残響通信第十一号

1997年2月



主な項目

ハーレークイーン
キリスト教徒
砂漠の前に何があったのか、街の後に何ができたのか(きんじハウスをふりかえって)
掃除は愛か?
残響塾の新しい英語
楽しい犯罪
人間関係としての映画
たわし
待て
ダイヤモンド
おびえながら敬っているとき、、
飽きる
不自然
芸/術
誰もが楽しめる娯楽だと?
山村タケユウは安全です
ごめんで済むから警察いらない
責任1
責任2
DJといぬ
成田空港
句選
小川恭平連絡先

ハーレークイーン

 ハーレーに乗って女王がやってきた。ハーレークイーンだ。
 1949年、ハーレークイーンはカナダで生まれた。今では二十三ヶ国語に翻訳され、ヨーロッパや南北アメリカをはじめ、世界百ヶ国で愛されている。しかし、そこまで行くにはハーレークイーンにも容易ならざる道程があった。女王といえば女の王だ。王様なら当然のことながらキラキラの飾りのついた馬車に乗らなければならない。そんな時勢に、ハーレークイーンはハーレーに乗って荒野に乗り出さなければならなかった。
 執事達は大慌てで城門に立ちはだかって女王を止めようとした。「だめ……だめよ、マシュー」オリヴィアがぐいと髪をつかんだので、マシューはちらりと目を上げた。その目には熱い炎が燃えている。クイーンはマントを翻すようにひらひらの衣装を脱ぎ捨てた。執事達が戸惑いながら恐る恐る指の間から確かめると、そこにはもうジーンズ姿のハーレークイーンの姿があった。「何がだめなんだ?」マシューは再び顔を伏せ、ゴムの部分を咥えてそっと引っ張った。「きみを見たい。すべてを見たいんだ。いやだなんて言うんじゃないだろうね?」「いやじゃないけど……電気を消して」女王のハーレーのライトがきらめいた。エンジンの爆音が轟く。「きみを見たいんだって言っただろう?」彼はパンティの縁に親指をかけて下へずらしながら、一緒に唇をすべらせた。女王はアメリカを目指した。ハーレーといえば、アメリカだからだ。
 女王は砂漠を駆った。不毛の大地を爆音が切り裂いた。名もない酒場での一時の休息。荒くれ者が女王を取り囲む。「クイック&デッド」のシャロン・ストーンのような女王はこんな街では目立ちすぎる。一人の男は鉄槌で倒すが、多勢に無勢、所詮女の力だ。そこに現れる若く逞しい金髪のカウボーイ。たちまち荒くれどもをたたきのめす。バーボンのボトルが割れる。名はジョニー。姓は名乗らない。行きずりの一夜。厚い胸に抱かれ乱れる女王の長い髪。夜明け前に彼の寝顔にキス。再びつらい旅が始まる。
 旅をする内に金も底をつきる。こんな時代に女に仕事はない。あるとしたら、それは女である事自体より他に無い。やむなく、ハーレーが借金のカタに。ハーレークイーンの肉体は男達の鈍感な指にもてあそばれる。
 クイーンはクイーンであることに抗ってハーレークイーンになったが、それはクイーン以下のクイーンでしかなかった。革新を口にするものはやがて自らのうちにある生々しく醜悪なコンサバティズムと対峙しなければならなくなる。毎朝目覚める度に、鏡に向かって問いかける。私はもしかして、とんでもないバカ者なのではないか、と。次第に一つの出口が彼または彼女に微笑みかけてくる。適応でも反抗でもない潜伏。誰とも分かちあえない孤独な保守主義。
 緊張と不安で体が震える。でも、彼の言う通りにしたい。その方が身のためだからだ。「い、いいわ……」身体をそらせるとマシューの手が素早くパンティを取り去って……。「マシュー……やめて……」本当は止めて欲しくなどないくせに! 結局淫乱女が生き残る。「いやじゃないけど……電気を消して」闇の中をゲリラ戦士が狩りに長じた豹の仲間のように走る。ハーレークイーンはエンジンを切って密かに進む。しかしたちまち目的が分からなくなる。「このまま闇の中に居た方が賢いのではないか?」
 ハーレーが沈黙してから長い。バッテリーもあがってしまい使い物にならない。いつか乗るためにカバーをかけてあったはずなのに、その横でハーレークイーンは男のオモチャになっている。次第に女のロマンスが阿片のようにクイーンを犯していく。ジョニー。マシュー。私を迎えに来て。常にロマンスがロマンティシズムを殺す。ハーレークイーンはハーレーでもクイーンでもないただの女だ。「きみを見たい。すべてを見たいんだ。いやだなんて言うんじゃないだろうね?」嘘だ。君は君の期待する以上のものなんて見たくないはずだ。なぜ見たいなんて見え透いた嘘を。だが、彼の力には抗えない。「いやじゃないけど……電気を消して」電気を消すくらいならなぜ見せる? 「いやじゃないけど……電気を消して」そうだ、電気を消して。闇の中を走る。錆付いたハーレーが音もなく走る。時速3キロでノロノロと。キスをするふりでナイフを背中に突き立てようとするが、たちまち快楽に飲まれるクイーンの肉体。もだえ狂いながらかつてハーレーに乗っていただなんて、そんな言い訳は聞きたくない。二つに一つだ。それは誰とも分かちあえない孤独な保守主義の戦いだ。
 アメリカは遠い。砂漠の途中で引き返しても誰も君を責めはしない。ただ、それならもうハーレーは捨てろ。

キリスト教徒

 地上はキリスト教徒ども(演劇ードラマ愛好同盟、延いてはイマジナシオン帝国軍)によって制圧されてしまった。私のルサンチマンは彼らを殲滅することを要求するが、まあそれは重要なことではないかもしれない。ここでキリスト教徒と言うのはもちろん、ステンドグラスの建物に集まって跪いているあの人達のことではない。真のキリスト教徒は踏み絵によってしか識別することが出来ない(長い弾圧の歴史が彼らをそうさせたのだ)。しかし、踏み絵もかつてあったそれとはまるで機能が逆転してしまった。だから、今日では踏み絵を踏めるものこそがキリスト教徒なのだ。「キリスト者であるか」と問われて「いいえ」と答えるものこそキリスト教徒なのだ。
 ある種の人々はそのような世界にとどまることを嫌い、キリストの光が届かない場所(地下室、核シェルター)に逃げ込もうと試みたが、たちまちキリスト教徒に捉えられ、地上の光り射す牢獄で見世物にされてしまった。もちろん、彼らは非常に丁重な待遇を受ける。彼らには「人権」が約束されている。
 中には幸運にも地下に逃れたものもあったが、地下室にはセメントが流し込まれ、あたかも地下室などなかったかのようにされてしまった。
 この行為を「ナチスいじめ」と命名しよう(いじめ反対!)。
 さて、神の国は実現した。もちろん、キリスト教徒は誰も気付いていないが。このテクストには多くの皮肉が込められているが、そんなものはキリスト教徒にとっては痛くもかゆくもないだろう。
 彼らは国民の自営の為に一人一挺の銃を配布した。銃も公平である。しかし、この銃は実は精巧に作られたモデルガンなのだ! キリスト教徒どもは互いにこのオモチャをつかって牽制しあい、地上の秩序を保っている。もちろん、非キリスト者に対してはその限りではない。非キリスト者は路地裏に連れ込まれ、殴る蹴るの暴行を受ける。殴った者は、銃を使わなかったことにより情け深い者とみなされる。「どうだ! 目が覚めたか!」「可哀想な人だ」「お前のようなものには銃を使うまでもない」使ってみろ! そんなテッポウ効くかバーカ!
 議論というのも重要なキーワードだ。私ももちろん議論を好むが、それは予備知識のある聡明で気の合う仲間とのお喋りという限りにおいてだ。キリスト者によると、そんなものは議論ではないという。昔はどうか知らないが、今はミサイルとか核兵器とか便利なものがあるのだから、それを使えばいいのに。キリスト教徒どもはまわりくどくて無駄なことを好む。
 それでは、お前はどうなのか、と貴方は問うかもしれない。もちろん、私こそ正当なキリスト教徒である(それは数々の奇跡によって証明された!)。
 ちなみに、このテクストにピンとこなかった方、思い当たる節のない方、早よ死ね。


砂漠の前に何があったのか、街の後に何ができたのか

−きんじハウスをふりかえって−

 つまらない日本文化批判などするつもりもないが、我々の国は箱庭の国であるということができる。箱庭には明白な限界が初めから用意されており、その内部では一定のルール、一定の文法が普遍的に援用される。どのような問題も最後には共通の地盤にたどり着き、いかに協約不可能にみえる関係も、どこかでルールを共有している世界。「話せばわかる」。もちろんその中にも暴力はあるが、釈迦の掌を超えるものではない。だから、この国では国自体が大きな「家族」として期待されている。
 もちろんあらゆる国家は家族の隠喩だ。問題はそこにどれだけよりかかれるか、と言うことだ。
 箱庭の中の世界では、「つーかー」であることが良しとされる。だから人々は微笑に微笑で答える。約束ごとが措定された上での「趣向」が重んじられる。伝統芸能からアニメ文化に至るまでこの傾向は変わらない。アニメや特撮ものの文化は、まさに箱庭である。ルールを前提とした上でのディテールが問題になる。
 もちろん、ここでその箱庭自体を批判しようというつもりはない。我々はだれでも箱庭を目指す。「つーかー」の世界は心地よいからだ。笑いやユーモアはきわめて狭い共同体で共有される傾向を持つが、誰でも笑いを共有するものと共にある方が居心地がよいと感じるだろう。問題は、それがあたりまえだと感じてしまう感性にある。それは永遠に子供的なるものから抜け出せない未熟な感性だ。
 そのような対人感覚、あるいは感性を生んだ原因が、島国であるからとか、「単一民族国家」であるからだとか、そんなことはここでは問題にしない。また未熟といわれるわが国の政治的外交能力が、このような文化に因するかどうかもどうでもよい。私がここで試みたいのは、対人感覚ならびに世界解釈(世界の手触り)の一つのモデルの提示とその解体である。
 このようなテクストを綴ろうとを思いついたのは、小川恭平氏の訪問による。小川恭平は、居候芸術家を名乗る放浪の男である。彼が芸術家なのかただのヨタ者なのかは議論しないが、ともあれ彼は、居候という自らの生活形式を語りえぐり出すことによって二重化し、居候のエクリチュールとも言うべき前代未聞の世界を紡ぎ初めている。彼や彼の居候芸術論については残響通信6号『暫定性一般、そして記憶へ』でも触れたのでここでは詳述しない(また、このテクストはその続編として読むことができる)。彼は私自身も出入りした「きんじハウス」の主要メンバーであった。きんじハウスとは95年京都大学北部構内で行われたスクワット(住宅占拠、空いている建物に不法侵入し、住み着いてしまう運動、ヨーロッパなどで盛ん)である。きんじハウスについても、他に詳しく触れているものがあるのでここでは深入りしない(残響塾ビデオ作品「占拠しました」はこの模様の記録を中心としたドキュメンタリーである)。 きんじハウスは、数ヵ月で予想された封鎖、取り壊しを迎え崩壊したが、その最期から一年あまりを経て、小川恭平は関係者や元住人を訪ねる旅についた。拙宅を訪れたのも件の旅程にあってである(ついでに一泊「居候」していった)。
 彼との対話の中で、きんじハウスが何だったのかが改めて私の中で問直され、それは荒木瑞穂氏の空き地論による解釈の反芻を経てより明確なものとなり、そして再び解体へと向かった。その過程をここで記そうと思う。
 箱庭の話に戻る。きんじハウスは箱庭が特別なものであること、つまり世界が箱庭であるのではなく世界の中に箱庭があるのだという、あたりまえの事実を立証した。それが良いことであるかどうかはともかく、きんじハウスは、あまりにも無限定な人々の共同生活と戦闘的な外交関係を通じて、我々が決して箱庭に住むのではなく広大な荒野のなかで家を築くのだということを、図らずも暴露することになった。
 それは広場から空き地へ、という構図の中でも捉えることができる。小川恭平は、広場は開放系、空き地は閉鎖系であるとし、きんじハウスは閉鎖系であると指摘する。広場は一見無数の平等な力動の交錯する場のようでいて、実は権力によって保証された「公園」である。それは個人の庭にも似ている。庭が庭として作られるように、広場は初めから広場として措定され、経済の内部に位置付けられる。空き地は経済の外部にある。というより、それは「未だ位置付けられざるもの」であり、「未建築」の場所である。それゆえ、『暫定性、、』のなかで私は空き地は過去にある(あった)と書いた。それは空き地が過去という時制の中にあるということ、振り返って初めて発見される形式のものであるという意味である。
 箱庭と広場は同じである。きんじハウスは箱庭的家族的世界(加えてそれは大学構内であった)の中に突如としてグロテスクな外部を露出した。それゆえそれは初めから排除されざるを得なかった。我々は決して空き地を作ろうとしたのではない。空き地は目指されるものではない。我々は確かにきんじハウスという時間をリアルに体験したが、それは既に過去のものとなり、まさに空き地の時制へと移行した。今こそきんじハウスは空き地で「あった」と語ることができる。
 「敷居の高さ」という観点で、空き地と広場を語ることもできる。空き地は敷居が高いが、広場は低い。広場はマクドナルド的な開放性を持ち、一方で空き地は寿司屋のカウンターに似ている(余談だが、寿司屋とバーは似ている、両方ともカウンターを中心とし、見えないルール、おそらくは存在しない暗黙の掟に動かされている)。空き地は土管や放置された廃車など魅力的な地形に満ちているが、それらは決して公園のブランコや滑り台のように安全に設計されてはいないし、ブルドーザーで更地から作ったツルンとした広場のように、善良な市民に手招きしたりはしない。空き地には柵を越え有刺鉄線をくぐり、「私有地」の看板を蹴倒して命懸けで侵入しなければならない。空き地の柵は、「良識あるオトナ」たちがコンドームやエロ本の自販機を隠すように、自らの原理にして恥部であるものを子供たちから隔離するために設けたものだ。
 空き地は常に既に失われているが、空き地がなければ建築は不可能なのだ。空き地には、ある種の後ろめたさと緊張感を持って侵入しなければならない。そこは保障の外にある空間だからだ。マクドナルド的敷居の低さは、常に一定のルール(我々に相談なく定められたルール、生きるための掟は常に我々の会議参加以前に決定されている)を前提とし、安全保障と引き替えに、源泉徴収のように沈黙の服従を我々からかすめ取っていく。敷居の低さには仮面パーティーの自由があるが、一方で事後承諾による自警団が組織票によって我々から真の参政権を奪っている。
 空き地は排他的なものだ。権力による無言の排他性(マクドナルドでウォッカを飲んでいれば多分つまみだされるような)ではなく、一人一人の狼の瞳による排他性。空き地はユートピアではない。空き地は暴力の場所である。きんじハウスも暴力の場所だった。暴力を排除することで居心地の良いこぎれいな公園ができ上がるが、公園の前に何があったのかを忘れては、たちまちこの国に蔓延する箱庭依存的精神へと堕してしまう。重ねて言うが、ここで私は広場的なるものを否定しようとするのではない。また、きんじハウスの持っていたある種の暴力的空気を全面肯定するつもりもない。だが、それこそが我々来た場所、善良な市民が恥部として陰蔽する原点を暴露するのだ。論理−倫理は暴力によって包囲されている。
 私は秩序を否定しようというのではない。だがルサンチマンによって構成された弱者のための道徳に対しては自覚的でなければならない。それは我々の来た場所、我々の受けている恩恵の源を不問に付す「弱い」スポイルされた思想だからだ。箱庭を目指す魂(志向性)は否定しないが、箱庭から出られなくなった者たちのルールに支配される必要はない。
 小川恭平がきんじハウスについて「どういうふうにするのが理想だったか」と尋ねたとき、私はとっさに「砂漠から街を眺めるのが理想だ」と答えた。砂漠とは空き地、街とは広場だ。誰でも砂漠よりは街を目指す。砂漠は、空き地は、きんじハウスは、教会の鐘の音の聞こえない場所にある。教会の絶対安全保障エリアの外にある。教会の告げる正確な時の音、整理され整合的に理解できる「人間的」な世界の外にある。だが我々はそこから来たのだ。それを忘れてはならない。それを忘れてしまう箱庭依存的精神こそが、権力を基礎づけている。暴走する自警団は弱くて悪いものによって守られている。
 残響通信9号「アンチ・ファミリー」で私は、道徳の分水嶺としての家族のみを認める、と書いた。私がこう語るとき、中国人社会の家族のことを思い浮かべている。家族の外に道徳がないとき、そこに荒野と砂漠のみがあるとき、家族は教会の鐘の音が聞こえる場所になる。外に厳しく内に甘い功利的な類まれなる安全地帯。安部公房は(一般の都会人が自然にあこがれるのと対称的に)街に愛着と安心感を持ち、それは満州で育ったためではないか、と語ったことがある。それが「砂漠から街を眺める」の意味である。だが街で(箱庭で)見当識を失った者たちは、上下感覚を喪失した夜間飛行のパイロットのように、道徳も家族も意味を逆転させていく。そうしてルサンチマンの道徳が本来の自然な功利性を浸食していくことになる。
 空き地は、単に共有されているものがない場所ではなく、何が共有されているのかがわからない場所だ。本当に恐ろしいのはノー・ルールではなく何がルールなのかわからない時だ。寿司屋の緊張感はこれに近い。世界はルールが存在しないのではなく、不断に変動するルールによって支配されている。それは関係性のなかで現われては消える、変化し続ける秩序だ。そのような緊張のなかでかろうじて結ぶ絆にこそ、歓迎すべき箱庭、愛すべき街の原点があったはずだ。きんじハウスも空き地を目指して始まったのではない。言うなれば広場が失敗して空き地になったのである。誰も砂漠を目指しはしない。

 だが、ここでこれ程までに重ねて空き地を強調しなければならないこと自体、ヒステリックな倒錯した反応かもしれない。無自覚なものたちがはびこったからといって、砂漠の記憶が消えてしまったのではないのかもしれない。街は都市となり第二の砂漠を形成し、そこには再び暴力が溢れているではないか。殊更に空き地を強調するのではなく、広場の次を考えなければならないのではないか。広場/空き地の構造は次の段階へ進化しなければならない。
 時代は常に思想を先取している。広場のまったりとした嘘は、既に相当に破られつつあるようだ。街の肥大化の末に生まれた大都市は、街を目指した精神の遠く及ばない場所まで来てしまった。箱庭のなかに砂漠が生まれ、それが箱庭全体を再び砂漠化しようとしている。それが証拠に、愚鈍な反動主義がヒステリックに叫んでいるではないか。テレビの「警視庁24時」といった番組はわかりやすい。もう一度あの平和な「私の街」に戻ろうじゃないか、そう保安官は訴えているのだ。だが彼も薄々は気付いているはずだ。この街は彼が守るには大きくなりすぎた。この街を守ろうとしたら、市民の半分まで保安官にならなければならない。それではとても正常な街とは言えない。そう、市民生活を守るためには市民生活を破壊しなければならないという、矛盾した規模にまで都市は肥大しているのだ。
 街の都市化には二重の意味が含まれているように思われる。一つは街の砂漠化。もう一つは街のさらなる拡大、砂漠すら自らの秩序に組強いた世界の広場化だ(グローバル化!)。後者には見えない巨大権力による世界統一が暗示されている。だがその世界統一は、達せられたとしても、上述のような矛盾した形にならざるを得ないようだ。結局のところ、二つの解釈は同じことを言っているのかもしれない。
 だが我々としては、都市化によるニヒリズムに臆して、平和な街へと帰ろうとする反動主義に対抗しなければならない。我々は、この不毛の砂漠の向こうを目指さなければならない。この砂漠は時代の要請かもしれない。砂漠にいる者だけが街を目指せるからだ。
 この次に達する街がいかなるものとなるかは、我々の意思と判断にかかっている。だが手放しの楽観主義で先に進むことはできない。常に社会の大多数は「忘れやすい」人達によって占められているからだ。「忘れやすさ」と鈍感はある意味で最高の美徳であり、一概に彼等を責めるわけにはいかない。だが彼等の忘却は幸福の麻薬である一方、我々を凡俗な反動主義へと導く危険な落し穴でもある。限られた人々は、砂漠の記憶を秘めたゲリラであり続けなければならない。
 そして圧倒的な不利を承知で、私は都市のオプティミズムを叫ぼう。戦いを好むものたちにとって、砂漠は最高の戦場になるはずだ。後に我々がいかように責められるものとなろうと、砂漠を思い出したものたちは、臆することなく都市を戦場としなければならない。全体に対する責任ではなく、自らに対する安全保障という、絶対孤立の思想のみが真のゲリラ的精神を導くだろう。祈ろうとする誘惑に打ち勝ち、何人にも祈らぬニヒリズムの極北進むものたらなければならない。歴史は悪に導かれる。

 もうひとつ今回の小川恭平との対話から気付いた点がある。砂漠>街>都市(あるいは空き地>広場>?)の構図自体きわめて特殊西欧的であるという点だ。極北のニヒリズムへと必然的に導かれるこの思想を打ち破るには、砂漠を疑わなければならないのではないか、という点にふと思い至った。我々はすべて砂漠から来たのか。そうではないはずだ。砂漠を原風景にもつものの文化が絶対のわけではない。砂漠がはじまりであるということは、言い替えればそれ以前の記憶を失ってしまったということだ。
 砂漠は空き地、不毛のルール未分明の荒野だ。そのような「なにもないところ」からはじまり、街が、秩序が形成されていくという構図は西欧的パラダイムにはまりすぎかもしれない。もちろん、空き地は単なる「なにもない場所」ではない。だから、厳密に言って、空き地は砂漠よりもっと向こうまで行っているのかもしれない。
 ヒトはアフリカから来たという。砂漠はある意味で北の荒野に似てなにもない白い布のようだ。だがジャングルはちがう。生態の密で互いに分かち難く交わりあった世界。我々の出発点はクールでドライな外交的関係ではなくもっと湿ったナマナマしい場所だったのかもしれない。もちろんだからといって、箱庭依存的なジメジメした関係とも違う。湿っているが、どこかクールで突き放された世界。互い深く交わっているが、信仰や道徳の入る余地のないもう一つのニヒリズム。
 だから、この国が西欧的なクールなニヒリズムに到達できないからといって、悲観する必要はないのかもしれない。もちろん箱庭に留まることは許されない。我々のルーツは砂漠と荒野の大陸であると同時に、南方の島々でもある。冷たく乾いた土地ではなく、大地と密接に関わりその限りない余剰だけで生きることが許される世界。そこがユートピアなわけではない。ユートピアはそこを追放されたものが見る空しい夢想にすぎない。生が密着した世界では、死もまたあっけなく宣告されるだろう。だがそれは北の監獄の死刑宣告のように冷たくはない。暖かいがニヒルな死刑宣告。
 都市生活者たちは既にその記憶に向かっているのかもしれない。(アメリカの信じるような)巨大な教会の安全保障が、自ら定めた法によって自壊しつつある都市では、新しい暴力とエロスが深い記憶の淵から蘇ろうとしているのかもしれない。それは楽園のニヒリズムだ。


掃除は愛か?

−小川恭平は何を考えているのかについて−

 小川恭平は注目すべき人物である。だが実際は注目されていない。なぜか。彼があまり語らないからだ。彼は自分で言うようにあまり語ったり書いたりするのが上手なタイプの人間ではない。弟のてつオ氏との対比は分かりやすい。てつオに比べて彼は戦略下手であるが、クレバーというよりワイズという印象を受ける人物だ。それは彼の持つ独特の融和力にも表われている。実際のところ彼が何を考えているのかなど知りようもないが、ここでは少ない情報から彼の思想(そんなものがあるとすればだが)を探り、かつそこから私なりの展開を試みて見る。
 彼の現在までのところおそらく最大の花火ともいえるきんじハウスについて。彼がきんじハウスの計画をぶちあげた真意は何にあるかはともかくとして、彼の思想を探るベース(あくまでベースだが)になるかもしれないものを紹介する。
 それはきんじハウス当時彼が学部長に当てた手紙を元にしたチラシである。それによると、彼がきんじハウスに託した基本姿勢は以下のようになる。
 1、直接行動:何か方針を決めて全体で行うのではなく、とりあえずやってみる。システムにシステムで対抗するのではなく、自分の気持ちが直接表わせる直接行動をとる。
 2、リゾーム:ネットワーク型の組織。個々がそれぞれ中心となって個々とつながる。
 3、場:きんじハウスが交通の場、ファクトリー、すべてを受け入れる場、変化し続ける場でありたい、ということ。
 だが以上は彼自身が指摘しているとおりあくまで理想であり、出発点にすぎない。というのも、個人というものはそれほど確固としたものではないからだ。個人はそれを礎にするには不安定にすぎるものだ。だが社会運動としては不完全であれこのようなコンセプトは必要であると私は考える。また別の場所で、彼は自分にイデオロギーというものがあるとすれば、それは自由だ、とも言っている。これらがすべて不完全なものであるのは言うまでもないが、その不完全なものにすら至れないもの、それを排除した上で何も示せないものが大多数であることを考えれば、政治的な価値は十分にあるだろう。
 だがまあ、本当はそんなことはどうでもいい。私が気になっているのは、彼が度々繰り返す次の発言だ。すなわち「掃除は愛だ」という台詞である。
 掃除は愛らしい。また、掃除をするとそこは掃除した人のものになるとも言う。それは彼が長い居候生活のなかで学んだ知恵らしい。居候というのは立場の弱いものであるが、その弱い居候が何とか自分の場所を確保するには、掃除をすることだ、という。また料理をつくって台所を乗っ取ることも重要であるという。つまり、家主の生活基盤を心地よく奪ってしまい、自分のポジションを固めるということだ。
 台所仕事や掃除、一括して言えば主婦業に専心することで、たとえばものをしまってある場所などに恭平の方が詳しくなってくる。台所も次第に恭平に使いやすいものに変わっていき、家主にとってもそれが心地よい。ちなみに、恭平は料理もうまい。
 なんと恐るべき居候計画ではないか。私もこれには感服した。しかし、最初は単に生活の知恵だと思っていたこの思想により深いものが隠されているのでは、と次第に考えるようになった。
 きんじハウスも初めほこりだらけだった場所を掃除することにより住人のものとした。掃除というのは相当に場の支配権を握るものなのだ。誰でも掃除は面倒くさい。だから掃除を人がやってくれるというのは気持ちのいいことだ。だが一方でそれによって確実に我々から奪い去られているものがあるのだ。
 考えて見ると、道路や公園など公共の場所は自治体や国が一括して行っている(実際には業者委託であるが)。彼等は我々の代表という名目をもっているが、それは掃除によって場の支配権を樹立しているということにもなる。つまり、誰のものでもない場所は権力のものであるという宣言が掃除によって暗黙裡になされているのだ。
 掃除が愛だとすれば、所有というものも究極において愛に支えられていることになる。考えて見れば生活レベルではこれは当然の了解事項だ。だがそれは単は個人的な生活の世界だけでなくより高い水準にまで妥当するのではないか。システムが掃除するということは、システムの愛に個人の愛が敗れているということであり、知らず知らずのうちにシルテムによって我々の空間が奪取されているということなのだ。
 これを奪い返すには、個人が自ら立ち上がり、積極的に掃除に向かわなければならない。雑巾とホウキを手に街へで出なければならない。考えて見ると、清掃権の奪取というのはいまだかつてないスマートな革命の方法なのかもしれない。市のパッカー車よりも早く、革命軍のパッカー車によってゴミを運び、どんな掃除のおばちゃんよりもきれいに掃除してやるのだ。これほど心地よい革命はない。君子は敵を食う、だ。
 史上いくつもの大都市が誕生したが、それが拡大するに連れ陰の大問題となったのがゴミ問題である。安部公房は小説の中で、遷都とはゴミを処理仕切れなくなった都市が丸ごと捨て去って移動することである、と指摘している。『方船さくら丸』のシェルターの巨大便器は秀逸な隠喩だ。ゴミや排泄物は経済の外部へと捨て去れるものだ。そして外部が内部を包囲するのだ(空き地が都市を包囲するように!)。
 清掃権奪取は外部を奪うことにより内部を包囲する新しい革命の方法である(だが南米の地に足のついたマルクス主義革命組織などは結構似たようなことをやっている、マフィアのやっていることも似ている)。中小企業の社長がやたらに掃除にうるさかったりするのも、意外と侮れないかもしれない。
 しかし、氏の指摘するように、掃除するにはまず一遍汚さなければならない。ゴミのないところは掃除できない。愛はニヒリズムの向こうにたちあらわれるということか。
 たかが掃除と思っていたが、考えるとその根は相当に深いものであるように思われる。「掃除は愛」は真に明言である。
 しかし、実は個人的には掃除は大の苦手なのだ。どうしたものか。


残響塾の新しい英語

 我々日本人は外国語音痴といわれます。中高少なくとも六年間は英語を学んでいるはずなのに、これがいざ実践会話の段になるとまるで言葉が出てこない、聞き取れない。その原因は文法偏重の英語教育にあるとも言われています。そこで、これからの国際化社会をめざし、残響塾では新しい英語の試みを開始することになりました。
 これまでの考えでは教育ばかりが批判の矢面に立っておりましたが、残響塾の新しい英語では、より広く英語そのものを改革の対象とします。残響塾の新しい英語なら、誰でもすぐに流暢な会話をものにすることが出来ます。
 例えば、発音。LとR、VとBの発音は大変弁別しにくいことで知られています。これらは、日本人の骨格では使い分けることは不可能だということが、最近の研究で分かってきました。だから、一緒でいいです。ラとかバとか言えばいいのです。
 英語の教師はしばしば、「アとオの中間」などと訳の分からないことをぬかします。何が言いたいんだお前は。母音といったら五種類しかないのが当然です。このように、ムリ、ムダ、ムラを省くことにより、英語がぐっと身近なものになりました。

実践編:飲み屋で外人とケンカになったとき
 こういう時は、無理に英語で喋ろうとしてはいけません。長年慣れ親しんだ日本語でまくしたてることにより、意味は解らなくても怒りだけが伝わり、効果的です。また、中指を立てる、等のジェスチャーを交えるのもいいかもしれません。カラテポーズをとったりすると外人はビビることが多いようです。

例:「何見とんねんコラしばくぞ」「かかってこんかい」「お前なんかファックなんじゃ」

 これで、気の弱い外人ならイチコロです。しかし、相手が身長190センチ体重100キロで一昨日海兵隊を除隊したばかりの黒人兵だったりすると、「何を言ってるんだい、このイエローモンキーは」と(いう内容を英語で)言われるのがオチです。そういう時は一瞬の判断が肝要です。その台詞が終わらない内にリードから目にフィンガージャブを入れ、パリーしにきた手を逆に引きずり込んでリアのストレートを入れましょう。相手の気が上がったらそこから続けざまに相手の外に入り、大外刈で投げるのも効果的です。また、顔面パンチと見せて金的を狙うのもいいでしょう。以上の動作は間断なく連続的に一呼吸で行うのがポイントです。但し、かなりの練習を積んでいないと死ぬと思います。
 貴方がお金持ちなら、「アイム・ソーリー」といいながら金で解決するのも一つの方法です。この際、にっこりと微笑みながら「アイアム・ア・エコノミックアニマル」と言えるようになったら立派なオトナです。
 貴方が力もお金もない人なら、「アイム・ソーリー、ディス・イズ・ジャパニーズ・ドゲサ」といいながら謝る振りをして接近し、貴方がいつもジーンズの後ろポケットに入れているバリソン・バタフライナイフを抜いて一気に腹に突き立ててやるという方法がいいでしょう。
 力も金もナイフもない人でも、日頃から残響塾のことを深く信じていれば、死後必ず神の国へと導かれるでしょう。
 実践で重要なのは絶え間のない連続的動作であり、判断する前に行動出来るようでなりません。戦闘中あれこれ考える者は機械的動作にはまり、やがて自らの悲鳴を聞く事になるでしょう。


楽しい犯罪

どのようなものにせよ、楽しいということは犯罪である。
ところで、犯罪は楽しい。


人間関係としての映画

映画が娯楽であるとか芸術であるとか言っている奴等は、大事なことを一つ忘れている。単なる人間関係としての映画だ。
映画を構成しているのは単純な三つの法則である。モンタージュ、フォトジェニー、そして(特定の人物の個人的な)社会性だ。映画はカメラを持つ者の人生をトレスしている。


たわし

もはやたわしには、現状を改革する可能性は残されていない。たわしは世界に対して全くの無力である。たわしに出来ることといえば、せいぜい風呂場のタイルの目地をこすったり、流し台の頑固な汚れを落とすくらいのものだ。未来を喪失したたわしはただこう考えるしかない。どうしてこんなことになってしまったのか、と。


待て

待つことの反対が、わがまま。
「待て」は難しい。犬もなかなかできない。


ダイヤモンド

ダイヤモンドに憑かれているものは愚かものであるかもしれない。
それはともかく、ダイヤモンドというのは始めは石ころのような原石なのだ。それをただの石から弁別し、磨きあげる人達がいる。だから、真にダイヤモンドの価値を知るものとは、決してキラキラ光るあの石に魅せられている人々でないということだ。常に限られた人々のみが価値を知り、他の者達は価値を買う。


おびえながら、、

脅えながら敬っている時、貴方は単に脅えているのだ。恐怖を免罪符に思考を停止しているのだ。尊敬します尊敬しますと繰り返しながらザリガニのように後退して去ろうとする者から敬意を読み取ることは出来ない。ただ漠とした寂寥感が残るだけだ。「貴方のことを尊敬している、でも私は貴方が恐いのです、、」違うね、貴方は単に脅えているのだ。脅えて、排除しようとしているのだ。敬意に恐怖は伴わない(時に愛に恐怖が伴うにせよ)。

飽きる

飽きるということは愛の反対物かもしれない。

不自然

自然にしていたら自然にならない。人が「自然にせよ」という時、彼が求めているのは貴方にとっての自然ではないからだ。万人にとっての自然、あるいは人一人なくして成り立つ自然とは、一人のための自然ではない。それはほとんど不可能なまでに「不自然」なものだ。

芸/術

テクノロジーと言って思い出さなければならないことがある。アートという言葉は単に技術全般を指しもするが、どういうわけかそれが「芸術」になった。今度はそれが芸術と言う言葉を嫌ってカタカナのアートになったりする。芸と術が合わさって芸術なのだろうか。どうやらそうではない気がする。今や芸術は芸と術に別れて走り去るのだ。私なら術をとり、テクノロジーと最期を共にする。芸も職人芸もくそくらえ、だ。 
 残響塾は映画術、詩術だ。私は映画術師山村タケユウだ。

誰もが楽しめるだと?

先日、「誰もが楽しめる娯楽映画!」というコピーを拝見した。誰もが楽しめるものは娯楽ではない。もう説明する気にもならんわ。こういう文句を平気で書いてる奴は相当頭が悪い。死んでくれ。といっても絶対死なないだろうから、私が殺そう。ここで「死んでくれ」といって終わりになってしまうのが本当に良くない。そういうものが多すぎる。ちゃんと殺さなくちゃ、ね。進んで実践するよい心掛け。でも殺すと捕まるから病院送りくらいにしておこう。一人殺すより百人しばく。この精神も大事。


山村タケユウは安全です

聞くところによると、山村タケユウは大変評判が悪いらしい。すぐ殴るとか、女ったらしだとか、安心できないとか、ひどいものである。そこで今こそ、残響塾ははっきりと申し上げたい!
山村タケユウは安全です
*防腐剤は一切使用しておりません。
*合成着色料は一切使用しておりません(成分が沈殿する場合がありますが、製品の異常では御座いません)。
*シートベルトの着用を義務づけています。
*WHOの国際基準を満たしています。
*水銀0使用。
*オゾン層を破壊しません。
*窒素化合物を排出しません。
*一酸化炭素を排出しません。
*残留放射能は一切ありません。
*プルトイニウムを使用しません。
みんな、もっと私を信用しろよ。せちがない世の中だなあ。


ごめんで済むから警察いらない

 ごめんで済むから警察いらない。ごめんで済まないのだったら、誰も謝ったりしない。苦情処理係なんて存在しない。だから、ごめんで済むのだ。
 ごめんで済まないとは何だろうか。それは魂の断絶だ。協約可能性の不在だ。共通の地平を持たない者達は究極的には暴力によってしか通じ合うことはない。
 にもかかわらず、奇跡的にごめんで済む。もちろんそれは、それだけの共通の地平が分かち会えているからだ。襲いかかる猛獣に謝る者はいない(でも、謝りたいなあ)。逆にいえば、それが「人間」であることを限界付けている一つの指標になる。
 共同体がどうこうなどという以前に、総ての魂は絶望的な溝にはばまれている。だから、世界は暴力によってのみ動き、恐怖で構成される。ごめんで済むというこの細い絆をにベもなく捨て去ろうが、あくまでこだわりつづけようが、それは各人の勝手ではある。誰も他の魂に踏み居ることは出来ない。
 ごめんで済むことの「ありがたみ」に感謝する必要も一つもない。そんな出来合いの道徳を自らの魂の内側に住まわせる義務など全くない(住まわせた方が楽な人生は送れるだろうが)。総ての道徳、道徳と知りうる限りの、知りうる限りにおいて「善なる嘘」になりえなかった「単なる嘘」を排除して、それでもごめんで済むだろうか。暴力の海の中でなお謝ることが出来るのだろうか。
 いずれにせよ、「ごめんで済まない」というなら、戦って勝った時だけ喋るべきだ。そして喋るすぎる奴が多すぎる。
 やっぱり、ごめんで済むから警察いらないぞ。

責任1

 責任というのは必ずとならなければならない(ということになっている)にもかかわらず、基本的にとりえないものだ。我々は自分の為したことに対してしか責任を負えないが、我々の行為は我々の選んでいないものの結果でしかない。「為した」ことから「起こった」ことを差し引いていったら、何も残らないかもしれない。すると我々は何に対しても責任をとれない(責任をとる義務もない)ことになる。それでも責任をとるのだとしたら、我々は行為の選択に対してではなく、単に結果に対して(不条理にも)責任をとるより他に無い。そして責任というのは、通念上の理解と異なり、結局そういうものでしかない。誰もが貴方の結果にしか期待していない。逆にいえば、それが個人というものを限界付けている。この事の意味を知らずに軽々しく責任を語る者は、本当の責任を知らない。それは自らに対する重大な対する諦観、無視できない矛盾に対し止むをえず判断停止することを含んでいるのだ。

責任2

 責任というのは必ずとならなければならないということになっている(単に「なっている」のだということは上述のとおり。われわれは何か「為した」のか?)。それは単に社会が権利と引き替えに与えた責務であると(自由の代償であると)いうこともできるが、責任こそわれわれに与えられたチャンスであるとも言える。責任をとらなければならないということになった瞬間に、ある意味で上で示した問題はクリアされているのだ。というのも、責任があるということと(つまり、「為す」ことができるということと)、その責任をとらなければならないということは同時的だからだ。 いや、しかし本当にそうだろうか。厳密に言えば両者は「同時」ではなく時間差がある。発生論的には責任があるから責任をとらなければならないのだが、実は責任をとらなければならないという宿命が最初に与えられている。
 我々は私がこにいると言うことを発見(発明?)した瞬間から負い目を追って後ろ向きに世界を進むことを強いられている。我々が未来へ進むためには、それを罪として認めなければならない。罪という名によってそれを了解しなければならない。同時に、我々は責任を負う。未来の栄光と喜びをもって責任を迎かえ入れ、責任の網の目の中を進む地獄へと喜々として足を踏み入れる。宿命とは未来の別名である。


DJといぬ

エロティックパークだのデスフェラードだのワケの分からん洋ピンの棚ダスキンで掃除したりして
バケ学っぽいホコリの臭いにこれ絶対体に悪いわ指カサカサになるし
DJ、キミの歌が上空を吹き抜けていく
DJ、私はキミに追い付けない
中学一年の時一五〇〇メートル走でクラス1の肥満児とビリ争いのデットヒートを演じて結局負けたんだもんな私
ムリだよ
そういや、もう一ヶ月もセックスしてない
ムカつくけどエアコンのお陰で熱くも寒くもないし欲求不満すら心地好い欲情に変わる
睡眠薬一瓶飲んで泣きながら笑って眠りたい
いや、セックスなんていつでも出来るんだけどね私モテるし
泣きそう泣きそうってホントに泣いたことなんて一度もないんだけど
DJ、オンガクってのはザンコクだねナマジこんなモンがあるだけに悲しいよ
ダスキンの臭いが目にしみるぜ
昔一度だけホントに野球拳をやってしかもその後セックスしちゃったときのことを思い出すよ、は! なんて楽しいイカレぶり、
今私と一緒になって笑ったヤツ、殺してやる、
カプセル噛み砕いて泣きながら笑ってるとこんな夜中にピレネー犬がピンポン鳴らしてやってきて首の下の酒樽揺らして「飲もうぜ」って言ってくれる
キミの毛はふわふわで気持ちいいね、キミも飲めよ
いや、ボクは仕事ですから
山岳救助犬ですから
まあいいや
一ヶ月後、DJというのは歌は歌わないのだと知った


成田空港

君は成田空港に行ったことがあるか?
成田には成田の、独特の良さがあるはずだ
おお、成田
翼よ、あれがパリの火だ



句選


凩や
鼻毛が地下で
伸びている
(魚村晋太郎)
評:伸びてますね。


二月だね
ヘこいてブラブラ
フェブラリー
(詠み人知らず)
評:ええかげんにせえよ、コラ。


不眠だ!
弟子に伝わる
わくわくの意志
(ミシェル高桑)
評:不眠か!


ひょっとして
君ドイツ人?
ダンケシェーン
(山村タケユウ)
評:えらいぞ、わし。


居候します。050(230)5289 小川恭平



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