残響通信第十二号

1997年4月



主な項目

啓示報告
義憤を殺せ!
韻文

啓示報告

 私は啓示を受けた。まただ。バイトの面接に落ちて吉野屋で牛丼大盛りを食べているときに突然に啓示がやってきた。
 啓示というと神々しく絶対の真理が伝わってくるようだが、私の個人的経験から言って、啓示は、良く間違っている。私はこれまでに少なくとも五回くらいは啓示を受けているが、大概、良く考えると間違っていた。
 だから、それは啓示ではないのかも知れない。でも多分啓示だ。違うかも。
 これでも、若い頃は、神秘的な体験というのをずいぶん信用していた。自分が圧倒的な存在と同化して確信に満ちて行動するというのは、非常に素晴らしい経験である。自信に満ちている人間には人も付いてくる。そういう時の行動は、周囲の人間も巻き込んで大がかりなものに発展したりするものだ。自分が世界の先頭に立っているような壮大な気持ちになったりする。
 しかし、時が経つに連れて次第に当初の興奮も収まり、自分のはじめたことがだんだん面倒くさくなってくる。自信も徐々に揺らいできて、言うこともおぼつかなくなってくる。そうすると自然と何でもうまく行かなくなり、結局失敗に終わる。
 そういったどうしようもない体験の繰り返しから、私は自分の自信というものを信用しなくなった。基本的に、私はいつも間違っている。夢を語るのは相当巧みだが、夢を実現するのは相当下手だ。無言電話が多いのもそのせいかも知れない。
 「向こうからやってきた」経験というのは、しばしば「良く考えた」結論とは矛盾している。「大きな体験」を疑わずに猛進できる人は幸せだが、不幸にして私はそういう人種とは違ったようだ。私の結論はいつも私を追いつめる。
 本当はこの啓示のことを主題に小説(注)を書いていたのだが、だんだんアホらしくなってきたのでここに書いてしまう。起こることをむやみに子細に記すという作業がだんだん出来なくなってきた。しかし、こういうことをダラダラ書いていると読んでもらえなくなるので、ちょっとは楽しめるように血沸き肉踊る展開にしてみるのも良いかも知れない。と、黒服の男が窓から乱入マシンガン乱射! と思わせボンッキュップリの美女を抱いてワイングラス傾けカンフーで一撃、だがしかし! よもや、大惨事、間一髪だったぜ! 名乗るほどのもんじゃねえよ。
 ところで、私たちは二回目の世界にいる。いや、厳密には二回目ではないかも知れないが、いずれにせよ世界というのは全く同じ事を繰り返して重層的に出来ているらしい。
 仏教での輪廻転生では死んだものの魂は別の生き物にはいるが、実際はそうではない。転生はあるが(つまり神の国へ行ったきり戻ってこないことはないが)、次に入るのもまた同じ人物の肉体である。私の魂は私の人生を永遠に反復している。
 間違えないで欲しいが、決して生まれ変わって別の人生を歩むなどという意味ではない。全く同じ人生が何度も何度も何度も繰り返されていくのだ。シシュポスの神話のように。
 だからここでも、鍵になるのは記憶だ。
 二重化した人生がその二重性を開示する瞬間がまれにあるが、それはデジャヴとはいささか異なり、まさにその場に居合わせているという圧倒的な現在の感覚である。現在が過去の中にあり、それが合わせ鏡のように無限に重ね合わさっている感覚。
 記憶力ヴィジョンの拡大は、それ故に、単なる時間ヴィジョンの拡大ではなく、重層的な生の厚みの認識である。そのときに見るものは、永劫回帰に似たものかも知れない。
 人生は神が毒杯に倒れる様をコマ落としで反復している。
 突然だが、残響通信一号の記述を久々に再掲してみよう。まるで正気の沙汰とは思えないが、私はキチガイだから無理もない。

 宇宙の中心には機能する無が見える。これはかつて神と呼ばれたものの残像ということが出来る。
 神は語り始めることによって宇宙を創造したが、それは罵り言葉であり、神はその悪しき言葉によって滅ぼされた。
 宇宙は言語によって分節された。よって宇宙には悪、あるいは否定力しか存在しない。悪は差異として存在する。
 宇宙は、ゆえに、神の残響によって構成されていると言うことが出来る。遠くまたたく星の姿が、何万年も前のものであるように。
 そのため、この宇宙に、初めからリアルであるもの、肯定的なものが裸であることはない。リアルなものは奇蹟的に立ち現われる。
 ところで、人間の能力を想像力と記憶力に大別すると、想像力のもたらす未来のイマージュはまやかしである。我々は記憶力の力を信じなければならない。未来を未来形で語ってはならない。神は過去にいる。
 残響は残響によって、悪は悪によって抗しなければならない。この悪は、一種のイロニーとして機能する。
 我々は今見る宇宙が残響であることを知り、宇宙の記憶の底に潜らなければならない。それが悪を限界まで進め、突破するための唯一の方法である。

 その後の「考えて」得られた成果から、ここでイロニ−と呼んでいるものはユーモアと言うべきであるという結論に達した。この頃はまだユーモアの重要性に十分気づいていない。
 世界は神の死の残響であり、断末魔の悲鳴である。そしてそれは時間的な(歴史的な)広がりと同時に厚さという尺度によっても測られなければならない。
 神は死んだにもかかわらず、そこかしこにいる。神は遍在している。何故なら、全ての人生の内側で神の死は反復されているからだ。それが世界の厚みということの意味だ。
 ここでいう想像力とは、「未だ見ぬ」未来へと思いを馳せるものだ。「未だ見ぬ」未来は存在しない。それ故、想像力は無いものを有るが如く見せるだけである。想像力を信じてはならない。
 未来は過去にある。未来は重層的な過去の地層から記憶力よって発掘される。それは時間を後方へ遡るような力ではなく、世界の厚みを一瞬感に把握する力である。

 ある種のドラッグによって記憶力ヴィジョンの拡大を図ることが出来るかも知れない。それは「減速剤」のようなものになるだろう。時間のスケールを変容することにより、時間の長さではなく厚さを把握することになるだろう。
 以上、取り急ぎ今回の啓示の報告。

注:無気力な失業者が引っ越しを前にして部屋でゴロゴロしているところを大家やらNHK集金やらが訪問し、それらを毎回毎回撃退していくというエヴァンゲリオンやマジンガーZの形式を踏襲した長編冒険活劇、になる予定。


義憤を殺せ!

 全ての怒りは義憤と言える。怒りは、等身大以上のものへと一瞬同化することから爆発する。世界の「中」にある小さな功利的存在から、俯瞰的秩序と一体になることから激昂する。義憤など誇大妄想の産物といっても概ね間違いではないだろう。「あんな奴は絶対にゆるせん!」「天に代わって裁く!」委任状でもあるのか、バカ。
 義憤から一歩身を引くと、卑小で利己的な自分が見える。それで尚怒るとしたら、それこそが本当の怒りだ。それは滑稽でおかしみを伴う「怒り」になるだろう。義憤を殺すと怒りは利己的な怒りになる。それで尚怒り続けると、怒りはその本性から離れて滑稽で悲しくも、妥協のきかない断固たる態度になる。
 正しさがなければ戦えないのなら、今すぐその戦いを止めるべきだ。我々がもっと単純でつまらないもののためにしか努力できないということを認めなければならない。我々は小さな悪として生きるべきだ。
 だれでもカッとなることがある。許せないと感じることがある。別に許す必要はない。許す権利も許さない権利も誰にもない。「全てが許されている」。だから許せないなら勝手に罰すればよい。神も法も追いつけない場所でそいつを殺せばよい。誰も貴方の味方をしないが、そのときこそ貴方は真に自由なのだ。
 怒りを抑えろと言うのではない。利己的な自分を発見し、なお振り下ろす手を止めないでも良いではないか。悪辣な微笑を浮かべて殺せ。単なる一個の殺戮者として、世界が貴方を地獄の底まで追いつめようとも。


悪い場所から出られなくなる原因

今気がついた。
私には父がいないのだ。
母が父でないのが歯痒くて
母を殴りたいのに殴れないのだ。
母がゴドバ虫で身動きしないから
私のゴドバ虫が止まらなくなるのだ。
父がいないからガミだかアグマだかが代わりに入って
それがそもそものゴドバ虫なのだ。
だから私はイエス・キリストなのだ。

アニメについて、イエス・キリスト

イエス・キリストはキリスト教徒が大嫌い。
(私も嫌いだ)
踏み絵を踏んだらおまえはコロンブスほどの大馬鹿者だ。
「穴は自分の外にあるのだよ」
その穴につっこめ
埋めたきゃつっこめ
しかしゴドバ虫にやられたイエス・キリストはつっこみようにもつっこみようがないのでした。

女と寄生虫について

オットー・リリエンタールの寄生虫めが!
オ前ナドアシカショーでのたうちまわれ!
プールサイドではビキビキビキか?
そうも言っとられんぞ!
ラットのリットーるでもぎやがれ!
ごのゴドバ虫メガ!
女くっるとりーが
げろぐりーるらいどでろっっぶ
っるラー肉塊
ルルらッドりぃガガギーグル
レッドビギルーゥ
らドルリー小せん
らッど最期には
見ロ、イエズ=ギリスドォー


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