残響通信第十七号


私の考えたモビルスーツシリーズ
特徴:
長い、速い、緑

「記憶力仁義」編集完了直前のテクスト

 「記憶力仁義」。タイトルから言っても、内容から言っても、この作品は私の一連の映像活動の集大成にあたるものだ。
 フィルムからビデオへとフォーマットを乗り換えた時、多くの戸惑いがあった。ビデオの画に対するどうしようもない生理的嫌悪があった。両者は全く質の違うメディアで、ただフィルムでやっていたことをビデオでやるようでは、まともな作品が出来ないのは明白だった。その頃は漠然と映画を作ろうとしていたが、ビデオとの接触のお陰で、否応もなく純粋な映画そのものについて考えることが出来た。歴史的でも技術的でもない、形而上学的意味での映画について。
 映画とは、ある種の圧力(プレッシャー)そのものだ。
 圧力を統御するには相応の技術がある。フィルムが通常の容器だとすると、ビデオで作品を作るのは丁度底に穴の開いた容器に水を注ぐようで、圧力を高めるやり方を特別に考えなければならない。例えば「原子力仁義」で失敗した(あるいは初めからやる気がなかった)いくつかの「映画」的試みを、この作品では完遂したつもりだ。
 勿論、この作品を映画であると断固言い張る気など毛頭ない。もうそんなことはどうでもいい。本当に、そんなことは取るに足らないことだ。余裕のあるニンゲンがあれこれお喋りでもすればいい。

 この作品の編集の過程で感じていたのは、圧倒的な孤独だ。編集作業が孤独だというのではない。そこで感じ掴んだ孤独の重さに比べれば、映画がどうのなどということは問題にならない。
 この作品は面白い。私はそう思う。ある一定の人たち、今まで私の作品につき合ってきたような結果的に少数の人たちにとっても、同様に面白いだろう。そして容易に想像できるのは、(おそらくはこの会場に足を運ばない)多くの人々にとってこの作品は「理解できない」。まるで、「何故悪いことをしてはいけないのか」と尋ねる事自体に道徳的な悪さを感じるオトナ達のように。
 しかしこのような映画作家にとって致命的であるような事態についてすら、もう私はどうでもいいと思う。本当に、どうでもいいことに一所懸命なヤツが多すぎる。「我々」はたまたま道で通りすがった罪無き「多くの人」の一人をメッタ刺しにして殺し、残りの人生を獄中で過ごそうともいっこうに構わないのだ。これは単純な利害の観点から言えることだ。また「道徳的」観点からも是と言えることだ。
 はっきりしていることは、「我々」は既に敗残者だということだ。負けた人間がこれ以上負けの心配をする必要はない。ただ生き延びることだけを考えればいい。自殺を含めたあらゆる手段を用いてただ生き延びればいい。
 「我々」は負けてバラバラになってしまった。それでも「我々」と言うところに、絶望的な希望がある。それこそが圧倒的な孤独の本当の意味であり、私に生き延びろ、あるいは殺せと命令する何者かの陰影だ。本当に、それ以外のことはどうでもいい。
 見ろ! 私はまだ「映画」を撮っているぞ! ザマアミロ!

「記憶力仁義」完成時のテクスト

 これで「仁義」の付く映画を二本撮ったことになる。
 どちらの作品も、一見どこがどう「仁義」なのか分からない作品だ。一見どころか何回見ても分からないかもしれない。私も分からない。
 しばしば誤解されていることだが、私は「仁義」という語の連想する任侠的気風や右翼的エトスを称揚しようとしてるわけではない。残響通信の読者にすらそういう誤読をする人がいるには驚かされるが、私は「義」に対する不信を抱き続けている。それは「義」を志向してしまってどうしようもない傾向が私の中にもあるからであり、これに対する批判として「義」を告発しようとしているのだ。
 だからといって、任侠のエトスに真っ向から戦いを挑んでいるのではない。そのような気風は単に存在する。我々の抱える多くの傾向の一つとして、程度の差はあれ、ほとんどの人の心の内にそれはあるのだろう。それは他の多くの傾向と同じく単に存在するだけであって、それ以上でも以下でもない。もちろん、任侠のエトスに奉じて戦うのも自由だし、あるいは私もそういう死に方しないとも限らないが、それが本当に「価値あるもの」と信じてするのだとしたらゲッソリする。
 ここで問題にしているのは狭義の「右翼的」エトスのことではなく、それらと対峙し戦う人々にも流れる広義の「義」の精神、ひいては義憤全般のことだ(残響通信15号「道徳の道徳による道徳的解体」参照)。
 義憤はそれが偽物である時(たとえば環境問題について行動を伴わない議論を暇つぶしに行うときなど)のみ、健全に機能する。義憤に本気になられることほどウンザリすることはない。どうでもいい仕事に妙に張り切るバイトと同じくらい迷惑だ。
 勿論、私は義憤と戦おうとも思っていない。私の意見に反対する人がいれば、いつでも意見を曲げる用意がある。重要なのは、いかに戦わないか、だ。戦うのは難しいようで簡単なのだ。つい、うっかりすると戦ってしまう。戦わない為に努力しようとしても、ぼんやりしていると「平和のために戦い」をしてしまう。
 「つい戦ってしまうココロ」が任侠なのだ。それが多くの人の心に共通して流れ、しばしば人の心を揺り動かすのを私は「知っている」。知っているだけではなく、大いに心揺さぶられる。だが、だからと言ってなんなのだ? おいおい、それはただのロマンごっこなんだから、マジになんないでくれよ! 冗談の通じないヤツと会話するのはホントに消耗するんだよ!
 一方でこの素晴らしい冗談を「さておいて」ホントウの話を始めようなどとは思わない。冗談は決して「さておかれ」たりしないのだ。「さておいた」後で本気で話すことなどなにもないのだから。生き延びようと思ったら、嘘と分かっても苦しくなっても冗談を続けなければならないのだ。うっかりさておこうものなら、そこからホントウの戦いが始まってしまう。それこそ冗談ではない。
 だから、大いに任侠で良いのだ。それで人を殺しても、うっかりしてそのまま死んじゃってもどうでもいいのだ。そこで死ななかったとしてもホントウの人生が待っていたりはしないのだから。
 戦わない為の最も有効な方法は忘れることだ。ただ、忘れるというのは積極的に出来ることではない。忘れる為には時間が必要だし、待つ心がなければならない。なにはなくとも待つ。とりあえず、時間をかせぐ。そのうち段々面倒くさくなって、戦う気もなくなるかもしれない。そうなればしめたものだ。何を戦おうとしていたのか忘れてしまったりしたら最高だ。
 当然、断固戦わない、あるいは戦うな、などとも言うことは出来ない。「平和のための戦い」の美名ほどアホらしい(ひいては面白い)ものはない。戦っても戦わないでもロクな人生じゃないんだろうから、まあ戦ってみるのもいいかもしれない。実際、私も何か戦っているようだ。別に戦わなくてもよいのだが、戦う方が楽だったらそれはそれでいいかもしれない。ただ本気で戦っている人とはあまり関わり合いにはなりたくない。
 「義」はおよそ総ての暇つぶしのなかで最高の娯楽だろう。死ぬまでの時間、ヒマでヒマで仕方がないから、うっかりすると戦ってしまうのだ。ただ、戦うことで自分を越える何かと一体になれると思ったらそれは大間違いだ。この一体感こそが正義の娯楽性のヒミツなのだが、本気でそれを信じるようになったらおしまいだ。いや、私が信じる分には構わない。だが、それ以外の人には極力冷めていて頂きたいものだ。
 残響塾は戦う。ヒマだから。ヒマと孤独は同じものだが、孤独をヒマと読み替えるココロを忘れてはならない。残響塾は、生きていて毎日楽しい。
 ところで、ヒマじゃない人っつーのは病気ですよね。

「記憶力仁義」上映直前のテクスト

 なんか上に色々書いてあるけど、いつもと同じようにとりとめのないことで、うっとうしいなあ。あー面倒くさい。上映だよ、上映。まあ、いいけど。もう一日中寝ていたいよ。実際、寝てるけど。あーあ。Gジェネでもやるか。ゲルググゲルググ。

孤独について

 本質的な孤独を社会的な孤独と取り違える所に病理がある。
 「全体」に対する「孤」を、「集団」に対する「個」と取り違えてはならない。
 「人間は皆孤独なんだよ」という(うんざりする)セリフを聞かされた時の、あの違和感はそこから来ている。
 このセリフを発してしまった途端、孤独なのは数えられる、つまり「個」の集合としての一般的ニンゲンになってしまうからだ。
 「全体」に対して「孤」立しているのは決してニンゲンではない。
 それは何か、という問に強いて答えるとしたら「私」と言うより他にないのだが、そう言った途端にこの答えもミスリーディングなものに変質してしまう。

 はっきりしているのは、「人間は皆孤独なんだよ」という人だけは決して孤独ではないということだ。何故なら、彼は孤独の条件を備えておらず、それゆえに単にニンゲンであり、まだ存在していないからだ。

評価について

 広義の社会的価値(狭義の社会的評価から知人の翼賛まで)は、語の真の意味での創造とは無関係である。創造は私と神(そこここにいる神、ユービック)の関係においてのみ成立し、それは社会の存在しないパースペクティブを意味する。ところで問題なのは、こう書いてしまった途端、すなわちこれが「表現」となり、「伝達」されてしまった途端、この極私的関係が一般的関係へと読み替えられてしまう点である。丁度「「この」私だけが問題なのだ」と発話した途端に「この」という限局が一般化してしまう(!)ように。創造は達成させられた途端に人間達のものとなり、社会のものとなる。こうして「かけがえのない何か」が雑踏の中へと消えて行く様子を、我々は人生と呼んでいるのではないか。

 狭いところで広い人々に評価されようとすることは、そのまま堕落を意味する。それはただの社会であり、文化であり、ニンゲンである。創造が何らかの形でニンゲンに評価されようとするなら、広いところで狭い人々に訴えなければならない。狭いところで広い人々の翼賛を受けるのは、広いところで広い人々に受け入れられるのと同じくらいみすぼらしいことである。狭いところで狭い人々にだけ訴えるものも同様にみすぼらしいが、みすぼらしいなりの価値を持つだけ、幾らかはマシである。




 人格は薬物によって操作可能なものだが、それは私の内面に張り付いているのではない。まして外面を取り繕っているのでもない。貴方の人格は私の表層に張り付いているのだ。



 私が大きく成りすぎると、私の体から放り出される。すると私に命令する者だけが取り残される。



 黒い太陽(無限エネルギー)が私に言語の始まりを注入する。


「見たこともない物」について

 「見たこともないもの」を創ることに価値などあるのだろうか。
 そのような姿勢は、表象芸術を単なる新奇さを求める視線の餌食へと堕してしまうだけだろう。そうして創られたモノはテレビの中の女達のように退屈だ。作品が商品になることを問題だとは言わないが、単なる商品では作品にならないのだ。
 私が感動するのは「見たことのあるもの」を見たときだ。
 それがいつどこでどのようにして見られたかがすっかり失われてしまったにも関わらず、確かに「見た」と言える何か、それを対象の中に発見したときだ。
 私は「見たことのあるもの」を創りたい。

(ちなみに、蛭子能収やしりあがり寿の一部の作品の発するグロテスクな既視感はこれと関係するように思うのだが)

奇跡と強さ

 目の前をパッと横切って二度と確認することの出来ないもの、それが奇跡の本質であり、また重要なことに、強さの本質でもある。

欲望の欲望

 多くの言説が暗黙の内に神の存在を前提としている。それらの言葉は神の創ったものについて語っているからだ。しかしこの世界の成り立ちについて真に肉薄しようとするなら、世界を創ったものについて語らなければならない。この私を動かすもの、私の意志を意志するもの、その問いに対し神と答えてしまった途端に語りは世界内的なゲームに堕してしまう。本当の話はそこから始まるのに。
 同じ問いに対し偶然と答えたところで事情は変わらない。重要なのは「私」と「彼」の関係であり、それだけである。



 私は神の連帯保証人である。



 失われた記憶はいまここにある。
 私が今ここにいるという事、それが失われた記憶であり、私が瞬間的な未来以外の何もいきられない以上、未来は記憶の中にあるのだ。
 記憶として残っている記憶は現在に過ぎないが、記憶が失われたという事が過去であり、その失われた記憶そのものが未来なのだ。

殺人について

 例えば殺人の禁忌、道徳的呵責を「本能」によって基礎づけようとする嘘。
 我々の「本能」は、人を殴り殺し、腸が飛び出したり骨が砕けたりする事に対する漠然とした嫌悪と警戒をもたらしはしても、殺人そのものを禁忌としたりはしない(犬が腹を見せた同種を決して攻撃しないように。コンラート・ローレンツ「攻撃」参照)。何故なら、殺人はただの概念だからだ。言語は言語との関係のみによって成り立っている。核のボタンを押すのと電気のスイッチを入れることの間にどれほどの違いがあるのか。殺人は単に道徳的言説によって禁止されているだけであり、つまり道徳内的な概念である。翻れば道徳外的には、殺人を止めるものはもはや「本能」的コード以外に何もない。ただその中には功利的判断も含まれる以上、道徳外的道徳観を持った者でも、そうそう殺人を犯したりはしないのである(しばしば道徳内的価値観の持ち主はこの点を半ば故意に誤解し、彼等の価値観に相反する者を攻撃する)。
 ヒステリックな道徳の援護射撃、翼賛的言説を、言葉通りではなく行為として眺める慎重さが必要だ。勿論、翼賛者たちにはそうと気付かれないように。彼等は単に慎重な者までも(非道徳的であるとして)攻撃の対象にするのだから。

正義について

 まさしく、真の正義を全うする為にも、あらゆる正義を排除しなければならない(>残響通信15号「道徳の道徳による道徳的解体」)。義の追求は結局、義の概念そのものを駆逐する結果を生み出さなければ「ならない」。残響塾が正義を排しようとするのは、単にこのような目的からではないが。
 あらゆる正義が排除されると、のっぺりとした「正義」が浮上してくる。総てがあやふやで曖昧になった、薄明かりの世界である。それがニンゲンであり、神の腐乱死体である。
 断って置くが、残響塾はこのような腐敗を非難しているのではない。それを積極的に翼賛することによって新たなトラップにはまることを警戒してはいるが、いわば「見て見ぬフリ」をしているのである。残響塾は積極的ことなかれ主義である。
 我々は神の腐乱死体に群がる一匹のウジのように生きることを学ばなければならない。

セックスの解放について

 セックスの解放をうたう人たちがいる。
 それはそれで結構だし、彼等を否定する気は毛頭無い。それどころか、もし彼等のような人たちがいてくれなかったら、自分が先陣を切ってそういう運動に染まっていたかも知れない。少なくとも、彼等かが有る一定のパーセンテージで世の中にいてくれることは私にとって「良いこと」だ。
 それでも何か彼等の運動に対して違和感を感じざるを得ない。彼等の存在を認めながら、それに加わって運動しようと言う気にはならない。
 一つは運動と名の付くもの全般に対する思いで、運動することによって何かが変わるという希望が疎ましくてならないのだろう。私は人が努力することによって世の中が変わるという幻想を完全に放棄している。それは宗教のように人に生きる希望を与えるだろうし、それを信じることに異議を唱えるつもりはないが、既成の運動には進行に足るだけの魅力を感じない。勿論、自らがファシストとなることを承知の上で「運動」する人たちのことを責めるつもりはない。私自身もこんな所で駄文を披露することにより期せずして彼等の戦線に加わっているのかも知れない。
 また一つは、彼等の掲げる目標が余りにも自分にとってアタリマエであることだ。どうやら世間に取ってはアタリマエではないらしく(例えばゲイに対する凡俗な差別、ゲイの結婚を認めない)、それ故にこのような運動が成り立っているのだろうが、自分にとってはこのようなセクシャリティに対する社会的法的な制限の方が理解しがたく、当たり前すぎて戦う気にもならない。体制の側に立つ人たちが必死になって守ろうとしている信仰を共有していないし、また逆の側の信念に対して自覚的な賛意をもっているわけでもない。ただアタリマエだと思うだけだ。そんなことが認められないほうがどうかしているし、もちろん運動する人たちもそう思ってやっているのだろうが、私は自分にとっての危機的状況以外ワケノワカラン人たちと頑張ってコミュニケーションをとることにイミを見いだせないので、とてもそんなしんどそうな運動に加わる気にはなれない。陰ながら応援するかも知れないが、前線に立ってワケノワカラン奴等と関わる時間をプレステで消費する方がどれほど有意義な人生かと思う。ただひたすらに「頑張ってコミュニケーションをとる」ということに価値を見出しているのだとしたら、その人は単に間違えている。相手構わず健全で平和なコミュニケーションなど成り立つわけがない。時には果敢に挑む必要もあるかも知れないし、実際にしばしばあるが、必要もなくやったらただのバカだ。
 そして重要なことは、彼等がセクシャリティの解放がそれ自体セクシャリティの自由に寄与していると思っているのでは、という疑念があることだ。例えば、自虐的なセクシャリティ、「差別」なくしては成り立たないセクシャリティの持ち主はどうすればよいのか。彼等はそれはそれで良いのだから放っておけば良い、我々はそういう人たちのために戦っているのではないのだ(社会的「解放」を望む人たちの為に戦っているのだ)というかもしれないが、いっぽうでそういう人たちにとっては彼等の運動は邪魔になるかも知れないのだ。また、公平で水平なセックス感こそがセクシャリティの解放につながるという考えにも疑問がある。性は抑圧されてこそ発揮される一面というのがあるのであり、それはセックスに対して付随的な一面と言うより、むしろ本質的な面であるように私には感じられる。自虐的セクシャリティは辺縁ではなく中心にあるのではないか。権力がこの世から消えて無くなることはないだろうし、我々のセックスは権力と共に育ってきた。
 権力が放出する物が毒だとしても、毒なしでは生きていけないように我々の多くが適応してきたのだ。今、唐突に(万が一)毒の消去に成功したとしても、それが解放と言えるのか。勿論、ある種の人々にとっては解放だろうが、総ての人々に取ってではない。一部の賢明な「運動系の人」はそれを承知で(自らにファシストの名を課して)それを行っているのだろうが、そうでない人たちは単に愚劣である。そして前者の「心意気」に賛意を示しつつも、個人的に(つまり一人のファシストとして)それを手放しで喜ぶわけにはいかないのだ。


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