犯罪者、病人、「クズ哲」
「完全に正確に記述する
映像に関する展開1
映像に関する展開2
エンタテイメント
ここで試みていることは、まとめて言ってしまうと「犯罪者サヴァイヴァル・マニュアル」のようなものではないかと思う。
荒木瑞穂という、私の先輩がいる。とにかく多芸多才で、その割に言葉を尽くして説明するということをしない、器用貧乏な人だ。私の知る限りでも、役者やインスタレーションなどの活動の他、ブルースマン、看板職人、レコードコレクター、民謡愛好家、最近は書に凝って某書家の元で修行、更に中国語も学び、アフリカの太鼓を叩いている。独り真理を抱えたまま疾走する、沖縄の血を引く大阪人だ。ちなみに胸毛が濃い。
要するに何をやっているかよくわからない人で、強いて言えば「荒木瑞穂をやっている」ような人なのだが、とにかく圧倒的な存在感を持ち、時折こぼす異様に説明不足な言葉は、私を何度となくインスパイアしてきてくれた。その荒木が、かつてこんなことを言ったことがある。
「二十代半ば過ぎてブルーワーカーで、かつそれを本業とも思わずブラブラしているような人間は、一芸持たねば犯罪者だ」。
別に労働者を貶めているのでもなく、ブラブラしていると狭義の犯罪者と同罪だとか、社会的に悪だとか言っているのではない。強いて言うなら、「お天道様に申し開きが出来ない」ということだろうか。それはいわゆる「倫理的な悪」とは違う。
この「犯罪者」というのは、「病人」にも似ている。こう書いてしまうと、差別的で恐ろしい発言をしていると思われてしまうかもしれないが、「犯罪者」も「病人」も普通に言う意味とは違う。いわば「犯罪者=病人」であるようなありようのことを言っているのだ。この「病気」はある種の神経症なのかもしれないが、普通は神経症としてすら認知されていない。ともあれ、それは「できれば避けたい」「悪いこと」だが、「善いことをしようとすると必ず感染してしまう病気」でもある。
生業というものを、大雑把に職人的なものと芸人的なものに分けてみよう。もちろん、この場合の職人/芸人は、一般に用いられている使い方とは必ずしも一致せず、術語的に仮に定義するものだ。
職人というのは広義の労働者のことである。毎日の仕事をこなし、誰にでも出来る仕事というわけではないにせよ、一定のスキルがあれば人物を問わないような業務に従事する人達のことだ。つまり、普通に働いている人達は、ほとんどこの場合の職人になるだろう。
芸人とは、終わりのある仕事、つまり作品を通じて生業を得るような人達のことである。往々にしてそれは「その人ならでは」のものであり(しかしそれは個性とは異なる)、場合によってはいわゆる「芸人」のようにその人の存在自体がイコール職業であったりもする。芸能人や作家は言うに及ばず、ある種の研究者もこの内にはいると思う。
芸というのはartであって、つまり技術のことだから、一芸持つというのは技術を磨くことだ。普通に考えれば、技術は段階をおって向上していくもので、誰でも備えうる人間一般のパラメータのようだが、少なくとも一定の段階に達した芸は、職人に求めらるスキルとは明らかに性質が異なってくる。一定といってもどこかに線を引いてあるわけではなく、強いていえばその能力がひとの「理解を越える」ものになった時、それは芸と呼びうるようになる。そうやって生きていく人間が芸人である。伝統芸能の「職人」などは、この場合の芸人とも職人とも言い切りがたいが、別段分類表を作りたいわけではないのでどちらでもよい。
「芸人にだけはなるんじゃない」という説教はあたっていて、芸人というのはどこで芸人と言えるのか、「理解を越える」ものになるのか、保証がない。芸それ自体は取り引きされない。商業的に成り立っていればいっぱしの芸人なのかどうかも分からない。商業的成功は、必ずしも芸そのものによって導かれるわけではない。だからこそ、「芸人」の世界には生活保証システムとしての徒弟制度が残っているのだろう。
荒木が件のセリフを発した時、彼も私も正に「二十代半ば過ぎてブルーワーカーで、かつそれを本業とも思わずブラブラしているような人間」だった。ここでブルーワーカーと言っている意味は、取っ付きやすさという意味でのことだ。コンビニ店員でも構わない。とにかく、それを本業と思ってそれなりに日々の暮らしをたてているなら、ここで言う意味では、立派な職人である。
その覚悟も出来ないなら、「一芸磨け」ということだ。つまり芸人であれ、ということだ。実際、荒木は芸と言えるようなものを琢磨し続けている。それが「お天道様に顔向け出来る」、仁義にもとる生き方というものだ。そうでなければ、法に触れたり社会倫理に反するという以前に、「犯罪者」になってしまう。
これは一見社会的規範とその内面化を問題にしているようで、実は違う。確かに社会規範一般は、我々を内から律している。「いい歳して何やってんだ」という声は内なる監視者から発せられるものだ。だがここでいう「犯罪」は、そうやって倫理観を外部へと還元していった時に、とりこぼされていく道徳によって定められている。「何が罪か」ではなく、「罪を感じる」ことそのものの地平における犯罪者ということだ。
「芸人だけはやめておけ」という通り、職人として生活出来ることはラッキーなことだ。畑を耕しパンを焼いて生きられれば、一番かどうかはともあれ、十分に(幸福というより)幸運である。
しかしある種の人間は、畑を耕す代わりにアスファルトやゴルフ場を耕し始めてしまう。正に職人的に正々堂々と耕さんとする余り、見当違いな場所に向かって鍬を振るってしまう。
すると彼らはたちまち、器物破損その他の罪で追われる「犯罪者」となってしまう。彼らにとって、それは単なる耕作であったにも関わらず、やはり彼らは間違いなく「犯罪者」なのだ。
場合によっては、そういう人々は、狂人やアウトサイダーと呼ばれるかもしれない。
件の荒木の言葉を聞いたのは数年前のことだが、その時私は、「ああ、それなら私は犯罪者ではないか」と思った。同時に、この「犯罪者」という薄く「罪を感じる」存在の仕方に気付いた。
狭義の犯罪者はアウトローであり、伝統的なサヴァイヴァーだ。彼ら「許されざる者」は、非日常のハードボイルド・ワンダーランドを生きる。物語が走りはじめる。分裂病者が赤い車を見てCIAを連想するような、ストーリーある関係世界が展開する。それは歴史と言ってもよい。
逆に言えば、アウトローもまた、割り当てられた欲望に従い生きる物語の登場人物に過ぎない。ただ物語の主人公たりうるだけの傑出した何かを持っているというだけのことだ。この意味で、アウトローは芸人に似ている。
そして物語は、それが物語として認識され、見切られてしまった時点で、賞味期限が切れてしまう。我々は必ず、スクリーンのダーティーハリーから観客席の平凡な人物へと帰ってくる。
かつてアウトローのサヴァイヴァルは、非日常を生きることだったかもしれない。そこでは、さしあたって生きている人間が、死を賭けて戦ったり殺したりしていた。しかし今や、エンドロールは終了し、我々は薄明るい観客席の圧倒的な無事件空間にいる。
この薄明の中で、"What are you?"という問いに対し、疑いなく職人的解答が出来ればサヴァイヴァル合格だ。しかしそんな答えは、異様な不安を押しつぶしてやっと成り立つ階級にある。我々は、ふとしたはずみにその場所から転げ落ちてしまう。あるいは、最初からそこに立つことが出来なかったり、重要なことに、そこに立つということを自分自身に許可できなかったりする。いとも簡単に、我々は「犯罪者」になってしまう。我々はこの場所でサヴァイヴァルしなければならなくなってしまった。
これは、日常がサヴァイヴァルの戦場となったということだろうか?
いつ頃からか、「終わりなき日常を生きる」といったキャッチフレーズを聞くようになった。確かに我々は、倒すべき仇敵も追うべき獲物もないままに、サヴァイヴァルしなければならない。物質的にそれなりに満ち足り、死の危険もなければおおよその将来さえ見当のつく退屈な空間を、それでも生き抜くとういことだろう。我々がここで発見したのは、そのようなサヴァイヴァルのことだろうか。
このコピーは、余りにもロマンティックすぎるし、甘ったるい。まるで荒野を何日も生き延びたり、砂漠を踏破するような物語性がついてくる。そこでは、「とりたてて何もない」ということ自体が事件になり、超越的に一段現実が上がっただけだ。「終わりなき日常を生きる」は、結局非日常サヴァイヴァルの延長でしかない。物語なき生活に力づくで物語を読み込んでいく、伝統的な阿片の一変種でしかない。もちろん、麻薬を全否定するものではない。阿片で本当にやっていけるのなら、我々はそのような人を深追いはすまい。
アウトローによる非日常サヴァイヴァルでは、ハードではあるが、とにかく生きている人間がいた。「終わりなき日常を生きる」のなら、それはそれで日常だけは保証されている。そこを出発点として、暗闇の中の光景に非日常を見つけたり、また帰ってきたりするのだろう。
だが、我々がサヴァイヴァルする場所では、日常そのものが賭けの対象になっているのだ。生きている人間が生き抜くというよりは、今生きているということ自体が疑われる。ここが日常であるということ自体が、重力のように無感覚な対象が、疑われる(重力はそれを重力と名付けるから重力なのだが!)。この場所のサヴァイヴァルは、アウトローというよりはむしろアウトサイダーのサヴァイヴァルである。日常/非日常という地平から滑り落ちかけて、必死で這い上がるサヴァイヴァルなのだ。
非日常サヴァイヴァルでも、日常サヴァイヴァルでもなく、日常に向かってサヴァイヴする。日常が出発点ではなく終着点となるサヴァイヴァル。我々の誰もが少なくとも一度は経験し、そして何度でも回帰するサヴァイヴァル。それが「犯罪者」か否かを分かつ決戦場だ。
日常/非日常が成立する以前へと、暗い淵へと我々を引きずり込む重力、それを哲学と呼んでみたい。
言うまでもなく、哲学が高尚なわけでも、専門家の為の囲い込まれた学問な訳でもない。また、哲学は出来合いの「思想」でもないし、社会的生活を導く実業家の気休めのような「理念」でもない。
一方でそれは「言葉遊び」でもない。遊んでいる場合ではないのだ。「言葉遊び」などという言葉遊びこそ、膨大な哲学の上にあぐらをかいた無防備な言い種に過ぎない。
ウィトゲンシュタインは哲学を潜水に例えた。我々は水中に生きる者ではない。できるなら水面を泳ぎたい。泳げる者は泳ぐだろうし、時折興味本意に潜ってみるかもしれない。しかしそれはここでいう哲学とは違う。哲学はカナヅチが必死で水面にあがる努力であり、また同時に彼の足を引っ張り海中深く引きずり込もうとする力でもある。
私はかつて、哲学を巡って「クズ哲」というダジャレを思い付いた。今や、剥き出しの哲学などありはしない。そう見えるものがあるとしたら、それは潜水レジャーの為の都合の良い「言葉遊び」でしかない。「哲鉱石」は我々にとって余りにも遠いものになってしまった。そもそも「哲鉱石」自体、我々が現在時の物語から生み出した、アナクロニズムの産物でしかない。
だから我々は、都市を巡り「クズ哲」を拾って集める。「哲」は、リサイクル幻想の渦巻く中、真に再生効率の高い希有な物質である。「哲」は何度も回帰する。その過程では銅の混入があり、化石燃料の更なる消費があるが、それでも「哲」は回帰する。やがて「哲」は「哲」として認められない程不純になり、もはや「クズ哲」としても役に立たなくならなくなるだろうが、その時「哲」は我々にとっての役目を終えたのだ。
物質は循環するのではなく、一方向に汚染し混濁していく。だからそれを、無理に「循環型社会」の中に巻き込む必要はない。ただ、もしも「クズ哲」拾いが生きる為に役立つなら、あるいはそれ以外に生きる術がないなら、やってみればよい。必要がなくなったら止めれば良いことだ。
「犯罪者」になりかかった者、あるいは既になってしまった者は、どうすれば良いのか。この問いは、我々すべてが自身の預かり知らない所で勝手に引き受けさせられ、そして既に解答を得ている問いだ。
ある者はより盗みに巧みになるかもしれない。そしてそれは芸となり、クラッカーが雇われハッカーとなるように、「循環型社会」の一員となるかもしれない。
それ程器用でない者は、さしあたって何とか犯罪から足を洗わなければならない。生きる為には、仕事を選べないだろう。彼等は「クズ哲」拾いを始める。ゴミ拾いの職人になる。集められた「クズ哲」は溶けて「哲」となり、レールとなり、鉄筋となり、板バネとなり、それと知られないように我々の生活の中に戻ってくるだろう。
我々は「哲」を使う時、わざわざそれを「哲」と意識したりはしない。その必要はないし、そんな剥き出しの「哲」は、まだまだ我々の実用には不十分なのだ。「哲」がまるでそれと分からない程巧みに共同体の中に戻るからこそ、初めて「クズ哲」拾いは生業として成立する。それは仁義にもとらない仕事だ。
「哲」は重く、我々を暗い淵へと引きずり込む。この力は、「哲」の重さとも言えるし、重力とも言える。
重力に抗おうとしてジャンプをしても無駄なことだ。一瞬の無重量感覚の後、より一層はっきりと重力の存在を実感させられるだけだ。我々は重力から飛び出すことが出来ない。逃げ出そうとすればする程、我々は重力を感じる結果になる。慌てる者はぴょこぴょこと飛んだり跳ねたりする。しかしそれではスピードが遅すぎる。そんなエアロビクスのような動作では、とてもこの強力な重力圏で効率良く運動することは出来ない。
我々は重力=哲学の力に抗って生きるが、同時にこの世界は見えない重力あってのものである。重力に捕らえられてしまった者は、ジャンプしてあがいて幻想のような無重量を味わうのではなく、この重力と調和して生きる方法を見つけださなければならない。「犯罪者」可能性のサヴァイヴァルはそれしか道がない。
重力圏での効率良い身体運用とは何か。膝の抜きにより一瞬重力に身を任せる。次の瞬間、反動により我々の見かけの体重は何倍にもなる。地面に身を任せるように、滑るように動くこと。我々は我々を地上に縛り付ける忌わしき重力それ自体の力により、重力圏での大きな力を得ることが出来る。地球の力を借りるのだ。
重力圏を生き抜く為にも、我々は重力を知り、それを味方につける、あるいは敵も味方もない地平に立たなければならない。それは、いつか重力を忘れるということだ。
という動機から、総べてが始まっている。
もちろん、記述せよ、ということではない。ただ、そのような意志によって、良いことも悪いことも色々と起こる。
この狂気こそが、理性というものを基礎づけている。正確には、まさにこの狂気=病気こそが理性そのものだ。
「完全に正確に言うことなど不可能だ」というのは当たり前で、それなら何故不可能なのか、どの程度不可能なのか、どこまでなら完全なのか、と問う可能性が残されている以上、全く答えになっていない。この新たな問いの中では、最初の問いが再び問い直される、という入れ子構造になっており、「正確さ」への志向は消えてなくならない。
表象理論を見るまでもなく、「完全に正確に語る」ということは、はじめ「説明する」というモデルから出発せざるを得ないが、やがてその戦略自体によって、「説明」を放棄せざるを得なくなる。
スタートとゴールが一体のような言葉を探すこと。
ある会の出席者を記録する為、集合写真を撮るとする。よく聞く例えだが、この写真には撮影者が写っていない。「スタートとゴールが一体のような言葉」とは、撮影者と他のメンバーが同時に一葉に収まるような写真のことだ。
「出席者を総べて記録する」という動機は、まず一般の集合写真へと向かい、その原理的限界につきあたり、このような「不可能な写真」を求めるに運命にある。
集合写真・記録・事実。
「事実」と不可分だが、「事実」ではない何か。新日本プロレスのような、あるいは政治家の答弁のような、それ自体であることを前提とし、かつその欺瞞を内に含んだ形で進行することが、文法的に定められているスペクタクル。一般に「事実」といわれているもの、つまり「通常の集合写真」の背後には、こういった機構が隠されている。たとえば、いわゆる「映像」一般。
これは、「あらゆる記録には作為が働いている」ということなどとは、全く関係ない!
問わなければならない、「作為」を「作為」したの誰なのか?
「完全に正確に記述する」意志は、さしあたって本質存在をよりどころとするものと言える(「説明」)。ナイーヴな「世界の鏡」。
もちろん、この試みはあっという間に破綻する。
本質存在は、その等号的機能、隠喩性によって、事実存在と再会する。
等号性は≒ではなく=であり、「ようなもの」ではない。等号性とは「完全に正確な記述」であり、不完全な等式を回付し続ける辞書的なレファレンス構造とは似て非なるものだ。「完全に正確に記述」とは、隠喩性であり、「説明」の放棄であり、絶叫と沈黙である。
何かが何であるか、A is... と言いかけて、そのものの背後にあるものの偉大さに圧倒される時、我々は続けるべき言葉を持たない。A is...はA is...で終わりになる。A is there.
このことは、論理と倫理が同時的であるのと同義である。
徹底的に語ろうとすることは、徹底的に語らないことと必然的に再会する。
例えば、三角形について。
我々は紙に三角形を描いてみせるが、勿論それは三角形ではない。それは、せいぜい「不正確な三角形」であり、更に言えば名付けようもない不格好な立体図形である。正確に考えれば、それは、三角形とは何の関係もない。しかし同時に、我々はそれを三角形とは無関係とは決して考えないし、少なくとも「不正確な三角形」と呼ぶ。そして普通は、「三角形など存在しない」とは誰も考えない。正確に語ろうとしたら、この時我々はどうしたらよいのだろうか。
勿論、それは「不正確な三角形」だ。問われれば、「不正確」と言わざるを得ない。しかしだからといって、我々は真の三角形の「実在」を証明する必要などない。証明しようとすればする程、我々は三角形から遠ざかっていく。
また、目に見えない三角形を我々が「共有」しているわけでもない。もし共有されているものがあるとすれば、それもまた紙に描かれた三角形にすぎない。
では、三角形はどこにも存在しないのか。我々は三角形が存在しないと言う必要すらない。仮にそれが存在しないとしても、紙に描かれた三角形には何の変化もない。初めから両者は「正確には」無関係なのだ。
発達論的には、最初は「不完全な三角形」から始まったのかもしれない。しかしとにかく我々は今、三角形を信じているし、謂れなく「本当は」などとそれを突き崩す必要もなければ、「そういう約束ごとで」などとクールを装おう必要もない。「とにかく今うまくいっているのだから」などと言うのも、既に冷笑的に過ぎる。三角形は三角形自体において存在している。
「三角形は存在するか?」「アホか、自分、これが三角形やろ!」。そう言って彼は「不正確な三角形」を紙に描く。問われれば、それが「不正確」であること位は認めるだろう。しかしそれでも、描かれた瞬間それは三角形だったのだ。その瞬間は車窓の風景のようにたちまち失われ、永遠に回復出来ない。しかし同時に、我々はその一瞬にして永遠の事件を生きているのだ。
例えば、サタンについて。
サタンとは神のイメージである。神が世界の内に存在したり、世界の外部に立って物理法則のごとく世界を見つめ、監視していたり、とにかく神が存在者であるとすれば、それはサタンである。一般に言われる造物主としての神は、サタンのことだ。善き悪しきを定め裁く神とはサタンのことだ。神の祝福は呪いに等しい。我々は祝福と呪いを混同することが出来ないが、祝福と呪いが等しくなる場所に神は立っている。だから、我々は直接に神に近付くことは出来ない。
「生まれた時から倫理的」な我々を「誰か」が生み出したとすれば、それはサタン以外にあり得ない。そしてそれは、「そのサタンを作ったのは誰なのか」と問える何かであり、前件肯定式のように「サタンを作ったサタン」が無限後退していく。は! ここでも同じ式が立ち現れる。力を持つ神は総べてサタンである。サタンの力は「無限大」。前件肯定式を法則として要請する精神、相対主義的態度、認識論的態度、外交的防衛態度、これらは総べてサタンの思う壷である。
サタンを乗り越えるには、サタンを食い、人間を食い、サタン・システムの力を逆に利用してやるしか方法がない。『君は悪から善を作るしかない。それ以外に方法はないのだから』。神は無力なのだ。神は力なく偏く在る。しかし「遍在者」と言ってしまっただけでもサタンのトラップが待ち構えている。神は存在者ではないのだ。
そしてトラップを越えるには、トラップそれ自体を罠として逆にサタンを待ち構えるしか方法はない。罠にかかった得物を回収しに、サタンが現場に戻ってくるのを「待つ」のだ。我々はサタンを通じてしか神に接近する術を持たないのだ。紙に描かれた圧倒的にニセモノの三角形から、三角形を学んだように! 悪霊の如く悪霊を食え! サタンは力を持つが、我々は神と共に無力だ。しかしサタンはイメージに過ぎず、我々は神と共に生きている。もっと音楽を!
「世界の鏡」と仁義……
仁義は世界の鏡の中に立ち現れるが、振り返るとそこに実像はない。よく見ると、仁義は鏡そのもののようだ。背後に実像のない以上、映っている仁義は実体のない虚像とも言えるが、鏡に見えたものが実は鏡ではなかったという可能性もある(もちろん、鏡など存在しないという疑いも込めて!)。少なくとも、それは鏡に見え、そこには仁義が見え、しかも直接には見る事ができない。
そもそも、我々は像を見ているのか、鏡を見ているのか? そのモノを見るということが、像を見ること以外でありえないもの、それが鏡だ。それ自体の物質性を抹消されたもの、という疑い得ないフィクションのもとに、「世界の鏡」は成立する(疑似本質存在レファレンス構造)。しかし正確には、像こそが鏡の物質性なのだ。仁義は鏡を物質であると叫び、同時に鏡の鏡としての役目を認めるものだ。
ニンゲン、どうぶつ仁侠道……
「完全に正確に記述する」モチベーションをどこかで置き去りにし、上げ底の想像的言説を振り回す者たちを、ニンゲンという。(置き去りにされた「正確さ」は、必ずや回帰するのだが!!)
ニンゲン、想像的なもの。併置されるもの。ハラを探りあうもの。麻雀可能性を持つもの。右から左へと意味を先送りし続けるもの。
こののっぺりとしたものが、我々を苛立たせる。オヤジの説教が、その内容自体においてうなずけるものであっても、やはり不快なように。
何故説教が不快なのか? それはオヤジがコドモからいきなりニンゲンになっているからだ。オヤジはニンゲンを掠め取っている。コドモはニンゲンではないが、コドモの集合の向こうに立ちあらわれるのでなければ、ニンゲンなど何の意味もない。
想像的なものは、ニンゲン成立を上げ底の前提にして出発する。このハラ探りゲームの住人達を、蔑みを込めてニンゲンと呼ぶ。ニンゲンがシンでニンシンだ。
倫理は、裸でおかれてしまっては、この不快なニンゲンぶりと変わらない。ニンゲン的なるものが、我々を不幸にも倫理から遠ざけている。
我々はニンゲンではないものの中に、ニンゲンを発見しなければならない。
それがどうぶつ仁侠道である。
例えば、動物園の動物は人間ではないが、なぜかというと、彼等は人間に見られているからだ。
また、坊主とか精神分析医というのは、患者にとって、ある種人間ではない。
人間でないものが何をするかというと、解釈を与え、表現するのだ。解釈を与えるというのは神様の仕事だが、人は神様にどう見られるかいつも気にしているものだから、神のように解釈する姿を人間に見せることによって、動物園の動物のようになることができる。人間でないことは、人間であることと矛盾しない。なぜなら、我々は見られると同時に見るからだ。
「人格者」には人格がない。彼はニンゲンではない。
「人格者」は、動物園のチンパンだ。「世の光」だ。どうぶつ仁侠道は「世の光」となることだ。
「人格者」あるいは動物園のチンパンにおいて、本質存在と事実存在は再び邂逅する。
どうぶつ仁侠道にとおいて、部分は全体に等しい。
居るから要るのだ。居なければ要らなくなる。
唯一必要なことは信仰を証し立てること。信仰の内容は決められていないし、またそれぞれの信仰の全体も知る事は出来ない。信仰とは概念体系ではない。
生存の定義のないままに生きていることを示す。不断に証し立てる。血を流し、どうぶつ仁侠道を証し立てる。
例えば、忘れ物をする。
財布忘れて煙草買いに行ったり、あちこちに色々忘れてくる。この調子だときっとまた何か忘れる、と分かっていて、実際忘れるのだろうが、そんなことが分かっていても何の役にも立たない。
死ぬのが分かっていてそれがなんなんだ?
例えば、私の結論は私を無用にする。
だが、結論など出ている時点で、既に私は何かを間違えているのだ。間違えた、という現実だけが信用に足る。
失敗も忘れ物も、恐ろしい。この恐怖が、我々を駆動する。
恐怖にかられて、ではない。恐怖は偏在する。恐怖にかられて動くような余裕はない。
恐怖は、我々が恐怖する以前に、我々を駆動する。恐怖に恐怖している時間は論理的に抹消される。
例えば、突き刺さり問題について。
畏れ気なければ生きていけないが、自らの畏れ気なさを知らなければならない。畏れに逆らったことを知っているか、知らないか、その違いだ。知らなければ、やがて無気味な現実が返ってくる。飛行機もビルに突き刺さる。
二つのものが敵対しているのではなく、一つのゲームが存在する。事態を対立として捉えては、ゲームメーカーの罠にはまるだけだ。抑圧されたものは無気味なものとして回帰する。奇しくも、ビルに突き刺さったのはfundamentalなものだ。しかしこの場合、患者はどこにいるのか。神経症国家というより、国家神経症なのだ。アメリカ的なるものの敵は、アメリカ的なるものである。
矛盾は常に存在しない。
「夢だか現実だか分からない」というけれど、そうではなく、また「総べてが夢」というのも、ちょっと違う。
要するに、どちらも結局、「夢と現実というものがある」という所から出発しているので、正確に言いたいことが言えていない。
「総べてが現実」とでも言えば、もうちょっとしっくりくる。
ニンゲンとどうぶつがいるのではなく、ニンゲンとコドモがいるのでもない。
ニンゲン、上げ底の想像的なもの。我々は無数のコドモであり、無数のどうぶつだ。
キャメラを構えて、まずフィクスの静物映像がある。それでも、既に静止画とは何かが違っている。そこには持続がある。秒間コマ数を上げていくと、どこかで我々はmotion pictureを発見するのだけれど、それは静止画の延長ではなく、その集合プラスアルファだ。このあるともないともつかないプラスアルファだけが重要だ。物語性、すなわち時間の後に生じる物事の順序から思考すると、プラスアルファの謎は解けず、連続には永遠に手が届かない。アキレスはカメに追いつけない。
静物映像から、今度は対象が動く。キャメラがそれを追う。動いているのは俳優か? 否、俳優は動いているが、ハエを注視する人の目のように、画面の中に固定されている。キャメラマンも俳優もニンゲンだからだ。
やがて何かを追って、あるいは目に見えないものに突き動かされて、キャメラ自体が動き出す。何が運動しているのか? 世界が運動しているとも言えるし、私が運動しているとも言える。私と世界は一体であり、ニンゲンはニンゲン一般の間に固定されている。この固定が私を動かしもするし、迷わせもするが、世界の運動と私の運動が一致するということは、ニンゲンの私とニンゲンとは縁もゆかりもないこの私が一体であることと同値だ。
いわゆる映像というのは恐ろしく冗長なものだ。世界はある視点から見ると、圧縮可能性に満ち満ちた冗長さに溢れている(物質は冗長だ)。しかし我々にとっての世界は、正にその冗長さによって構成されている。手触り、質感は総べて冗長なゆらぎに基礎付けられる。やはりコンピュータのやり方は何かおかしい。物質は冗長で時間を持たず、生命は時間を持つがゆっくりとしか変わらない。認識も手ぶれのような慌ただしさではなく、整理された構図、絞られた音声のような判明さを基本的に持っている。情報は時間を持たないものだが、「情報化」となると話が違う。「情報化」は冗長さを嫌うし、それは世界を何らかのコードに還元することの量的な不可能性を示唆している。情報や物質が時間を越えているように、世界は「情報化」の彼岸にあるのだ。世界に対する祈りがなければ、「情報化」に意味はない。ただ空しく果てしのなく、実りのない計算が続くだけだ。祈りのない場所で、そんな計算をするのはただの愚か者になってしまう。倫理的ではない映像など可能なのだろうか? 私はあてどのない不安にかられ、過呼吸と目眩に苛まれつつも、冗長さを固定する方法を模索している。
客を前提にする「エンターテイメント」は空想に過ぎないが、別段客がを貶めているわけではない。「伝達可能な何か」が、用意されたミットに投げ込まれる、という図式を笑っているのだ。色々な方角を向いたミットや、上手いキャッチャー、下手なキャッチャー、頑固なキャッチャーがいるわけではない。キャッチャーは人形ではないのだから、投げるモーション、投げられた玉を見てミットに収めるのだ。玉が飛んでくれば避けるなり取るなりするのが人間だし、それが客というものだろう。我々の仕事は商人資本のように「命がけ」なのだ。「お客さまは神様です」はその通りだが、より正確には、「神様がお客さまです」だ。神様の心の内まで読める筈もない。
>残響通信
>残響塾