96年11月
主な項目
訂正とお詫び
わなげ外人
宇宙刑事ジェンダ−
私(たわし?)
メリ−さん
背の高い男
紹介者
倫理−論理
視野狭窄の効果
2速の力
考える/知る
重要
句選
訂正します訂正しますと叫びながら真っ昼間に男が銭湯からパンツ一丁で飛び出したが、一体何をどう訂正するのやらさっぱり分からず、そういえば中学の時の体育教師が修正するぞ修正するぞと怒鳴っては生徒を殴り倒していたのを思い出しその男も修正するのかと思いきや、番台の婆さんが後を追って飛び出して桶やら洗面器やら脱衣籠やらその辺にあるものを片っ端から投げ付けてお詫びしろお詫びしろと叫び散らしているところを見るとどうやらやはり修正ではなく訂正らしくて、野次馬連に紛れて事の成り行きを眺めているとパンツの男は電信棒が乱立し電線がクモの巣のように張り巡らされた下町の空の下を疾走し、負け時と婆さんも着物の裾を持ってやまんばのように男の後を追って昔話ならこういう時お札を投げて洪水やら火の海やら竜巻やらを出して時間を稼ぐのだろうが何せ男はパンツ一丁で投げるものもなく、そのうち地面に落ちた一升瓶の割れたかけらやら子供のおもちゃの壊れたのやらで足を切ったらしく血の足跡の歩度も次第にゆるんでついに米屋の角の行き止まりに追い詰められて今や絶体絶命、袋の鼠となってしまったのであります。
訂正します訂正しますの叫びも虚しくパンツの男は婆さんの振り上げたステンレスの洗面器によってメッタ打ちにされ哀れにも亀のようにうずくまって必死で頭を守る両腕はあちこちが切れて次第に腫れ上がり、野次馬連もさすがに青ざめ婆さんやりすぎだよちょっとやりすぎだよと言うものも出だしたがそんな言葉には耳も貸さず婆さんは殴り続け周り中の小鳥がその怒りに脅えるように低い空に一斉に飛び出し木々が揺れ、その空に響くのは今やお詫びしろお詫びしろという番台の婆さんの乾いたのどを引き裂くような叫びのみであります。
訂正します訂正しますの声も次第に細くか弱くなり野次馬連も既に言葉を失って呆然と立ち尽くしお詫びしろお詫びしろの叫びだけが辺りを覆い尽くす頃になって二重にも三重にもなった野次馬連の垣根をかき分け現れたのは黒い帽子に黒い制服の若い警察官だったが、よく考えてみれば警察官は制服と決まっていてむしろ制服を着ているものが警察官と言っても良いのではないかと思っている内に警察官はこれまた黒い警棒を抜き婆さんの背後にゆっくりと忍び寄り婆さん婆さんと声をかけるも反応はなく婆さんどうしたんだね止めなさい止めなさいという言葉も功を奏さないのをみてたまりかねたらしく、警棒を振り上げ婆さんの肩に向かって一閃に降りおろすと殺気を感じた武術の達人の如く婆さんは振り向きもせずその馨棒をステンレスの洗面器で受け止めカアアアンという乾いた音が辺りをつんざき予想だにしないその見事な身のこなしに警察官も野次馬連も言葉を失い凍り付いたのであります。
訂正します訂正しますの声も聞こえなくなってパンツの男は既に事切れたのか微動だにしなかったが一方で警察官も猛獣と目があったかのようにうろたえ次に何をなすべきか必死で計算しているようでしかしその様な計算で答えの出たためしがないものでやはりただ小刻みに震える手から警棒が滑り落ちただけでそうこうする内に婆さんはパアアアアンと鳥人の様に飛び上がり落下の加速度を利用してステンレスの洗面器を警察官の脳天めがけて降りおろしたがそこは日頃の鍛練の賜物か無意識のうちに警察官は紙一重でそれをかわし洗面器がアスファルトをたたいてガアアアアンという音を立てる内にすばやく後ずさりしてそれに合わせて野次馬連もニ三歩たじろぎ婆さんが面を上げて警察官の方をにらむのと同時に警察官の方は今やすっかり前後を失って腰にさしたピストルを抜きこれはピストルであるこれはピストルであると中学一年の英語の教科書のようにわめき散らし思わず見れば分かるよとつっこみたくなったが当人としては必死らしく引金にかけた指も微かに震えておりそれを見通したかのように発された天をも劈くかのような婆さんの叫びは、これまたお詫びしろお詫びしろというものだったのであります。
婆さんがゆっくりと一歩を踏み出すと警察官は尚いっそう激しく裏返った声でこれはピストルであるこれはピストルであるとわめき散らすも婆さんはまるで余裕たっぷりにもう一歩踏み出しとうとうたまりかねて警察官が発砲し下町の空に銃声がこだまするもそれはステンレスの洗面器に跳弾して弾きかえされ続けざまに放たれた銃弾も忍者映画のように婆さんはさばききり、ついに弾切れ今度は警察官が絶対絶命かと思いきや一度は事切れたかにみえたパンツの男が突然婆さんの背後から鋭いタックルをかまし、あわてて婆さんが洗面器で頭を叩くもそのまま押し倒してマウントポジションをとり何をするのかと思いきやすさまじい勢いで頭を下げて頭突きをかまし訂正します訂正しますと叫びこれに対しばあさん必死の抵抗お詫びしろお詫びしろと洗面器を振り上げるも届かず、一気に形勢逆転の模様になったのであります。
思い起こせば二十二年前、彼がまだ小学校に上がったばかりの頃、新しく始まる勉学の季節とこれから出会うであろう多くの友達、まだ出会ってないから友達ではないが、に気持ちを高ぶらせて細く曲がりくねったあぜ道をランドセルをカッチャンカッチャンとならしドロだらけのズック靴で走り抜け校門を潜り、校門と言うのはどう考えても肛門を連想させそれは運賃がうんちを連想させるのに似ているが子供が権力の末梢組織へと肛門をくぐって入っていくのは意味深な気もするがそんなことはどうでもよく、期待に胸を膨らませて迎えた最初の授業は思いのほか退屈であったが担任の女教師は若くて優しく安心し、質問を受けつける教師の声に他の生徒に負けじと手をあげ声を張り上げ注目されようとして叫んだ言葉が「先生!」といったはずが一体どこでどう間違えたのか「お母さん!」だったのだ!
これは本当に自分の語った言葉か、本当に自分が言ったのか、どうにも信じられないでいるもののクラス中が自分に注目している事実だけは間違いないようでおまけに出会ったばかりの担任の教師までが馬鹿みたいに口を開けて自分の顔を注視しておりその長い長い一瞬の間の後にクラスが爆笑の渦に巻き込まれその真ん中で台風の目のようにポカンと沈みこんでいるのは穴があったら入りたいとはこの事だという羞恥のどん底、ああこれから一年間きっと渾名は「おかん」とかに決まっているのだ、とかうんこしたいとか、どうしようもないことばかりが秋風のように頭の中を虚しく吹き抜け、ちなみに実際渾名は「おかん」となったのだがとにもかくにもその時信頼しつつあった女教師までもが一緒に笑っているのを自分は一生忘れまいと誓ったものの二十余年の間にはそれがすっかり忘れ去られ無意識へと転落したこの不信感この強迫観念がやがては女性に対する彼の特別な性癖やみかけの権力への強い執着へと繋がったらしいが、それはともかくそれ以来彼は何か重要な発言をしようとする度に「お母さん」という言葉を喉元で押さえ封じるように意識するようになり、やがてはそれが半ば習慣化し意識されないようになったもののいつも喉元に何かが引っ掛かっているような感覚だけは消えず、発言の前からその発言を訂正しよう訂正しようという気持ちだけが先回りしてそれはまるで走る馬の前にニンジンをぶら下げているようで終わりのないこの焦燥感が彼の人生全体を彩り、それは彼が一人前の警察官になってこの町に赴任してきてからも消えていなかったのであります。
訂正します訂正しますという叫びが今度は警察官ののどの奥から発せられ、その叫びに野次馬連が一斉に注目しそれはまるで彼が幼少の頃「先生」を「お母さん」と間違えた時のクラスメートのようだったが今度は一瞬たった後にも爆笑は起こらず野次馬連は青ざめ脅えとうとう気が触れたかお巡りさんおかしくなっちゃったのかという目で警察官を注視していると彼は続いてお母さんじゃありません先生ですお母さんじゃありません先生ですと叫びまるで長い長い呪縛から解き放たれたかのように天に向かってお母さん!と一声吠えたのだがそれを見るや今までマウントポジションで頭突きを続けていたパンツの男がやおら立ち上がって警察官につかつかと歩み寄りその後頭部へ向かってガツンと頭突きを一発、途端に警察官は膝をつき地面へと崩れ落ち失禁し、その一撃で町のお巡りさん二十八歳独身の短くもはかない人生は終わりを告げたのであります。
そこで大学生は考えた。訂正します訂正しますといっても訂正すればよいと言うものではない、訂正という以上、一、何を訂正するか、ニ、それがどう間違ってたのか、三、それをどう訂正するのか、この三点がはっきりせねばならない、警察官の場合、正誤表風に記せば誤:「お母さん」、正:「先生」であったのだが、それを訂正した途端にパンツの男に殺された、何故か、一見、警察官の訂正は正しいようにみえる、しかし、今となっては警察官の真に訂正したかったのはむしろ「先生」のほうであったということもできる、
何故なら、幼少時の失策以来彼の発言の背後には常に否定された「お母さん」の存在があり、逆にいえば総ての発言が「お母さん」の否定としてなされていた、それゆえに、彼は訂正し「お母さん」と発言したのであり、翻って「先生」こそが訂正されたのであると考えることが出来る、しかし、それならそれで、警察官は見事に訂正をやってのけたのではないか、その訂正は彼の欲望全体の訂正であったがゆえに、すなわち死を意味したのである、謎が解けた! 大学生はひらめいた、が、どうということはなかったのであります。
パンツの男の拘束から逃れた婆さんはすばやい身のこなしで立ち上がると、ステンレスの洗面器を振りかざし男の後頭部へと打ちおろしたがこれはかわされ代わりに大学生に命中し、おかげで大学生は今ひらめいたことをすっかり忘れてしまってコンタクトを落とした女子大生のように慎重に慎重に思考の跡をたどって思い出そうとしたが何か断片をつかむ度にあっちの野次馬にぶつかりこっちの野次馬にぶつかり分からなくなってしまいそれもかなわず、そうこうするうちに洗面器の雨をかいくぐるように男が頭突きで反撃する大接戦が展開し、死んだ警察官と考えごとをする大学生以外の総ての居合わせた人々が固唾を呑んでそれを見守り、洗面器は平べったく変形し今やもう洗面器だか何だか分からないステンレスの断片となって男の頭を襲い、負けじと男の頭突きが婆さんの鼻頭やら入れ歯やらにゴツンゴツンとぶつかって、辺りは婆さんの血やらパンツの男の血糊やら入れ歯の欠けたのやら涎だか唾だかリンパ液だか分からんのやらが飛び散って恐るべき惨状が繰り広げられていったのであります。
そんな乱闘の片隅に婆さんが投げたものらしい古びたたわしが一個転がっていたのだがもちろんそんなことに気付くものもなく、ましてそのたわしの毛が、あれを毛と呼んでよいのかどうか定かではないが、あの毛のような髭のようなモノがふるふると震えながら少しずつ長く長く伸びていっているのに気付くものはなく、この世のものとも思えぬような狂気の沙汰をよそにたわしの毛は意思を持った生きものの如くパーマを失敗した頭のように広がっていき、やがてはこの低い下町の空を覆いつくし自分の故郷である婆さんの銭湯さえ押し潰し、銭湯の煙突より工場の煙突より高く成長し、たわしこそが世界たわしこそが世界と名乗りをあげて些細なことにはまるでかまわず細々とした者達を総て電信棒くらいの太さになった毛でひき潰して一片の謝罪の余地もなく断罪せんと企む壮大な野望をギラギラと暗く鈍く光らせているのであった。
わなげ外人はらくだに乗ってやってきた。
くっさいくっさいらくだに乗ってやってきた。
らくだにはうんざりしていた。人に言うことなど一つも分からない。顔を見ていると夢まで食べられそう。後ろ足に触ると途端に蹴り飛ばされる。
わなげ外人は月の砂漠で輪投げに出会った。
異教徒達が古式のテントのそばで焚き火を焚いて、輪投げに興じているのを見た。月の砂漠をポクポクポクポクらくだが歩く。そのこぶの上から輪投げを見た。
わなげ外人は眠くなった。異教徒達はターバンのような布を顔にまで巻いて、その奥からギラリと鈍く光る目を覗かせていた。らくだはあえて無関心を装っている様だった。
わなげ外人は子供の頃、占い婆に二十四歳で死ぬと言われた。わなげ外人の親父は占い婆を蹴倒した。
わなげ外人は硬くなった古いゴムチューブの切れ端で輪を作った。それを夜の砂漠に突き立てた杖に向かって投げたみた。輪投げはなかなか上手くいかなかった。
輪投げ外人は眠くなった。
夢の中で異教徒達が呪いをかけていた。月の砂漠で呪いをかけていた。異教徒達は、輪投げの点数で地位が決められるのだ。良く見ると腕や足、首にまで呪術的に変形した輪をかけている。異教徒の社会的地位はその輪の数や種類で見分けがつくらしい。
輪投げは東の国から伝わってきた。らくだは東に向かっていた。月の出る国へ。
旅の商人と擦れ違った。旅の商人はふたこぶらくだに乗っていた。旅の商人は哀れむような目で輪投げ外人を見つめていた。旅の商人からパンを一切れ貰った。擦れ違う時、らくだは何かを伝えあったらしい。それ以来、らくだはオアシスについても水を飲まなくなった。
輪投げの点数はどうやって決められるのか。輪の大きさ、種類、距離、投げ方、棒の長さや種類。異教徒達には更に月の運行が重要な決め手になっているらしい。
幼い頃、わなげ外人は異教徒が火であぶられているのを見た。輪投げで負けたからだ。わなげ外人の親父はバカな奴等だ、と鼻で笑った。子供のわなげ外人はぶすぶすと異臭を放って焦げていく異教徒の死体から目を離せなかった。
水を飲まなくなってから、らくだの匂いはますます強烈になった。輪投げ外人はらくだに乗るのが苦痛になってきた。らくだは東に向かっていた。らくだの匂いは強烈で、腐った水を浴びているようだった。わなげ外人は匂いのあまり頭がくらくらしてきた。
わなげ外人には輪投げのルールが分からない。わなげ外人の国には輪投げはない。らくだは何も語らない。
東の国にらくだが着いた。
くっさいくっさいらくだが着いた。
宇宙刑事ジェンダーはジェンナーに対比される。
ジェンナーはえらい。
それに比べて、宇宙刑事ジェンダーはろくなものではない。
気をつけろよ。
私は山深く分けってしまった遭難者のようだ。
私は地図を備えているし、その見方も心得ている。
しかし、ここがどこなのか分からないのだ。
現在地を特定できなければ、地図など何の役にも立たない。
いや、私の居る場所ははっきりしている。
「いま、ここ」だ。
が、「いま、ここ」とは、どこなのか?
もちろん、「「いま、ここ」」だ。
が、その「「いま、ここ」」とはどこなのか?
……
結局のところ、それだけが問題だ。
地図を眺めると総てが遠く見える。
世界の多様性に(まだ成し遂げられていないこと、自分の可能性、可能であったかもしれない人生の選択、、、)目眩を感じる時、それは一見無辺な網の目に目を向けているようで、実は自分の場所を掴めないでいるのだ。そこでは、ただ失われた現在地だけが問題になっている。そこにいる限り、苦しみは消えず、問題は解決しない。真の問題とは、文法的な、内的な問題であり、その答えは文法の外、経験には有り得ず、ただ世界を変容することによってのみ「解決」しうる。それは現在地の思考を止めることだ。
足元の小石を拾い、握り締める。すると視界の限り広がる広大な現在地を初めて発見する。
♪メリーさん
メリーさん
ヒツジを飼ってるメリーさん
ヒツジを飼ったら
僕もメリーさん
大体、メリーさんは可愛いのか。可愛いのは、メリーさんの羊であって、メリーさんではない。メリーさんはキャンディ・キャンディみたいなひらひらの服を着てリボンを結んだりしているような気がしていたが、そもそも、メリーさんは羊を飼っているのだ。つまり、羊飼いなのである。羊飼いといえばそうとうハードな仕事、どう考えてもブルーワーカーだ。そんな女が、ひらひらの服を着て可愛らしくしていられるわけがない。
メリーさんはメリー・ポピンズではない。むしろペーターである。羊さえ飼えば、メリーさんなのだ。可愛いのは、羊であってメリーさんではない。
それにしては、メリーさんの可愛らしい印象が強烈である。何故か。ここで一つの仮説を立ててみる。メリーさんはかつては羊飼いだったのだが、いつのまにか羊になってしまったのではないか。羊飼いが羊になったのだ。羊は可愛い。故に、メリーさんは可愛い。証明終。
羊は水平の瞳によって世界を水平化する。つまり、リベラーズだ。だからと言って、共産主義ではない。羊は草を食べる。菜食主義だ。羊は水平であるが故に、微細な差異を誇張する。いじめの構図だ。羊は百姓である。
メリーさんは羊となり、百姓となった。今夜はラムシチューである。
メリーさんは羊を飼っていた。可愛い子羊を抱いていた。可愛い、可愛いと思っている内に眠りに落ちるように自らも羊となった。過剰に青々しい牧場の草をはむ羊の群れの中に溶けこんでいった。メリーさんは自分がどこにいるのかを見失った。羊にとって重要なのはただ群れの中にあることだからだ。メリーさんは自分の名前を忘れた。
ある日、モンゴル人がメリーさんの牧場へとやってきた。モンゴル人はヒツジを殺して食べた。メリーさんはジンギスカンになった。可愛い可愛いメリーさんはジンギスカンになってテムジンに食べられた。テムジンはクリルタイで大首長チンギス・ハンとなり、モンゴル・トルコ系民族を統一してモンゴル帝国を築き上げた。バトゥはワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド諸侯連合軍を破った。ナチス・ドイツは崩壊した。ヒトラーは自殺した。ネオナチに襲われたという車椅子少女の証言は狂言であった。世界に神秘など無いのだ。
メリーさんはひらひらの服を脱いでリボンを解いた。女性解放である。メリーさんはブラジャーをはずして、旗の先に結び、パリ・コミューンを先導して闘った。しかし、そもそもブラジャーとはなんなのか。ブラジャーは旗ではない。
メリーさんはメリー・ポピンズを殺し、傘を奪った。雨の日も大丈夫になった。多い日も大丈夫になった。生理用品の発展と避妊具の進歩は女性解放を加速した。良く考えてみれば、可愛いのは羊であってメリーさんではない。メリーさんは羊飼いなのだ。一方で、羊達は知性の進歩から取り残されていった。羊達は眠っていた。羊達は眠っていた。眠っている内に年を取り、アルコールが痛みを緩和するように人生の苦しみの輪郭を模糊として気付いた時には死んでいた。今夜はラムシチューである。
どこかで前に同じことを言ったような気がする。何とか思い出そうにも、夢の中では今来た道も定かではなくなる。たちまち、次の波に巻き込まれ、ただ人生を前に進むことだけが総てになる。
そもそも、ブラジャーとはなんなのか。
背の高い男が拳で打たれると頑丈な防具を通じてこの眼底が揺さぶられる。
慌てた女が走ってきて無関係な他者の死を告げる。
ゴルフクラブで殴られた男が血を流して大の字になっている。
サイレンが聞こえる。
殴られた中年男はもうすぐ死ぬ。
殴った中年男はもうすぐ連れていかれる。
巧みなダンスと歌で高校生を熱狂させた女性アイドルを育てた男の噂を聞く。
男は生まれた時から何不自由しなかったのに、その上成功を手にしたという。
金属をジャラつかせたパンクロッカーが座っている。
サイレンが聞こえる。
サイレンが聞こえる。
二人の中年男の人生が終わる。
総てが異邦人のように足早に通り過ぎていく。
紹介者という人種がいる。ある作られたもの(人が作ったのでも神が創ったのでもよい)を人に紹介する(それが職業であろうと、単に友人に紹介するのだろうと)ことを喜びとし、「仕事」にする人達だ。
彼らを単に外側から見るなら、何かを作る人(創造者、クリエータ)、紹介者、享受する者達という関係(経済)が見える。あらゆる表象芸術にはこの様な社会構造が基底的にある。しかし、紹介者の欲望を通してこの関係を見るなら、また別のものが見えてくる。
彼らは何も作らないが、あるものを人に紹介することで「何か」が「伝わった」と感じる。それが、彼らの「絆」なのだ。重要なのは、その「何か」を彼らが作り出すことが出来ない、その「何か」の源泉が彼らの外にあり、「何か」の生成過程がブラックボックスの中にあるということだ。彼らはそれはそれでよしとし、それでも尚「絆」が成立する場所に居る。あるいは、その様な欲望を持つ。
一方で、クリエータと呼ばれる人達は、そのブラックボックスの中身を問題にしなければならない。彼らが必要な「絆」を成立させるためには、どうしてもブラックボックスの解体に立ち会わなければならないのだ。しかし、言うまでもなくブラックボックスの中には何も無い。箱を空けるとそこにはある構造(電気回路の基盤のような)が見つかるかもしれないが、その構造の一部にはまたブラックボックスが組み込まれている。その箱を開けてもまた同じことが繰り返される。だから結局ブラックボックスは永遠にブラックボックスなのであり、クリエータもまたある不明な生成回路から生まれる「何か」の紹介者、仲介者にすぎないのだ。
にもかかわらず、彼らの必要とする「絆」を成立させるためには、それが徒労であると分かっていてもブラックボックスの解体に取り組まざるをえない。紹介者という人種と、クリエータという人種を区別するとすれば、それは「作る人」と「運ぶ人」の違いによるので反く、このブラックボックスの解体の必要性(欲望でもいい、両者の違いは単なる視点の違いだ)によるのだ。
だから紹介者は健全で幸福であり、創造者は常に不幸である。後者は文法的に「不幸」なのだ。
倫理ー論理は暴力によって包囲されている。
都市は空き地に包囲されている。
真摯な議論は常に共約不可能な(議論の俎上に乗り得ない)外部へ向かっていく。そこには沈黙と暴力しかない。
内部を明らかにしようとすると、外部が浮上する。
倫理ー論理は暴力の見えない壁に包囲されている。
戦争を露出しなければならない。
広場や公園で草を食む羊を屠殺しなければならない。
彼らこそが農村のジャイアンツファンのように権力を基礎付け、戦争を独占しているのだ。
国家を解体し、命懸けで空き地へ飛び出さなければならない。
悪辣なる真理へと向かって飛び出さなければならない。
通説とは異なり、視野を狭めるということがとても重要だ。
つまり、穴掘り作業的なものが。
視野を狭めることが出来て、はじめて視野を広めることが可能になる。
だから、例えば、他者が苦闘の末に手にした結論を掠めとっても無駄である。
それは単に貴方の視野を広めるだけだから。
それは詩である。
詩は魂に訴えるが、知性にはアルコールのように作用する(我々にはアルコールが必要だ、これはアルコールだ、)。
パラノイアは幸福の病である。
2速(セカンド・ギア)の力というのが非常に重要である。
1速(停止からの起動)でも3速や4速(巡航)でもない2速の力。
それは流れるように動く力だ。
巧いライダーは2速を上手に使い、
強いファイターは2速の状態を維持できる(それは技ではなく鍛練によって可能になる、つまり身体によって、)。
居付かず、抜けきらず、連続的に絶え間なく働き、ブレーキにもアクセルにもなり、どの方向にも瞬時に動き、変化する力。
「思う」のではなく「考える」ということは非常に重要だが(しばしば前者を後者と取り違える)、一方で「考え」すぎるのにも問題がある。「考え」ないほうがよい場合もしばしばある。
他方、「知る」ということでも、「知」らないほうがよいことは沢山ある。しかし、「知る」ことは連鎖する運動であり、中途半端に「知る」ことが何よりも一番悪い。
「考える」ことは「知る」ことを生むが、逆は真ではない。
私の語っているのは、個人的な物語ではない。
私には時々、金縛りにあったように動けなくなってしまうことがある。
いや、動いてはいるのだ。動いているのに、止ってしまうから、ふっと置き去りにされる。
レーザー光線のようなもので固められて、その時魂が置き去りにされる。
もしかすると、魂が歩き続け、別のものが取り残されるのかもしれない。
その時、ずっとずっと「この」私であったものが、一瞬だけ「あの」私になる。
私にはその風景をクロッキーのように書き留めることしか出来ない。
首都核攻撃に備え、残響通信では句選を始めました。皆さん、巻末の連絡先までドシドシ応募して下さい。選者:残響塾塾長。
ゆく春や
友達百人
いじめゼロ
(荒木瑞穂)
評:たのしいですね。
命の重さは
地球の重さ
ほととぎす
(山村タケユウ)
評:わびしいですね。
ウランなり
ウランなりとは
なんじゃろか
(山村タケユウ)
評:さびしいですね。
ちょっと待て
よく見てみると
ほととぎす
(山村タケユウ)
評:もっとがんばりましょう。
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