残響塾基本理念

 宇宙の中心には機能する無が見える。これはかつて神と呼ばれたものの残像(注1)ということが出来る。
 神は語り始めることによって宇宙を創造したが、それは罵り言葉であり、神はその悪しき言葉によって滅ぼされた。同時に、言語は走り始めた。
 宇宙は言語によって分節された。あるいは、分節されたものとして宇宙がある。よって宇宙には悪、あるいは否定力しか存在しない。悪は差異として存在する。
 宇宙は、ゆえに、神の残響によって構成されていると言うことが出来る。遠くまたたく星の姿が、何万年も前のものであるように。
 そのため、この宇宙に、初めからリアルであるもの、肯定的なものが裸であることはない。リアルなものは奇蹟的(注2)に立ち現われる。
 ところで、人間の能力を想像力と記憶力に大別すると、想像力のもたらす未来のイマージュはまやかしである(注3)。我々は記憶力の力を信じなければならない。未来を未来形で語ってはならない。神は過去にいる。
 残響は残響によって、悪は悪によって抗しなければならない。この悪は、一種のユ−モアとして機能する。裸でリアルなものがない以上、ユ−モア以外に方法はない。
 我々は今見る宇宙が残響であることを知り、宇宙の記憶の底に潜らなければならない。それが悪を限界まで進め、突破するための唯一の方法である。

注1 ここでは残像という言葉と残響という言葉が混乱している。私が「神の残響」として捉えているものはあらゆる知覚の対象に偏在しているが、残響という言葉がより隠喩として適切であると考えられるため、この表現を優先する。しかし、文脈からその対象が明らかに視覚的であったり(映画…)、その方がよりリアルに感じられる場合、残像という言葉を用いる。
注2 奇蹟…。その速度が我々の知覚を超え、遡行不可能なもの、その後に立ち現われるものによって覆いかぶせられ、振り返ることの出来ないもの…。奇蹟はマジックミラーに似ている。奇蹟は存在する、というようなもの…。ラスコーリニコフの悪夢の「限られた人々」、サクリファイスの朝…。
注3 後述する「統計」のようなもの。丹波哲朗。未来形に未来はない。


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