残響通信第十三号

1997年5月



主な項目

原子力仁義公開に寄せて
カラオケ、よかったね
個人と個性

「原子力仁義」公開に寄せて

 「何が言いたいんだ!」と言われると、「何も言いたくねえよバーカ」と答えるしかないが、そう訊いてくるヤツにこう返答すると必ず怒る(道徳の法則)。怒るぐらいなら黙って帰れよ。その怒りをサンドバックにぶつけた方が強くなるぞ。
 何も言いたくないが書きたいから書く。撮るのも同じだがそのことは書きたくないから書かない。言イタイコトが言いたいんなら、言えばいいじゃん。バカじゃねえの。
 人並みに舞台裏でも書く。とりあえず、当初思っていたのとは全く違う映画になった。うれしい。一番最初の企画では、とにかくロボやらメカやら偽科学的なギミックがいっぱい出てきて、それが大量のキャストによって記憶力理論(たぶん妄想)に基づいて展開するはずだった。そういう脚本を書こうとしていた。ところが、断片的なネタやエピソードや画はあっても、それを有機的につないで物語にしていく作業が一向に進まない。まるで脚本が書けない。だんだん腹が立ってきたので、とりあえず思い付いたことから撮影していくことにした。だから、この映画にはコンテもちゃんとした脚本もない。ついでに素材が以上に長い。8時間くらいある。ボツテープであと2、3本映画が作れそうだ。実際、「天才娼婦ナオちゃん」と2本出来た。うれしい。
 撮っているときは楽しいこともあったが、概ね、いつもと同じくメチャメチャ面倒くさかった。また個人的な環境が須らく悪い方に悪い方に向かっていて、今もそうだがかなり絶望していた。大体、金がない。メシよこせ。仕事くれ(面白いヤツ)。まあ、私はこのままウンコみたいに死んでいくのだろうが、それは良いにしても、それが良くないという頭に育ってしまったのが本当に悪い。ウンコに失礼だ。世の中ウンコみたいなものなのだから、ウンコで結構なのだ。それが悪くてヒルトンホテルのピカピカの便器みたいに生きなきゃ行けないと考えるのは本当に狂っている。5歳の頃からボクシングでもやってガンガン殴られてパーになって、ついでに強くなっていたかった。高校の頃は教師や教師でないヤツに随分殴られたような気がするが、キチガイになっただけだった。いや、キチガイはもっと前からだから、殴られ損だ。私や私以外のその辺の人たちが刷り込まれた平面パースの文民主義的、理性主義的、俯瞰的、道徳過剰な教育は本当にうまくいって、私も子供が出来たらそういう嘘をたっぷりそそぎ込んで都合のいいガキに仕立ててやろうと思うが、とにかく私にとっては迷惑千万だ。そんなことよりケンカのやりかたもっと教えとけよ。でも、そういうズルいとこが結構好きだけどね。
 編集の途中で引っ越して、部屋を完全スタジオ化して押し入れで寝ることにしたので、作業は非常にスムーズにいった。こんなに楽しい編集は初めてだ。とても自由だ。もう、どうつないでも良いと思ったから、気楽だった。ともかく、上のようにウジウジした誠に私らしい状況にあったので、グチだらけの映画にしようと思った。全編私のグチが流れて、「もう映画やめる! 結婚します!」って叫んで、結婚行進曲と同時にエンドロールが流れてくるようにしようと考えていた(このネタ面白いから今度使おうか)。ところが、生真面目な性格が災いしてか、想像以上にまともな映画になってしまった。出来上がって見直してみたら、ちゃんと筋らしきものもあるし、かなり面白い。これを見て「分からない」とかいうヤツは、私に見えないところで言え。見えてたら刺す。何度も書いたが「分からない」クンには心底うんざりしている。何を分かるんだ? 算数ドリルでもやってろよ。お前らに覇権をとられてこっちは食いっぱぐれてえらい迷惑だ。生活かかってるんだ。見つけたら尾行して無料のイタ電一日百本かかるようにしたり角材で殴ったりするように心がけているが、まだまだこんなもので根絶やしに出来るもんじゃない。みんなももっと協力して欲しい。それにしても、「分からない」ってアンケートに書いて住所とか本当の書いちゃってるヤツって本当にバカだよね。尊敬しちゃう。
 まあとにかく行き当たりばったりで作ったから、その場の状況で決まったことがたくさんある。シベリアンジョーが役者交替するのもスケジュールの都合だし、須崎氏は決戦に登場しないはずだったが面白そうなので来ると言ってくれて、それで人造人間になることにした。そもそも、シベリアンジョーはヤンキーズの人数が足りなくて、たまたまその辺にいた初対面の土生君を引っ張っていって、彼がハスキーのTシャツ着ていたのでそういう名前になった。大体、映画はこういう作られ方をするべきだ。前にも書いたが映画には3つの法則がある。モンタージュ、フォトジェニー、そして撮影者の人生だ。個人的な不可逆の事情が人生を導いていく。我々は実質上何も選べていない。選んでいるが、同時に導かれている。スーパーうんちくんに。運命論じゃないよ。
 とにかく自分が楽しいのが一番だ。うまく流れに乗らないとみんな不幸になる。かっこいい音楽や朗読も入れられて、めでたしめでたしだね。そういえば、アントニオ役の福本君、地下廊下のシーンで随分たくさん腕立てやらせちゃったけど、アレ、後で見たら日付入ってて全部使えんかったわ。すまんすまん。
 
まとめ:まあ、何にしても、今回はすごく関係者が多くて、たくさんのヒトにお世話になりましてた。ちょっと多すぎてここにリストは載せられないけれど、こんな私のワガママにつきあって頂いて、本当にありがとうございます(マジで)。今後の目標としては撮影も面白おかしくやる、という方針で行きますので、また宜しくお願いします。私も懲りずにまた映画撮ることになりそうだし。そろそろ本気で売れるヤツを作りてえなあ。いや、やるぜ!!

追伸:上の文章を書いてから2週間くらいして思い出したが、『原子力仁義』のそもそものモトネタを思い付いたのは、『ゴミの日』の音楽レコーディング中だった。音楽家が楽器をアンプにつないで音を出しはじめると、その余りの音量に何も話が通じず、これはほとんど暴力だ、と思った。そこでは音量が論理をはるかに凌駕していた。まあ、政治と暴力が勝たない世界なんて無いと思うけど。
 で、音楽が暴力の域に達するというので思い出したのがジャイアン。ジャイアンはすげえ。ただのガキ大将なら分かるが、それが歌を歌うという点がジャイアンをジャイアンたらしめている。
 その時たまたま『ジャイアントロボ』のアニメーション(名作)を見ていて、「ジャイアンとロボ」という駄洒落を思い付いた。何とか映画にならないかと思っている内に(例によって)どんどん企画がネジ曲がって、結局こうなってしまったと言うわけだ。そう思って考えると、ブルースマンの荒木さんは、ちゃんとジャイアンだよなあ。でもシコウはのび太じゃないから、のび太は蓮行(ガンダム)か?
 上の文章を読み返すと、いつもながらナゲヤリでエラソーで、ちょっと恐くなる。私ってホントはいいひとなのになあ。

訂正とお詫び:『原子力仁義』のチラシで、関係者の名前の表記に誤りがありました。
麻井真樹子>麻井真紀子 小嶋ふさこ>児嶋ふさこ(ホントはふさこも漢字だけど)
ほんとにごめんなさい。
また、『ゴミの日』の紹介文で、「PFF一時予選通過」とあったのは「一次予選通過」の間違いです。すいません。なんだよ、一時通過って。

カラオケ、よかったね

カラオケ、行かない
歌謡曲、歌わない
コンビニの有線が好き
モスバーガーで聞く流行歌が好き
一人でラーメン食って
水と煙草の右斜め上を歌謡曲
それが好き
とても好き
カラオケ、嫌い
カラオケ、よかったね
みんなキラキラしてて
皮肉じゃないよ、本気だよ、
誰も私に気づかなくってほんとによいね
正しい私が抜け出して
みんなと合流できたらよかったのに
カラオケ嫌いな罪とか
息吸ってる罪とかで
裸で棒で突かれて殺される刑ががあればよかったのに
気づかれないようにして
こっそり斜め上の歌謡曲吹き抜けていく
テキーラで一人バンシャク
カラオケ屋のゴミ漁ってるのらねこ相手に飲もうかな
ほんとにごめんなさいね
気付かれないようにしているから
カラオケ、よかったね
ほんとによかったね
皮肉じゃないよ、本気だよ、
それでもカラオケ歌わないから
断固カラオケ歌わないから
呼吸罪がまだないんだから、仕方ないよね



 仮に人間の欲望を性欲と食欲に大別するなら、性欲は種に向かい、食欲は個に向かう。種は確率・統計であり、個は賭けである。確率は0から100までの間に位置するが、賭けには0と100しかない。死亡率80パーセントの病気もかかっても、死ぬか生きるかしかない。種は国家と制度に向かい、個は個人(個性ではなく)に向かう。輝かしき悪意の者は、食欲に向かうべきだ。誇りある者はメシの為に戦え。決して女で争うな。
 個人は個性に基礎づけられない。
 女のために戦う者は、悪しき善人である。男のために戦う者は、善き悪人である。メシのために戦う者は、正しい狂人である。女を想い、泣きながらメシを食う者は失敗した狂人である。
 常識的な常識人は人間だが、この時人間は狂っている。非常識な常識人は、狂人である。常識的な非常識人は人間だが、彼は人間の犠牲者である。非常識な非常識人は、単に愚劣である。


>残響通信
>残響塾