CK
〈流れ〉、不安、圧力
ビーム問題
探し物、掃除
洗礼名
例えば、信仰について
夢と作品
私とあなた
猫について
「どうして?」と尋ね過ぎる人には本当に注意しないとね!
その男達に最初に気付いたのは、弟の七回忌の日だった。
七回忌と言っても、両親と私で墓参し、簡単に食事をするだけだ。ただ、私は正月にも里に帰らないような男なので、弟の命日は両親と顔を合わせる数少ないイベントでもあった。礼服を着る必要もないのだが、友人のいない私は慶事に用いる機会もないので、一応黒いネクタイを締めてみたりした。しかしその日は、春先にも関わらず七月上旬なみの異常な暑さで、私は少し後悔していた。
一年ぶりに両親と会っても、別段話すこともない。我々は黙って弟の墓石を流し、順に墓前にしゃがんで、祈るような恰好をしてみせた。漫然と枯れた花を片付けながら、この暑さは地球の滅びる前兆なのではないか、などと空想した。
母が目前で何か念じている時、私はふと背後に視線を感じた。振り帰ると、二十メートルほど向こうで、男が墓石の陰に隠れた。Tシャツ姿の長身の若者だ。じっと見ていると、男はとってつけたように墓の周りを掃き始める。一見ただの墓参りの男のようだが、私は直観的に何か不穏なものを感じた。それでもその時は、思い過ごしだろうと自分に言い聞かせ、両親と共に霊園を後にした。私には時々、何かを根拠なく思い込んでしまうという習癖があるのだ。
翌日、私は海へ散歩に出た。私の実家は、海から歩いて三十分ほどの所にある。子供時分を思い出すように、海岸線に沿ってあてどもなくぶらぶらと散策した。海は有名な海水浴場で、夏には芋を洗うような人なのだが、流石に数人のサーファーが浮かんでいるだけだ。しかしひょっとすると、この暑さなら泳げるかも知れない、と馬鹿なことを考える。散歩中、私はほとんど風景を見ないで空想に耽っている。一説によると、歩行のリズムによる脳を振動は、精神活動を適度に活性化するという。
その時、再び奇妙な感覚が私を襲った。立ち止まって周囲を見回すと、道路を隔てて反対側を一人の男が歩いていた。昨日の男ではない。こちらに気付いている様子もない。しかし何故か、それが気付いていないフリをしているだけであり、彼が昨日の男と何か関係あるということが、はっきりと感じ取れた。私はさりげなく靴の紐を結び直し、男に気付いていることを悟られないようにした。男はそのまま私と同じ方向に歩き続けている。小さなバッグを片手に持ち、Tシャツにチノパンという出で立ちだ。私はそろそろと立ち上がり、男の斜後ろに位置するように歩き出した。私の集中は極度に高まっていた。
散歩を装いながら、常に視界の隅で男を捉えていた。男は変わらない調子で歩き続ける。私の心は、かつて感じたことのない種類の不安に侵されていった。一度だけならともかく、二度も続けてということは、男達ははっきりと私に狙いをつけているのだ。周囲の道路には、我々二人以外にほとんど人陰もない。少なくとも歩いている人間はいない。男の目的が私に関係しているのは明白だった。
男はしばらく歩いた後、道路脇の駐車場に入った。私は立ち止まるわけにいかない。視界の切れる寸前に、車のそばで立っている女に、男が何か告げているのが見えた。十メートルほど歩いたところで、駐車場から出た白いカローラが私を追い抜いていった。
カローラが見えなくなって、やっと私は散歩の演技を止めた。防波堤に寄り掛かり深く呼吸すると、全身から嫌な汗が吹き出してくるのを感じた。私は記憶の糸を手繰りながら、尾行される理由を考えた。何も思い当たらない。私は平凡な語学講師であり、重要な役職に付いている訳でもなく、人から恨みを買う憶えもない。はっきりしているのは、彼等が私を見張っているという事実だけだった。
次の日、私は新幹線で故郷を離れた。一晩眠ると、不思議と昨日の不安は消えていた。この不安は夢の中の恐怖に似ている。追いつめられ死に瀕し、絶望の淵で感じる恐怖なのだが、目覚めて五分もすると輪郭も定まらなくなる。私は思い込みの激しい性分なのだ。鞄から読みかけの小説を取り出して開いた。車内はエアコンの風が心地よく、私は読書に引き込まれていった。
発車から三十分ほど経った時だ。駅と駅の中間で、人の乗降もないのに、一人の男が後ろの車両からやってきた。男は私の隣に空いている座席を見つけ、腰をおろした。瞬間、私の体に例の感覚が走った。
三十過ぎくらいの眼鏡をかけた地味な男だ。Tシャツにジーンズという格好で、会社員には見えない。だからといって、見るからに怪しいという訳でもない。男は私のことなどまるで気にしていないように、マンガ雑誌を開いている。しかし彼が私を目標にしていることは明らかだった。
私は読んでもいないページをゆっくりとめくった。自然な読書を装い、視線を落とす。一体この男達は何者なのだ。実家の周囲だけならともかく、新幹線の中にまで付いてくる。フランクな格好だけに、余計に不気味だ。とにかくこの場を去らなければならない。しかし走行中の電車から降りる訳にもいかないし、いま立ち上がったら余りにも不自然だ。私はなるべく平静を装い、一定時間ごとに機械的にページをめくり、ひたすら時を待った。
駅が近付くと、私は努めてゆっくりと立ち上がり、網棚から荷物を降ろした。その時初めて男は私の方を向き、荷物を取りやすいように膝を反対側に寄せた。私は降ろした荷物を抱きかかえ、じっと電車が減速するのを待った。アナウンスが流れると、私は再び立ち上がり、男の前を抜けて通路に出た。去り際に見ると、男はマンガ雑誌に夢中の様子だった。私は早足を抑えきれずにデッキに出て、停車と同時にホームへと逃げ去った。車内とは対称的な、粘るような熱気が私の体を包んだ。
電車の扉が開いている間、私は男が追ってこないことをひたすら祈っていた。一分にも満たない時間だったが、私は総てのドアに神経を配らせ、乗降客の一人一人を確認した。発車のベルが鳴る。ベルは異常に長い時間ホームに響いていた。
ドアが閉じると新幹線はゆっくりと加速し、男と共に消えていった。私は途中下車したホームに取り残されていた。斜前に立っているくたびれた中年男が、スポーツ新聞を広げる。バッと開く新聞紙の風圧を感じる。新聞を開く音が奇妙に大きく聞こえた。「鳩山兄弟云々」という見出しが目に止まる。その時初めて、私は男達の目的が弟に関係していることを悟った。
考えてみれば当然の話だ。彼等が付きまとうようになったのは、弟の七回忌からなのだ。彼等は弟を追って、私に行き着いたのだ。こんな当然のことに今まで気付かなかった自分に、少し驚いた。ある考えに集中している時、些細な明白事に盲目になるのはしばしばあることだ。しかし問題は、彼等が弟の何に興味を持っているのか、ということだ。とにかく、それは私にも関係している何かなのだ。私は心を緊張から解き放ち、見落としのないよう総ての事に考えが及ぶように努めた。
職場に戻ってからも、男達の監視は続いていた。郷里と私の現在の住まいは、新幹線で二時間以上の距離だ。これだけの広範囲にわたって私の追跡を続けるということは、余程重大な目的があるのだろう。加えて、目にする男は毎回違う人間が現れる。決まって二十代から三十代前半の若い男ではあったが、容姿は様々で、普通に見ていれば何の共通項もない男達だ。しかしこれだけの範囲で、一人の人間の尾行に多人数を配置できるということは、相当に巨大な組織が背後にあることを示している。
弟は生前、宇宙の始まりについて研究していた。ビッグバンとか虚数時間とか、そういった話だ。私は物理学の詳しいことは分からない。文学部卒業の語学講師に、量子力学が理解できるわけもない。ただブルーバックス的な、噛み砕いた「理系の話」にはことのほか興味があり、元々SFファンでもあった私は、弟の研究に興味を持っていた。
正直に言えば、そんな研究の出来る弟を少なからず羨ましく思っていた。私は自分の才覚から結局哲学や文学の研究に向かったが、自然科学への関心を失った訳ではなかった。弟と会う度に、私は研究について尋ねた。弟は文系人間向けに散文化して、研究内容を知らせてくれた。その多くは私の理解の範疇を越えるものではあったが、決して退屈するものではなかった。総合的学力ではそれほど優れていなかった弟が、いつの間にか高度な量子論を語るのに驚いた。知らない間に、私は弟に大きく水をあけられてしまったようだった。
弟は志半ばで逝った。男達は弟の研究を狙っているのだ。しかし弟が関わっていたのは、数学的な、いわば虚学に属する分野の学問だ。直接実用に供し、利害を生む類いのものではない。それが何故組織の関心を呼ぶのか。依然として謎は残っていた。
異常な暑さは止まることを知らなかった。七回忌から既に一か月以上が経っていたが、猛暑は衰えることなく春を通り越してそのまま夏に突入してしまった感さえある。テレビでは季節外れの蝉のニュースが流れている。各地で植物や昆虫の異常な行動が報告されている。地球温暖化の影響を懸念する声もあったが、識者は一時的な異常気象だとしてその憶測を退けていた。しかし、これ程持続するものが本当に異常と言えるのか。それは異常を過ぎて一つの恒常となっているのではないか。世界は変わりつつあるのだ。
暑さと共に、男達の監視も厳しさを増していった。初めの頃は二三日に一度目にする程度であったのが、次第に毎日、更に一日に数度見かけるようになった。それが私の注意力の向上によるものなのか、実際に監視が増しているのかは、容易には断じれない。しかし、いかに私の神経が研ぎすまされていっているとはいえ、この数の増加は、やはり実質的なものと思わざるを得ない。とにかく、その度に私は監視に気付いていない演技をしなければならなかった。尾行に気付いたら、まず気付いていることに気付かれないようにしなければならないのだ。
男達は次第に、私の職場や私生活の中にも浸入してくるようになった。ある時は私の学生に混じって男の姿があった。さらに私の学生や同僚が、いつの間にか男達の一味になっていたりした。通勤途中でも多くの男達が私を見張っていたし、アパートの住人の何人かは、組織に取り込まれていた。
弟の死因は交通事故だ。しかし今となっては、それが本当に事故だったのかどうか疑わなければならない。弟は殺されたのだ。おそらくは組織によって。しかし何の為に。量子論的な宇宙の始まりが、それ程壮絶な抗争を生み出すものなのか。私は宇宙の始まりについていくらか調べたが、私に可能な範囲では何も分かる筈もなかった。かといって、人に助けを求める訳にもいかない。どこに男達が潜んでいるか知る術もないし、周囲の人間を巻き込んでしまうわけにはいかない。このことは両親にも誰にも知られる訳にはいかないのだ。
監視する男達を逆に観察することで、私は彼等の特徴をいくつか掴みつつあった。一つは年齢的な問題で、以前から察していた通り、極端に若い者や高齢者がいない。それから、彼等の服装だ。スーツ姿の会社員風の場合がない。特別奇抜な恰好をしているわけではないが、カジュアルな雰囲気の場合が多い。目立たない服装であることは尾行の上で当然だが、同じ平凡な恰好でも、学生風の変装をしている場合がほとんどだ。
そしてある時気付いたことは、彼等のシャツに、決まって同じロゴが刻まれていることだ。それは「CK」というアルファベットだった。私は仮に彼等を「CK団」と呼んでみた。それは「死刑」あるいは「私刑」という言葉を連想させた。彼等は私を殺めるつもりなのだろうか。いや、もしそうだとしたらとっくにやっている筈だ。そのチャンスはいくらでもあった。そうでないとすると、「死刑」は弟の虐殺を意味しているのだろうか。いや、そうではない。そうだ。「CK」は弟のイニシャルではないか。彼等は私の弟のイニシャルを胸に刻んで私を狙っているのだ。
このことに気付いてから、私は男達に対する見方を変えなければならなくなってきた。男達が弟の研究を狙って私を追い回しているのだとばかり考えていたが、もし彼等が弟を奉じるものだとしたらどうなのか。弟は彼等に殺されたのではないことになる。すると弟は誰に殺されたのか。弟を首領とする組織が狙うのが私だとすると、殺人者は私ということになる。馬鹿な。
確かに私は弟を嫉妬していた部分がある。そして弟の死因には今一つ不明なところが残る。弟が死んだ時、私はしばらくそれを現実のこととして受け止められなかった。不思議と悲しいとも思わなかった。悲嘆に暮れる両親の間で、奇妙な罪悪感に悩まされた。素直に兄弟の死を悲しめない自分が不気味だった。
葬儀の席で、私は友人の前で泣いた。しかしそれは、葬儀という雰囲気、友人の言葉を失った様子に泣いたにすぎない。いわば私は、弟を失った兄の役を演じていたのだ。役になりきって、絆されて泣いていたのだ。その感情は外からやってきたものであり、私の内から生まれたものではない。私の内面は空虚なままだったのだ。
だから私は、弟の死を悲しんでいない。そして、その事に自分でも気付いていた。それ故に、私は自分を罪深いと感じたのだ。未だに基本的な所での私の気持ちは変わっていない。私は人間としての正常な感情を欠いてしまっているのだろうか。
しかし、もし私が弟を殺したのだとすれば、総てに説明が付く。確かに私には弟を殺したという記憶はない。その証拠もない。だが何らかの原因、精神的外傷などでその記憶を喪失しているのだとしたらどうか。事実としての殺人の記憶は失っていても、感情は残り、悲しみを受け付けない。衝撃だけが残り、弟の死は意味を喪失する。いや、それは私の一つの成功として、罪として残る。CK団は弟の死の真相を嗅ぎ付け、七年の歳月をかけてついに私を追い詰めたのではないか。
ならば何故、彼等は草々に私を始末しないのか。それはやはり、弟の研究が鍵になっているのだ。弟は裏切り者の私に、無意識の内に研究の秘密を託したのだ。私自身の内面、記憶の淵に、弟の研究の秘密が眠っているのだ。それは世界の始まりに関するものであり、同時に大組織を動かす利害の絡むものだ。つまり、世界の始まりと同時にその終わりを解き明かすものであるのに違いない。
私の生活は、遂にそのほとんどが男達の監視下にあるようになった。一人でいる時でも、テレビやラジオを通じて私を見張っている。私はテレビのニュースの音に、モールス信号のようなものが混じっているのに気付いた。気を付けてみると、それは町中でも時折耳にするものだった。私は勿論、モールス信号を知らないが、その意味する所は分かった。それは私を追い詰め、脅迫する内容だった。同時に、私の脳に埋め込まれた情報を引き出す為の、暗合鍵の役割を果たしていた。
モールス信号が聞こえる度に、私は耳を塞いでそれを遮らなければならなかった。コードが私の脳に達すれば、途端に秘密は解読され、私の役目は終わる。それは私の生の終わりをも意味している。何故なら、秘宝を受け渡した私は、ただの裏切り者でしかなくなるからだ。そうなれば私が弟同様、事故にでも見せ掛けて始末されるのは目に見えている。いや、弟を殺したのが私だとすると、私は自殺を偽装されるのに違いない。何と言う皮肉か。
ある日の夕暮れ、私は商店街の電気店でテレビを目にする。テレビは、末期的な異常気象を報じている。農業の大不作と大規模な水不足が予言される。それに混じって、私の脳を切り開くメスのような信号が浸入してくる。空は不気味な紫色にそまっている。その紫を映すように、毒に染まった水が川を流れている。細いドブ川にかかる古い石橋は、商店街の丁度中央に位置し、西と東を分け隔てている。私には声が聞こえる。それは、世界の始まりから終わりを語っている。
兄は自転車を使って、A町から8キロメートル離れたB町まで毎時12キロメートルの速さで行き、そこで休憩したのち、行きと同じ道を、毎時16キロメートルの速さでA町まで戻ったところ、A町を出発してから1時間30分経過していた。
弟は兄がA町を出発すると同時に、兄が通る道と同じ道をB町からA町へ毎時4キロメートルの速さで徒歩で向かった。弟は途中で休まない。
兄と弟が最初に出会うのは、兄がA町を、弟がB町を出発してから丁度30分後のことである。これが兄と弟の最初の出会いである。兄と弟はすれ違う。初めての対面に、二人は互いに抱き締め合おうとするかもしれないが、歩みを止めることは許されない。兄は弟を、弟は兄を、愛おし気に見つめるかも知れないが、長い間互いを見ていてはいけない。二人の向かう先は逆の方向にあるからだ。
兄と弟が二番目に出会うのは、兄がA町を、弟がB町を出発してから、丁度1時間20分後、兄と弟が最初に出会ってから、丁度50分後のことである。これが兄と弟の二番目の出会いである。兄は弟を追い抜く。二度目の邂逅に、二人は運命を感じるかも知れないが、歩みを止めることは許されない。兄は弟を、弟は兄を、愛おし気に見つめるかも知れないが、兄は長い間弟を見つめていてはいけない。二人の向かう先は同じであるが、兄は弟の先を走るからだ。
兄と弟が最後に出会うのは、兄がA町を、弟がB町を出発してから、丁度2時間後のことである。これが兄と弟の最後の出会いである。兄は弟を出迎える。しかし兄が弟を抱擁することはない。兄はこの時既に屍となっているからである。弟が兄の屍にすがることもない。弟もB町に着くと同時に屍となるからだ。
黄昏れの空の下を、子供達が駆けてくる。子供達は皆、両手を空に掲げている。油の中を泳ぐように、子供達はスローモーションで橋を渡ってくる。彼等の胸には、CKの文字が刻まれている。商店街の風景が、水に落とした絵の具のように歪んで溶けていく。声が聞こえる。私は初めて自転車に乗った日のことを思い出す。
最初に、非常に暴力的にナイーヴな仮定をしてみる。これは一般に流通する「流れ」を巡る言説を整理する為のものである。
例えば、映画は「流れ」であるとする。ここでの「流れ」とは、方向と速度を持つものだ。
同様に「流れ」として認識されるものに、音楽がある。いずれにおいてもリズムと時間的な構成が問題になるが、それは両者が共に「流れ」に属するからだ。
この稚拙な仮定を延長する限りでは、絵画や写真は「流れ」ではなく、空間的なものを目指すものだ。写真に速度はない。少なくとも理想写真(理想気体の如き仮構としての)には時間がない。
ところで、音楽と映画は共に「流れ」ではあるが、その方向と速度において分かりやすい差異がある。音楽は方向・速度の改変を許さない(ある作品がその作品である上で両者の改変は許可できない)。例えば逆転再生した音楽から元の音楽を想像するのは困難であり、可能な場合でも、耳に聞こえた音楽を一回空間化し、その上で「頭で」再生しなおさなければならない。
映画も同様に方向・速度の改変を許していないが、逆転再生した映画から元の映像を想起することは、音楽ほど困難ではない。多くの場合、逆転した映像から我々はすぐさま元の映像を想像することができる。速度を変えた場合でも同様であり、これが音楽程に難しければ、ハイスピード、コマ撮り等の技術は成立しない。それゆえ、映画は音楽程には「流れ的」ではなく、空間的であると言えるだろう。
映画が音楽より空間的であるということはどこからくるのか。映画は連続したmotionとしての一面を持つ一方で、有限の写真の集合である。映画フィルムなら一般に24、NTSCヴィデオなら29.97の写真が一秒の中に連なっている。映画は流れではあるが、それは有限の、しかも相当に限られた数の空間の集合に過ぎないのだ。ただこれらの空間は時間的布置によって構成されるので、写真展の様な空間性には至らない。見かけ上は「流れ」としての容貌を持つ。映画は写真展と音楽の中間に位置している。
このことは、無限の瞬間の連続としての時間と、物質的で実在的な時間との対比に対応しているように見える。前者はヘレニズムの時間であり(アキレスと亀の時間)、後者はヘブライズムの時間だ。両者は共に西洋文化の源泉であり、ひいては「近代」の礎であるが、こと時間観に関してはギリシャ的なるものが圧倒的に優勢であると言える。ニュートン的な時間がこれであり、我々が通念上時間と呼んでいるものもギリシャ的な時間だ。逆に言えば、我々はあくまでそのような時間を基準にしてしか時間について考えることができない。何人もの哲学者や文学者が試みたもう一つの時間観が(「純粋持続」……)、結局の所「気分」や「心理的要素」に還元されてしまうのは、我々の時間があくまでギリシャ的な時間であるからだ。それ故に、もう一つの時間、実在的で物質的な持続は、「存在しない時間」である。この時間は時間の外部にある(そして外部は常に「ない」)。ベルグソンがユダヤ人であったことは示唆的である。
映画の時間を「一秒間に24コマ」と言う時、我々はギリシャ的な、流れる時間の尺度で考えている。しかしこれは音楽についてはあてはまったとしても(それも相当に疑わしいが)、映画については十分ではない。映画の時間は反転可能性を秘めた空間との狭間にある物質的時間なのだ。1コマの写真という、空間的でマテリアルなものが、映画の時間を基礎付けている。それでありながら同時に、見た目上映画は「流れ」であり、motionとして認識されるということは、ヘブライズム的時間の可能性を示しているように見える。
日本のアニメがさらに限られた秒間コマ数によって作られていることには注目すべきだ。日本製アニメの与える物質的印象、「気軽さ」、キャラクタ依存などは、これと関係しているだろう。またより空間的・物質的方法であるマンガとの関係の深さも、これとの連関で考えることができる。逆にディズニーのアニメーションは全く違う方向を目指している。さらに、我々の感じる「フィルムっぽさ」が秒間コマ数に大きく依存していることも重要だ(「フィルムっぽさ」には他にも色々な要素が関係しているので、一概には言えないが)。非常に高速度で撮影されたフィルムは(とりわけ70ミリフィルムは)、あたかもハイヴィジョン・ヴィデオ映像であるかのような印象を与える。
ここで明らかになることは、我々が最初にそれを「流れ」と呼んだことの暴力性だ。我々は気軽に「流れ」と言い、この言い方には「流れ」に何かこの世ならざるものを託しているそぶりがあるが、それは正に我々の意識がここで言うギリシャ的時間の中で成立しているからである。「流れ」は空間の側から見た(「空間化された時間」)超越的時間(「純粋持続」)のようなものとして、つまりこの世界に空いた特別な穴として語られるが、突き詰めると寧ろ「流れ」こそが物質的な何かであることが分かる。この「流れ」を仮に〈流れ〉と表記しよう。〈流れ〉は一見時間そのものに見えるが、実は時間と空間の間で飴のように伸びる物質性の表象である。
だからこの対比は空間と時間の関係ではないのだ。別のテクストで、私はこれを「時間が無い」(時間というものが成立しない)と「時間がない」(時間はあるが不足している……時間は常に不足している!)という形で表した。我々は「時間がない」「時間がない」と焦りながら時間の中で語ることしか出来ない。その時、時間の不在はあたかも時間そのものであるかのような相貌を持つ。これが我々がナイーヴに想像する「流れ」の正体だ。
映画も音楽も共にこの〈流れ〉、つまりないものとしての物質性にひっかかっている。「流れ」はしばしば時間的な何か、「精神的な」何か、「内面的な」何かとして語られるが、これらは総べて「時間がない」焦りの文脈の中に物質を回収しようとする営みでしかない。「内面」は権力の言説だ。もちろん、これに対し単純にアンチをぶつける方法では釈迦の掌である。我々は「精神的」にしか語ることが出来ない。「内面」から語り始めて物質に抜ける横断ルートを発見しなければならない。
例えば、映画におけるストーリーは焦りの文脈へと回収しようとする権力のトラップでもあるが、同時に向こう側に抜ける際の入り口としても読むことが出来る。ストーリーの機能は作家とそれによって生産された観客の姿勢によって決定されるのであり、単純にストーリーが映画を去勢していると言うことは出来ない。このような稚拙でイデオロギー的言説を吐く作家の「実験映画」がしばしば単純に依存的で退屈であることは、田舎のヤンキーが早々に更正(卒業)してオトナになってしまうのと平行的だ。
〈流れ〉は流れるのではなく、圧縮し時間に対して垂直に離脱する(時間の深度)運動だ。すると当初様々な表象芸術を「流れ」のグラデーションの上で整理したようなパースペクティヴは総べて無効であることが分かる。例えば写真は「流れ」的ではなく、映画は「流れ」的であると考えられたが、このような時間的序列は〈流れ〉の前では全く用をなさない。気軽に撮影されたホームビデオから圧力に満ちた一葉の写真に向かう方向性が〈流れ〉だ。ヴィデオも勿論〈流れ〉に関係しているが、それはジリジリと逃げ場なく追い詰められる緊張感に於いてだ。ヴィデオは「撮り逃げ」られない。これはスティルに於ける「シャッターチャンス」の重圧に対応している。〈流れ〉の物質性は圧力を生む。
〈流れ〉は圧縮であり、圧力を生むが、この圧縮方向は「無い」時間、すなわち流れて不足する時間に対して深度として働く垂直方向の「無時間」性である。またこのことは、「本」を中心とし、偶像を拒む(イメージへの転化を恐れる)宗教が、ヘブライズム=物質的時間の中核をなしていることと重なって見える。
この圧力を、推敲可能性という観点から見直してみる。
"Writing is rewiting." と言われる。書くことの本質は推敲にあるということだ。これは書き逃げることへの諌め、職人的な道徳律としても読めるが、それは重要なことではない。あらゆる表象芸術で、writing is rewritingの構造を発見することができる。この「格言」は、書くことの本質を「書きなおす」こと、「再び書く」ことにあると訴えている。これは単純によく見直して吟味し、推敲に推敲を重ねて完成稿へ至れ、ということではない。修正可能性、反復可能性こそが書くことの本質であるのだ。
rewritingは、沢山書くことではない。推敲の末にその原稿は最初の形とは似ても似つかぬものになるかも知れないが、それでも同一の原稿である。修正可能性のないテクストはテクストであると言えないが、同時にテクストは改変されることにより普通に言う意味での同一性を揺るがされる。にもかかわらず、「その」テクストは単にrewriteされたものなのだ。修正可能性はテクストの同一性を還元不可能な(交換不可能な)外部へと放り出す。そしてそれがテクストの本質であり、また「作品」一般の本質でもある。
何故推敲するのか。それは書かれた原稿が「不完全」だからだ。そして一般に、推敲を重ねるにつれて原稿は「完全」に近付き、一定の完成度を達成したところで「最終稿」として作品化される。何故初稿は「不完全」なのか。作家の能力が至らないからではない。単にそれが不完全だと感じられるからだ。それは完成のイメージとの距離から生まれるとも言えるが、完成が未だ見ぬものである以上、距離と言う言い方は不適切だ。
そもそも、完成稿は何故完成稿なのか。それは完成のイメージの達成ではない。多くの場合、当初のイメージは裏切られ続け、それでも作品は完成する。心理的にはそれは作家の満足で説明できるが、重要なことではない。完成は、疲れ、倦怠、諦念によって生まれる。それ故に、完成のイメージとの距離、その距離の遠近によってrewritingの必要を語ることは出来ない。また、くり返すが、そもそも「無い」完成品との距離は測ることが出来ず、よって完成との遠近は定めることが出来ない。
重要なのは修正可能性そのものだ。「改変することが出来る」という不安、それがrewritingを迫るのであり、writing is rewritingとはこの不安こそが書くことの中核を成しているということを示している。
また、この不安は現在地不明の不安でもある。書かれた原稿は一定の時間をおいて書き直される。時間が必要だから書き直すのだとも言える。この時間はギリシャ的な時間だ。作家が人間である限りにおいて、彼もまた流れる時間の中で、焦りの中で仕事をせざるを得ない。
何故時間が必要なのか。俗な言い方をすれば、「客観的な目で見られない」からだ。徹夜で書いた原稿が、翌朝読みなおすとクズのような文章だった、というのはよくあることだ。作家は書きながら「読む」ことが出来ない。書くことと読むことの距離がrewritingであり、また書くことの不安だ。目標地点のイメージはあるのに、今自分のいる場所が分からない不安。この不安は「外からくる」不安であり、多くの場合作家は自分流の地図や経験則によってこれに対抗しようとする。しかしこの地図はあくまで地面に張り付いた虫のような視点から描かれたものであり、永遠に彼の望む鳥瞰図には至らない。それでも作家は地図を作らないでいられないし、この不安との関係性にこそ注目すべきである。
不安との関係性に着眼せよというのは、これが作品の圧力と関係するからだ。このテクストに限らず、映画はしばしば圧力との関係で語られる。「画面の圧力」云々という表現はシネフィル達の間で普通に流通するものだ。しかしこの圧力の正体とは何なのか。例えば、フィルムの画面にビデオの画面より圧力を感じる、その時の違いとは何なのか。何気ないショットが圧倒的なプレッシャーを生み出している時、そこで働いているメカニズムは何なのか。
上で私はこれをこれを〈流れ〉という概念の導入によって語ってみた。それは「時間が無い」と「時間がない」を同時に捉える俯瞰的視点から見た説明だが、語り始める場所をあくまで「内部」、「内面」に限定するなら、それは焦りの向こう側にほの見える何かとして立ち現われてくるだろう。焦りを漠然と覆う全体的な不安として。
時にこの構造は銀と酸化鉄の距離によって語られるが(フィルムは銀塩反応、ヴィデオは酸化鉄もしくは鉄の磁化作用によって記録される)、まんざら見当違いのレトリックではない。我々が作品から感じる圧力は、そのような物質の臭いのするものだ。だがレトリックを越えて、圧力を電気的、化学的作用へと還元しようとする試みは全て失敗するだろう。そのような試みは断片的なヒント、圧力の条件の一つを示すことはできるかも知れないが、圧力の本質を捕らえることは出来ない。
圧力は安定感ではない。多くの文脈で、圧力が安定感と取り違えられている。単純な安定は何らプレッシャーをもたらさない。圧力のあるものに安定感があったとしても、それは安定感が圧力を生んでいるのではない。安定感の希求、関係の結果としての安定感が重要なのであり、安定感そのものは圧力とは関係ない。安定感の希求とは、不完全な地図を描くことだ。
逆説的だが、圧力とは不安だ。安定感は「内から」止むに止まれず生み出すものだが、それは不安に要請されたものだ。現在地不明の不安が圧力なのだ。それは初稿執筆と推敲の間に横たわる不気味な時間の力だ。re-writingはre-re-writingへ、re-re-re-writingへと連なっていくが、重要なのはre-reの間に無いものとして有る時間だ。これは物理的な時間ではなく論理的な時間であり、正確には遅れ(手後れ)、ズレ、delayである。delayが不安の源泉であり、それが圧力を生む。それは例えばフィルムを現像に出して待っている間の時間であり(re-takeの待ち時間)、不安である。また、無限の編集可能性、再-編集可能性(その時間的な遅れ)もまた圧力の源泉である。ビデオの「圧力の無さ」は、画面確認の即時性にあるとも言える。しかしこの即時性が錯覚であるのは明らかであり、いかに物理的な時間を短縮されたとしても、書くことと読むことの距離、撮ることと見ることの距離は物質的に短絡不可能なものである。我々は常に残響しか知ることが出来ない。
演劇は一回性の芸術であるように見えるが、そこにもre-reの時間は入り込む。それは一つには再演可能性として現れるが、より重要なのは芝居の稽古そのものだ。演劇人達の稽古への執着は、圧力=不安によるものとも言える。自分の演技自体を観察できない、永遠の待ち時間を演劇人は生きている。
作家達は記憶を頼りに地図を描き、初稿から第二稿への、また完成のイメージとの立体的な距離を測ろうとする。しかし、ここで用いられる記憶力は、過去へと遡及する力ではなく、未だ見ぬ筈のものを思い出そうとする力だ。不安は不明から来るのではない。分からないから不安なのではない。知っている筈なのに思い出せないから不安なのだ。作家達は不安にせかされ、未だ見ぬ記憶を思い出そうとして地図を描く。知っているはずの記憶、一度も無かったかも知れない出来事の記憶が作家達を駆動する。彼等はか弱く不鮮明な残響に耳をすまし、光を失った者が絵を描くように、存在しなかったかもしれない世界へと記憶力をもって沈潜していくだろう。
武術界には、「ビーム問題」がある。つまり、パンチやキックはともかく、ビームは出るのかどうか、という問題だ。まさか本当にビームが出ると思っている人はいないだろうが、まあビームでも似たようなものなので、私はビーム問題と呼んでいる。ビーム否定派のスポーツマン達は、ビーム肯定派を宗教者か分裂病者かのように思うだろうし、後者は前者を「本当の力」を知らない哀れな者達と思うだろう。後者を説得しようとする前者の人たちは、口を酸っぱくしてビームの非科学性などを訴えるかもしれない。別に両者の融和を図る必要もないのだが、もし試みるなら、この方法の能率が悪いことは明白だ。ビーム肯定派、否定派と書くことで(そして実際そのような自覚のもとに両者は別れる)、いかにもビームの存在非在が問題のように見えるが、実はそんなことはどうでもいいことなのだ。
一般にビームだと思われているものにはいくつかの種類がある。一つは、ビームが出ていると思い込んでいる(心理的に回収可能)なもの。これが肯定派の最大意見だろう。また一つは、ビームにやられたフリをしているもの(芝居)。これは問題外。そして重要なことは、本当にビームが出ている場合。私は別に本当にビームが出ていても構わないと思う。肯定派が思っているようなビームの出ない世界は「客観」などではないし(彼等の考える「客観」こそが巨大なフィクションにすぎない)、また百歩譲って「科学」で考えるとしても、まだまだビームには様々な理屈が付けられる(神経系に対する直接的作用、etc)。
しかし重要なのは、ビームが出たとしても、それは役に立たないということだ。何故なら、多くの場合、ビームはパンチより弱いからだ。肯定派と否定派の対立など初めからない。強いビームの出る人はビームで戦えばいいだろうし、パンチの方が強い人(つまり普通の人)は、ビームで挑戦するのはやめておいた方が賢明というものだ。
探し物があるなら、部屋の中を探すべきだ。「ビーム」を求める人も、不幸の克服を模索する人も、未だ見ぬ新天地などに救いを求めてはいけない。例えば、ビームの出る人がいたとする。その人は我々とどこが違うのか。彼が秘伝を習って、ビームを会得したとでもいうのか。仮に秘伝の名に値するものがあったとしても、それはその人が元々持っていた何かに気付かせるものでしかない。探し物は部屋の中にあるのだ。
探し物をしようとした時、重要なのは部屋の中が片付いているかどうかだ。片付いていないなら、まずは掃除から始めなければならない。徒に物をひっくり返すより、淡々と掃除することによって、かえって早く目的に辿り着くことが出来る。
初めは単に部屋があっただけだったのに、我々は多くの物をそこに引き込んでしまった。それ自体は悪いことではない。何であれ、我々は買ったり捨てたりして生きているのだ。だからこそ、重要なのは掃除だ。物を多く持つことではない。持ち過ぎることは部屋を狭くし、自由度を奪う(行き過ぎたマッチョマン)。同様に、「持たざる」ことも貴くはないし、駒が少なすぎても自由度は低い(まずは腕立てから始めよう)。掃除はそこが確かに我々の場所であることを確認する行為だ。掃くことは化くこと、世界を自分の手で区切ることだ。肝要なのは筋肉ではなく神経だ。意拳の站椿などは正に掃除と同じことをしようとしているのだろう。
(残響通信11号「掃除は愛か」に関係)
生活というのは須らく宗教的なものだ。あらゆる共同体を拒絶した生活というのが考えられないように。多くの人が宗教を忌避するし、また私も同様に所謂宗教に対しては批判的だ。しかし自らが宗教と無縁の場所で、例えば胡散臭いものとして宗教を否定できると思っているなら、大きな間違いだ(そして我国の多数派でもある)。幼児洗礼に対する大衆的批判(というより単なる悪口)などにはそれが端的に現れている。私もこの場所が良い場所だと思っているわけではないが、とにもかくにも、自分の場所を確認することから始めなければならない。大切なのは、自分の洗礼名を思い出すことだ。我々は生活している。
信仰は共有されてはならない。安々と共有されるものは、信仰ではなく連帯の為の思想的符丁のようなものだ。信仰が共有されることがあるとすれば、それは暴力的な強制、あるいは洗脳によらなければならない。信仰は我々を補完しようとする幻想に支えられたものであり、最も「弱い」、十分に考えられていないものだ。そうでないものを信仰と呼ぶことは出来ない。それ故に、信仰は狂気の沙汰として嘲笑を浴びても不思議ではないし、寧ろそのようなものこそ激烈な信仰と呼ぶべきだ。手揉みをしながら近付いてきて、巧みに安全保障へ加入を勧めるような者は信仰者ではない。信仰は激烈であり、排他的な妄想だ。ただ己の罪深さ、弱さ、またある種の狂気の避けがたさを実直に引き受けているという点でのみ、信仰する者は嘲笑する者よりいくらかマシだろう。カルト教団や「整体師」に夢中になる者は愚かだが、それを嘲笑したり恐れたりするものよりはいくらかマシだ。「正しい」宗教と「狂った」宗教があると思っている大衆は、安全保障の奴隷である。「狂った」人々には彼等を殲滅する「権利」がある。連帯する者はこの世で最も醜いからだ。(その試みは常に失敗するだろうが、言うまでもなく、そんなことは問題にならない!!)
思うような作品を作ると言うのは、望む夢を見ようとするのに似ている。幸福な夢を見ようと望むものは、様々なまじないを試みたり、また夢の素材としたい要素を意識に刷り込んだりするかもしれないが、それでも思い通りの夢が見られるとは限らない。また素材的には操作できても、夢の本質に近い全体の空気については、何も手を加えることが出来ない。それは、他人にとっては私であり、私にとっては私ではない、あの何者かによって決定されているのだ。
私、私、と言っていると、あなたは私が誰だったのか途中で分からなくなる。だから時々、私はあなたの何なのか、分かりやすく伝えてあげなくてはならなくなる。例えば「私は主である」等と。あなたは忘れやすいので、私は語りながら度々これをくり返さなければならない。しかしそれはあくまであなたにとっての便宜であって、私の為の言葉ではないことを忘れてはならない。私はどこまでいっても単に私であって、あなたと出会うまで、そんなことは問題ですらなかったのだ。尤も、その時本当に私がいたのかどうか、私にもあなたにも知る術のないことだが。
猫を猫と呼ぼうが猫を猫と呼ぶまいが、それはどちらでもいい。これは第一の条件だ。どちらでもいいのだ。作家には猫を猫と呼んだり、猫と呼ばなかったりする自由がある。問題なのは、猫が果たして猫なのかどうかということだ。猫が猫の時もあれば、猫でないときもある。これについて明言するのも良いし、また明言しないのも良い。明言しているかしていないかも分らない場合もあるだろう。我々はどこかで猫、あるいは猫以外の何かに賭けるだろうし、テクストとはそういうものだ。巨大な辞書システムを信じるのも、事物と言語の直接的関係を妄信するのも、どちらも妄想にすぎない。しかも妄想の外側などないのだから、結局は信仰のパワーゲームしか残らない。なおかつ、このゲームにはルールすらない(厳密には、あるのかないのか分らない)。そんな自明事についてとやかく言うのは、バカバカしい話だ。それでもバカな話をしないでいられない。沈黙の内に猫を巡る微妙な情勢をひとまず引き受け、さてどうするかが肝要だ。気狂い以外は気狂いのように上の空で話をする。ポピュラー・ソングをかけながらあてどもなく車を転がすのもいいだろう。私は猫についてこっそり秘密の手紙を送る。好物のキャットフードについて、トイレの世話について、大好きなオモチャについて、注意すべき持病について……。
撮りたいものを撮ってどうするんだ? 撮りたいものがあるから撮るのか? あるいは、書きたいものがあるから書くのか? 最低につまらない。そいつらは何か自由を手にしたつもりなのかもしれないけれど、それは単純に意志の達成可能性と不可能性の間を心地よく揺らいでいるというだけの話だ(総ての意志が即座に実現される人間に「自由」はないだろう?)。書きたいものも撮りたいものもいずれなくなる。そうなった時に何を書くのか。もちろん、書くのをやめるのも良い。普通はそうだ。大体、こんなことはやらないで済むならやらないにこしたことはないのだ。表象芸術の意味の半分までは、チンケな「治療」でしかない(「癒し」とかね!)。それはそれで結構。しかしそういう分りやすい「治療」が一通り完了して(つまり、疲れたり飽きたりして)、その後にこそ本当のどうしようもない最低の自由が待ち構えているのだ。書かないでもいいが、書くのも勝手だ。映画から身をひく自由など当たり前にいつでもあるが、何ら「表現」(反吐が出るぜ!)するものがなくても撮り続ける自由はある。何もしないことがプレインなのだというのは、既に平面パースのトラップにはまっている。我々は我々が想像したり望んだりするより圧倒的にクソ自由なのだ。
もちろん、虚飾を賛美するのもこれの転倒にすぎない。無駄が美しいなら苦労はない。我々はもっとどうしようもなく「一回きり」なのであって、このクソ「一回きり」に何の意味も必然性もない。根元敬なら「でもやるんだよ!」と言うはずだ。苦しむ為に生きているという素晴らしい気晴らしアイデアを笑う人間が、楽しむ為に生きているという考えにはナイーヴに頷いてしまうのは実に滑稽なことだ。
2本の35ミリ作品を撮ってから3年間映画が撮れていない福居ショウジン監督を追った「職業映画監督」という映画がある。この中で、福居ショウジンは弱々しく呟いている。「正直言って、もう撮りたいものとかそういうのは、ないんだよね」と。最高じゃねえか! 「4月までに映画が撮れなかったらトラックの運転手になる」と言いながら、5月になっても脚本を直している福居ショウジン。その後の彼について本作では触れられていないが、運ちゃんになって結構楽しくやっちゃうかもしれない。それはそれでいい。グダグダ言わないでビデオでも何でも撮ったらとてもカッコイイ。しかしグダグダ言っていたからといって、そのことで他人からとやかく言われる筋合いもない。全部同じだ。「やりたいことがないならやめろ」だと? そんなくだらねえ説教しているテメエは何様のつもりだ? 生きたくて生きてる訳じゃないだろう。まだ死んでないだけだ。生きるも死ぬも私の勝手だ。私は趣味で息してるんだよ。
さあ、撮るべきものは何もなくなった。あるいは、最初からなかったのかもしれない。それで尚、何の為に撮るのか? は! 何かの為に撮っているのか? それなら、モテるためでもいい。どうしても目的を聞きたいなら、迷わず「モテたくて」と答えるね。まだ死ななくて、あんまりヒマだから映画撮ってるんだよ。福居ショウジン、貴方も暇つぶしに撮れ。モテるために撮れ(彼女と別れたんでしょ?)。「治療」が終って、尚続くそれは何か? それも治療だ。治療は当て所もなく新たな病気の獲得に向かってゆるやかに続くくだらない人生の高原だ。最高じゃないか!
最近うんざりするほど優しいので、死ぬ程アホな人の為にサーヴィスを(本当はそういうヤツらの被害を受けている人へのサーヴィスだけど)。
「書くのも書かないのも勝手だけど、迷惑だから止めるべきだ」という反論が成り立つと思うヤツは、このテクストの出発点にすら遠く及んでいない。大体、本当のことを言えば、書きたいことがあるとかないとか、あるいは書きたいとか何とか言う以前に、うっかり書いてしまっているのだ。「私」はそれをいつも手後れの立場から過去形で再認しているにすぎない。それを一応、社会的主体の文脈まで譲歩して不粋に説明してみただけのことだ。まさかそのような公正で不可侵な「内面」を抱えたニンゲンが並立しているとでも思っているのか? そのように併置された主体群を俯瞰的に眺めているのは何者だ? ある分裂病者の最高にカッコイイ表現を借りるなら「ヒトという傲慢さ」だが、もうちょっと親切に書くならそれは単純に権力だ(「社会」でもいいけどね!)。勿論、日常生活でこのような内面を備えた主体として語るのを放棄しているわけではない。ただそれは多分に防衛的でつまらない語り口であって、どうにも逃げようのない「人間的」話し合い以外で使われるべき方法ではない(そういう話し合いにパラノになっていて、尚かつ有効だと信じている運動系の人もいるけれど、問題外)。貴方がそれを迷惑だと感じるなら、いや正確には、迷惑と感じる「私」が偶然貴方に張り付いたなら、貴方に許される方法は唯一何らかの形で対象に直接圧力をかけて(殺すとか)やめさせることだけだ(しかしその時やめさせているのが誰なのか、というのは大いに問題だが!)。「公共の福祉に反しない限り」その他の表現は、婉曲ではなく単純に不正確で欺瞞的な言い回しに過ぎない。(「残響通信」十四号「善意について」に関係)
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