残響通信第十八号



背面系
アングラ好き?
正面系へのどうぶつ的対処
潜水と作品化
ヴァーチャル受験生のすすめ
親心を殺せ!
治療>残響
理屈を言え!
だ! か?
キャラクタ性
偶然じゃダメなの?
非自殺のすすめ

背面系

 私はTV接続に成功して以来(=米軍のイラン攻撃以来)、TVブロスを購読しているのだが、これに忌野清志郎が連載を持っている。ブロスを買う度に思い出すのだが、私はこの忌野という人が嫌いだ。忌野氏のみならず、ロックくせー人たちが嫌いだし、多分、ロック自体がうっとうしいと感じている。嫌いと言ってもけっ飛ばしたくなるような強い嫌悪ではなく、苦手を増幅したような嫌悪だ。多分「いい人」だというのは想像つくし、別段憎いわけでは全然ないのだが、どうしようもなく苦手だ。自分の身の回りで似たような人を見つけたときにも同じように思う。忌野氏自身が実際にどんな人格なのかは会ったこともないのでわからないが、ここで問題にしたいのは「なんとなくロックくせー」と私が勝手に感じているある集合に属する人たちだ。私は「彼等」を見て「いい人」だと思うし、「出来れば嫌いたくない」「仲良くしていたい」と思うが、話しているとどうしようもなくイライラしてくる。自分でもうっとうしいので、理由を考えてみた。
 彼等は悪いと思ったことを悪いと言うし、そのことに対して怒る。それが気に障る。彼等が悪いと感じている対象については、私もしばしば悪いと感じるし、だから共感もすれば「出来れば嫌いたくない」とも思う。しかし何故それを堂々と声を大にして言うのか。しかも彼等はそれが立派なことだと思っているし、言うべき事を言うのが正義だとでも思っているようだ。ダメなもんなんてダメに決まってるんだから、口に出しちゃったら身もフタもないじゃないか。怒った人間が損するに決まっているんだから、ツマランもんに怒っていたら、自分の馬鹿さ加減を宣伝しているようなもんじゃないか。つまんねえなあ! どうしようもないものは笑って受け入れているフリをして、面白がるのが一番なのだ。戦争を悲劇として語っても戦争は避けられないし、真に戦争を阻む方法はそれを喜劇化することだけだ。って誰のセリフだか忘れたけれど、思ったことを堂々と口にするのはちっともカッコ良くないぞ! 変なこだわり持ってもうっとうしいだけじゃ! こだわりなんてのはこっそりちょっとだけ持っているからイイのであって、見せびらかすもんじゃないんだよ!
 ってこんなこと書いてる私もうっとうしいんだろうなあ。あーやだやだ。バカですいません。
 上に書いたこととつながるかも知れないが、「背面」が気になる。誰かを襲うなら背中から襲いたいし、ホームから線路に突き落としたりしたい。実際に誰かに対してそう思っているというのではなく、思考が「背面系」だと言いたいのだ。誰かに襲われるときも後ろからやられる気がする。ロックって「正面」のような気がしてならない。まあロックのことを良く知っているわけではないけれど、少なくともそういう「正面系」の人種グループがあるような気がする。彼等が「相対して」いる問題や敵については、同様にムカツクことが多いけれど、私がやるなら背中からやるよ。堂々とタイマンはったりするなよ。止めはしないけど。格好悪いなあ。でも、この「背面系」という表現は久々に言いたいことが言えた感じですっきりした。これから濫用しよう。伝わってる? 「背面系」勢力を結集したいね。勿論こっそりとやって、何もしないんだけど。



アングラ好き?

 誰だったかがある演劇人のことを「アングラ好き」と評していて、まあ実際その人の芝居は「アングラ」なのかもしれないけれど、その事を思い出すにつけ、人を「アングラ好き」と呼ぶ自称クリエータの存在に苛立つ。ここで「アングラ」と言っているのは厳密な定義があるわけではなく、何となく「濃い」もの、商業的ではないもの、その辺のネーチャンとかには絶対受けそうにないもののことを言う。「アングラ好き」って物を作る上での最低条件じゃないの? 勿論ただの「濃い」人じゃ困るし、その人が一通り自分の欲望を達成して、より多くの人の楽しみに目を向けない限り商業的に成功することはないだろうけれど、最初から多数派の方を向いて(というよりそれしか目に入らずに)他者の欲望を縁取るしか出来ないヤツが、どうして物を作ることが出来るのか。そんな35ミリのショボい版作ってる自主映画人みたいな野郎は、心底蹴飛ばしたい。100パーセント、そいつらの作ってる物はつまらない。中には天才的に初めから形式と内容を満たした質の高い作品を作れるヤツもいるのだろうが、普通は「アングラ好き」が紆余曲折の末に真に「良い」作品にたどり着くのだ。ただの客ならいざしらず、厚顔でウンコみたいなモン作って自分はメジャー志向なんだと思いこんでいるヤツに何も喋らせたくない。重ねて言うけど黙れ、殺すぞ。<ってこれ思いっきり思ったこと言ってるなあ。上に書いたのに。黙って笑うのは難しいのう。



正面系へのどうぶつ的対処

 山下残ダンス講演「空の音」を見に行った。私は芝居やダンスなど、舞台芸術全般が苦手だ。生の人間が目の前で一生懸命動いていると、どうにもいたたまれない気持ちになる。TVでハプニングを見るのは楽しいが、舞台上のハプニングには神経が削られる。人が必死でやっていると申し訳ない気持ちにもなる。このことについては何度も書いたし、その理由も考えてみた。ナマモノは良くも悪くも観客を無防備にする。映画館なら勝手に出ていくこともできるし、自宅でビデオを見たり本を読むならどんな観賞の仕方も許されるが、芝居ではそうはいかない。舞台芸術に対するには自らの安全について考えを巡らせる必要がある。普通の観客はそんなことは考えもしないのかも知れないが、ある種の病人はいつも安全のことを考えている。安全を意識化しない者は、「向こう見ずの美学」を刷り込まれた道徳至上主義者か、暗黙の相互安全保障への参加によって自らを安全/危険の系から放り出してしまった者だ。
 上の正面系/背面系で言うなら、舞台は明らかに正面系だ。「顔の見えるコミュニケーション」の美名の系譜に属するものだ。そこに参加する者は、相互安全保障の為に予め去勢されなければならないし、そうでなければ絶対の力=暴力を身につけるしかない。どちらも拒む者は専ら背面系の戦略を採らなければならない。これは道徳翼賛言説その他の援護射撃を一切受けずに行動する、犯罪者の方法だ。
 さて、「空の音」に戻ろう。これは3部構成によるダンスパフォーマンスで、3人のピアニカ、トイピアノによる音楽とダンスを組み合わせた構成になっている。公演開始当初から、例によって私はいたたまれない気分でいた。小舞台おきまりの尻の痛い座席や、「よっこいしょ」で席を詰める儀式も相当苦痛だ。観客の「参加」を促すあらゆる「気配り」が不愉快だ。断って置くが、私は舞台芸術が嫌いなわけではない。出来れば楽しみたいといつも思っているし、その為の方法をいつも模索している。ただそれに伴う苦痛がはなはだしいというだけだ。第一部の間、ただじっと苦痛に耐えていた。第一部と第二部の間にお茶や菓子が配られたが、一観客としてはこういうイベントにもつらくなる。出来れば透明人間にでもなって人知れず楽しみたいのだ。やがて始まった第二部は山下氏が女装してカラオケを歌うもので、3人の楽隊は舞台上手側に集まって演奏していた。その時ふと、この3人がどうぶつのように見えてきた。突然、新たな安全確保の方法が私の頭にひらめいた。
 どうぶつが可愛いのは、嘘をつかない(と信じられている)からだ。実際に嘘をつくかどうかはともかく、およそ嘘をつくとは思えず、相手が自分より弱いという確信があるとき、人はとても安心するのだ。道徳内的価値観を優先する者ならこれを「卑怯」で「汚い」見方だと思うかも知れないが、世界は利害と欲望で動いているのだ。その中で確実に安全を確保し、身内の平和を維持することが大切なのだし、それ以上のいかなる「大きな物語」「義」も自覚のない暴力にすぎない。弱い者が可愛いなら弱い者を愛すればいいだけのことだ。情でない愛を求めるより情の愛を裏切らないことの方が余程重要だ。
 ともかく、3人がどうぶつだと思った途端、ふっと体が軽くなった。舞台を安心してのぞけるような気がしてきた。どうぶつだと思えば、向こうからこちらを見る視線を計算に入れずに、一方的に観察することが出来る。山下氏が同様の計算をしていたとは考えにくいが、すくなくとも何らかの経路で私の言う所の「どうぶつ化」を企図していたことは確かだと思う。第三部に入ると、全員が白いふわふわのきぐるみで登場してきたからだ。これはもう、完全にどうぶつだ。ふわふわで可愛いものがどうぶつなのだ。今まで何度となく繰り返してきた相互安全保障への対抗策が、正面系/背面系を通じて「どうぶつ主義」(残響通信14号)へとつながった。勿論、妄想的につながったにすぎないが、妄想でなければ何かというと何もないので、妄想で結構なのだ。
 だからといって実生活総てを「どうぶつ化」によってクリア出来るわけではないのだが、ドストエフスキ的な先回りの暴走を防ぐ一手段にはなるはずだ。舞台作家はもっとどうぶつのことを考えて欲しい。



潜水と作品化

 ヴィトゲンシュタインは哲学を潜水に例えたが、それは哲学と思想(thought)の関係に深く関わっている。哲学は考えることそのもの、思考の過程だが、思想は考えられたものであり、思考の中断に由来する。哲学とは泳げない人間が必死で水面に出ようともがく様であり、泳げる人間が珍しがって試みに潜るのを「思想を楽しむ」という。どちらが良い悪いではなく、思想は哲学の諦念から始まる。ところで、これは作品を作るということにも言えることだ。映画にせよなんにせよ、作品を作るということは何かを諦めることだ。それは丁度深い海に潜って珍しい貝をを取ってくるのに似ている。浅い海では誰も興味がない平凡な貝しか取れないし、潜ったきり戻ってこないのでは作品にならない。また珍しすぎて価値の理解されない貝というのもある。せっかく取った貝を途中で落としてしまうというのは良くあることだ。いずれにせよ、貝は水上生活者に提供すべく持ち帰られる。水中生活者=カナヅチは水上生活を羨望し、必死で泳ぎを覚え、貝を提供することで水上とつながりを持つ。ただただ海の底深く沈んでいく者はやがて息絶えるし、面白半分に潜水を楽しむ者は深くは潜れない。多くの水中生活者は潜ることは出来ても貝を持ち帰るのに失敗する。ある種の人々が幸運に助けられると、価値の高い貝を深海から持ち帰ることが出来る。



ヴァーチャル受験生のすすめ

 勉強は体にいいよ! マトモな人生を選ぶのもロクデナシの人生を選ぶのも自由だし、まあ私の場合は後者なのだけれど、だからといって前者の価値観を総て失ってしまったわけではない。両方の感覚・欲望を天秤にかけて片方を選んでも、もう片方の欲望がなくなるわけではない。そういうわけで、私(や似たようなロクデナシも多分)だっていい年してロクに仕事もしないで収入もショボいと、金が無くて困るという以上に心理的に不安になる。そんな時は勉強! 別に高級な意味ではなく、受験勉強でもやり直せばいい。ヴァーチャル受験生だ。そうすると自分の本分が勉強にあるような気がしてきて、金がないのも仕事がバイトなのも当然のような気分になってくる。それどころか、受験を控えて寝る間も惜しんで勉強しなければならないのだから、バイトなどしていないほうがいいのだ。とっても心が落ちつくぜ! 所詮幸福と思いこんだ方が勝ちなのだから、自分をだませ! レッツ・ヴァーチャル受験生! 

 実際には、自分をだますより現実を変える方が楽なことも多いけどね。まあ、そういうときは努力と根性で現実を変えましょう。別に現実を変えるという一般的方法を否定しているわけではないし、個人的には努力も結構好き。ただ、そっちを当然で正しく善い選択だという傲慢な主張は本当に目障りだ。我々には病気である権利もあるし、自分の選択を(何らかのリクツによる正当性をもってではなく)趣味と言い切る勇気が大事だ。義を捨て趣味を取る勇気を信じたい。(義について>残響通信15号「道徳の道徳による道徳的解体」)



親心を殺せ!

 「親が子を思う心」に対する致命的な反省意識の欠如。「親心」にこそ我々をここまで追いつめた最大の悪の端緒がある。市場を動かし、テクノロジーを暴走させ、環境への過剰な負荷を生む最大のエゴが「親が子を思う心」だ。それを全否定して「無名の群」になることもできないが、親たちは種をばらまくことにもっと罪悪感を持たなければならない。そうでなければ子供達全体の未来が閉ざされることになるだろう。



治療系>残響

 治療関係。治療の循環系。我々がまだ死んでいない、延長の中にいるというのは、治療の循環系を生きているということだ。それとして取り上げられ、施される治療ではなく、存在そのものが互いに癒す系。治療とは時間を制御することだ。生きるか死ぬか、健康か否かではなく、死の順延という視点で見なければならない。我々は繰り延べられている。こだまが響き帰ってくるような遅れの中に人生があるのであり、我々は谷底に響く残響そのものだ。死者の、あるいは死につつある神の最後の声の残響だ。



理屈を言え!

 理屈を言うなと言うけれど、理屈があるから通じるのではないか。屁理屈も理屈のうちだ。理屈抜きに通じ合えれば(通じ合った気分を共有できれば)最高だが、そんなことはそうそうあることではない。理屈を越えたタマシイのフレアイを当たり前のように目指されても困るだろう。理屈で通じるとタマシイが置き去りにされるようだが、ずっと外側で何かが通じたのだ。その時私は世界になったのであるが、一方で世界が矮小化して共有されたとも言える。かなりショボい状態ではあるが、兎にも角も「何か」が「通じた」(ことになる)のであり、達成感が共有されたのだ。それくらいで結構ではないか。高級なことを目指して何も出来ないより大分マシだ。



だ! か?

 自分の書いてきていることをながめると、「だ! か? だ! か? だ! か?(以下略、適当なところでカットアウト)」になっている(通じてるのか? この表現)。私に限らず、理屈をこねたり物語るというのはこういう構造になっている気がする。何となく面白いからこれから使ってみたい。「だ! か?」



キャラクタ性(オチなし)

 昨日「アポロ13」を見ていて、ふと気が付いたが、映画やマンガというのはキャラクター性の強いメディアではないのか。(出来事ではなく)登場人物の人格的一貫性が重要だ、という意味ではない(それだけなら双方の方法論があり得る)。ゲームやマンガまでを含めた広義の表象芸術には、好悪による評価と、好悪を離れた「客観的」評価の両方が可能だ。「客観的」というのは、「そのものとしての良さ」、歴史的、分析的評価という意味で、要するに批評のことだが、言うまでもなく語の真の意味で客観的なわけではない。どちらの評価の仕方も究極的には個人の好き嫌いに行き着いてしまうのかも知れないが、重要なのは現象として「好き嫌い」と「批評」の両方の見方がある、と漠然と信じられていることだ。私の先輩が、批評の空間を持つ者が作品を作る「権利」を持つのだ、といったことを言っていて、私もおおよそその通りだと思う。誰にでも作品を作ることは可能だし、また自分の作ったものを作品と称することは出来るが、「権利」というのは私的な空間を離れて初めて与えられるものだ。「内から沸き上がる言い知れぬ衝動」という芸術の幻想は、表象芸術自体の価値を無視して、「文化勲章」の如き権力の囲い込みから生まれた翼賛言説だろう。映画を愛することは誰にでも出来るが、愛されることはそうではない、ということと並行的のように思う。勿論、件の「衝動」が存在しないということではないし、また経験がないという訳でも全くないが、そのような「言い訳」が切断される場所で批評が生まれるということだ。そして一般に、批評の言葉が「高級」で好き嫌いは「低級」であると思われ、同時に批評は「うさんくさい」と感じられ、総ては主観に帰するのではないか、と密かに疑われている。
 さて、前振りが長くなったが、この二種類の評価軸のバランスが、ジャンルによってまちまちだということだ。マンガでは後者が優先されるし、現代美術では前者が優先される。キャラクター性と言ったのは後者の評価軸が優先される傾向がある、ということだ。
 だからと言ってどうだということもなく、ぐるっと見渡して自分の直観に理屈をつけただけで、オチはない。私はというと、「高級」なものを信じるほどイデオロギー的ではないし、「低級」の力を振りかざすほどロマンティックでもない。何となく後者の「低級」派の方が正義ということに、世の中的になっているようだが、正義ほどうさんくさいものはないから、怪しい度合いではどっちもどっちだ。後者が正義になるのは、あらゆるジャンルで、物語の近代的流行を眺めれば一目瞭然だ。弱く無学な庶民が権力の腐敗と戦うから美談なのであって、逆ではなんのカタルシスもない。翻れば、現実には「正義の栄えた試しはない」のであって、別にそれはそれで何の問題もない。
 またまた話がズレたが、オチがないのでどうしようもない。「アポロ13」を見たりするのは、以前まるで興味の無かったメジャー系の映画を見る自由を自分に強制しているからなのだが、とりあえずネタ的に面白かった。つまりキャラクター的に良かった。それが映画としてどうかというのは別問題だが、そんなことにこだわりすぎても疲れるでしょ、と私は自分自身を説得しているのだ。まあ子供の頃から宇宙話が大好きで、なんせ浪人時代に親の目を盗んで月に行った宇宙飛行士の講演を聴きに行ったくらいだから、アポロってだけで個人的に琴線に触れた。
 3度目になるけれど、オチはない。これだけ理屈を付けないと映画一本楽しめない自分は、相当屈折しているのだろう。そのことで人からとやかく言われる筋合いはないし、くよくよすることをくよくよしても悪循環なので、開き直って屈折しているしかない。別に問題は感じない。それにしても、「自分自身に自由を強制」しないと、「楽しむ」ことに罪悪感を感じるというのは、どこから来た病理なのだろう。その根っこを探って、プロテスタンティズムがどうのと妄想を巡らすことも出来るが、またそこから新しい理屈が始まるだけだ。最近、文章が下手になった気がする。



偶然じゃダメなの?

 偶然を必然に読み換える宗教野郎の愚行。偶然を偶然のままにおこうと自分を世界から放り出す「科学」野郎のヒステリー。偶然に神の名を賭して祈らざるを得ない空間が信仰の場所ではないのか。それは何も生まないだろうし、一方でクソの役にも立たないシンクロニシティがある。どちらも意味はないし、価値もないが、それでも限界に立って祈らざるを得ない自分がいる。その弱さこそが真実であり、神は自分と世界との階級混乱の解消を諦めてつく嘆息だ。信仰が無力なのではなく、神は初めから弱いのだ。



非自殺のすすめ

 私は最近、自殺はしないようにしようと決めた。今まで何度も死のうと思ったし、ただ生きているだけなら死ぬのも一緒というウンコちゃんな考えを捨てきれずにいるし、一方で、ただ生きていることが素晴らしいとか、死ぬより生きる方が勇気がいる(そんなワケねえだろう)などと本気で思っている奴は正真正銘のウンコちゃんだと今でも確信している。それでも自殺は止めておこうと思ったのは、何を隠そう地獄に落ちると大変だからだ。勿論、私は(多分)死んだことがないし、私の周りにも(多分)死んだことのあるヒトはいないので、自殺したからといって地獄に落ちるかどうかは分からない。それ以前に死後の世界があって、しかも天国や地獄があるなどということも相当怪しい。だが分からない以上、これらをやっきになって否定している大槻教授みたいな野郎は、大霊界を本気で信じているヤツと同じくらいクルクルパーだ。死んで生き返ったヤツだって、身の回りでは聞いたこともないが、まあ世間は広いから世界中探せば一人や二人くらいはいるかも知れない。それで五人くらいは火星人がいて、八人くらいは金星人がいるのだ。そういう奴等がいようがいまいが、吉野屋の牛丼が千円になるわけじゃないのだから、必死で否定するのも肯定するのもバカモノだ。バイトの時給の方がずっと重要だ。それはともかく、世間では何とはなしに自殺は悪いこととされていて、これは多分に構造的な問題で、熱い言い方をすれば権力のトラップなのだが、万一2、3回死んで生き返った人間がいるとすると、ひょっとして真実とも限らない。地獄というのは、なんせ地獄だから相当にしんどいはずだ。引越バイトや尿道カテーテルの比ではないだろう。それに比べれば今の生活が多少苦しくても、生きる希望が全然なくても、針の山で転がったりすることを考えれば楽勝だ。生きるのが相当しんどく感じられても、一応、先週も生きていたんだし、やって出来ないことでもない。何かの小説のセリフで、「精神的苦痛より肉体的苦痛の方がずっと痛い」というのを読んだが、けだし名言である。そういうわけで、自殺は控えようかと最近考えている。自殺を考えている皆さん、こんな風に考えて生きる方向で検討してみるのも悪くないッスよ。まあ、スパっと死んじゃえばいいんだけど、どっちか迷ってるとしんどいからね。選択肢が少ないというのはいいことだ。


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