、飛び出した人間に対しても容赦がない。またボールは舗装道路の上しか走れないようで、追い詰められ停止すると、そのまま溶けてアスファルトのようになってしまう。ボールにとって停止は死なのだ。しかしその死によって道路はさらに延長される。
 人間達はバリケードなどで対抗しようとするが、全く歯がたたない。唯一の方法は道路を破壊することだった。人々はボールを止める為、隙を見て決死隊で道路を掘り起こし、ボールによる道路の延長に抗するように舗装を耕していく。
 この小説を単なる車社会への風刺として読んではならない。ボールは的確に速度を表象している。ボールは絶対速度を志向している。
 一方で、このボールへの対抗策が道路の破壊であるということも、示唆的だ。我々はしばしば、車へのアンチとして自転車や公共交通などを揚げるが、車輪を根底で支えているのは、アッピア街道以来の整備された舗装道路だ(車輪生物がなぜ存在しないのか? 自然界には道路がないからだ)。

 「暫定性一般」という概念の中でも、〈飛び出し子供〉をとらえることができる。
 暫定的なものは、普遍的なものの陰画としてある。普遍のイメージがなければ、暫定という概念は成立しない。ゼロ時間の論理、言語経済の果てにイメージされる完全に空間化された論理空間などが、普遍的なものである。勿論これを直接目にすることはない。飛び出した後には何もない=死であるように。普遍的と呼ばれるものは無限の時間の極限にあり、論理がゼロ時間であるという前提なしにこれに到達する事は有り得ない。我々が実際に絶対速度に到達することなどありえない。
 重要なのは、現実には時間が限られている、ということだ(コンピュータの計算にも時間がかかる……)。この「時間のなさ」(有限性)が暫定的と呼ばれるものをそれ以上のものへと質的に変容させる。我々は暫定性に囲まれて生きている。こうして醸造される、世界の限界、暫定的なものの全体性を、「暫定性一般」という逆説的な言葉で呼びたい。〈飛び出し子供〉は、この世界のリミット、飛び出すギリギリの淵を表象している。
 〈飛び出し子供〉は絶対速度ではない。普遍こそが絶対速度であり、〈飛び出し子供〉はそこへ向かって飛び出している。飛び出した先は「無い」。その先は絶対速度=普遍=死であり、存在しない。丁度、無−意識が患者の否認によって確認されるように。
 しかしこの「存在しない」外部によって、初めて暫定性が構成され、世界が限界付けられる。〈飛び出し子供〉は世界の限界に立って、外へ向かって飛び出そうとしている。

〈飛び出し子供〉と単独性

 荒木瑞穂は言う。
「そうや、子供やねんからな。なんか、子供って小学校に詰め込まれて全国にうじゃうじゃおるんやと思うと、それってすごい。で、また、ガキなんてどれも似たようなもんやってのがあるでしょ。似てるけど、一人ひとり違う」(PASCH叢書2 荒木瑞穂)
 〈飛び出し子供〉は一体一体手作りで、似たような造形を目指しながら二つと同じものがない。この違いはもちろん、意図され、「個性的」であろうとして生まれたものではない。必ずしも器用とは言えない自治会のオヤジが、「こんなもんやったろか」などと考えながら、適当に作ったに違いない。〈飛び出し子供〉における個別性は、失敗の賜物だ。失敗とは、成功の陰画として初めて成立する概念だ。失敗を目指した失敗は、既に失敗ではない。
 私が失敗するということ自体、一つの奇跡といえる。失敗は、言語経済に対して外的な現実が機能しているという事の証明である。そもそも内部は外部に支えられている。屋上が上から下を支えるように。
 ただしこれだけでは、〈飛び出し子供〉を単独性を背負うものとして考えることは出来ない。〈飛び出し子供〉が一体一体違っていたとしても、それは一般性に対する特殊性という軸の中で説明可能だからだ。少なくとも、「安全坊や」は単独性とは関係ない。
 だが、荒木瑞穂が〈飛び出し子供〉と言う時、それはあのブサイクで出来の悪い手作りの看板一般を指しているのだ。看板の機能に注目して名付けているのではない。すると、〈飛び出し子供〉の概念は、単に目に見えるあの看板を指しているのではなく、その成立の過程での失敗、またおそらくは子供のイタズラなどによる無惨な破壊などを含めて成り立っているのだ。〈飛び出し子供〉は暫定性一般だ。
 それは決して、「バラバラで一緒」などではない。バラバラもクソもなくバラバラなのであり、それを外から眺めて一緒などというのは、「安全坊や」の思想であっても〈飛び出し子供〉のそれではない。彼等は個や類というオトナ的分節を振り切って飛び出しているのだ。
 更に言えば、〈飛び出し子供〉は道路に向かって飛び出している。道路はオトナ=ニンゲンが地上を分節したものだ。それは「ボール」が駆け巡る道路であり、「物流の血脈」だ。彼等自身ももちろん道路からやって来るのだが、飛び出す先の道路は彼等の走路に対し直角に交わっている。いや、〈飛び出し子供〉は水平な道路を垂直に分断しようとしているのだ。彼等の飛び出し先は、真直ぐに走る道などではなく、向こうとこちらにある分断線だ。その向こう=彼岸は語の真の意味で「ない」。向こうはないのだから、飛び出すギリギリで飛び出し続けるより他にないのだ。

空き地、屋上、押し入れ

 荒木は〈飛び出し子供〉に連なるイメージとして、「空き地」「屋上」をあげている。屋上も〈飛び出し子供〉も、死のギリギリ手前であり、高速で走り抜ける移動=速度の直前で封印されている。逆に言えば、我々の世界は屋上に上から支えられ、〈飛び出し子供〉の背中に囲われている。
 空き地は明白に暫定的だ。空き地は、それが「未だ」建築されざる土地であるが故に「空き地」と呼ばれる。そうでなければ単に土地とか場所とか呼べば良い。空き地は広場や公園(権力によって認定された土地)ではない。空き地は建築の陰画なのだ。
 空き地も屋上と同様に冊によって囲われている。空き地は敷居が高いが、広場は低い。広場はマクドナルド的な開放性を持ち、一方で空き地は寿司屋やバーのカウンターに似ている。
 空き地は土管や放置された廃車など魅力的な地形に満ちているが、それらは決して公園のブランコや滑り台のように安全に設計されてはいないし、ブルドーザーで更地から作ったツルンとした広場のように、善良な市民に手招きしたりはしない。空き地には柵を越え有刺鉄線をくぐり、「私有地」の看板を蹴倒して命懸けで侵入しなければならない。空き地の柵は、「良識あるオトナ」たちがコンドームやエロ本の自販機を隠すように、自らの原理にして恥部であるものを子供たちから隔離するために設けたものだ。
 そして広場を措定する暗黙のルールは、常に我々にことわりなく決定され、安全保障と引き換えに、源泉徴収のような服従をかすめ取っていく。
 もちろん、これらに対し、「反権力的に闘争せよ!」などと言ってもどうしようもない。反権力は、既に権力の一部でしかない。また広場的なものを全否定も出来ない。誰でも砂漠より安全な家を目指す。だが、広場も街もそのような志向性から生まれたものであって、最初からあるのではない。
 さらに、空き地は「かつてここは空き地だった」という形でしか成立しない。空き地は未建築地、未だ建築されざる土地であり、建築に対し常に手後れな、過去時制において「ある」(あるいは「あった」)。我々が常に現在時=内部からしか考えられない以上、空き地は過去にあるといっても良い。
 空き地は外部であり、一つ一つの空き地は単に未建築の土地であるかもしれないが、空き地一般は暫定性一般として都市を包囲し、無限にエロスを注ぎこみ回転させる太陽なのである。
 私は、空き地から押し入れの闇を連想する。子供が暴れると押し入れの襖に穴が開くが、大人はこれにサクラの形の紙などをはって、あたかもそこに穴がないかのようにする。そこには穴=欠如が「ある」(「ない」が「ある」)のではなく、単にサクラが「ある」かのように。空き地も押し入れも子供の遊び場である事は示唆的である。
 またよく考えると、子供はみな、暫定生活者(居候)だ。子供は襖を破り、柵を破る。我々は(オトナ=人間は)地上を分節し、建築し、道路を張り巡らせ、灰色のコンクリートによってこれが建造物であると宣言し、漆黒のアスファルトによってこれが道路であると言い切ったが、常に子供はオトナの制止を振り切って飛び出していく。まさに、飛び出すのだ。しかも、しばしばそれは死へと直結している。〈飛び出し子供〉においては、その刹那が一般化され、これによって二重化された暫定性、「暫定性一般」が表象されているのだ。

「居候芸術」、ヒマ

 小川恭平、小川てつオというアーティストがいる。彼等は居候生活自体を芸術とし、「居候芸術」という活動を行っていた。明らかに、居候は暫定的だ。これもまた、「住む」ということの文法的な条件を反射している。
 もちろん、単に居候するだけなら、それは個別的な暫定性の枠を出ない。経験則のはかなさのような不毛を乗り越える事は出来ない。個別事例の強調は、一見「科学的視点」に抗するようだが、別の種類の袋小路にはまるのが目に見えている。
 例えば、単純に虚飾を賛美する「芸術家」がいる。一般性や機能性から抜け落ちた「無駄」こそが美しい、という発想だ。だが、虚飾を賛美するだけなら、それは機能を賞讃することの裏返しでしかない。かえって無駄なものと無駄でないものがあるという構図を強調してしまっている。「芸術は生活に潤いをもたらす」などというヘナチョコな語り口は、芸術に分かりやすい社会的価値を与えるのと引き換えに、外交空間の中に囲い込もうという「文化勲章」的思想にすぎない。無駄と分かっているなら、やらないにこしたことがないに決まっているのであって、無駄もクソもないから突き進むのだ。無駄が芸術になるなら苦労しない。
 小川兄弟は居候を無駄や虚飾ととらえているのではない。大体、居候とは生活の一形式でしかないのだ。生活を支えるものである以上、それは駅前のわけのわからない「オブジェ」のような無駄さとは無縁である。小川兄弟は、このやむにやまれぬ居候生活を芸術と言い切り、それ自体の中に入りこみ二重化する事によって、暫定性一般へと接近していく。
 居候はヒマと関係している。ヒマとは単に時間のことではない。経済からこぼれ落ちた、あるいは未だ名付けられざる時間がヒマと呼ばれる。丁度、建築されていない空間が空き地と呼ばれるように。
 例えば、我々の労働はしばしば時間単位で金銭に換算される。穴を一時間掘るといくら、とか、場合によってはほとんど立っているだけの時間がお金になる。一方で、自室で突っ立っていても誰も給料を払ってくれない。腕立て伏せでは生計が立てられない。それは交換価値を持たないからだ。腕立て伏せでも穴掘りでも、時間は時間、疲労は疲労だが、それが経済に回収されるかどうかはただ交換価値が決定するのであって、時間そのものは不気味なほど意味を持たない。
 バタイユでないが、降り注ぐ太陽光の如くヒマは無限にあり、かつそのうち我々の交換経済の中へ取り込めるのは極一部にすぎない。我々は太陽の、またヒマの、圧倒的な剰余の中に放り込まれている。太陽と死は直視する事が出来ない。ヒマもまた我々の交換経済の中で捉える事が出来ない。時間は空間化され、メトリックになってはじめて交換される。「時は金なり」ということだ。
 居候はヒマだ。ヒマである事自体が、居候芸術論を根拠付けている、と私は解釈する。ヒマは現実なのだ。つまり、ヒマによって我々は隠蔽していた外部と接触する。小川兄弟は居候を芸術にしようとするが、まさに居候は襖にはられたサクラをはがし、太陽を直視する行為なのだ。

時間がない=時間がある

 ヒマと「時間のなさ」は、目的論に関係している。
 我々はしばしば、「時間がない」と口にする。何かしなければならないことがあるのに、それをする「時間がない」と。しかし言うまでもなく、時間はある。何故時間がないと言えるのか。それは目的があるからだ。ある目的を達成するのに、時間が十分にないということだ。
 「時間のなさ」「時間の無駄」などは、我々の有限の生が「私」を納得させられる十分な理由(欲望の達成など)に向けて消費されることこそ有意義、という考えに裏打ちされている。つまり「時間のなさ」は目的論的な世界観とセットになっている。目的論的世界観は、ストーリーのある世界だ。歴史の教師がよく口にする、「ヒストリーはストーリー」というあの陳腐なセリフの世界だ。
 しかしこの目的論的世界観が、単なる想像力の産物であることは明らかだ。目的論は個人や共同体によって醸造されるものだが、それらは無数の因果律の流れに生じた渦のようなものでしかない。我々が普通に「私」と呼んでいるような、つまり自己意識もまた、この流れ、巨大な機械の一部でしかない。それは例えば、電気パルスや脳内物質の相互作用などによっても説明可能だろう。我々は単に、世界や我々自身を動かしている原因について知らないだけである。「人生の目的」などと平然と口にできる人間は幸福(ナイーヴ)なのだ。つまり、想像力の奴隷なのだ。
 しかしこれだけなら、平凡な近代的機械論的世界観と変わらない。凡俗な虚無主義への後退でしかない。単に目的を排除し、神話を殺すだけの者、すなわち「神の殺害者」は、「もっとも醜い人間」なのだ。
 ここで私は、「私」を自己意識と呼び、それが機械と変わらないと言った。これにハッとして疑念を抱かなければならない。あらゆる想像的目的を排除して、そこに残る「私」は、本当に自己意識と変わらないのか? この時、目的論を排除しようとしているこの意志、この「私」は何なのか? この後にこそ本当の問題がある。
 一旦時間の話に戻ろう。
 「時間がない」ことは実は「時間がある」ということと同じことなのだ。正確に言えば、「時間がない」と言う人は「時間が足りない」と言いたいのであって、それは時間の存在、時間というものがあるということを暗に認めている。逆に言えば、それは、文字どおり「時間が無い」、時間というものが無いという事態の陰画になっている。
 機械論的世界観は「時間がない」(=「時間がある」)と言うだけで、「時間が無い」とは言っていない。それは既に、世界内的な想像力の文脈に捕われているのだ。
 例えば、宇宙のどこかに神様の基地があって、そこでは巨大なコンピュータが物理法則(E=mc2……)を管理しているようなイメージがそうだ。これはナンセンスな寓話のようだが、近代物理学の基本的宇宙観はこれと変わらない(現代物理学の先端では状況が変わってきているようだが)。
 この考え方では、世界内的な様々な現象の目的を問うことはできないが、世界そのものの目的を問うことは依然として可能になっている。何故なら世界そのものについては、原因を外に求めるより他にないからだ。
 実際、キリスト教社会では、世界内の因果関係の探究と世界そのものの目的の探究を、「科学」と宗教が分業している風景を見ることができる。リンゴが木から落ちたのを見て「リンゴは落ちたかったのだ」と言ったら妄想野郎呼ばわりだが、この世界があるということの原因については、平気で神様に押し付ける。科学がhowを、宗教がwhyに向かうというのがそれだ。ナイーヴな「科学的」機械論は、一見目的論を排除しているかに見えて、壮大なフィクションによって目的論を温存している。
 これに対し、本当に「時間が無い」世界を考えることができる。それは、世界の原因を問う問いの原因自体が、世界の中にあるという考え方だ。つまり唯一絶対の世界があり、これを俯瞰するようなメタレヴェルのないという世界観だ。
 こう書くと、メタレヴェルへの階梯は無限に想像可能なのではないか、という疑念が当然のように起こるだろう。世界の原因があるなら、それを含む一回り大きい世界があり、さらにそれを含む世界があり……という無限入れ子だ。しかしそれは違う。
 この、メタレヴェルのない、「時間が無い」世界を鮮烈に表したのが、スピノザではないかと思う。スピノザは『エチカ』の冒頭で、絶対無限の存在者としての神を定義する。近世哲学に馴染みのない方は、これだけでナンセンスと思うかも知れないが、スピノザの言う神とは、我々の考える世界そのものだと思えば良い。神は唯一の「実体」であり、世界の諸事象は、この「実体」の「属性」のもつ「様態」でしかない。つまり一切が神の内部での出来事なのだ。これについて外部を問うことは出来ない。なぜなら、その問いの原因自体が神の内部にあるからだ。この世界は、それ自体において自律的に存在し、原因を外部に持たない。

〈私〉、単独性、『箱男』

 こう書いて、我々はハッとする。この神=世界とは、丁度「私」そのもののようではないか。スピノザは神を唯一の存在とは言わない。唯一も何も、それは一つとか二つという可能性を持たないものだからだ。「私」も同様だ。あなたも私も「私」という時の「私」は、「私」ではない。そのような「私」は、上で書いたように単なる自己意識であって、機械と変わらない。そうではない、「この」「私」というものがある筈だ。その「私」がなければ、世界そのものもないも同然な、「命あっての物種」のような「私」だ。
 それは何度も「この」をくり返しつつ退行するが、その外部を想像することの出来ない「私」だ。永井均ならそれを「私」と区別して〈私〉と書くだろうし、柄谷行人なら単独性と呼ぶかもしれない。そしてこの〈私〉は、それをそう書いてしまったとたんに、元々の意味を失なって単なる自己意識と区別できなくなってしまう。〈私〉は主題化できない。
 〈私〉の単独性について理解するには、分析哲学における固有名詞の問題が分かり易い。いささかややこしい話になるが、問題の理解を促す為、簡単に触れる。

 フレーゲ、ラッセルの記述理論は、固有名詞は確定記述と交換可能だとする。つまり、固有名は短縮・擬装された「説明」と変わらないということだ。これは、例えば主語としての「アリストテレス」を「xはアリストテレスである」とう述語、つまり集合として理解し、文を集合と集合の関係に還元することだ。
 しかし日常語では、固有名に異なる意義を与えることが許されている。そこで固有名を記述の集団、束として捉える「群概念」が現われる。「アリストテレス」であるという述語は、様々な条件の集合で代理されるとうことだ。例えば、「アリストテレス」は「プラトンの弟子」「アレキサンダー大王の師」などの説明の束として理解される。
 クリプキという哲学者は、これに反論する。例えば、「虎は大きな肉食四足猫科動物であり、色は黄褐色、黒っぽい横縞があり、腹は白い」(記述の束)とする。そこで、ジャングルの開拓者が「三本足の虎だ!」と叫んだとする。彼のセリフは形容矛盾だろうか。誰もそうは思わないだろう。記述の条件が完全に満たされていなくても、その虎は十分に虎だ。
 これに対し、「群概念」派は修正を試みる。例えば、固有名を記述の選言だとする(サール)。つまり、どれか一つでも条件があえば「それ」としてみる。また、これでは極端なので、「一定の割合」で条件を満たせば「それ」と考える。条件の間で不均衡を考えたり、あるいはどの条件も平等と考えたり……等々。しかしそのどれも、場当たり的印象を禁じ得ない。
 また逆に、上の虎の定義を満たす動物がいたとしたら、それは必ず虎なのだろうか。仮に上の条件を(「ネコ科」を除いて)すべて満たすが、内部構造の全く異なる生物がいたとしよう。そのような生物は想像可能である。例えば、虎にそっくりだがよく調べてみると特殊なは虫類である生物、などだ。我々はその生物を虎とは呼ばないだろう。「虎に酷似した不思議な生物」を発見した、というだけだろう。
 注意すべきは、これが定義の不完全性や、あるいは単に新しい虎の科学的概念の提示などによっては説明出来ないということだ。虎の内部構造について何一つ知られていなくても、このような「そっくり虎」のことを、我々は決して「虎」とは呼ばない。

我々は一つの種を指して「虎」という言葉を使うのであり、この種に属さないものは、例え虎にそっくりであっても実際には虎ではない、と前もって言うことができる(『名指しと必然性』八木沢敬、野家啓一訳)

 固有名詞は、それについての一般的説明以上のものを含んでいる。固有名詞は翻訳できない。Takeyuは何語でもTakeyuだ。固有名詞は、翻訳され交換される言語の経済に紛れ込んだ外部の痕跡だ。記述理論の語りは、どんなに巧妙化しても、どこか天動説的な粉飾を重ねていくような印象が拭えない。「正確な記述」を極めようとすればする程、「名前」の本体は我々から遠ざかっていく。
 これに対し、クリプキという人物には、世界を前にした諦念、「哲学」からの撤退が匂う。彼は、名前の「群概念」について語ろうとした時、次のような言葉を括弧の中にさりげなく書き付けている

 それは実に良く出来た理論である。私の考えでは、その唯一の欠点は、おそらくすべての哲学理論に共通のこと、すなわち、間違っているということである。その代わりに別の理論を私は提案しているのだ、と思われるかもしれない。しかし、そうではないことを望みたい。なぜなら、もしそれが理論ならば、それもまた間違っているに決まっているからである。(同前)

 以上からも察せられるだろうが、クリプキは固有名詞や「名前」が何か特別な仕方で言語一般から浮き立っていると考えていた訳ではない。そのような「部分的突出」を想像することは分かり易いしまた神秘主義的な魅力を放つが、ことの本質からはかえって遠ざかってしまう。言語の一部ではなく言語全体、更に言えば「生活形式」全体の比類なさに驚かなければならない。
 〈私〉の比類のなさはこれと平行的だ。〈私〉は「私」ではない。〈私〉は自己意識ではない。それは世界に一つであり(一つもクソもない)、むしろ外部のない世界そのものだ。「私」はせいぜい鏡に写っている「あいつ」のことであり、この〈私〉とは関係ない。それは私の身体や経歴と同じ程度には〈私〉と結び付けられてはいるが、〈私〉とは比べようもなく凡俗で外にあるものでしかない。「私」や私の記憶、「精神世界」などは私以外に知りようもないという意味で〈私〉と同一視されることがあるが、混同してはならない。「私」は村の掟に書き込まれた一登場人物でしかない。

 私は〈私〉から、安部公房の『箱男』を連想する。『箱男』は冷蔵庫ほどの大きなダンボールの中に入って暮らす「箱男」についての物語だ。「箱男」はダンボールに細い横長の覗き穴をあけ、微妙な庇を付けることで外から中をうかがえないようにする。「箱男」はダンボールの内部に必要なものをつるしたり、何事かを書き付けたりする。
 「私」は丁度このダンボールの内部のようなものだ。それは確かに外からは知ることの出来ない領域だが、明らかに〈私〉そのものとは異なる。ダンボールを開く方法さえあれば、それは他人にも知ることの出来る、交換可能なものだ。

無時間と時間の出会う場所

 唯一の「時間が無い」世界と〈私〉を併置することで、我々は「時間が無い」世界と「時間がない」世界が出会う場所に立ったことになる。というのも、「〈私〉は主題化できない」としたように、〈私〉は常に「私」へと、つまり無限入れ子の世界へと誤読されるべく運命づけられているからだ。〈私〉には時間が存在しないが、「私」は時間の中でしか認識されない。この場所では、両者が必然的誤読という逆説によって接触している。一方でここは、私が〈私〉と記述することで何事かを語り得ている(と信じられる)という奇跡的な場所でもある。
 「時間が無い」は例えば三角形の概念であり、「時間がない」は紙に書かれた三角形のイメージだ。スピノザなら前者を観念、後者を想像知と呼ぶだろう。三角形の内角の和が二直角なのは、証明を待たない。それは三角形の観念に含まれる、定義の部分なのだから、証明の問題ではないのだ。ある数学者が地上に三角形を描いて、その内角の和が二直角であることを証明しようとしたと聞くが、これが倒錯的であるのは理解できるだろう。証明とはどこまで行っても手順が存在し、「時間がない」(=「時間がある」)世界のものだ。コンピュータの計算にも時間がかかるのだ。
 「時間がない(時間が存在する)」世界は物語の走る世界であって、証明のある世界だ。「時間が無い(時間が存在しない)」には定義と演繹があるだけで、普通に言う意味での証明はない。ユークリッドの点(面積も長さも持たない数学的点)があるかないかは、証明の問題ではない。それはあると言っている以上あるのだし、あるかないか問われれば「あるわけないだろう」と答えるかもしれない。後者は正に彼岸だが、前者の世界では常に焦っていなければならない。「時間が足りない」からだ。この時間の流れる世界で、不完全性と無知が物語を生み、目的論を涵養する。
 あくまでイメージとしてだが、両者は熱力学の第一法則、第二法則を連想させる。熱力学の第一法則とはエネルギーの総量は増減しないというエネルギー保存則で、マクロ、ミクロを問わずに成り立つ基本原理である。これは可逆的で、丁度時計が精密に動き続け、半日に一回同じ状態に回帰するような、機械論的な無時間世界だ。第二法則は、マクロの世界に特有のもので、溶けた角砂糖が再び角砂糖に戻ることがないような、不可逆性を表す。これはエントロピー増大の法則と言われ、時計で言えば、いつか電池が切れて(あるいは時計自体が磨耗して)止まるという面を表している。
 もちろん我々は、常に「時間がない(時間が存在する)」側からしか語ることが出来ない。「時間が無い」世界について語り出したとたん、それは「時間のない」文脈に、陳腐化し回収されてしまう。〈私〉が「この」「この」と指し示し続けることでしか成立できないように。だからこそ〈飛び出し〉しかないのだ。
 〈飛び出し子供〉は道路を垂直に横切って、こちらからあちらに飛び出す。あちらは場所ではない。都市が空間を必要としないように(ネットワーク)、あちらは空間的な場所ではない。「屋上解放」で触れたように、イナカグラシで都市から脱出することは出来ない。あちらが単なる場所ならば、ただの横断歩道だ。〈飛び出し子供〉は絶対速度=ゼロ時間に向かって飛び出している。移動は脱出に結びつかない。移動自体が「ここ」なのだから。飛び出すことが必要なのだ。
 あちらとは何のか。あちらは存在するのか。あちらは絶対速度であり、ありえない速度だ。あちらは「ない」。あたかも三角形が「ない」ように。ユークリッドの点(数学的点)が「ない」ように。飛び出した後には死体が残っているだけだ。そして死体そのものは、あちらとは関係ない。「思い出の品」のように、あちらに思いを馳せる契機にしかならない。

〈飛び出し子供〉は過去に飛び出す

 空き地を使って考えてみる。
 空き地は存在するか? もちろん存在する、とは答えるかもしれない。そのとおり、存在する、語の真の意味で。空き地は否応もなく、それ自体において存在している。つまり、それが現実だ。一方で、空き地とはそもそも何なのか。繰り返しになるが、それは「未だ建築されざる土地」である。そうでないなら、単に土地とか地面とか呼べば良い。空き地は暗に建築を含んでいる。つまり、「建築/未建築」という分節の仕方の結果、空き地は生成される。空き地は建築の否定なのだ。
 「未だ」という事に注目しなければならない。空き地の概念に忠実に考えるなら、むしろ建築された土地を想像すべきだろう。例えば、あるマンションに住む住人は考える。「ここはかつて空き地だった」と。つまり、それが空き地なのだ。
 フロイトは言う。「子供時代は、それ自体としては、もうない」と。「もう」ないのだ。空き地は子供時代だ。空き地が子供の、それとして大人に指定されていない遊び場であることは、示唆的だ。そして子供時代もまた、「普遍的に」暫定的だ。
 ここでは二つの空き地が示されている。現実として存在する空き地と、現在存在しない空き地。我々が「現在は存在し、過去は存在しない」と言う時、それは後者の文脈に立っている。内部の文脈と言ってもよい。確かに、過去は(現在)存在しない。既にマンションの建てられた土地に、空き地がないように。一方で、過去は存在する。誰の目にも明らかなように、空き地があるように。
 二つの空き地を統合する言い方を考えるなら、こう言うべきだろう。「空き地は(現在)存在しないが、(現実に)存在する」。空き地は過去なのだ。そして、あらゆるマンションは、既に存在しない空き地によって成立している。外部が内部を回転させている。マンションという商品(奇しくもそれは本当に「商品」だ)が流通する経済に、空き地はエロスを注ぎこんでいる。
 二つの空き地は、丁度二つの世界と重なっている。だからこそ空き地は絶好の素材なのだ。当然、我々は「時間のない」側、すなわち時の流れの中で生きるマンションの住人としてしか語ることができない。現実の空き地、絶対速度は直接示すことが出来ない。「時間のない」、すなわち時間の流れる世界の尺度から言えば、「時間の無い」世界は過去にある(あった)。「時間が無い」のだから、過去も何もないのだが、そういう時制以外に、現在の分脈からは接近方法がないということだ。
 英国のオカルト研究家コリン・ウィルソンは、「X機能」という脳の未知の能力について語っている(『オカルト』『時間の発見』)。それは「意識の網の目を拡大」するもので、我々が感じる現在時の感覚を広げ、過去や未来までも見通す力であるという。一般には「サイコメトリー」などと呼ばれている超能力だ。『賢者の石』という彼の小説の中では、この能力を用いた主人公らが、「脳のタイムトラベル」によって古代文明の謎に迫ったりもしている。私はこのような超能力については全く信じられないし、また意味もないと思うが、彼が「X機能」を通じてイメージしているものは重要だ。
 そしてベルクソンにしても、あるいはプルーストにしても、これらの認識の仕方を過去に結び付けているということに注目しなければならない。私はベルグソンの時間論は、それを時間と言う限りにおいては間違っていると思う(ベルクソンの真意はそんな所にはないはずだ)。なぜなら、一般に彼が「本当の時間」と呼んだとされているものは、我々の時間の概念に含まれない、実体としては単なる心理的な気分といったものでしかないからだ。しばしば「空間化された時間」(去勢された時間)という言い回しを聞くが、我々は空間化されて、不正確にせよ数えられるようになって、初めて時間を時間と考えるのであり、かつそれをうっかり空間と勘違いすることなど絶対にないのだ。ましてコリン・ウィルソンの考える「能力」は、それを能力と考える限りにおいては検証可能なものとは思えない(仮に「能力」があったとしても、問題の本質とは関係ない)。重要なのは、過去、正確には過去時制という形式を通じてしか表せない語りの形式だ(「空間化される『前』の時間……」)。
 〈飛び出し子供〉は、過去に向かって飛び出していると言える。映画『スーパーマン3』ラストで、スーパーマンはヒロインの救出に間に合わず、彼女を死なせてしまう。そこで彼は、大気圏外を光速を越えるスピード(絶対速度!)で飛行することで過去へ戻り、彼女を助ける。この極めて非科学的なスーパーマンの飛翔のように、〈飛び出し子供〉は過去に、既にない場所に向かって飛び出すのだ。

倫理的〈私〉

 以上の部分には、かなり乱暴で不正確な部分がある。軌道を修正しつつ、次の段階に進もう。

 「神=世界とは、丁度〈私〉そのもののようではないか」と言ったが、〈私〉に引き込むのは独断である。この〈私〉はスピノザにとっての自己や意識とは全く違う。
 「〈私〉そのもののよう」というのは、分かりやすく言えば「目を閉じれば世界などないようなもの」「私の見ていない時には部屋は存在しないかもしれない」という時にイメージすることだ(手塚治虫『ブッダ』にもそういう場面があった)。しかしこの譬えは分かりやすいが不正確であり、はっきり言えば間違っている。ここに、いわゆる認識論的な独我論への陥穽がある。

 クリプキの挙げている盲目の例を使ってみよう。盲目の人にとって、光は存在しないのか。明らかに、そうではない。「盲目の人にとって光は存在しないも同然」ではあるが、やはり光は存在する。それは目の見える人からの情報によるのだろう、と言うかもしれない。
 それでは、全人類が盲目だとしたらどうか。人類が光を感知する能力を持っていないとしたら、光は存在するか。依然として光は存在する。感じないからといって、光がなくなるわけではない。我々は感覚出来ない電磁波の存在をいくらでも知っているではないか。
 しかし、それは適当な測定装置(例えば光を音で表現するような……)があるからではないか、と指摘されるかもしれない。では、そのような測定装置もないと仮定してみよう。それでもやはり光は存在する。
 「全人類が盲目で、適当な測定装置もない時、光は存在しない」という人は間違っている。そのような時、我々は単にこう言うのだ。「全人類が盲目で、適当な測定装置もない時、人々にとって光は存在しないも同然だ(が、光自体はある)」。それ以上でも以下でもない。我々が光を単に感覚ではなく、物理的存在として(粒子だか波動だかとして)一旦「発見」してしまった以上、それは感覚と無関係に存在すると「言わざるを得ない」のだ。「全人類が盲目で、適当な測定装置もない時、光は存在しない」という人は、単純に「光」という言葉の使い方を間違えているのである。
 ここで言われているのは、認識の向こうに「物自体」があるといったナイーヴな幻想ではない。もっと簡単な言葉の使い方の問題だ。
 だがこの説明にも、何か釈然としない部分がある。「日常言語学派」と呼ばれる人達なら、これで満足かもしれないが、少なくとも私にはまだ何かひっかかる部分がある。問題を「言葉の使い方」と言ってしまっているからだ。本当の核心は、「言葉の使い方」ですらない何か、なのではないか?
 認識論的独我論の排除を完遂しても、依然として「そのような言葉使いそのものを規定している何か」「そういう言い方になっているというこの歴史性」という「どうしようもない単独者」を感じるだろう。その時感じられているものこそが永井均の〈私〉であり、独在論であり、ウィトゲンシュタインが「語り得ない」とした存在論的独我論なのだ、と私は考える。本文で「〈私〉そのもののよう」と言っているのは、言うまでもなくこちらの〈私〉である(ウィトゲンシュタインが『論考』で「語り得ない」と言った問題は、これよりずっと広いようだが)。

わたくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する。(5.6)

論理は世界に充満する。世界の限界は、論理の限界である。
したがって、われわれは論理の内部で次のように語ることは出来ない。かくかくの物は世界の内に存在し、あの物は存在しない、と。
つまり、かかる命題はある種の可能性の排除を前提とするようにみえるが、これは出来ない相談だからである。というのも、論理が世界の限界をもう一方の側から眺め得た時、論理はその限界を飛び越えているはずであるから。
思考できぬものを、思考することは出来ない。かくして、思考できぬものを、語ることもまた出来ない。(5.61 共に『論理哲学論考』 L.ウィトゲンシュタイン 坂井秀寿訳)

 しかし本当は、こう語ることすら不可能なのだ。そして実際、彼は口を閉ざし、「生活形式」のみを単に示し、その前で呆然と立ちすくみうろうろするようになる。「わたくしの……」と言い出したとたん、それは最初の何かとはまるで比べ物にならない凡俗なものへと堕してしまう。取り逃がしたのは、世界が一つであるという圧倒的な経験だ。いや、それは正確には経験として取り出すことすら出来ない何かなのだ。

論理の理解に必要な「経験」とは、何かがかくかくにあるという経験ではなく、何かが存在するという経験である。しかしこれこそ、経験でもなんでもないのだ。
論理はあらゆる経験−−あるものがかくかくであるという経験−−に先立つ。
論理は、ものの状態に先立つが、ものの存在には先立たない。(同前)

 「正しい」哲学者とは、哲学からの退却を模索する人だろう。これは冒頭に触れた「クズ哲」の立場だ。

 また、この認識論的独我論を、「あらゆる陳述文を『とわたくしは思う』とか『とわたくしは信ずる』とかの条件を伴った文章に(それゆえ、いわば、わたくしの内的生活の記述に)変形しうる可能性」(『哲学探究』 L.ウィトゲンシュタイン 藤本隆志訳)と言いかえてもいいだろう。
 ここから想像出来るように、独我論と相対主義、すなわちある種の「責任の無さ」は相性が良い。「〜〜と私は思う(が、他の人にとっては知らないよ)」と「こうもいえる、ああもいえる」「彼の立場からは○○だが、彼女の立場からは○○だ」は直結している。責任とは共同体的に予め与えられた交換レートではない。「自由は責任と引き換えに与えられる」等は脳天気なオトナ達の考え出した倫理規範に他ならない。責任はある種の飛躍、断言から生まれるものだ。つまり、問題は倫理へと接続される。
 そもそも、上で簡単に〈私〉と単独性を併置してしまっているが、よく考えると両者は簡単に比べてよい関係ではない。単独性は一般性−特殊性の軸に対し垂直に位置するが、一方で「単独性一般」として扱ったとしても(そんなものはありはしないが)、依然として単独性についての言及を続けることができるからだ。〈私〉が単独性の問題としてとられてしまったとたん、実は〈私〉の問題は消滅してしまっている。
 永井均がウィトゲンシュタインの言葉をひいて、「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない」と言っているが、ここにすべてが凝縮されている。我々は〈私〉から単独性を抽出する事は出来るが、逆は出来ない。だから、実はここで〈私〉などと平然と書いてしまっていること自体、既に〈私〉の誤読の始まりなのだ。
 だが逆に、我々はここで〈私〉という表記によって何事かを語り得ている。それこそ、「時間が無い」と「時間がない」が出会うということなのだ。注意すべきは、手放しで〈私〉が「ある」のではない、ということだ。〈私〉は倫理的なのだ。

 いささか議論が抽象化したので、倫理そのものの問題へ進む前に、いくつか迂回路を辿りたい。

### 飛び出す今西、飛び出すブルース・リー

今西進化論

 「サル学」などで知られる生物学者今西錦司による、異端の進化論「今西進化論」を使って考えてみよう。もちろん、私は生物学の専門家ではないし、今西の説がアカデミズム内でどう位置付けられているのかは知らない。ただ思想的なモデルとして利用してみる。
 まず初めに、今西の批判する、ダーウィニズムを基礎とした正統進化論について簡単にまとめてみる。
 正統進化論は、主に二つの原理によって構成されている。一つは「自然淘汰」(適者生存)であり、今一つは「突然変異」である。
 自然界での生物は、沢山の子供を作る。しかし多くの場合、生き残る者は一部にすぎない。ここでダーウィンは個体差に注目する。足の速いシマウマは生き延び、遅いシマウマは捕食される。すなわち、適者生存である。こうしてより環境に適した個体が生き残り、このような選択を繰り返すうちに種が進化していくということだ。
 しかし後の遺伝学の研究により、これだけでは進化を説明できないことが分かってきた。同種の個体間における一般的変異だけでは、淘汰作用として機能しないのだ。
 栽培植物などを人工的な交配などで変化させていったとしても、それはあくまで一つの種の中での変異であって、新たな種が生まれるわけではない。同種内で起こる程度の変異なら、例えば足の速いシマウマからでも遅いシマウマは生まれるし、遅いシマウマから速いシマウマが生まれることもある。また、獲得形質は遺伝されない。
 そこで用いられるようになったのが、突然変異の概念である。突然変異とは、放射線等の影響により発生した因子形の変化を伴う表現形であるが、これは獲得形質等と異なり子孫に遺伝し、種の枠を越えて作用する。突然変異により偶然に生まれた新たな種が、以前の種より環境に適応している場合、徐々に以前の種を駆逐し生き延びていく、というわけだ。
 ここで一貫して流れているのは、目的論の排除という意識である。近代科学は、世界解釈の方向として、「神の見えざる手」のような目的論を取り除いていくように発展してきた。進化論においても、定向進化や獲得形質の遺伝といった個体の主体性を排除し、偶然によって説明される、機械論的合理性が追求された。正統進化論での、ランダムな突然変異と、その環境への適応による自然淘汰という解釈はその結果であると言える。
 これに対し、今西は独自の進化論によって反論を試みる。
 今西は、進化とは種を単位として起る現象である以上、種を主体に考えなければならないとする。種とは、形態的・機能的ないしは体制的・行動的に同一な個体を、構成要素として成り立つものである。種にとっては、その構成要素である個体は基本的に同一であってもらわなければならない。個体差が余りに開いてしまい、一世代ごとにいちいち大きく変化してしまっては、種の維持が成り立たないからである。同種に属する個体であれば、速いシマウマと遅いシマウマ程度の違いはあっても、交配が不可能な程違うわけではない。そうでなければ一つの種として成立しなくなってしまう。また逆に、一つの個体を取り出して実験・観察することにより、その種の基本的性質を理解する事もできる。
 健康な個体であっても偶然に死んでしまうことはあるし、また弱く劣った個体でも運良く生き残ることがある。同種の個体がよく似ているということは、個体の損失が予め計算に入れてあるのである。運不運のつきまとうことであるから、どの個体が生き残っても大丈夫なように、大して変わらないようにできているのだ。
 種内の変異が種そのものの変異につながらないことから、正統進化論内ですら認められているように、同一種内の個体差は進化に関係ない。世俗的な進化論理解からは意外なことだ。「弱肉強食」などという素朴な幻想は、正統進化論だけで考えても成り立たないのだ。適者生存原則に関するこの誤解は、スペンサー等による社会進化論の影響によるだろう。殊に我国では、進化論と社会進化論が同時的に輸入されたことから、両者の世俗的な混乱が大きいことを、今西も指摘している。
 また、今西は正統進化論のもう一つの原則である突然変異にも、懐疑を投げかけている。自然界を眺めても、また実験遺伝学者等が人為的な放射線の照射などで実験しても、変異が起ることはあっても、生まれてくるのはどれもこれもが欠陥のある片輪者ばかりである。広島・長崎に原爆が投下された際は、かなり調査が行われたそうだが、新種が見つかったという話は寡聞にして聞かない。
 だが進化というのは非常に長大な時間の中で起る現象である。そこで百歩譲って、正統進化論者の言うような都合の良い変異が起ったとしよう。だが、そこで「優秀」な個体が生まれたとしても、たった一匹ではどうしようもない。子孫を残すチャンスもなく、大海の中の雫の如く消えてしまうだろう。
 分子生物学の発展により、遺伝のメカニズムは相当解明されつつあるが、それでもはっきりするのは、子は親と大体同じようになるように仕組まれているということであって、それ自体の中に進化の契機が含まれているわけではない。遺伝子をいくら調べても、進化の秘密は明かされない。
 ダーウィンよりはトマス・ハクスレー等の影響による所が大のようだが、正統進化論は、進化を何が何でも闘争を通じて実現するものとして捕らえようとする傾向が強い。目的論や価値判断の排除を唱いながらも、進化論を含め、近代科学というものが思想的流れの一部にすぎないことがここからも明らかにできる。
 しかし、適者生存も突然変異も拒むのだとしたら、今西は進化をどうやって説明するのか。今西は、種は「変わるべくして変わる」と言う。
 例えば、コウモリは四つ足のほ乳類が空中生活に適応して進化したものである。コウモリの翼の原型は前肢である。もし進化が、前足が少し翼に似たものになり、それがもうちょっと翼に近付いて、といった遅々としたものであれば、その途中の翼とも前足ともつかない中途半端なものしか持たない「コウモリもどき」は、どうやって生き残ったのであろうか。このような進化は、種全体が一斉に、比較的短時間に行うのでなければ、達成不可能である。種は、変わるべき時が来たら、それ自体において変わるのである。
 もちろん、ゾウリムシがいきなりサルになるような極端なものは想像しにくい。種には何らかの理由で煮詰まった時の為のカードが用意されており、いざとなればこの伝家の宝刀を抜くと考えれば良い。それでも大抵の進化は小規模なもので、四つ足動物がコウモリになったりクジラになったりするような進化は特別なジャンプであるだろう。いずれにせよ、種の変異には方向があり、それは環境による淘汰によりかかった他律的なものではなく、種自体による主体的なものなのだ。
 最初にことわったように、進化は種の問題である。今西は、種の問題は種に帰すように考えているのだ。これは一見すると神秘主義的な考えに見えるかもしれない。また、目的論の復活とも読まれかれない一面がある。しかし実は、正統進化論の方こそ、表面的な価値判断の排除によって巧みに目的論を温存しているのだ。
 確かに正統進化論は、個体の主体性における目的論の排除には成功している。しかし種が「優劣」によって選択されるという時、その「優劣」を決めているのは誰なのか。結局、超越的な主体が、個体からエコシステムなどに摺り替えられただけではないか。
 これは近代科学一般が、機械論によって世界内から目的を排除することにより、世界そのものの目的を温存しているのと並行的である。世界の外には神様(「物理法則」でも良い)がいて、世界自体の目的を決め、原因を作っているという構造である。表面的な目的論の排除によって、超越的存在を保存しているのだ。
 個体の生き残りが「優劣」ではなく単なる偶然であるということこそ、本当に残酷な現実を受け入れることになる。「主体性の進化論」といったキャッチコピーにより、今西はしばしば、個体の主体性(内面的主体性)を主張しているかのように誤解されている。しかし事実は全く逆である。個体の主体性もシステムの主体性も排除し、種は種のみの自律性によって変化するというのである。これは外界に働きかける主体といったものがどこにもない状態と言ってもよい。誰も何も働きかけなくても、それぞれのものがそれ自体において変化し、生きているのだ。正統進化論こそ、ありもしない超越的主体に依存したニヒリズムであり、今西進化論は乾燥しながらも輝くリアリズムなのだ。今西の思想は、世界の原因を世界それ自体の内に認めるスピノザの宇宙を連想させる。
 個体がどれも似たりよったりで、個体差それ自体に意味がないとするのは、いわゆる「個性」や「多様性」を否定する救いのない思想に見えるかもしれない。一方で、今西は個体識別によるニホンザル研究の先駆者としても知られている。一見すると矛盾に思えるかもしれないが、そうではない。
 「個性」「多様性」に価値を置くことは、逆に言えば、一般的な「ニンゲン」が措定されて初めて個に意味があるということである。個の価値を種に決めてもらう超越的方法だ。「ニンゲン」一般や「サル」一般からの距離による「個性」「多様性」に価値を求めると、結局超越的な「優劣」といった数直線の上に個体が並べられていく図式になる。「個性」の尊重は、一見人間的に見えるかもしれないが、まさにその方法それ自体によって個の価値に上下があることを認めてしまうのだ。
 今西が尊重するのは、例えば平凡な男である山田君がそれでも世界に一人であるというような、単独性である。世界の内に存在するものは、どれもがそれ自体に於いて主体的に存在し、何者によっても説明されたり評価されたりする謂れはないのだ。そしてその先には、世界そのものも同様にそれ自体によって成立する世界観がある。

ブルース・リーは〈飛び出し子供〉

 ブルース・リーについて考えてみる。
 ブルース・リーは我国では映画スターとしての印象が強いが、米国では映画出演より以前から天才的武術家として知られていた。彼は中国南部の拳法詠春拳をベースとしたが、ボクシング、サバット、レスリングなど様々な武術・格闘技を探究し、これらを取り入れて自らの体系を築いていった。また彼は、ワシントン大学で哲学を専攻し、西洋哲学に加え老壮などを研究した思想家としても知られている。
 初め彼は、詠春拳を自分なりに改良したジュンファン・グンフーという形で指導を行っていたが(ジュンファンはリーの本名)、やがてそれにもとらわれることのない進化する挌闘コンセプトとして、裁拳道(ジークンドー、JKD)を提唱した。JKDはコンセプトであって、流派ではない。その方法論は、現在の総合挌闘技を先取するものとして、近年格闘技界で再考されている。
 リーはJKDの確立に至り、スタイルを拒絶した。インタビューなどの中でも、彼は門派、流派といったこだわりを捨て、武術を自らを表現するものとして語っている。

私はやろうと思えば、思いきり気取って恰好つけることだってできる。(……)しかし嘘をつかず、正直に自己を表現することは、とても難しいことなのだ(ビデオ「挌闘芸術ジークンドー」"Bruce Lee's JEET KUNE DO")

 しかしこのリーの卓越した思想は、後年の挌闘家達によって多くの誤解を受けているように見える。米国には「師範病」のようなものがあり、少し武術を学ぶと自分なりのやり方でそれをまとめたり「進化」させたりして、自らの門派を持つ傾向があるようだ。カラテのka、柔術のji、カンフーのkun、ボクシングのboをとって、Kajikun-Boなどという奇怪なものもあるそうだ。彼等の中には、自らをリーの進歩的精神の後継者として自認している者もあるかもしれない。つまり、武術を通して「個性」を表現しているのだ、と。
 しかし彼等は、全くリーの思想を理解していない。「個性」などと言い、流派を越えて自分の方法の独自性を強調するなど、愚の骨頂だ。それこそ、自分の「スタイル」ではないか。リーはそれらを全部含めて、軸の転換を求めているのだ。
 JKDは、あらゆる一般的スタイルを拒絶し、一人一人が孤立無援状況の中で自らに必要なものを学び、不要なものを捨てていくコンセプトだ。現在のJKDの総本山的存在に、ロスアンゼルスのイノサント・アカデミーがあるが、このスクールのカリキュラムを見ると、まるで大学の講義表のように、「ムエタイ」「ジュンファン」「柔術」などのクラスがならんでいる。しかしそのどこを見ても、「JKD」という授業は存在しない。「これを学んだらJKDマンである」というようなものは、何も用意されていない。もちろん、格闘技・武術である以上膨大な基礎に支えられており、決してテキトーにやるものではないが、一方であるレヴェルに達すると「確立される」ものでもない。JKDは「極める」ものというよりはむしろ、「発見される」ものだろう。
 それは正に単独性の問題、固有名詞の方向である。リーは〈飛び出し〉ている。あの飛び蹴りのヴィジョンのように。それは比べようもなく「ブルース・リーであること」なのだ。そこには、比較の上で強調すべきものなど、何も残されていない。
 リーの言った「スタイルを拒絶する」「表現として武術」とは、そのような「他と比べて違う」といったような意味ではない。まして、どこかの自治体の「住民参加型行政」がすすめる「自己表現」(!)などとは縁もゆかりもない。それらはすべて、一般性と特殊性の軸の中で理解できるものだ。普通はこうだが、私はこうだ、といったような。「私らしくある」などという反吐が出そうなコピーのような。東本願寺が「バラバラで一緒」などと言う時の、陳腐なイメージがそれだ。
 しかしリーの言葉、動作、すべてがそれらとは比べようもない。彼から漂ってくるのは、固定化した武術家の雰囲気というより、どこか動物じみた、「なりふり構わない」迫力とユーモアだ。我々は彼の叫びに圧倒される。
 リーの弟子の一人は「リーは結局何がやりたかったのか」という問いに対し、「ベストアクター」と答えている。これは一見、リーを単にアクション俳優として捉え、武術家としての側面を軽視する言葉に見える。しかしそうではない。アクターであるということは、正に彼自身であること、代替不可能であることなのだ。これを個性などと言うことは、山田と鈴木を比較するようなナンセンスだ。勿論それを外から眺めて、「ここが違う、あそこも凄い」などということは容易だ。しかしリーの思想の目指したものは、そのような軸とは無縁のものだ。
 リーは実践の中でそれを示していく。なぜなら、「単独」などとただ言っているだけでは、〈私〉が「私」に誤読されていくように、一瞬にして形骸化してしまうからだ。必要なのは、「軸を立てる」方向に〈飛び出す〉その行為そのものだ。「時間がない」と「時間が無い」が出会う場所、つまり時間が存在しない筈の数学の式に時間がかかる、という正にその場所で挌闘することなしに、〈飛び出し〉はあり得ない。

 私が技を学ぶ前は、パンチは単にパンチであり、キックはキックだった。技を学んでからは、私にとってのパンチはもはやパンチではなく、キックもキックでなくなった。技を理解した今は、パンチは単にパンチで、キックはキックに過ぎない。(『ブルース・リーノーツ』ジョン・リトル 監修中村頼永)

 技を学ぶ以前、リーとて単純にパンチはパンチだと思っていただろう。しかし学習につれて、パンチと一口に言ってもその内実は多様であることが分かる。最終的には、やはりパンチは単にパンチになっていく。つまり、考える必要がなくなる。いわゆる「守・破・離」だ。
 しかし初心者がこの結論だけを先取りして、「パンチはパンチだ」と考えたらどうだろう。彼は一歩も前進することが出来ない。我々はこの場所で、必然的誤読という逆説の中で戦わなければならない。
 リーは修行の三段階として、「部分性・流動性・空」ということを言い、それを太極マークを利用した図に示している。これを見て最初から「空だ!」などと言ったところで、それは本当に何も無いだけ(ノイズだけがある)で、百回戦えば百回負けるだろう。
 リーの結論だけをかすめ取っても、悪い意味での「自己流」にしかならない。それではリーの足跡を辿ればよいかと言うと、それも完全ではないだろう。なぜなら、それは「ブルース・リーはこう歩いた」というだけであり、歩むべき道は学習者一人一人が発見するより他にないからだ。
 つまりはそれが悟りというものだろうし、悟りは絶対単独の孤立無援状況からしか生まれ得ない。悟りの言葉は悟りとは何の関係もない。こういうとまるで交通を否定しているようだが、それは全く逆だ。我々は共同体的な語りを越えた場所で、つまり通じ合えないという一点によってのみ通じ合える可能性を残しているのだ。
 リーは集団訓練を嫌い、プライベートレッスンを中心として指導したが、このことは二重に示唆的だ。つまり、教育というものの原理的不可能性を認識していた事、加えて正にそれが不可能であるというその場所においてのみ「伝える」(伝えないことによって伝える)可能性を信じていた事、だ。指導において薫陶しか信じなかった(しかしそれだけは信じた!)という意味で、リーは良きオプティミストであり、真性の武術家であった言えるだろう。
 『ドラゴン怒りの鉄拳』のラストシーンで、リーは小銃の一斉掃射に向かって飛び蹴りで向かっていく。師の敵討ちを果たしたものの、同時に人を殺める罪を負った彼は、自ら銃弾の雨に飛び込んでいくのだ。画面はそこでストップモーションがかかり、彼は空中に飛び出したまま固定される。これこそ、〈飛び出し子供〉ではないか。
 この永遠に飛び出し続ける〈飛び出し〉は、止まっているほど速い速度に向かって飛び出すことであり、「この」「この」を繰り返しながら無限に後退する〈私〉と平行だ。これらはどれも、ここから先はありません、というリミットの標識なのだ。
 それはスピノザの神であり、「ブルース・リー」が存在することであり、〈私〉が存在することだ。『ドラゴン怒りの鉄拳』では、奇しくも倫理の究極の場面で、それが示されている。

###倫理の発見

 我々は気がついたらここにいた。目覚めた時には、時間の流れの中にいた。失われた「空き地」の上に建つ、マンションで生きていた。
 我々は時間の中で語り出すしかないが、この「時間がない」の極限には無時間=死=普遍が待っている。一息に無時間の彼岸に至れば嘘になるが、一方で時間の中の物語に耽溺している訳にもいかない。
 神話を神話と知ったとたんにそこに留まることは出来なくなるが、同時に単に神話を殺すだけでは「もっとも醜い人間」である。「パンチはパンチ」と言うことはニヒルでかつ弱いが、「パンチではない」段階に留まることも許されない。
 その究極の答えとして、永遠の〈飛び出し〉について考えた。〈私〉は倫理的なのだ。ブルース・リーは、それを生きざまとフィルムで我々に伝えた。
 我々はそろそろ、倫理そのものの問題に進みたい。今までの議論も、すべて倫理を目指したものだが、表面的にはそうは見えないだろう。我々は倫理を、単なるオトナの説教や「社会のルール」のようなものとしてしか見ない方法に慣れ過ぎている。「社会のルール」など、本当は倫理とは何の関係もない。
 下らない説教など聞かされれば、反発するのが当然だし、そこで出来合いの約束に従ったとしても、そんな態度は倫理的とは言いがたい。マトモな人間なら、つまり真に倫理的人間なら、どんな頭ごなしの教説にも反発する筈だ。「良い子」は倫理的ではない。単に図々しいだけだ。
 このことを証す為にも、敢えて一見倫理とは無関係な議論から始めた。今一度状況を整理しつつ、先に進みたい。

存在論的・論理/認識論的・倫理

 永井均は、少年時代に「なぜ私は存在するのか」という疑問を友人にぶつけ、「両親がセックスしたからだろう」という答えを返された、というエピソードを紹介している。もちろん、この友人は永井の疑問には全く答えていないし、問題そのものを理解していない。しかし同時に、「両親がセックスしたから彼が存在する」というのは、それはそれで理解できる式ではある(=言いたいことは分かる)。両親の長い系図を取り出して、その「歴史」を綿々と語ることで、彼の出現を理由付けることも出来る。
 友人がもう少し賢明で、永井少年の言いたいことが肉体的存在ではないことに気付いたとしよう。友人は、「永井均」という人格の誕生の起源、あるいは記憶の総体の構成について考えるかもしれない。そこでは、無数の発達心理学的語りが開かれるだろう。主に家庭環境、それから学校や社会との関係が彼を作り上げた。関係そのものが彼であるとも言える。さらに、遺伝的因子の性格構成への関与なども、話題に加えてもよい。
 永井少年が、最初の一言を発し、ついに「僕が……」と語り出す場面を想像しよう。つまり、彼が「私が私である」という自己意識を獲得する場面だ。語り出す前、両親は、明白に言語を理解していない幼時に向かって、言葉を投げかけ続ける。「○○ちゃんはこのオモチャが好きなんでしゅね〜」……。「好き、好き、好きなのは……オレ?」。と、こんな分かりやすい過程は辿らないにせよ、永井少年は理解できない言葉の中に、大人達の語りの中に、「私」を発見する。「私」は語り出すのではなく、語りの中に発見される。
 しかし依然として、これは永井の問題とは何の関係もない。ここで発見されるのは、単なる自己意識でしかないからだ。人工知能などが話題になると、「機械が自我を持つようになるか?」などという問いが立てられる場面を見るが、これ程滑稽な問題もない。鉄腕アトムには明らかに自我がある。逆に、『ブレード・ランナー』のデッカードように、我々がふと「自分は作られた人間、ロボットなのではないか?」と疑問に思っても不思議ではない。実際に頭蓋骨を開けて脳が入っているのを確認した訳ではないし、仮に本当に開けてみてそこにコンピュータが入っていようが、枯れ葉が一枚入っていようが、そんなことは事の本質とは何の関係もない。「私はロボットなのではないか?」などと問える段階で、彼には十分に自我があり、心がある。我々はそのようなものを心と呼ぶのだし、自己意識など珍しいものでも何でもない。『キカイダー』に登場するワルダーという人造人間は、「心がないことで悩んでいる」という設定だったが、一体何を言いたいのかさっぱりわからない。
 永井が問題にしているのは、そんな「心」とか「自我」などではなく、唯一絶対の〈私〉、世界のリミットとしての〈私〉だ。この考える〈私〉は、何らかの事情で記憶も肉体も他人と入れ代わったとしても、何の影響も受けない〈私〉だ。
 この〈私〉の前では、自己意識としての「私」など、村の掟に書き込まれた一登場人物でしかない。〈私〉は時間を持たないが、「私」は物語の登場人物であり、時間を持つ。〈私〉は逃走する超越論的主体であって、もしかすると死すらないかもしれない。死のギリギリ手前で〈飛び出し〉続けるのかもしれない。

 〈私〉の内部には論理が充満している。〈私〉は言葉に満ちている。それらの言葉は関係付けられ、網の目のような辞書的参照関係を構成している。〈私〉の縁を一歩内側に進むと、時間が流れ始める。物語の世界だ。次第に世界は具体化し、「現実的」諸事象が時間のある世界で関係付けられている。それらは、「文化的」関係と呼ばれるかもしれない。そうした諸々のストーリー、そうあることもできたし、そうでないこともありえた、恣意的なストーリーの一つとして、社会規範としての倫理はあるだろう。
 社会規範としての倫理は、単なる約束ごとにすぎない。ヒトとヒトが、何らかの目的の為に交わした契約だ。巨大で複雑ではあるが、要するにそれは人間と人間の間に成立する、諸々の物語の一つにすぎない。
 「殺人」を例にとって考えていたりすると、そこには何か絶対的根拠があるように見える。しかし「売春」は悪いことなのか? 「麻薬」は悪いことなのか? それは人に害を与えないから必ずしも悪と言い切れない、と言うかもしれない。内から沸き上がる「罪悪感」や「善悪の意識」が倫理を基礎付けていると想像するかもしれない。では、「土足で家に上がる」のはどうか? そんな諸々の規範自体は、単に文化的に決定されただけで、それ自体の内容には、根拠もなければ意味もない。いかに強力に心に植え付けられ、多くの人に共有されていようと、そんなことは問題にならない。
 一歩後退して、問題は、「では、なぜ『悪いこと』をしてはいけないのか」となる。「悪いこと」を書き記した文化的規範が存在するとして、それを「守れ」とする力は何なのか、という問いである。一般にその「何か」が、倫理とか道徳とか呼ばれる。これは、一見法的強制力と似て見える。法もまた、規範=条項が存在し、それを「守れ」と訴えてくる。
 しかし法は、それが破られることが予め前提されている。法は、「守れ」とは言うものの、一つ一つの条項に従うか否かについては非常にクールだ。守らなかったら守らなかったで、罰が用意されている。法の強制力は、結局の所、罰でしかない。罰をもって「守れ」あるいは、「守った方が身の為だよ」と訴えるが、守られなかったとしても淡々と法的手続きを実行し、罰を与えるだけの話だ。
 いわゆる倫理・道徳は微妙に違う。ある規範を認識した上でなおかつそれを無視する者を、倫理は放置しない。「殺人は『悪い』ことだよ。道徳規範にそう書いてある」「ああ、そう」。そうやって無視した人間を、法のようにあっさり見過ごして、罰で回収しようとはしない。法は破られることを前提にしているが、道徳はそうではない。何がなんでも道徳の世界にすべての対象を回収しなければ気が済まない。道徳を分かって無視する、そんな態度自体を許しがたい「悪」とする。
 私の友人の姉が、犬の散歩をしていた。そこで立ち入った場所が、「犬つれこみ禁止」の場所で、そういう立て札が立っていたという。たまたま土地の管理人か何かが発見し、怒鳴り付けてきたそうだ。「この看板が読めないのか!」。この時の彼女の返答が洒落ていた。「犬には読めませんよ〜」。
 もちろん、管理人は納得しないだろう。飼い主は読める人間なのだから、メッセージは人間に向けられたものだ、と主張するのが普通だろう。では、犬だけが単独でそこに向かったらどうか。さすがに「読めないのか!」とは怒鳴らないだろうが、やはり犬を追い出そうとするだろう。話が犬だからダメなのだ、というかもしれない。
 では、「外国人お断り」としよう。看板は日本語で書かれている。それが読めない外国人がやってきたとして、「読めないなら仕方ない」とはならない。まずは、看板の意味を説明するだろう。分かってなお突き進もうとする外国人がいたとしよう。管理人は諦めるか? 絶対に諦めない(本当は犬の譬えのほうが問題を適切に表している)。
 社会規範とセットになった倫理のメカニズムの根底には、こういった「強制的な等質化」があるように見える。何がなんでも、その倫理の王国の一員になってもらわないと困る、ということだ。法は狂人や子供を裁けない(裁き切れない)。それは彼等が、ある意味「ニンゲン」とみなされていないからだ。「ニンゲン」という等質性がなければ、法は届かない。誰も人に噛み付いた野犬を法廷に上げようとはしない。だが、社会規範的倫理は、この等質性自体を拡大しようとする。倫理・道徳には「ニンゲン化」「ニンゲン認定」の力が含まれている。
 倫理が、もし社会規範と変わらないとしたら、法との決定的差異は、この「ニンゲン化」の力しかない。社会規範自体は単なる文化的コードにすぎないが、「ニンゲン化」の一点のみにおいて、倫理は単なる「約束ごと」に還元できない何かを持っているように見える。
 これを差し引いた単なる社会規範の部分が、本当に倫理と呼べるのかどうかはさておいて、もう一度全体を整理してみる。

 存在論的な論理の地平と、認識論的な倫理の地平があるとする(正統な哲学用語には準拠しない)。
 永井均の巧みな例示を援用するなら、論理の地平は「何故私は存在するのか」という問いに代表されるもので、小学生的であり、倫理の地平は「何故悪いことをしてはいけないのか」という問いに表される、中学生的なものである。
 存在論と論理=言語を重ねることはともかく、認識論と倫理をセットにすることに関しては違和感があるかもしれない。
 認識論が「目を閉じれば世界などないようなもの」だとすれば、この時の主体は自己意識と変わらない。一見とても「ひとりぼっち」な想像のようでありながら、そのような主体を無数に想像出来るという意味で、これは交通なき主体の乱立でしかない(孤独は既に一人ではない)。「私」の核には誰にも見えないココロがあり(ココロのカベ!)、外側には他人からも察しうる部分があって、表層で他人と関係している、という独立マシーン大量生産図式だ。
 ここは、「他人には心があるのか?」という脳天気な問いを発しうる場所(「ひとには触れられない」ことを前提にした「他人の心」の有る無しなど議論することが何なのだ? 有ろうが無かろうが結果は同じではないか)であると同時に、ニンゲンという等質性の開く場所でもある。それぞれが「ココロ」を内蔵したニンゲンが無数に併置される空間。これは、ニンゲンという等質性を拡大・認定しようとする倫理の空間だ。
 また、「存在論/認識論」を「単独性/個別性」という側面から考えることもできる。存在論は「まさにこの」という単独性と同時発生的であり、一方個別性は一般性(種と個、類と個の関係)の成立を前提として、一般性の陰画として成り立つ概念だ。これはちょうど、上の「他人に心はあるか?」という問いが成り立つ地平に於いて発生する。

論理・倫理の同時性、〈飛び出し〉

 一般的な理解では、論理/倫理はどちらかを優位とする包摂関係にあり、すなわち伝統的なイデオロギー的二項対立の構造を成している。日常使用における上下関係のつけかたには個人差がある。前述の永井の場合、スタート地点では、論理の側が外から倫理をクールに見ている。私自身もそうだった(一方で、管理人のオヤジのように「とにかく悪いモンは悪いんじゃ!」で生きている人もいるようだ)。つまり、倫理とは、巨大な言語システムの中に浮かぶ恣意的な意味の集合、文化的習慣にすぎないという考え方だ。もちろん、これで話は終わりにならないが、日常使用から出発せざるを得ない以上、とりあえずこちらをスタートポジションにする。
 認識論は一般性の成立を前提として成り立つものであり、論理的な順序関係を考えるなら存在論の優位は間違いないように思われる。少なくとも私自身はそう信じて成長してきた。「善悪の経済」などは、巨大な言語経済の一部にすぎないように見えるということだ。
 しかし同時に、存在論は常に認識論へと誤読されていく傾向がある。例えば、「目を閉じれば世界などないも同じ」というイメージに代表されるもの(認識論的独我論)がそれだ。これは私の存在を、主体や自己意識へとすり替える認識論的トリックによるものであり、単純な文法規則違犯としても一応の解決が可能な問題だ(正確には前述のように完全解決は疑問)。
 だが、「自己意識としての『私』は『この私』とは違う」という説明が「この私」(山村)以外に通用してしまった時点で、既に誤読は始まっているのだ。つまり認識論への誤読は必然的誤読という逆説的構造を成している。すなわち、この誤読は傾向という単なる統計的・経験的なものではなく、本質的なトラップなのである。
 また、論理的順序では論理が倫理に先行したとしても、その問いを発し語る「主体」は平凡な認識論的主体である。存在論を語るのは、ハタから見れば「自己意識」を内蔵した平凡なニンゲンでしかない。発生論的には、認識論的視点は存在論的視点に先立つ。なぜなら、我々は誰でもひとりでに語り出したりしたのではなく、ニンゲンという水平性を信じる語りの中に渦のように生まれてきたのだ。「○○ちゃんはこのオモチャが好きなんでしゅね〜」そう語り書けるオトナは、チンパンジーと変わらないような乳児を、間違いなくニンゲンと信じている。我々は皆、「自分のことを他人だけが語りうる」という人生の一時期を経験している(上空を飛び交うオトナたちのキャッチボール……)。
 ニンゲンの水平性に対する信仰がなければ、そもそも「この私」が語り出すこともありえない。返事もしない赤ん坊に語りかける母親を、誰も狂人だとは思わない。ニンゲンの社会は、ここで言う所の認識論的地平を基本として成り立っており、実際、自己意識と「この私」の違いを全く理解できないにも関わらず健全な社会生活を送っている人間が無数にいる。「自分のことを他人だけが語りうる」世界から、「自分のことは自分だけが知っている」主体が生産される。この意味では、存在論は認識論という乗り物に乗せられてやってくるようにも見える。
 そもそも「論理的順序」と語り出した時点で、我々は論理に巻き込まれている。論理を前提とするなら論理が先行するのは「必然」である。
 逆に、ここで発生論的と言った、一般的に使われる「流れる」時間順が、既に巨大なフィクションの一部であることを忘れてはならない。認識論的世界は「時間がある」世界だ。そこは無数の物語によって満たされている。上のニンゲン誕生のストーリーも、そのような物語の一つにすぎない。それは単に物語である以上、その気になればどうとでも語りうることなのだ。
 仮に、我々が既に獲得した認識を出発点とし、なるほどニンゲンは語りかけの中で生まれてきた、と納得したとしよう。しかしそれはどこまでいってもニンゲンの話であって、この〈私〉の話ではない。視界に映るすべての人間、さらに自分自身の自己意識の歴史には適用出来ても、この〈私〉には全く関係ない。どんな主体発生のメカニズムも、〈私〉については少しも言及していない。〈私〉が知らない所で、どんなメカニズムが働いていようが、そんなことは「知ったことか!」。
 いかなる心理的説明も、世界で唯一〈私〉に関しては力を持たない。それらはすべて、ニンゲンについての物語でしかない。最近、アメリカの心理還元主義的ヒマ潰し本が流行っているようだが、あれ程「役に立ちそうで立たない」ものはない。「片付けられない女たち」が、その原因を「注意欠陥他動性障害」という病気だと「知った」として、それが何になるのだろう。確かに「善なる嘘」としての気休めくらいにはなるかもしれないが、問題自体の解決には少しも寄与していない(だが、そうしてただ排除するだけでは、「殺害者」と変わらない……)。

 我々は失われた場所からやって来た。「子供時代は、それ自体としては、もうない」のだ。それ自体、というのは、それ自体ではないような子供時代ならいくらでも観察出来る、ということだ。実際、その辺にはいくらでも、正に決定的瞬間を生きようとしているガキンチョたちが走り回っている。だが、私の子供時代は「もうない」。失われた「空き地」のように。
 だが、全く奇跡的なことに、我々はここで、〈私〉について語り合っている。我々は、〈私〉に関してだけはいかなる心理主義的説明が届かないことを必然として知るが、同時に、上空を飛び交うオトナ達の会話という、「想像を越えた」世界を考えることができる。それは「一度も経験しなかった記憶」だ。我々はもちろん、そんなことを覚えていないし、「知ったことか!」と思う。だが同時に、そのようにして生まれたニンゲンとして自身を認め、ニンゲンにしか許されない形で、こうして語っている。
 私が今さらどんなに「ひとりぼっち」になろうとしても、それは無理なことだ。認識論的独我論のような、「孤独ごっこ」が関の山だ。孤独を考えれば考える程、我々は似たような「孤独」を抱えた、無数の忌々しい「仲間たち」に囲まれる結果になる。
 語りだしたとたん、それ以前は存在しない外部へと廃棄される。我々は語りだしている以上、存在しない場所を語りの中で直接認めるわけにはいかない。正確に語ろうとすればする程、外部は存在しないと言わざるを得ない。
 だが、語っている私は、正にその語っているということ自体において、紛れもなく、あの凡俗で嘔吐を催すニンゲンの一員である。「自分のことを他人だけが語りうる」グロテスクな現実から生まれてきたニンゲンだ。「知ったことか!」と思いつつ、我々は、「一度も経験しなかった記憶」を引き受けさせられている。
 私は、私がニンゲンであることにイラだつ。我々は「バラバラで一緒」なんかでは断じてない。そんなニンゲンなら、やめられるものならすぐにでもやめたい。イラだちの余り、暴走しそうになる。怒りをあらわにして叫びそうになる。「人間やめますか、覚醒剤やめますか」って、どっちもやめられないから問題なんだ!
 だが、怒ってしまっては堂々巡りだ。我々は、「バラバラもクソもなくバラバラ」だ。我々には名前がある。我々には顔がある。その限りにおいて、我々はバラバラであり、「個性」などというチンケなレベルでニンゲンを考える必要など全くない。ニンゲンには個性など必要ない。今西が、進化を個体差で考えないように。
 だが、そのようなバラバラさ、論理的必然としての〈私〉の圧倒的優位それ自体において、我々は〈飛び出す〉ことができる。〈私〉には名前がある。名前は、「様々な個性をもった人間の一人」であることの拒絶だ。〈私〉は名前自体と言っても良い。私が私自身の語りの中に存在し、生きているという限りにおいて、私は既に過去に向かって飛び出している。我々は上空を飛び交うオトナたちのキャッチボールなど「覚えてもいない」し「知ったことか!」ではあるが、同時に、そのような存在しない過去は「空き地」のように目の前に存在する。飛び出した向こうは存在しないが、飛び出すことは出来るし、今語っているということが既に、飛び出している。
 それはニンゲンであることを認めることでもあるが、この時のニンゲンは、「様々な個性をもった人間」ではない。「人類」と言った方が良いかもしれない。我々が語ること、我々が論理的存在(言語的存在)であることは、ニンゲン化するという運動なのだ。ニンゲン化とは、「一度も経験しなかった記憶」を背負うことだ。
 あらゆる社会規範(ルール、「マナー」!)を唾棄してなお、我々は倫理的だ。冊を越え、鉄条網を破って空き地に飛び出すこと、語っていることにおいて、我々は否応もなく倫理的なのだ。この時、初めて我々は真に倫理に触れることが出来る。社会規範として外からやってくる倫理教則でもなく、教育の結果内面に植え付けられた規範でおなく、私の存在する限りにおいての必然としての倫理だ。我々は一周して元の場所に戻って来た。ただこの時、凡俗な世界は驚きに満ちている。
 一般的なイデオロギー的理解とは異なり、倫理/論理は包摂関係ではなく、同時発生的である(ここでの発生をいかなるパースによるものかは問わない。いま、ここで選択しているパースにおいて、同時的なのだ!)。これらはビッグバンのようなインフレーションの後、必ずベン図のような包摂関係を持つようになるが、それはずっと後の話だ。論理的であることは、同時に倫理的であることだ。
 ここで驚きをもって発見される倫理がなければ、すべての倫理規範はちゃんちゃらおかしいフィクションでしかない。倫理は驚きである。倫理は善悪の問題ではない。善悪が成立するのは、もっとずっと後の話であって、その結果だけを取り出しては、「良い子」だけが服従する倫理規範や法と変わらなくなってしまう。「パンチはパンチ」と分かったような口をきいて、ボコボコにされるのがオチだ。

### 破綻する倫理、飛び出す倫理

 前項までは、一見倫理らしからぬ側から倫理に接近しようとした。ここでは逆に、ベタベタの倫理の側からトンネルを掘ってみたい。

道徳による神の殺害

 神を信じないために戦う者は、戦っている限りにおいて、神を信じて戦う者と変わらない。目指すべきは頑張らないことであって、信じないように頑張るのは、信じて頑張るに等しく無力である。なぜなら、「神の殺害者」を突き動かしたのは、まぎれもない道徳心だからだ。殺害者は神を「偽善者」と罵るだろう。殺害者こそが、最も神を奉じた者なのだ。
 このことを、偽善、怒りを使って考えてみよう。そもそも我々は、イラだちから始めたのだ。

 道徳的な者は、しばしば偽善に対して怒っている。彼らは偽善こそが最も憎むべき悪の一つであると考えている。それは、知った顔をしたそれこそ「偽善的」エセ宗教家から、自らに潜む悪の可能性を常に告発し続ける(「自己批判」し続ける)社会運動家まで変わらない。そして偽善を憎む人々は、それが巧妙であればあるほど、より悪であると考える。
 しかし、こう考えることはできないか。偽善とは「善くないモチベーションのもとに善いフリをすること」(ニセの善)だが、善いフリをするということは、要するに善いことなのではないのか。人助けが道徳的に善いことだとすれば、どのような動機の元に人を助けようと、それは善いことではないのか。
 道徳的な意味ではなく、論理的な意味での「正しさ」についてであれば、ニセの「正しさ」などどいう概念は成り立たない。非常に巧妙な嘘は真実と見分けが付かない。そして多分それは、真実なのだ。「正しい」フリをするが実は「間違っている」という状態は理解できない。
 しかしやはり、「動機に関わらず善いとされる行動は善い」という考えは間違っている。少なくとも、我々の道徳はこの考えを否定する。何故なら、我々の善の基準は行為ではなく意志にあるからだ。
 道徳が純粋に社会を健全に保ち互いの利益を守るために機能していた時代には、そうではなかったかもしれない(そのような時代が実際にあったかどうかはおいて)。そんな時代なら、利他的行為は動機の如何に関わらず「善い」こととされたはずだ。もちろん、「悪い」動機がすぐに見える「偽善」、あるいは現実にその行為が他人を害する場合は、そうではなかっただろう。しかし「悪い」動機が非常に巧妙に隠されていた場合には、たとえそれが後に露見しようとも、現実に何者も害さないものなら、悪とは呼ばれなかったはずだ。
 しかし、ある時を境に、このような巧妙な偽善は悪に分類されるようになり、しかも最も悪しき悪とされるようになった。
 我々の多くが共有している道徳体系は、善悪の判断を結果や現象ではなく、意志によっている。善い意志で為したことが善なのであり、悪い意志で為したことは、結果がどうあれ悪なのだ。
 もし道徳の目的が互いの利益の保護にあるのだとしたら、これは完全に倒錯した状態である。倒錯は暴走し、道徳は人の心の隅々にわたって小さな悪の種を探して回るようになる。たとえ善い意志のもとに行為したとしても、道徳の詰問し続ける。「お前はそれを善いつもりでやっているが、その裏には利己的な心が働いているのではないか?」「本当に本当は、利己的な心があるのではないか?」。「つもり」「本当の本当」まで告発するに至り、「意志の後ろにある意志」(?)にまで細い光が当てられて検分されるようになる。
 「善いつもりだが実は善くない」とは一体何なのか。そんな疑問をなぎ払って道徳は細い針のように心の深層を犯していく。もちろん、そんな内奥を他人の知るべきもない。本当の善悪を知るのは神と本人のみとなる。ここに至り、凹面鏡の焦点のように、「すべてを知る者」として神の概念が中空に浮かび上がる。もちろん、本当に知っていると言い得るのは本人のみだ。
 偽善を告発する人々、とみに表面上「道徳的」と評されている言説の偽善に怒っている人々は、道徳の特有の胡散臭さに対して生理的に反発している。偽善を告発する者をやはり偽善であるとしてさらに告発する者達は、一層強い道徳に対する反発心に突き動かされている。しかしその根本的な動機は、とりも直さず道徳心そのものなのだ。
 偽善の告発の本質は、未だ善とされているものの隠された悪い本質を暴き出すことにある。だから偽善の告発は最終的に道徳そのものを対象とせざるをえなくなる。今や自らを道徳的と評すること自体が非道徳的となった。そして道徳に対峙し、道徳を責めたてる者が最も道徳的となった。

 こうして神は殺害される。

 しかしこれは第一段階にすぎない。最も道徳的なこの者は神を殺し、当然のようにそんな道徳的な自分自身をも責め立てるだろう。そこで自殺でもする人間はまだ幸運だ。責めること自体を責めるとするなら、それすら不可能になる。「告発すること、暴きたてること、あるいは偽善や不正、いや道徳自体に対して心頭から発する許しがたい何か、それら自体が一種の正義なのではないか」。ニ−チェの言う「真理への欲求」、欲求というよりは抑えがたい道義心が、なお続いていく。

善の不可能

 怒りという感情は、定義上純粋な利己心から発されることはない。それは常に一貫した論理=倫理から発せられる。もちろん、それが本人以外にとってスジが通ったものである保証はない。それどころか、本人自身にとっても、少し時間をおいて考えたらスジが通っていない場合のほうが多いかもしれない。しかし、距離をおいて眺めれば利己心から怒っていたに過ぎなかったような場合でも、少なくともその瞬間、本人にとってはささやかなりともスジがあったはずだ。これは統計的な問題ではない。文法的な事実だ。我々はスジの通っていない怒りを怒りとは呼ばないのだ。脈絡無く突然わめいたり暴れたりし出した者を見ても、我々は「発狂した」などと思うだけだろう。
 怒るとき、常に我々には「なんでオレがこんな目に!」「こいつ、許せない!」などといったバックグラウンドがある。そうでないようなものは怒りとは呼ばれない。それが外見上いかに利己的に見えたとしても、当人にとって怒りの根拠が自分の外にある(スジが通っていない、倫理的に許せない、不合理だ……)以上、それは純粋な利己心から起こったことではない。怒りはすべて、広義の義憤なのだ。
 だから、神を殺してまだ足りない道徳者は、怒りそのものを問題にせざるをえない。
 偽善が問題なのではない。義憤が問題なのだ。
 偽善の告発に駆られている者は、その告発自体によって、彼の反発する道徳の腐臭にからめ取られている。彼が本当に対峙しなければならないのは義憤であり、それは文法的に対峙しがたいものなのだ。何故なら、対峙する彼を突き動かすのもまたある種の怒りであるからだ。
 この事に気付いたとき、告発者達の本当の「不幸」が始まる。そもそもの始まりは彼らの持つ道徳心にあった。だから「悪人は救われる」し「悪人こそ救わなければならない」のだ。もちろん、神も宗教者も狂人を救うことはできない。
 結局、殺害者達の辿る道は、狂気、すなわち論理の外に出るしかないように見える。
 脳天気な「良い子」だけが善を受け入れる。倫理的な者は、善の不可能を知る。我々はイラだつが、怒ってしまっては「義憤」であって、釈迦の掌だ。

説得したくない倫理、弱い神

 更に二点、以上の議論の問題点を指摘し、展開したい。
 一つには、狂気を論理の外に出るものと素朴に想像していることだ。論理の外に出るとは何なのか(まさか動物的「本能」に生きることではあるまい!)。世界の外にもまだ続きがあるなら、そこもまた世界にすぎない。「狂気に逃げる」などという語り口は、何にもオチをつけられていないし、堂々回りである。
 だからこそ、我々は「外部のない世界」について考えた。この世界には論理が充満している。その中で善の不可能を知っても、外に出ることなどできない。できることがあるとすれば、それは〈飛び出し〉しかない。〈飛び出し〉は移動ではない。「いま」「ここで」飛び出すことなのだから、我々はこの場所で倫理を発見できなければ、どこにも見つけることなどできない。

 一つには、仮定としてであるが、倫理の起源を功利主義的に説明している。これは暫定的な説明として例に出したにすぎないが、倫理が功利的目的の元に生まれたという保証は全くないし、仮にそうだとして、何も説明できたことにはならない(言うまでもなく、発生論的・歴史的な倫理の発生は問題ではない)。倫理を功利性に還元することは、ただ単に基礎付けの場所を変えてみただけであって、信仰の種類が違うということにすぎない。
 功利性をアルキメデスの点に、相互性原理によって倫理規範を説得する、というのは、よく使われる方法ではある。善悪が通用しない相手に、まず損得という基準を納得させる。そして、「自分がされてイヤなことは人にするな」方式で説き伏せるのだ。それすら通じない場合は、純粋に彼の利害を基準にして、例えば「殺人は割に合わない」などといって説得する。
 しかし功利性の基準自体が超越的に存在するわけでもないので(利害の外的基準は存在しない、本人が得だと思うことがその人にとって得なものだ)、この説得も非常に危ういものになる。危ういとはいえ、とりあえずの説得には使える場合も多いので、例えば法はこういうやり方をする。しかし、倫理はそんな所から出て来たのではない。

 結局、倫理をその内容の根拠付けから考えると、何を選んでも倫理を去勢してしまうことになる。倫理は我々の生活にプラスアルファとして加わる「何か」ではない。それは既にそこかしこにあり、ただびっくりし、何度でも発見されるものだ。
 善悪を初めに考えてしまっても、やはり我々は行き詰まる。倫理は善悪の問題でもない。我々は何度も倫理を「善悪の経済」として外的に規定してきたが、それらは畢竟、結果としての倫理規範でしかない。規範としての善悪は、単純な功利主義へと還元可能であり(器用な「良い子」)、またその基準を他人にまで押し付けるという限りにおいて利己的でもある。そして、善を追求すれば「善の不可能」に到達し行き詰まる。
 更に言えば、倫理は説得の道具でもない。倫理は時に我々を突き動かすが、理詰めで説き伏せるような力は持たない。神は弱いのだ。
 例えば、友人と何かで口論になったとする。私は彼を説得したい。説得する為に、様々な理屈を考える。それはそれでいい。
 だが説得の基本的構造は、まず相手も自分も共有している基準まで遡り、そこから論理を組み立て、その妥当性の強さによって説き伏せるというものだ。この遡及が、それ程深く潜らない場合には、大きな問題にはならない。飲み屋の払いで揉めるくらいなら、説得で十分だ。
 だが問題がより深層に及んだ時、説得は「常識」や「普通」を持ち出さざるを得なくなる。「万人に及ぶ」とされる規範を持ち出して、説き伏せようとするのだ。
 「だってそりゃ、お前、そういうもんだろう。そりゃぁアカンで」。そんな言葉を口にしながら、誰でも不安を覚える。不安というより、ある種の罪悪感を抱く筈だ。我々には、「出来れば説得したくない」という気持ちがある。常識もルールも規範も持ち出したくないという思いがある。それらを使わない「説得」とは、もはや説得ではない。理屈が使えなくなるからだ。だが、「出来れば説得したくない」というこの感情の方こそ、むしろ倫理に根を持っている。
 逆に、人を真に納得させるものは、説得ではない。「説得力のある人」は説得の上手い人ではない。
 もちろん、この感情の部分だけ取り出して、「やはり人には通じるものがあるのだ」などと言ったら、とんでもない勘違いになる。むしろ、通じるものなど何一つない。我々はバラバラもクソもなくバラバラなのだ。感覚に訴えるやり方は、一般化してしまうと、「単に神話を信じること」や、完成されたオッサンの説教(=説得)、神秘主義などと変わらなくなってしまう。説得力は一般化できない。
 「考えるな、感じるんだ!」というブルース・リーのセリフは有名だが、何も考えずにボサッとしていて、何かが通じたり分かったりする訳がない。感じなければならないからこそ、具体的な行動を積み重ねなければならない。自然にしていたら自然にならない。猫背の人にとっては、「正しい」姿勢は不自然だ。究極の自然がある訳ではないが、「一人一人の自然がある」などといっては無責任な相対主義でしかない。ただありもしない「自然」を信じ、飛び出すことしかない。

〈飛び出し〉の可能性

 我々は物語を次の物語で覆い隠すのでもなく、物語の無さを嘆いたり冷笑するのでもなく、次の段階に進まなければならない。宗教的説明を「科学的」説明にとりかえたり、いかなる説明もニヒルに拒んだりすることは、単純な信仰者にもなお劣ることである。
 しかし、本当にそのようなことは可能なのだろうか。ニーチェの「幼子」のようなものを目指すにしても、「目指し」て頑張ってしまった時点で彼は「殺害者」のようなニヒリズムに陥ってしまう。もちろん、「狂気」などといった純朴な説明でお茶を濁すわけにはいかない。
 だからこそ、我々は〈飛び出し〉について思考した。未来を見据えていては、手も足も出なくなる。未来は存在しない。多分、必要なのは、そのようなことが可能であったことを思い出すことだ。〈飛び出し子供〉は過去に向かって飛び出すのだ。

###「待ったなし」

可能無限・実無限

 可能無限と実無限から考える。
 有名なゼノンのパラドクスの一つに、矢のパラドクスがある。
 アキレスがゼノンに向かって矢を放つ。この矢は、まずアキレスとゼノンの中間点を通らなければならない。中間点を通った後では、この中間点とゼノンとの中間点を通らなければならない。その後では、さらにその中間点とゼノンの中間点を通らなければならない。「線分には無限の点が含まれる」とすれば、中間点は無限にある。無限の命令は無限の時間を要し、実行できない。よって矢はゼノンに永遠に届かない。
 もちろん、矢は実際には届く。矛盾はどこにあるのか。
 確かに、線分からは無限の点を取り出すことができる。しかしそれが可能であるということと、無限の点から線分が構成されている(無限の点なしには線分が成り立たない)ということの間には微妙な差異がある。
 無限を、そこから無限の点を取り出すことができる可能性として捕らえる時、この考えを可能無限と呼ぶ。逆に、実際そこに無限があるのだという考えを実無限と呼ぶ。ゼノンのパラドクスは、可能無限の立場からは簡単に解ける。
 高校数学の教科書等は、ナイーヴな実無限の立場をとっている。これはカントの「もの自体」を連想させる。
 可能無限の立場では、そこに何かが存在すると信じるのではなく、手続きだけが存在すると考える。

 円周率は存在するか? 学校の教科書では、当たり前の様に3.14と書かれ、その実在が前提とされている。
 円周率は無限小数である。どこまで計算しても終わりがあるわけではない。教科書ではとりあえずそれをπなどと表し、あるという前提で考えている。だが、どこまで計算しても終わりがない以上、簡単にあると言い切るのは怪し気である。
 あるのだが、計算しきれないと言えば実無限の立場だ。この時、円周率が存在するのではなく、円周率の計算方法だけが存在する、と考えれば、分かりやすい。これは可能無限的立場である。
 微分に関しても同じことが言える。曲線の極限の一部に傾きがある、ということにして微分は成り立つ。教科書では計算方法だけが示され、当然のように微分のメカニズムが上げ底的に前提にされる。しかし、曲線の極限の一部とは点であり、点に傾きがあるというのは我々の想像を越えている。それは、約束ごとだけの話ではないか。微分の向こうに「点の傾き」があるのではなく、実在するという約束ごとが存在し、微分の方法だけが存在するのではないか。これもまた、可能無限的立場である。
 世界に関して確かなことだけ言おうとすれば、可能無限的立場は必然であるとも言える。これは相対主義とちょうど同値である。「ああも言える、こうも言える」「彼の立場からはこうだが、彼女の立場からはこうだ」と言っておけば、とりあえず確かなことは言っている。
 また、我々の用語での認識論的立場も同様である。世界が存在するのではなく、世界の認識が存在する、と言えば確実だ。また、絶対の倫理があるのではなく、言語活動の一部として、倫理というコードが存在する、と考えれば間違ったことは言っていないことになる。
 しかし、本当にそうだろうか?

 可能無限のスタンスは、世界を前にして立ち止まって考えるやり方だ。我々にはそんな猶予はないのだ。生きているということは「待ったなし」なのだ。
 「そういう約束ごと」の無数の積み重ねの結果、ともあれ我々は生きている。そして多くの人は、「約束ごと」という相対化さえ行っていない。もちろんこれはナイーヴな段階であり、神話を神話のままに信じることだ。言われるままに表象としての神を信じている状態だ。我々はそこに立ち止まりはしない。
 だが神話を「約束ごと」とし、神を殺して、何が変わったのだろうか。「と、いう約束ごとで」といちいち括弧に入れることは、すべての発言に「と、私は思う」(I think that)とつけることと同じことだ。それなら、何もつけないのと一緒である。
 倫理を「約束ごと」とし、神をルサンチマンの産物として殺したとする。もちろん、それは道徳の必然である。全き道徳心のみが、神を殺すことができる。しかしそれだけなら、「という約束ごとで」とすべてを括弧にくくっただけでしかない。それは「もっとも醜い人間」の仕事だ。我々はそんなスカした可能無限論者でいるわけにいかない。
 もちろん、これを越えるには一旦可能無限を受け入れるより他にない。ただ、立ち止まることは許されない。冷笑を振り切って走り続けることから、すべてが始まるのだ。

「分かる」「分からない」

 かつて私は、「分からない」という声にイラ立っていた。
 それは主に作品に関する反応についてなのだが、私には「分からない」という人は単に「つまらない」ということを婉曲的に言おうとしているように見えたのだ。
 「分かる」か「分からない」か、ということは「面白さ」には関係ないのではないか(例えば映画は何かを「分かる」為のものではない)。初め私はそう考え、次のような稚拙な整理を行ってみた。

 分かるということは線形性に依存している。概念と概念の連続性が密であれば分かりやすいし、疎であれば分かりにくい。「風が吹けば桶屋が儲かる」では分からないが、間を説明すれば分かる。
 一方で、この連続性は何によって支えられるか。連続性を分解していけば、いつかは非連続的な断面にぶつかるはずだ。最初に立った猿が倒れまいとして全力で走るように、走り出すには立ち上がることが必要だ。連続性とは物語性であり、物語は逆説的に断絶から始まる。
 この断絶を飛び越えるのは、分裂病的な力だ。ある整然とした概念の集合と別の集合が恣意的に接続されることから、物語は展開する。赤・青・黄色というカテゴリ、車・飛行機・船というカテゴリ、CIA・FBI・軍産複合体といったカテゴリが分裂し、「赤い車はCIA」と関係付けられることから物語は走り出す。
 物語の最少単位は、この様な概念の結婚である。さらに概念の結婚は近縁より遠縁にあるほうが物語の速度は増し、実際の物語の生成は、まさにインセストタブーのような複雑で無根拠な恣意的必然によって規制され、さらに多くの概念の結婚が複雑に積み上げられている(理解できない外国語の「かっこよさ」はこれと関係しているだろう)。
 すなわち、「分かる」ことの根底にあるのは圧倒的な非連続的断面をジャンプすることである。何故「赤い車はCIA」なのか、と問うても、「分かる」はずがない。もっともらしい説明がついたとしても、事の本質がそこにないのは明白である。「分かる」ことは「分からない」ことに支えられている。

 しかしこの仮説には不十分な点がいくつかある。
 第一に、「分からない」という状態は、必ずしもこの線形性に関する手続きを踏んで起こっているわけではない。もちろん、それは実際に上のような過程を経ているかどうかではなく、そのような過程を践むことが可能性として(文法的に)想像できない場合があるということである。
 整理するために、「分からない」を二種類に分けてみる。
 一つは連続性が疎であるために「分からない」という場合で、これは上の仮説で十分に説明が付く。このような人に「分かって」欲しければ、ただ丁寧に説明すればよい(実際に分かるかどうかはその人の理解力や忍耐力、興味によるが、原理的に可能だ、という意味で)。
 もう一つの「分からない」を人が発する場合、やや漠然とした説明になるが、その人は対象の前で呆然としてしまっている。ただただ、「分からない」のだ。これは分裂病に於ける離人症的感覚と類似している。対象がバラバラの書き割りのようになって、実体感の持てない感覚である。
 言うなれば、前者は考えた結果「分からない」、後者は考えるも何も「分からない」のだ。これは理解力や忍耐力の問題ではない。後者を「分からない」と表現するのは不正確かもしれないが、多くの人が後者のような状態を「分からない」としている。「掴めない」「感じられない」とでも言えばよいのだろうか。
 後者のような「分からない」を認めてしまうことは、もちろん危険なことではある。感覚に頼ることになりかねないからだ。感覚に訴えるとき、人は共通感覚を通じて何かを伝達しているような気分になるが、実は単にコミュニケーションを放棄している(「だってほら、いい感じでしょ?」……)。それでもなお、このように表現せざるをえない事態というのが実際にある。
 後者の「分からない」は前者の「分からない」よりずっと根の深いものだ。後者を乗り越えて初めて前者の階級に立つことができる。かつて私の友人が、映画の感想に「なんだか分からないけれど良かった」と言う人に対し、「なんだか分からないのになんで良いんだ!」と憤っていたが、両者の間では「分からない」の意味が違うのだ。前者の意味で「分からない」にもかかわらず「良い」と感じることは可能だが、後者の意味で「分からない」にもかかわらず「良い」と感じることは文法的に不可能である。その時、この人は「そのものがそこにある」という感覚に到達できていないのだ。
 作品や目前の事態に対して「分からない」と人が言うとき、二種類の状態がある。一つの「分からない」を口にする時、その人はイラ立ちや幾ばくかの怒りを込めて「分からない!」と叫ぶはずだ。もう片方の人に怒りはない。ただ「分からない……」と弱々しく呟くだけだ。
 整理するために、前者の「分からない」を「連続性の分からない」、後者の「分からない」を「存在の分からない」としてみる。連続性によって対象を理解する(理解したと思う、リアリティを感じる)状態は、存在の了解を前提としているが、実は両者は単純な二段重ねの構造になっているのではない。というのも、連続性によって対象を了解する場合でも、上で述べたように最初の一歩は不連続なジャンプ、分裂的な跳躍によるはずなのである。それゆえに「分かる」は「分からない」に支えられていると言ったのだ。ところで最初のジャンプが可能になるためには、一旦カテゴリーの環が解体され(分裂)、対象がすべてバラバラに併置される契機が必要だ。この状態はまさに「存在の分からない」そのものではないか。この状態を単に連続性の途切れた状態と誤解してはならない。「連続性の分からない」は「分かる」状態の反射によって初めて成り立っているが、「存在の分からない」は「ただただ分からない」のだ。健常な人間が長時間このような迷妄状態に陥ることはあまりないだろうが、線形的な世界の了解はすべてこのような分裂を契機とせざるをえない。
 しかしこれでもなお、不十分な点がある。上で「カテゴリの環が切れ」た状態が「遠縁にある程加速力を増して」物語を生成していく、と語ったが、そもそも「存在の分からない」状態はカテゴリも何もない状態なのだ。この状態では、切れるも何もまだ世界に線形性一般が存在していないのだ。「遠縁」と言うが、どこに位置付けられるかも分からないものを近いか遠いか判断できるわけがない。
 カテゴリやその分裂ということ自体、既に「存在の分からない」を前提としている。それが「分かった!」所から物語が生成し、事態を理解したり理解しなかったりということが可能になる。
 「分かった!」は「うん、分かる」とは違う。「分かった!」は「ひらめいた!」であって、紙一重のものだ。「徳川埋蔵金」や「赤い車はCIA」といった閃きであり、このような閃きなしには我々は何一つ了解することなどできない。
 更に言えば、「分かった!」と「存在の分からない」は微妙な揺らぎをもって分裂生成している。固定的な物語が続くだけなら、その者は生命とは呼びがたい硬直した存在になってしまうだろう(重度の分裂病患者はこのような自閉的状態にあるように想像できる)。閃きと不安を繰り返しながら我々は生きているのだ。
 これは熱力学における平衡と定常を連想させる。現象としてほぼ一定の状態が持続するものにも、平衡的なものと定常的なものがある。地球は一年を通じて平均気温二十度程度の安定した状態を保っているが、これは外部との熱交換の結果としての定常状態である。金星の地表のような、閉じた平衡状態とは異なる。生きていることは、定常状態にあることだ。

 これを敷衍し、隠喩と直喩について考えてみる。
 直喩とは「頬がリンゴのようだ」等、直接に二つのものが比べられる比喩の技法である。一方で、隠喩は「のような」といった表現を用いず、「時は金なり」のように、直接に例えるものを表面に出す修辞法である。
 このような教科書的説明だけを見ると、隠喩は直喩の変化形であるように見える。隠喩は「のような」という記号を省略した形態であり、暗に「のような」が含まれているということだ。
 直喩は世界の内部における事物の関係を用いた方法だ。頬における赤さが、リンゴにおける赤さと並行的だから成り立つのである。しかしこの並行性を成り立たせるカテゴリはいかにして成立したのか。リンゴ・ミカン・イチゴといった範疇は、それ自体既に物語を含んでいる。そして物語は分裂的ジャンプによって始まったのだ。これは隠喩的な直接結合である。
 直喩を先に立てることは、世界の内部を独立して扱えるという考えに裏打ちされている。世界に範疇や法則があり、それに従った事物が存在するということは、その範疇や法則は世界の外部から内部を操っているということだ。ちょうど、科学法則によって説明される世界を、神が創造したというように。突然変異はランダムだが、その優劣は種の外部から超越的に決定されるというように。
 我々にはそんな余裕はないのだ。そんな外交的スタンスで、全体を眺めている猶予など与えられていないのだ。我々と世界は一体であり、力学を知らなくてもキャッチボールはできるように、政治的に走りながら考えるのだ。答えが出ないと分かっていても、計算してしまうのが生き物なのだ。そして、無数の無駄な計算をしているうちに時が流れ、その無駄な計算自体が我々を導いていく。

 閃きと自失は、自らの意志で選びとるものではない。全力で走りはじめた最初のサルは、走りながら銃を撃つ。我々は気付いた時には閃いているのだ。だからアイデアを商売道具にする者は「何かが降りてくるのを待つ」という態度をとる。そして、やって来た時にはどうにも避けようがない。物語は「待ったなし」なのだ。

記憶へ〈飛び出す〉

 記憶は、いかにして保存されるのか? あるいは、記憶はどこに保存されるのか? このような問いに対して、我々は一般に、それは脳の中だ、と答える。すなわち、我々の経験が、脳髄内部の神経細胞の状態に変換され、蓄積されている(脳髄こそが記憶の容器、あるいは基体である)というのが通念上の理解だ。しかし、ベルクソンは再三にわたってこの考え方を否定している。
 脳は単に「イマージュ」であり、他の「イマージュ」といかなる性質の差も持っていない。ベルクソンの言う「イマージュ」とは、我々が通念上「物質」と呼んでいるもの、観念論や実在論が存在と現象を分けてしまう以前の「物質」である(「観念論者が表象と呼ぶものよりは多いが、実在論者が事物と呼ぶものよりは少ない存在」。要するに我々が普通にモノだと思っているもの)。「イマージュ」は、ただのモノなのだから、やってきた運動を何らかの形で返すことしか出来ない。ビリヤードを想像すれば分かりやすい。運動は運動しか生じさせることが出来ず、知覚的な振動の役割は、記憶が入り込んでくるある種の態度を身体に刻印することのみである。
 脳は単純な脊椎動物の神経系と程度の差異を持つにすぎず、その役割はただ伝えることだけである。脳の役割は伝動体であって、それは中央電話局に比すことが出来る。脳もまた「イマージュ」なのだから、やってきたものを伝えたり、何かを返したりすることは出来ても、記憶内容という非物質的な何かを収納しておくことはできない。記憶内容が脳の中に入っているといったところで、その保存について何も説明したことにはならない。これはあるものが別のものの中に入っているという、空間的な比喩に囚われているだけだからだ。
 もし脳が記憶内容を保存するとすれば、今度は脳がそれ自体を保存することが出来なければならない。しかし、脳は単なるイマージュの一つであり、イマージュにそれ自体を保存する特別な力はない。

 しかし、この脳は、空間の中の延長を持つイマージュであるかぎりにおいて、ただ現在の瞬間を占めるのみである。それは物質的宇宙のすべてのほかの部分とともに、宇宙の生成の絶えず新しくなる切断面を構成している。だから、この宇宙は真の奇跡によって、持続のあらゆる瞬間に死にかつ生まれると想定するか、意識には拒んだ存在の連続をこの宇宙に移し与えて、その過去を、残存して現在まで及んでくる実在たらしめるかせねばならない。(Henri Bergson "Matiere et Memoire" P.U.F p165-166)

 それでは、記憶内容はいかにして保存されるのか。記憶内容は、それ自体で保存されると考えるほかにない。記憶内容は何かに変換されたり、何かの中に入ったりするのではなく、それ自体において、即自的に「存在する」のだ。

 私のベルクソン解釈が正しいのかどうかは分からない。それにしても、「記憶がそれ自体において存在し、脳の中にあるのではない」というのは、それだけでは随分飛躍したような印象を受けるだろう。
 ベルクソンとて、記憶と脳が全く無関係だと思った訳ではない。脳は記憶の条件ではある。脳に損傷を被れば、我々の記憶想起は障害を受ける。
 だがそれは、「記憶そのもの」が脳のどこかにスポッと入っているということでは全くない。ベルクソンの言っているのは、「現在ある記憶」ではなく、「過去の記憶の内容」のことなのだ。インダス文明の遺跡とインダス文明そのものは全く違う。遺跡はいまここにあるが、インダス文明は存在しない。
 脳にはもちろん、この過去を想起する為の何かがあるのだろう。しかし、それは飛び出した後に残される死体のように、「向こう側」に思いを馳せるための「思い出の品」のようなものでしかない。死体は「向こう側」とは何の関係もない(にも関わらず、「思い出の品」にはなるということは重要だ!)。
 記憶内容はかつてあったものであり、いまここにないものだ。それは既に失われ、車窓の風景のように過ぎ去ってしまった。だが同時に、記憶はここにあるとも言える。我々はそれを覚えている。覚えているから記憶というのだ。
 このあるともないともいえる記憶内容について、我々は普通、どこにあるか、などと考えない。ナイーヴに実無限を信じているように。しかしどこにあるのか、と問われれば、とたんに場所についての思考にからめとられてしまう。空間的思考のトラップにはまってしまう。脳細胞の血流を測定して場所を同定しようとするような、「科学的」迷宮にはまり込んでしまう。
 場所があるとすれば、それは「ない」場所と言うより他にない。記憶内容は、今はない何かなのだ。空き地が、それについて思考すればする程、「ない」場所となるように。
 同時に、空き地は当然のように目の前にある。記憶もまた、手にはとれないが、確かにそこにある。
 「ない」ということは、既にそのこと自体においてうっすらと「ある」。「時間がない!」という叫びが、時間の存在を証すように。何の脈絡もなく「私にはしっぽがない!」という人には、既にしっぽが生えはじめている。いや、そんな訳はないのだが、そんなヤツがいたら、お尻を確かめるか熱を測るかしたくなるのが普通だ。そこには確かにしっぽが「ない」だろうが、「しっぽがない」と語ったとたん、しっぽの疑惑、しっぽの可能性がそこには生えはじめている。多分、その人は失われたしっぽのことを思い出したのだ。

 天文学のことも物理学のこともよく知らないが、夜空に瞬く星は何億光年も離れた所にあるという。今見ている光は、何億年も昔に放たれたものなのだ。今現在は、その星はもうなくなってしまっているのかもしれない。もちろん、これは比喩でしかないが、我々は、そんな星を眺めるように、失われた過去に包囲されている。
 このイメージを膨らませると、私という点を中心に、空間的に遠ざかれば遠ざかる程、時間的にも遅延している幻覚が降ってくる。我々は巨大な遅延回路の中に放り込まれ、どちらを向いても過去しか見えず、足を踏み出せば常に手遅れになる。我々は過去に向かって踏み出すが、どこまで追い掛けてもそこには到達できない。過去は既に過ぎ去ってしまっているから過去なのだ。この場所に立ち止まっている限り、すべてが虚しい。「なにをやろうが、どうせムダ」に見える。世界は余りにも遠く、我々は孤立しているようだ。
 だが我々は語る。「しっぽがない!」と突然叫ぶように、語れもしないことを、語る必要もないのに語り出す。語るということは、手遅れを承知で足を踏み出すことだ。なぜというのでもなく、我々は既に語り出しているし、考え出している。だからこそ、我々はここで現に思考しているのだ。語り出す「前」について考えても、そこにはなにも「ない」と言わざるをえない。「前」は「前」なのだから、今はもうないのだ。
 だがそのような失われた外部が、我々を駆動する。その外部は、目の前にある過去、すぐそこにある空き地でもある。外部は「前」であり、我々を後押ししているとも言えるが、我々が歩み出すその場所であるとも言える。「クズ哲」が我々を暗い淵に引き込む重力であると同時に、この重力に抗う力であるように。
 「記憶がどこにあるか」などと問う必要はない。場所を問えば、そこは「ない」。が、「ない」場所こそが我々を包囲している。記憶はそこかしこにある。世界は我々の記憶で構成されている。いや、構成単位としての材料としてではなく、記憶は遍在し、我々を包囲している。

 犬にとっての空間認識は、きっと時間的要素をその中に含んでいるだろう。電柱に残された「ジョン」の痕跡は、今そこにあるとも言えるし、また失われた「ジョン」の印とも言える。高低差のある地図のように、犬の世界は深度を持っている。というより、そのような遅延回路そのものが、空間と一体になっているのだろう。
 だがこれは、別段犬が嗅覚の生き物だからではない。我々にとっても同様に、時間的布置は世界に含まれている。ただ、犬はわざわざ「ジョンは既にいないから」などと考えないだけだ。考えれば、確かにジョンはいない。だがジョンの痕跡がそこにあり、ジョンの記憶があり、その向こうにはジョンがいるのだから、やはりジョンはいるのだ。ジョンがいまここで失われていようが、「ジョンはいない」と言ってしまったら、やっぱりそれはウソなのだ。
 犬は立ち止まって臭いを嗅ぐかもしれないが、我々は既に語り出してしまった。走り出してしまった以上、走って〈飛び出す〉より他に道はない。危険は承知だ!

待ったなしのエチカ

 ウィトンゲンシュタインは前件肯定式を法則として立てることを批判し、記号の意味は記号それ自体に宿るとした。
 前件肯定式とは、「(A⊃B)A⊃B」という論理式で、「AならばBとすると、AならばBである」という法則である。しかし良く考えると、これが成立するためには、更にその前にもう一つ「AならばBとすると、AならばBである」という式が必要だ。「『AならばBとすると、AならばBである』とすると、AならばBとすると、AならばBである」((A⊃B)A⊃B)(A⊃B)A⊃Bということだ。言うまでもなく、これは無限に続いていって、永遠にこの前提を増やしていかなればならなくなる。この時、我々はどうすればよいのか。
 「A⊃B」とだけ言えばよいのだ。そしてその意味は、「A⊃B」それ自体の中に宿っている。もちろん、多くの人は単に「A⊃B」と言う。考え深い人間(あるいは、道徳的な人間!)は、これを疑って「(A⊃B)A⊃B」と言う。それがキリがないと分かれば、「『A⊃B』は、『……(A⊃B)A⊃B』という約束で」と言うかもしれない。しかしそんなことは言う必要がないし、言っている余裕などないのだ。
 そのことを悟った時、人は再び単に「A⊃B」と言うだろう。しかしこれは退歩ではない。単に生きているということをその人は悟ったのだ。

 またウィトンゲンシュタインは、彼自身が絶対的価値について語りたくなる経験として、三つのものを挙げている。それは、「世界の存在に驚く」「絶対に安全である」「罪を感じる」というものだ。これらはすべて、無意味な言明だ。世界が存在していないという事態はどういうことか想像不可能であり、その存在自体に驚くというのは意味がない。安全は危険との対比の上で成り立つ以上、「絶対」の安全とは意味が分からない。「罪を感じる」というものだけ少し分かりにくいが、それは罪がない状態との比較で成り立つものではなく、絶対的な罪を感じるということだ。比較不可能なものを比較可能な尺度で考えるということは、不可能である。
 「罪を感じる」というのは、何かをして罪を感じるということではなく、生きてしまっているということの実感と同時的なものだ(「生まれてすいません」)。そして「世界の存在に驚く」というのは「自分が生きていることにびっくりする」ということだ。そんなことは驚きようのないことであり、また重要なことに、積極的に驚くということは不可能である。
 それはちょうど、単に「A⊃B」と言ってしまった時の後ろめたさのようなものだ。「本当の所、お前、どう思ってるんだよ?」と問われて「やる気あります」と答える時の後ろめたさだ。そう問うオヤジはナイーヴな実無限論者で、神話を単純に信じる者であり、完成されたヨッパライだ。彼の立場を擁護する余地はない。だが「本当にって言われても……」と逡巡する相対主義者のコドモのままでもいられない。ヨッパライのパンチが飛んでくるからだ。答えよ、すぐに! 「A⊃B」で話を終わらせるのだ。これを退歩や省略、あるいは可能性からの撤退と捉えてはならない。そう考えたとたんに、本当に撤退になってしまう。ヨッパライのオヤジがそうやって完成したように。我々は可能無限を知った上で、この「無限地獄」をサヴァイヴし突破する方法を探さなければならない。
 後ろめたくても言わなければ、無駄と知りつつ計算しなければ、我々は生きていけないし、また生きるか死ぬかを選ぶという余地もないのだ。何故なら、とにもかくにも我々は今生きているのだから。

 「A⊃B」とだけ言えば良いということは、世界がそれ自体の内に原因を持つことであり、外部のない世界を前提とすることだ。それはスピノザが神と呼んだものに等しい。「世界の存在に驚く」こと、「生きていることにびっくりすること」は、スピノザの神を発見することだ。
 そのような神について考えることは、一般的な宗教的神と異なり、ほとんど何も考えないことと一緒である。実際、多くの人は何も考えない。格別に道徳的な者が、考えに考えて「私が在るということで」「神が存在するとすれば」と言うかもしれない。しかしそんなことわりを入れる必要など全くないし、そんな猶予なく私は在り、世界は存在する。ただいちいちびっくりしたりはしないし、積極的に驚いたとすれば、それは驚いたことにはならない。
 無理に驚くくらいなら、驚かないでいたほうがマシというものだ。

繰り返すこと

 反復しよう。
 我々は物語を次の物語で覆い隠すのでもなく、物語の無さを嘆いたり冷笑するのでもなく、次の段階に進まなければならない。宗教的説明を「科学的」説明にとりかえたり、いかなる説明もニヒルに拒んだりすることは、単純な信仰者にもなお劣ることである。
 しかし、本当にそのようなことは可能なのだろうか。ニーチェの「幼子」のようなものを目指すにしても、「目指し」て頑張ってしまった時点で彼は殺害者のようなニヒリズムに陥ってしまう。
 とにかく、我々はナイーヴな実無限が不可能で、神話を丸のみはできない所に出て来てしまった。そこで立ち止まって冷静に考える外交的態度は、最初の段階を出た動機を保存する限りにおいて許されない。「約束ごとで」などと言っている場合ではないのだ。世界の中に倫理があるのではなく、世界の成立が倫理的であり、我々は生まれた時から倫理的なのだ。

 それでは、実践としてさしあたってどうすれば良いのか。もう頑張り始めてしまった以上、頑張らないという選択を積極的には選べない。わざとびっくりできないのと同じことだ。頑張ってしまう以上、信じるしかないのだ。信じて、待つしか方法がないのだ。

 倫理は、一度倫理を考慮に入れて判断した者に対して力を持たないように見える。「『殺人』は悪だよ。倫理規範にそう書いてある」「ああ、そう」。それで話が終わりになる筈だ。分かってなお人を殺める者に対して、本来倫理は何も言えない筈だ。少なくとも論理的にはそうだ。しかし倫理は諦めない。ニンゲン化する倫理の力は、何度でも何度でも、同じ台詞を繰り返す。
 繰り返すということは、本当は驚くべきことなのだ。一度聞いたことを、何度も繰り返す。例えばコンピュータが相手なら、全く意味のないことだ。
 『オースティン・パワーズDX』というコメディ映画の一場面で、主人公の英国諜報員(?)オースティン・パワーズが、イスラム原理主義者風の工作員を捕らえる。「黒幕は誰だ!」「口が裂けても言えるか、サタンめ!」「黒幕は誰だ!」「地獄に落ちろ、帝国主義者め!」。しかし、三度目の問いを前にして、工作員は突如苦しみ始める。「やめろ、俺は同じことを三回聞かれると、つい本当のことを言ってしまうんだ!」。そして三度目の問いに対して、あっさり口を割ってしまう、というネタである。
 この場面は、コメディとして笑えると同時に、何か人をハッとさせる深部を露呈している。工作員はただ同じ質問を何度も聞かされただけで、拷問を受けた訳でも脅しをかけられた訳でもない。一回目の問いに答えられないものが、三回目には白状してしまうというのは、全く根拠がない。コンピュータなら考えられないことだ。
 もちろん、人を拉致監禁して吐かせる、という場合には、単なる勾留そのものが責め苦となっている。だから、単純な繰り返しの問題には還元できない。
 だが、別段監禁などせずとも、繰り返すということで変化が生じるという場面を我々はしばしば目にする。変化の根拠を、様々な「科学的」言説が説明するかもしれない。蓄積された条件が、ある一定のレベルを越えて発動した、とか、状況を構成する条件が変化した、など、言い方は様々だ。
 だが、例えば変化した状況とは、予め変化が見越されている訳ではない。とにかく、何かが変化した後で、状況を見てそこに還元してみせているのだ。その状況の変化は予測されたものでもないし、また余りにも複雑で、一度起こった条件を完全に記述することも出来ない。車窓の風景は取りかえしようもなく過ぎ去ってしまったのだ。そんな還元を行っているヒマに、一回でも多く繰り返す方がずっと早いし、実際、生物というのはそういうやり方をするのだ。
 ボクシングジムで、「左ジャブは昨日教わったので、今日は別のことを教えて下さい」というヤツはいない(いるのかもしれないが、相手にされないだろう)。とにかくただ、打てばいいのだ。打ったところで変わらないかもしれないし、変わるかもしれない。一万回目で変わるかもしれないし、二万回目かもしれない。しかし、そんなことは問題ではないし、考える必要もない。漫然とやれ、ということではない。何にせよ、その向こうにあるものを目指さなければならない。絵に描かれた三角形の向こうに、「想像を越える」三角形そのものを考えるように。しかしただ考えてボサッとしていても、始まらない。打つべし、打つべし、打つべし!

勇気

 自分が生きていることを信じること、世界が存在することを信じること、円周率が存在することを信じること、微分の向こう側に何かがあることを信じること、種がそれ自体において進化すると信じること、とにかくただパンチを出すこと。
 自分が今生きているということを信じること、すなわちこの疑いようもなくかつ信じようもないことを信じることは、神を信じるのとほとんど同じことだ。ここでわざわざ神という必要は全くないのだが、何を使っても同じことだ。だから神という極端で分かりやすいもので考えてみよう。
 もちろん、表象としての神ではない。白髪の老人を拝んでも「この私が生きている」ということとは何の関係もない。だからこそ、モーゼは偶像を否定したのではないか。「神の名を淫らに口にしてはならない」のではないか。神はイメージではないし、世界の内部にある存在者でもない。
 それは白い画用紙に白い絵の具で描いた絵のようなものだ。生きているという実感が直接に感じにくい時、不完全であれ神を通じてそれに迫ろうとするのは有効な方法かもしれない。もちろん、それは常に白髪の老人へと誤読されていくものではある。しかし、どの道頑張ってしまうのなら、ここで頑張らないでどこで頑張るのか。頑張らないことを目指して自分の生の否定のために頑張ることは、単なる「神の殺害者」であって、かつ一息に「超人」にも至れない以上、ここで頑張るしかない。さしあたってここで頑張って、その内疲れ果てて頑張ること自体忘却してしまう時が来るのを、「待つ」しかないのだ。
 「超人」でもない限り、人間はイメージを通じてしかものを考えられない。三角形について学ぶ時、我々は誰でも紙に描いた三角の図形を通じて理解する。しかし教科書に載っているあの図形は、明らかに正確な三角形ではない。それどころか、どんな技術を駆使したところで、三角形そのものを具象の世界に表現することなどできない。それでも我々は、三角形からはほど遠いはずのその図形を通じて、三角形を理解する事ができる。また逆に、そういう方法なしで三角形そのものに迫ることは不可能だ。
 自分が生きていることを発見し、驚き、信じる。
 それは要するに、勇気ということだ。

### 残響

 私には勇気が足りない。だから、これまでに多くの罪を犯した。私は誰に赦しを乞うべきなのか。
 これ程の多くの罪を赦すことは、もちろん人間にはできないし、まして母親の仕事でもない。
 私は祈る。誰に向かって?
 そこに誰かがいるのだろうか。もし一人の誰かがいるとしたら、たちまち彼は人間と変わらない、白髪の老人のような「神様」になって、とても罪を赦すことなどできなくなってしまう。そこにあるのは、いわゆる神でもなければ、秘密を告白する山奥の木の洞でもない。
 私は複雑に絡み合った伝声管に向かって祈る。
 祈りは伝声管を伝って、迷路のような複雑な地下を抜け、こだましていく。伝声管は無数の人々につながっており、どの声がどこにとどくのか、今や誰にも全容が知れない。
 多くの人々がその残響を聞くのだろうが、その時声はあまりに模糊に拡散していて、もはやそれが祈りであったことすら分からなくなっているのだ。


>残響塾