分かるとか分からんについては残響通信十五号、九号に書いた。どうでもいいけど、そういうことが気になる人は読んで下さい。 大体、本当はそんなことで悩んでるんじゃないだろ? 罪深く義気の富んだ者よ! 「MACHINA」上映直前の個人的メモ: 死ぬというのは世界の終わりではないし、狂うというのは突然叫び声をあげることではない。これらは全体性の様態変化であって、断絶ではない。そんな簡単に生き物は楽にはならないのだ(ヒステリーの予防に効果的!)。 諸項の関係の変化、項目それ自体の変化。「関係づけ」の変化(「関係念慮」……)。 これらは突然に起こることもあるし、漸次的に起こることもある(熊野の天皇直系とか、橋の上で顔が歪んだりとか、徳川埋蔵金とか、NHKとFBIとか)。 変化は他律的に発生する。この時、「させられ」るのは自己意識などでは決してない。 しかし自己意識とか主体とか、要するにメタ化する運動「一般」としてしか原理的に言及不可能であるという点が重要だ。 生物が主体的に進化し、実数が存在すると言っても、この時の主体は「私」などでは決してない。 始まりのそのまた前という絶対矛盾が、「私」ではないがそうとしか言いようのないクソ自由を駆動している。無い外部が我々を回転させている。サーキットは閉じている時もあるし、開いている時もある。しかしそれらは傾向であって絶対的なものではない。例えば死を迎えたとしても、サーキットの絶対孤立など夢想でしかない。系は暴力的に連続している。天国なら自殺も可能だ! 孤独は既に二人ぼっち。 狂ったり死んだりする主体は一つの出来事であり、時間を持たないものだ。「私」が事件なのだ。 しかしそれらは多分ありふれた事件であって、「偶然」私に受肉したにすぎない(ここで偶然というなら初めから神など考えないでもよいようなものだけどな、いやよくない)。 ところで、この二番目の「私」は誰なんだ? と、「ここ」「ここ」を繰り返すもよし。「どうして?」と尋ねるの三回くらいならいいだろう。エジソンの母親は大馬鹿者だが、そういうことも稀にあるのが世界というものだ。 総べて「約束ごと」であったり「倫理」であるにすぎないが、言葉の海の中に倫理があるわけではない。我々は生まれた時から倫理的なのだ。だからうっかり「どうして?」と尋ねてしまう時もあるし、狂いもすれば死にもするのだ。倫理的な者だけが死ぬことが出来る。所詮約束というなら死なないでも良いのだが、死なないとぬるんと回って世界の表と裏がひっくりかえってしまう。それでは初めから死んだも同然なので、結局倫理的にふるまわざるを得ないのだ。 狂うということは生きているということとほとんど同じことだ。 十分に倫理的なので、解けないと分かっている問題でも解こうとしてしまう。しかしそれなら解がないのかというと、そうではない。「計算方法だけが存在する」などというスカした考えこそ、エチカの帝国に対する奢りなのだ。 仁義しかないのだ。 そういうわけで、私も計算する。こないだは映画を撮った。 二項を立てないと始まらない。2。イデオロギー。 縦軸をぶったてるとファルスになる。俯瞰。3。いきりたつチンポ。 3と1が合体すると4になる。完全数。安定状態。結婚。結婚は3と1の結婚だ。しかし1はどこから来たのか? 安定とは言っても4が壊れるときがある(時間の存在。時間が足りない!)。不倫とか浮気とか。4が2と2になれば良いものを、四人いると必ず一人と三人に別れる。そういう訳で、浮気心からファルスが突き出して3。余ったのが1だ。 1は、除け者。孤独。しかし除け者という以上、除けたものがいるわけだから、初めに1があったわけではない。初めに1があったというのは認識論的独我論の誤りだ。4と3の化学反応から、電子が飛び出して1。 1とか2というのは所詮は青臭い考えとも言える。 だがしかし! 二項を立てないと始まらない。2。イデオロギー。 縦軸をぶったてて垂直を作ってみる。ファルスでメタメタ。 しかしそんなことをやってもラチがあかないので、飛び出す瞬間と言ってみたりして微分してみる。 それでも微分一般でスペースシャトルが飛んだりすると萎え萎え。 そういう訳で、最後は具象に返ってオチをつけるより他にない。 要するに終わっていないのだけれど、事件は永遠で時間が無いので仕方がない。 この辺に「作者」や「作品」のリミットがあるが、これをやらないと話にならないのでどうしようもない。「作者」「作品」というのが倫理的であるところだ。 チャレンジャーがぶっ飛んで、女教師が死んだりする所に人生の醍醐味があるというものよのう。やっぱ仁義だよね。 でも、私はスペースシャトル好きだよ。コロンビアの打ち上げは寝ないで見たからね。 MACHINA 残響塾 |