残響通信第十四号

1997年9月



ゲリの兄
屋上解放
善意について
教育の不可能について
小川てつオの幌馬車気分について
消極的余裕
どうぶつ主義
外へ
あたら先生
「バレる前に元気な人」と「バレてから頑張る人」(ラクユーのとなりについて)

ゲリの兄

 義理の兄がゲリになった。ゲリの兄だ。義兄は輝かしき闘争の時代、アラブの戦士達と共に米英帝国主義陣営と戦った。すなわち、ゲリラの兄でもある。
 私は七十年代初頭に地球を来訪し、主に文学と共に育った。体が小さくケンカが弱く、8番ライトでグラウンドの端の銀杏の木から落ちてくる葉っぱの軌跡を類型別に整理している時に突如やってきたフライ球に対して精一杯の誠意をしめそうとグラブをかかげて右に左にヨロヨロ歩いて結局十五メートルほど離れた場所にボールが落ちて、相撲をとると十回中八回は負けて後の二回は負ける前に自ら土俵から逃亡していた為、私には文学以外に友達がいなかったのだ。
 しかも、正当な文学からは交友を拒まれ、締め切った部屋で私の相手をしてくれるのはSFやB級の冒険小説だけだった。その為、私は科学の信奉者として子供時代を過ごすことになった。
 その結果成人した後も、時折自分が何をすればよいのか分からなくなって悩むという発作に襲われる、病的人間としての生活を余儀なくされていた。
「なあ、義兄さん、自分の成すべきことが分からなくなったとき、人はどうすればよいのかな」
「それは簡単だ」
「義兄さんはどうするの?」
「裸になって鏡の前に立つ。そうすれば、成すべきことが分かる。筋力トレーニングだ」
 十二・五キロのダンベルを抱えて三百回のスクワットを終え、汗を拭きながらアサヒ・スーパードライを飲みつつ、義理の兄は答えた。
 でも義兄さん、私に言わせれば、そんなものはビールじゃないよ。
 私は孤独だ。孤独であることが問題なのではなく、そう思うことが病なのだ。しかし世界は、私にはどうにも分かち合いがたいもので満たされている。
 義兄はゲリラ戦士としての第一線を退いて後も、筋力トレーニングを欠かさなかったが、肛門の筋肉までは鍛えられなかったようだ。いや、ゲリの原因は消化不良なのだから、故障は筋肉ではなく内蔵にあるのかも知れない。しかし内蔵も血管も筋肉によって統御されているのだから、究極的には、やはり問題は筋肉なのだ。
 良いボディビルダーになるための一番の素養は、強靭な胃腸であるという。そうでなければ、厳しいトレーニングをしても栄養の吸収が追いつかないのだ。
 義兄はゲリを治すために正露丸を飲んだり消化器科に通ったりしたが、症状はいっこうに改善しなかった。
「義兄さん、何か変な病気じゃないか、きちんと調べた方がいいんじゃないのかい?」
「なあに、たかがゲリさ。尻を拭きすぎて痔にならんように気をつける方が大事だぜ。それにしても、こうしつこいとは、義理がたいゲリだなあ、はっはっはっ」
 ゲリの兄は剛胆に笑っていたが、日に日に痩せていくのがはっきりと分かった。
 正露丸はもともと征露丸と書き、日露戦争時分に発売されたのでこう名付けられたそうだ。こういう商品名が堂々と語られる時代に生まれたら、私もこんな風な育ち方はしなかったかも知れない。あるいは、そもそも育つチャンスすら与えられなかったかも知れない。いずれにせよ、育つべきでない人間が育たないということは、やはり良い時代だったのだ。
 寛容こそが不寛容の温床となる。
 義理の兄は交通事故で弟をなくしている。だから私のことを、本当の弟のようにかわいがってくれた。しかし義兄がよくしてくれる度に、私は何か、言いしれぬ居心地の悪さを味わっていた。
 それは愛されることに対する不安であり、同時に貪欲な愛への渇望の現れでもある。私は愛を望み愛される対象としての自分を信頼できないのだ。
 義兄の症状はますます悪化し、とうとう血便を排するまでになった。それでも義兄は心配をかけまいと、私や姉に対して気丈に振る舞っていた。
「銃弾の雨をかいくぐってクソで死んだとなったら、戦友に申し訳がたたんよ、かっはっはっ」
 私は文学と共に育ったが、だからといって、成人した私にそれが生業を与えてくれたわけではなかった。文学も科学も道徳も、同様に私の生きる権利を保障してくれたが、権利があっても命がなければ意味がないのだ。
 私は権利を信じて育ち、義兄はきっと命を信じて育ったのだろう。権利は、不寛容を育てる寛容の代表だ。私は拒絶されるために許されたのだ。
 私は貧弱な肉体で、愛してくれる女性に対して暴力を振るってしまう自分が許せない。それは何かを伝える手段、おそらくは愛を伝える手段なのだが、まるで機能しない手段なのだ。そんなことは知っている。しかしそれなしでは伝わらないものこそが、私の伝えたい正にそのものなのだ。この事は即ち、私と世界との絶望的な断絶を示している。
 私はつまるところ自信がないのだが、そのようなありよう以外自分に許すことが出来ない。世界が私を拒むのではなく、私が私を拒んでいるのだが、私はそのようなあり方でしか自分を世界に位置付けられない。
 義兄はとうとう病床に伏し、医師は義兄の余命がいくばくもないのを我々に告げた。姉の不自然に気丈な振る舞いに、義兄も自らの命運を悟っているようだった。それは悲しくも美しい極北の愛の風景であったが、それこそは私が最も居心地の悪い場所だった。
 ある日、病床に姉の姿のないことを確かめて、見る影もなくやつれ果てた義兄が弱々しく私に語りかけてきた。
「なあ、ゲリラにとって一番大事なことは何だか分かるか?」
「、、、敵を効率よく倒すことですか?」
「違うな、ゲリラの最大の任務は、生き残ることだ。生きて、仲間の元に帰ってくることだ」
 私は言葉を失っていた。
「いいか、姉さんをたのむぞ」
 その晩から、義兄は意識不明の危篤状態に陥った。
 私は暴力以外に何もないということを、成人後に発見した。子供時代、私は科学と道徳の信奉者だったからだ。義兄は暴力の中を生き抜いてきたが、決して姉に対して暴力を振るうことなどはなかった。私は自分の学んできたものの過ちを発見したのだが、それは尚一層私の生を息苦しくする結果しか生まなかった。
 存在するのは暴力しかない。それは確かだ。世界は暴力によって生成変化してきた。だが一方で暴力はやはり何も生み出さない。永遠に伝わらない言葉だ。つまり、何かが変化するということは、我々が意思したり行為したりするずっとずっと外の方で起こっていることなのだ。
 私には暴力を通じて起こる不幸以外の何も見えない。私が存在する、育ってしまったということの罪以外の何も見えない。義兄は違うものを見たのだろうか。
 絶望こそが死に至る病だが、それは病にあって尚死に向かって生きるということ、死ではなく生を意味する病だ。義兄は絶望していなかったが、死に瀕している。私は育つべきでないのに育った。
 ゲリの兄は死んだ。私はまだ、生きている。


屋上解放

 屋上解放は、ブルースマン荒木瑞穂氏の提唱した運動だ。
 荒木氏自身は、「種を蒔く」ことに専心し、もう率先して具体的な行動をとるつもりはないらしい。
 私はたまたま、荒木氏の勤め先である塗装業者に職を頂き、当の荒木氏と共に正に屋上で作業する機会を得た。ひがな一日屋上で過ごしていると、屋上解放を語り始めた時の荒木氏の心境が少し分かるような気がしてくる。勿論、私の考えが荒木氏のそれと同一であるという保証はない。
 
 屋上はビルの上にある。だから、屋根であるとも言える。屋根は居住用建築物にとって無くてはならない一部分だ。屋上は独立した空間であると共に、別の心地よい空間を確保するための壁であるとも言える。屋上はビルになくてはならないものだが、ビルの外部にある。ビルの一部であるにも関わらず、屋上はビルの中にはない。外部が内部を支えている。屋上は上から下を支えている。

 夏、屋上は暑い。果てしなく暑い。直射日光を遮るものもなく、防水加工の照り返しも手伝って、光と熱が肌をじりじりと灼いていく。しかし、屋上にはアスファルトの路面と異なり、風がある。屋上には風が吹く。直射日光に熱せられた肌を、風が心地よく冷やしてくれる。甲良干しにはもってこいの場所だ。わざわざ郊外のプールや海に出かけて体を焼く人間が愚かに見える。自分の住居のすぐ上に最適の空間があるのに。
 都会には空間が少ない。しかし、一挙に平面積を二倍にする方法がある。屋上を利用することだ。屋上は都会の残された秘境だ。

 屋上は見晴らしが良い。都会の林立するビル群を太古の森のように見渡すことが出来る。屋上の縁に立って風を受けていると、大昔に崖の上から獲物を確認し追いつめた祖先達の魂が甦る気がする。

 しかし、こんな素晴らしい屋上が、多くの場合立入禁止されている。何故か。何故、権力は屋上を排除するのか。
 権力は屋上を独り占めしようとする。太古の森のように都市を眺める視点が公になるのを恐れている。
 屋上は自殺にもってこいの場所だ。多くの管理者は自殺者が出るのを嫌って、屋上を立入禁止にし、高い柵を作る。しかし自殺者はどこからやってきたのか? 自殺者は屋上に生まれたのではない。もっとずっと下の方から、もっとずっと平べったい土地からそこへ登ってきたのだ。最後の手段を求めて。柵を作ったところで自殺志願者が消えるわけではない。
 空間を限定された都市は、やむを得ずその延長として建築物を上へ上へ伸ばしていった。立体を平面の延長として措定することに、生き残りをかけてきたのだ。だから、立体が真の立体として露出することを、都市は恐れている。それは単なる平面の延長でなければならないのだ。特別な場所へ人々が容易に立ち入るのを許すわけには行かないのだ。ビルは塔ではない。単なる平面の積み重ねだ。そう権力は訴えているのだ。
 それがへたくそなウソであることは、屋上に出てみればすぐに分かる。

 都市は平面パース的思考様式によって、物理的・心理的に圧倒的な利便性を築いた。それは権力が導いた巨大な箱庭である。監視塔の上には誰もいない、極度に洗練された監獄空間である。
 人々がそれを嫌って空間的に移動しても、行く先々に都市が待ちかまえている。今や都市が農村を包囲しつつある。箱庭的なものは真っ先に農民や地方生活者の精神を犯していったからだ。農村のジャイアンツファンが権力を基礎づけている。だから「イナカグラシ」で権力から逃げることは出来ない。脱出口があるとしたら、もっと近くを探さなければだめだ。空間に逃避することは、既に都市のトラップにはまっているのであり、どこまで行っても釈迦の掌である。

 屋上は密会にも最適の場所である。昼休みにOLとサラリーマンが情事を楽しむにはぴったりである。

 屋上は死に近い。「天国に一番近い場所」だ。むろん、天国は屋上の上にあるのではない。下にある。確かめたければ、屋上の縁から一歩足を踏み出すだけで事足りる。
 だから、自殺を禁忌とする思想は屋上を封印したのだ。

 誰にだって、勝手に死ぬ「権利」くらいあるはずだ。「権利」なんて、ギリギリの妥協案でお茶を濁すなら、まず死ぬ権利を保証してみるべきだ。それが出来ないのは権利を語る人間がまるでそんなことを信じていない証左ではないか。まるで道徳の向こう側で笑っている奴等がいるように。自分以外の人間が守るからこそ、道徳は機能するのだ。
「権利なんていらないから、今からお前の肉を食うぞ!!」

 都市は人間をビルという平面化される空間に監禁した。雨漏りで困ったときには、屠殺者のような「汚い」男達を呼べばいい。人間は涼しい空間で平面的に作業するものなのだ。「汚い」男達は屋上で仕事をする。エアコンの室外機が唸りをあげて熱い風を吹き付けてくる。
「全く、上にいる人間のことも考えろよ!」
 ヒエラルキーの逆転? もう一度回って、別段逆転などしていないのさ! ずっとずっと昔から。

 制止を振り切って屋上に出ろ! 別段屋上に居を構えないでも良い。階段で戻るのも、自由落下で降りるのも、そこでゆっくり考えればいい。


善意について

 例えば、私は煙草を吸うのだが、時々どういうつもりだか、「煙草止めた方がいいよ」と言ってくる人がいる。そういう人は必ず、「体に悪いし」と付け加えてくる。
 その人がケムくて迷惑しているというのなら話は簡単だ。単にその人は自分が困っていることを遠回しに言っているだけだからだ。だが、おそらくこう言ってくる人のほとんどは、別段悪意もなく、むしろささやかな善意でもって忠告してくれているのだろう。
 顔の見えるコミュニケーションの範囲だけでなく、マスコミを通じても「煙草は体に悪い、止めた方がいいよ」という親切極まりないメッセージがイヤという程やってくる。生協の食堂でメシを食っていると、卓上の健康メモ(?)が煙草の害毒を様々な図説などを通じて切々と訴えてくる。
 「煙草は体に悪い」。そんなことは知っとるわ!!
 それとも、今の今まで喫煙者は煙草は健康によいと信じていたとでも思っているのか? ここは現代の日本だ。鎌倉時代でも、モンゴルの奥地でもないのだ。情報も十分すぎるくらいある。「煙草は体に悪い」と言われて、「は! そうだったのか! これからは禁煙します」と悔い改めるとでも思っているのか?
 本当に、善意こそが最も巨大な悪の端緒なのだ。
 このような善意にまみれた喫煙反対論者の最大の問題点は、自分が相手のことを考えていると信じて疑わない点だ。全くの自分本位で、単なるイヤがらせとして言っているなら、それはそれで立派に筋が通っている。この種の「善人」達は、良かれと思ってやっていることこそ一番に疑うべきだということを、まるで知らないのだ。
 こう言ったからといって「相手のことを『本当に』考えよ」などというのではない。どこまで行ったら「本当」なのかなどという事は、テレパシーでも無い限り知りようがないからだ。そんな無駄なことはやめろ、と言っているのだ。少なくとも善意の名を借りて他人の判断領野を侵犯すべきではない。もし自分が侵犯されたくないのであれば。
 また、もし本当に煙草をこの世から無くしたいと思っているのなら、彼らは成すべきことの半分しかやっていない。彼らは何故喫煙者が煙草を吸うのかということについて、まるで考えを巡らせていないからだ。
 煙草の害を説くのも重要だろう。少なくとも、それをよく知らなかったり、十分に理解していない人たちに対する分には。しかし、ほとんどの喫煙者は、それを理解した上で尚煙草を吸うことを止めないのだ。
 喫煙者総てが、単純なニコチン中毒の奴隷であるとでも思っているのだろうか。煙草を止める理由を提供するのも結構だが、止めないでいる理由について何も考えないのなら、彼らの親切心などは永久に伝わらないことだろう。そして往々にして、伝わらないことを逆恨みして、外側にいる人(この場合は喫煙者)を排斥にかかる。その時には決まって、そもそもこの失敗した試みを始めたのが自分達であるということはすっかり忘れてしまっているのだ。素直に相互不干渉を決めていれば何の問題も起こらなかったにも関わらず、だ。
 「通じ合う」ことは素晴らしいかも知れない。だが「通じ合う」ことができなかったとして、それで恨まれたのではたまらない。通じないのが普通なのだ。
 さらに一歩進んで、次のような場合を考えてみよう。
 ある種の人々は、上の「善意」の人々よりは幾らか冷静に、こう言ってくる。「君たちが喫煙の害でいかに苦しもうがそんなことは知ったことではない(尤もだ)。ただ、我々は煙草の煙が嫌いだし、副流煙は非常な毒素を含んでいるのだ。人に迷惑をかけるのは止めなさい」、と。
 この意見は、一見したところ十分な正当性を含んでいるように見える。この辺りで手を打っておくのが、世間では「大人」と言われるらしい。もちろん、日常生活の上ではそれで何ら支障がない。しかし、ここでこの意見の真理価を基礎づけている「他人に迷惑をかけなければ基本的に何をやっても良い」というテーゼが一人歩きし始め過剰に大きな顔をしだすと、途端におかしなことになってくる。
 問題は、「迷惑」しているのが「他人」だと言うことだ。自分にいいようにするというのなら簡単だ。だが、基準が自分の外、「他人」にある以上、「本当」に相手が迷惑しているかどうかなどは原理上知り得ないのだ(例によって、テレパシーでも無い限り)。
 他人の迷惑を勝手に先取りして「気遣い」することは、上の「善意の人」の例に同じく、他者の判断領野を無断で侵犯する行為である。ある一定の通念を共有している関係であればそれでも問題ないかも知れないが、他人が「他人」になればなるほど、すれ違いが起きる可能性は膨らんでいくことになる。
 結局、一般には「迷惑」は真の意味での他者の判断ではなく、常識によって決定されることになる。「他人に迷惑をかけなければ基本的に何をやっても良い」という表のテーゼは、「常識的に迷惑になる行為でなければ基本的に何をやっても良い」という裏の意味によって支えられている。言うまでもなく、常識などには絶対的な基準があるわけでもない。自分の思う常識が最後はものを言う。結局、自分の知っていること以外は知り得ないのだから、総ては利己的な判断にならざるを得ない。
 勿論、これは子供じみた議論に過ぎない。上で記したように、こんなことを逐一遡及して考えてみても、総ての哲学的議論と同様に結論は先送りされていってしまう。他者がますます遠くに行くだけだ。
 重要なのは、いつでも以上のような議論に立ち返って考え直すことが出来ること、自分の判断がいかに他者を侵犯しているかを自覚することだ。他者の遠さを感じなければならない。他者が近くに感じられること(そういう人が近くにいること)は素晴らしいことだが、遠いのが当たり前なのだ。そして、自らの善意を真っ先に疑ってかかる必要がある。
 利己的にあることが悪ならば、誠意は悪意の徹底によってしか示し得ない。いかなる善意も、冷静に分解していけば利己的な悪以外に端緒を持たない。問題は自覚のあるなしであり、だから誠意は悪意によってしか示すことが出来ない。
 余談だが、筆者はこのような議論は子供時代にだれでも一度はシュミレートしている当たり前のものだと信じていたのだが、かなり成長してからどうやらそうでもないらしいということに初めて気付いた。だから、以上の議論はある種の人々(比較的筆者に似ている人々)にとっては「何をいまさら」というものでしかないだろう。そしてそれ以外の人々にとっては「とんでもない!」「非道徳的」なものに写ることが容易に想像できる。この点は永井均氏の議論などに見るべき点が多い。

『きみは悪から善をつくるべきだ、それ以外に方法がないのだから』ロバート・P・ウォーレン


教育の不可能について

 「こういうこと」が起こると、また例によって学校が槍玉に挙げられ、校長は記者会見で冷や汗をかき、「教育や社会の病理」が取りざたされ文化人達が仮想現実についてもっともらしいことを言って現実と仮構の区別の付かない(お前はつくのか? ちなみに私はつかない。ところで現実って?)恐るべき子供達を問題にし、社会派芸人(って一体?)や社会派映画監督(って一体??)が親や学校の責任について怒号し、文部省が一応お茶を濁すような改革案を提出し、朝日新聞がそれを揶揄し、そうこうするうちに何となく総てがうやむやーになって忘れ去られていって、うやむやになるのは結構なのだがいちいちまたそんなことが繰り返されるのが本当にイライラする!
 大体、問題は教育なのだそうだが、教育が本当にそんなに問題なのか? 教育が問題だという人たちは、要するに教育の内容を問題にしていて、それを変えたりいじくったりすることによりより良い社会が出来上がる、という幻想にとりつかれている。確かに初等教育の効果は絶大だし、こと(広義の)道徳の布教にかけては(布教しなければ自分が一番最初に損をする)右に出る者はないだろう。だが教育は万能ではない。また、彼らは教育を当然のものとする教条にとりつかれている。
 当たり前のものとして提供されたものなら、当たり前のものとして享受されるのは当然だ。当たり前のものなど子供でなくてもナメてかかるものであり、一回ナメられるとそうそう相手にしてくれないのが子供だ。挽回するには不条理な教条や平手打ちをヒステリックに振り回すしかなくなる。教育は既に逆上している。そんなものをいくらいじくったところで、大人達の期待に応えるものが出来上がるだろうか。
 教えてもらうのが当たり前だと思ったら誰も学ぼうとはしなくなる。教育を当然のものとすることで、教育から学習が放り出される。残るのは結果を競うゲームだけになるのは明白だ。結局、成人後に重大な生涯をもたらすであろう学習の放棄と、平面パースのゲームへの執着(これは道徳への信奉という「プラス」の効果もあるが、自律的行動力を奪う)というどうしようもない効果だけが加速される。
 本当の所、教育などというものが可能なのだろうか? そういう自己言及的な問いが教育には決定的に欠如している。我々には学ぶ力はあっても、教える力などがそれ程あるとは思えない。まして子供「一般」に等しく教育を授けるなどということはもとより不可能なことだ。学ぶ側も、教えてもらおうと思うとイライラばかりが増して、本当の力はいつまで経ってもついてこない。教育者に対する疑念と不満ばかりが募っていく。だが、そんな期待がそもそも間違っているのだ。結局、どんな場合にも一人で闘うしか突破口は無いのだ。それに気付いたとき、初めて我々は成長することが出来る。
 今、教育に必要なのは、その内容の改編ではなく、教育そのものの放棄だ。教育者はもっと自分の自信を疑い、生徒たちには意地悪く振る舞わなければならない。万人が等しく教育を授かるなどというのは不可能であるという明白な事実を、もっと素直に受け入れなければならない。子供に対して全き責任を負える大人などいる筈がないのだ。学校も家庭も社会も次の世代の人々の振る舞いに対して十分に語る資格も権利もない。子供に責任がとれるのは子供だけだ。 
 子供時代は常に既にない。子供が大人になるのではなく、もう子供になれない大人が生産される。教育は「大人時代」をフィードバックする。教育は大人時代の回想によって構成されている。組み手の出来る人間が型を作ったのであり、型をやっていたら組み手が出来るようになるわけではない。同様に、教育を作ったのは大人以外のなのものでもなく、彼らは教育のお陰で大人になったのではない。教育は思い出の中で醸造される。それは個別性と反復から出発するが、無数の有限の集積が無限と取り違えられることで暴走が始まる。教育は一般化すればするほど、見当違いの結果ばかりを出すようになる。教育の陰謀に気付いた「子供らしからぬ子供」だけが真の教育の恩寵を受けることになる。そして彼らも確実に大人たちの期待は裏切るだろう。
(このテクストは例の神戸の「少年」逮捕直後に書かれ、朝日新聞にファクスで送りつけ、黙殺されたものです。世界が平和で、本当によかった)


小川てつオの幌馬車気分について

 小川てつオの今月の詩改め幌馬車気分は良い。でも、前よりは悪い。そういうと前の方が良かったようだが、そうではない。今月の詩を改題したのは多分毎月出すのが億劫になったからだろう。そうに違いない。違うか。多分小川てつオは面倒になっている。違うか。だが、私も面倒だ。だから内容にも気合いの差が出ている。明らかに以前より気合いが低い。億劫さがにじみでている。だが、その億劫さがとても良いのだ。この前手にした幌馬車気分(いつの号だかは知らん)の最初の詩など、とても良かった。多分脱力して書いたものに違いない。違うか。バランスの良さがバランスを悪くしていて、その結果とてもバランスが良い。すごく嫌らしいが良くできてしまっている。本当に。これを冒頭に持ってきているのはてつオもこれを気に入っているのか。だが以前なら気に入らなかったはずだ。違うか。それを気に入ってしまうのが気合いの低さというものだ。もしかすると私の予想は全く外れていて、今でもてつオは気合い十分なのかも知れない。だとすると、すこし恥ずかしい。私はてつオの邪念が嫌いだ。そう言うと私に邪念がないようだが、そうではない。私の未熟さがてつオの邪念を憎ませるのだろう。多分、てつオは聡明でプライドが高いから、恥を恥とも思わない。違うか。気合いが抜けると一緒に邪念が消えていく。億劫そうなてつオはとても良い。畜生、うらやましいなあ。私に分かるわけないだろ。ザマアミロ。



何を書こうとしたか忘れた。


消極的余裕

私も気分屋で、反省点が多い。激したりするのは平常心に欠けるからだが、これを乗り越えるには、胆力や体力を鍛えるといった積極的方法と同時に、平常心を保てる範囲で行動する、節度を持ち分をわきまえる、という消極的な方法も重要だ。これは最近になってやっと受け入れられるようになった。所詮、人間は余裕のあるときしか人のことなど考えられないと私は信じている。善意や人間性に期待するやり方は、結局不寛容を醸造する寛容でしかない。罰するために許すようなマネは、善意があっても誠意も知性もない。功利的な他者(自分自身を含めて)を諦めをもって迎え入れるのが真の寛容さだ。
道を諦めると道が見える。道を求めても術しかないのがわかる。術を究めれば背後に道が出来る。
余裕を作る努力も大切だし、余裕の範囲で行動するのも大切。自分に期待してはならない。出来ないことはやらない。
(N氏への私のメールを転載)


どうぶつ主義

残響塾はどうぶつ主義をオススメしたい。

どうぶつ主義は環境保護運動とは全く関係ない。
どうぶつ主義は動物愛護運動とはほとんど関係ない。
どうぶつ主義はニンゲンはどうぶつではないと考える。
どうぶつ主義は人間主義に対抗する。
どうぶつ主義は人間ばっかりの世界に対抗する。
どうぶつ主義は現実に対し動物的物語を優先する。
どうぶつ主義は直接的な擬人法に対し徹底的に反対する。
どうぶつ主義の一様相はどうぶつを見る眼差しで他のものを見ることである。
どうぶつ主義の一様相はどうぶつの見る眼差しを擬人法ではなく科学的物語によって妄想し、その眼差しで他のものを見ることである。
どうぶつ主義はどうぶつをニンゲンのように見ることはないが、ニンゲンをどうぶつのように見るときはある。
どうぶつ主義は陳腐な擬人法をイロニーとして利用する。
どうぶつ主義は陳腐な擬人法を楽しいと思う。
どうぶつ主義は陳腐な擬人法は擬人法ではなく物語の一つだと考える。
どうぶつ主義は物語としての陳腐な擬人法を現実に優先し、楽しく考える。
どうぶつ主義が何らかの形で擬人法を利用するとき、そこには必ず悪意があり、それは誠意を含んでいる。
どうぶつ主義は殺人も辞さない一部の過激な動物愛護運動を愉快だと思う。
どうぶつ主義は殺人を躊躇する穏健な動物愛護運動をせん滅する。
どうぶつ主義は物語として以外に性欲を語るのを拒否する。
どうぶつ主義はなるべく食欲を性欲に優先する。
どうぶつ主義は家族を愛さない。
どうぶつ主義はよく寝る。
どうぶつ主義はぐうたらな時もある。
どうぶつ主義は猫好きで繊細なオンナノコを非常に警戒する。
どうぶつ主義は感情的ではない。
どうぶつ主義はそれほどセンチメンタルではない。
どうぶつ主義は隠されたロマンティシズムは必ずしも否定しない。
どうぶつ主義はアフリカの大地に帰ったりは別にしない。
どうぶつ主義は時々今のままでいいと思う。
どうぶつ主義は偏った功利主義という矛盾を抱えている。
どうぶつ主義は動物の観察に始まるが、観察と妄想を区別しないこともある。
どうぶつ主義は妄想を恐れない。
どうぶつ主義の一様相は妄想で文化に対抗する。





強力な悪意を感じる。気のせいか? ははは! どっちでもいい。ははは! 死ね死ね死ね死ね死ね。


肉体の秘密。喪失した私はどこへ行く。ああ、鼻毛ジョン。


十分な悪意という誠意。自分の信念が間違っていることを証明する誠意。
くだらなさを指摘し続けるヒステリー、それに怒る愚者のヒステリー、あえて触れない健康。
ほとんどの人間は「単に」民主主義者だ。




外へ

外へ外へ外へ! 私と思われたものを私ではなく認識することにより統御する(統御するのは私以外にあり得ないにも関わらず!) 観念運動。試力。二百カイリのために竹島を日本にするのではなく、日本の外の竹島を見る。すると竹島が見えてくる。

精神は年齢と共に衰えるが肉体は鍛錬次第で成長し続ける。肉体は精神の特別な一部分だ。肉体に於いて外界を見ると私が消えて私が外になる。外へ外へ外へ!

私の顔をした羽虫が群れている。良く見ると少しずつ顔が違う。それが外であり、私ではない私だ。世界は恐怖で出来ている。私が恐怖だ。私でない私が恐怖だ。それは喜ばしき暗黒の未来でもあり、未来は過去によって構成されている。そこへ向かって出る。外へ外へ外へ!


あたら先生

 入門2カ月目の月夜の晩、あたら先生は私の枕元に音もなく忍び寄ると、突然竹刀で私の胴を打ち、たたき起こした。
「まだ生きているのか、君のような生徒はあたら道場始まって以来だ、そんなことで立派な飼い主になれると思っているのか!」
 ああ、ブク、ジョン、シロ、ぼん、アトム、ぶん太、私は君たちにふさわしくない。
 自殺もできないようでは立派な飼い主とは言えない。
 いつか君たちが総て天に召され、そして私もこの世からいなくなるときが来たら、その時は音楽の草原を共に走り回ってくれ。
 その時まで、私は精一杯の努力をするよ。あたら先生、力一杯私を打って下さい。そして私を鍛えて下さい。アーメン。



最近の残響通信のつまらなさは、山村タケユウの本質的なつまらなさをよくあらわしている。



「バレる前に元気な人」と「バレてから頑張る人」

ラクユーのとなりについて

 京都大学楽友会館の一部が占拠され、奪還された。
 居候芸術家小川恭平氏のことは何度も書いたが、今回も首謀者(?)はほぼ彼であると言える。このような住宅占拠もどきは、きんじハウス、「大きい家」に続いて三件目である。うち、「大きい家」は合法的なものだったらしいが、きんじハウスと「ラクユーの隣り」は非合法に占拠された。要するに、空いている建物に勝手に入り込んで住み着き、共同スペース、「遊び場」として様々な目的に利用され、最終的には追い出された。
 私自身は、きんじハウスを除いては深く関わっていたわけでもなく、これらの占拠について客観的にリポートすることも出来なければ、その意義や価値について語る資格もない。私がそういう場所に立ち寄ってしまうのは、なんとなく怪しいものに惹かれてしまい、ウダウダ酒を飲むのが好きなのと、小川恭平という男への関心からである。基本的に「共同スペース」「コミューン」といった系譜の思想に対しては否定的だ。個人的には、きんじハウスも、そもそもは単に「住む」という荒々しいモチベーションに始まったものが(空き地)、「文化」によって凡俗化していった(広場)と見ることもできると考えている。
 どの占拠についても十分に深入りしていない私にはとやかく言う資格はないのだが、住宅占拠の関係者には、「バレる前に元気な人」と「バレてから頑張る人」の2種類がいるような気がする。私は明らかに前者であり、ゴタゴタが起こったらとにかく逃げるのが一番だと常々考えている。「遊ぶ」為に来てメンドーに会うのでは割に合わない。メンドーなことは少し遠くから見ているくらいが一番良い。テレビで見ていて楽しいものと、その場に居合わせて面白いものは明らかに違う。小川恭平も基本的には前者ではないかと思うが、彼の事態を軽くゆらゆらと眺める独特の技術が修羅場を前にして彼を立ち止まらせている様な気がする。このような姿勢に対して道義的な反発心を感じる人は、既に「バレてから頑張る」病に冒されている。
 「バレてから頑張る人」というのは、占拠に対して非常にリアルに接しているように見えるが、実は逆ではないのか。住宅占拠、「スペースの確保」はそれ自体が目的の筈もなく、ただ踏みとどまるのに努力するのは既に目的がはき違えられている。勿論、それが悪いというのではなく、既に別物になってしまっているということだ。つまり、「政治」に、力動に。要するに彼らは「義憤」の側にいるのだ(残響流に言えば、平面パースの人々、イマジナシオン帝国軍)。
 道徳的な善さというものは、道徳そのものにとってすらすでに十分に善いものではない。まして良いものとはまるで関係ない。道徳は悪を前提に作られている。それは本質的に「不自然」なものだ。
 「遊ぶ」ということは政治とは反対のものだ。我々は政治と暴力から逃げ切ることは出来ないが、その中で「遊ぶ」為には二つの方法がある。一つは政治と暴力によって安全な遊ぶ空間を確保すること(広場)、今一つは無駄と知りつつ全力で走ることだ(空き地)。多分、本当に根元的で個人的な「生活」というものは、政治よりは遊びに近い。一般に人々は政治と暴力によって守られながら生活するが、ある種の人々は政治と暴力から全力で逃げながら生活している。「バレてから頑張る人」は、政治を生きているのであり、逃亡生活者とは根本で人種が違う。
 ラクユーの隣りの良かったところは、なかなかバレなかった所だ。きんじハウスなどは、引っ越し初日から当局とぶつかっていた。ラクユーの隣りがとうとうバレてしまった今、小川恭平は早々に撤退しつつある。今回はあまり頑張る人の姿も見受けられない。いいことだと思う。ルパン三世でも同じようにしたはずだ。

啓示報告:時間の厚さ

最近キチガイぶりが足りないので、好評だった12号の啓示報告を一部再掲する。以下のテクストは重要である。

 ところで、私たちは二回目の世界にいる。いや、厳密には二回目ではないかも知れないが、いずれにせよ世界というのは全く同じ事を繰り返して重層的に出来ているらしい。
 仏教での輪廻転生では死んだものの魂は別の生き物にはいるが、実際はそうではない。転生はあるが(つまり神の国へ行ったきり戻ってこないことはないが)、次に入るのもまた同じ人物の肉体である。私の魂は私の人生を永遠に反復している。
 間違えないで欲しいが、決して生まれ変わって別の人生を歩むなどという意味ではない。全く同じ人生が何度も何度も何度も繰り返されていくのだ。シジフォスの神話のように。
 だからここでも、鍵になるのは記憶だ。
 二重化した人生がその二重性を開示する瞬間がまれにあるが、それはデジャヴとはいささか異なり、まさにその場に居合わせているという圧倒的な現在の感覚である。現在が過去の中にあり、それが合わせ鏡のように無限に重ね合わさっている感覚。
 記憶力ヴィジョンの拡大は、それ故に、単なる時間ヴィジョンの拡大ではなく、重層的な生の厚みの認識である。そのときに見るものは、永劫回帰に似たものかも知れない。
 人生は神が毒杯に倒れる様をコマ落としで反復している。
 突然だが、残響通信1号に掲載された内容を引用してみる。まるで正気の沙汰とは思えないが、私はキチガイだから無理もない。

 宇宙の中心には機能する無が見える。これはかつて神と呼ばれたものの残像ということが出来る。
 神は語り始めることによって宇宙を創造したが、それは罵り言葉であり、神はその悪しき言葉によって滅ぼされた。
 宇宙は言語によって分節された。よって宇宙には悪、あるいは否定力しか存在しない。悪は差異として存在する。
 宇宙は、ゆえに、神の残響によって構成されていると言うことが出来る。遠くまたたく星の姿が、何万年も前のものであるように。
 そのため、この宇宙に、初めからリアルであるもの、肯定的なものが裸であることはない。リアルなものは奇蹟的に立ち現われる。
 ところで、人間の能力を想像力と記憶力に大別すると、想像力のもたらす未来のイマージュはまやかしである。我々は記憶力の力を信じなければならない。未来を未来形で語ってはならない。神は過去にいる。
 残響は残響によって、悪は悪によって抗しなければならない。この悪は、一種のイロニーとして機能する。
 我々は今見る宇宙が残響であることを知り、宇宙の記憶の底に潜らなければならない。それが悪を限界まで進め、突破するための唯一の方法である。

 その後の「考えて」得られた成果から、ここでイロニーと呼んでいるものはユーモアと呼ぶべきであるという結論に達した。この頃はまだユーモアの重要性に十分気づいていない。
 世界は神の死の残響であり、断末魔の悲鳴である。そしてそれは時間的な(歴史的な)広がりと同時に厚さという尺度によっても測られなければならない。
 神は死んだにもかかわらず、そこかしこにいる。神は遍在している。何故なら、全ての人生の内側で神の死は反復されているからだ。それが世界の厚みということの意味だ。
 ここでいう想像力とは、「未だ見ぬ」未来へと思いを馳せるものだ。「未だ見ぬ」未来は存在しない。それ故、想像力は無いものを有るが如く見せるだけである。想像力を信じてはならない。
 未来は過去にある。未来は重層的な過去の地層から記憶力よって発掘される。それは時間を後方へ遡るような力ではなく、世界の厚みを一瞬感に把握する力である。


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