残響通信第二十二号





[20011010]
 アメリカ人は、船上から光り輝けるうんこを贈りつけている。うんこミサイル発射! 「お星様、どうか願いがかないますように」。上にいるのは、天のお父様、自由自在で余りにも羨ましい大人たちだ(長いちん毛が生えているから)。


[20011116]
 いずれにせよ、何か足りないもの、としてしかありえない。奪われている、何か、それは様々にエテュードできるが、例えば、妊娠可能性を奪われている。re-productionを奪われている、ということは、あの一瞬の事件、すなわち永遠=無限を奪われている、ということ、それはとても寂しい。どうにもこうにも、始まりと終わりがあるようで、物語=fantasmの中に閉じ込められていて、演じる、ことを通じてしか事件、には至れない。例えば、恋愛事件=物語(そういう訳で、ボクはオンナノコと恋はするものの、ほんとは……)。このヨルベナサ、は、原っぱに裸で放り出されたようで(きっとその原っぱはぬばたまの薄明)、とてもマズい、はやくなんとかしないと、すぐに「何か身につけて」、キチンと服を着て、「私は大丈夫です」「私は人間です」、「何だったら、君にこの腕時計、あげようか?」「このマフラーも、君の方がきっと似合うよ」(だから、お願い、それ以上奪わないで、だってこれはさっき拾ったばかりの服に過ぎないのだから、)。全くもって、無限=一瞬の事件には届かないので、あの空から聞こえてくる音楽には届かないので、仕方なく曲を書いて、「これを君に捧げるよ」、楽譜を持ってそれを売り歩く、その楽譜はなるほど時間の中にあるような形あるものにしか(いずれ壊れるものにしか)見えないけれど、ひとたびピアノを奏でれば、「まるで永遠の中にいるよう」「まるで時間が止まったよう」、しかしいつまでもピアノを弾いていると、やっぱり観客も飽きてきて、とたんに時間が流れ出す、始まりが、お終いが、入り込んでくる、そんな時は、急いで帰って眠るのが一番。眠らないと、なんだかそわそわ、ヨルベナク欲情して、誰でもいいから、ふしだらに、どんな男でも「はっきりとした言葉=意味」を私の身体の中に注ぎ込んでもらいたくて、しかもそれはre-productionに結びつかない、無意味な行為(にもかかわらず、そのような無−意味が私を生んだので、ほとんど生まれたのではないも同然だ、するとオンナノコにとっても無限は同様に届かず、ただfantsmが結び付けているだけなのだな?実は)、さっきまではボクはオンナノコと恋をしていたのに、どうもそんな事件に生い立たせていたものが蘇ってきて、たまらなくなってしまう。そういうわけで、「私が信じるのは眠りだ」。


[20011117]
「本当のところ、どうなんですか、教えて下さい」。どうしても知りたい、本当のところ。まるで馬鹿げた試み。
 それはちょうど、ゴッホの絵の真意が知りたくて、霊界と交信して問い尋ねるようなものだ。「本当のところ、どういうつもりで描いたんですか。この絵の『意味』は何なんですか」。別段、逝去した作家でなくても構わない。こんな問いは馬鹿げている。「いやあ、そんな絵、描いたっけなあ。それ、ほんとに私?」。
 ゴッホと通信しようとすることは馬鹿げている。しかし、どうにもこの問いは諦め切れない。だから、何らかの形で、この問いを問う営みを見つけださなければならない。
 問いを問わずにいられる人は沢山いる。その多くは、全く卑俗な仕方で問いを封じ込めている。すなわち、一つの幻想の中に。彼等は私と違って「合格」しているようだが、そんなもの、所詮は偽造パスポートで、少しも羨ましくない。しかも、彼等の「人間合格」は、自分で基準を決めて自分で満たしているだけなのだ。
 しかしある限られた人々は、どうもこれとは違った仕方で「合格」している。彼等は「本当のところ」を持っている。彼等は合格で、「真人間」かもしれないが、「人間合格」とは少し違う。いわば、「どうぶつ合格」なのだ。
 私の知人が、犬を散歩していた。犬は草むらに一人で入っていき、そこで「キャン!」と鳴いて走って戻ってきた。何があったのか? 「何があったの?」と問うても答えはない。それどころか、「問いの意味すら理解していない」。しかも、本人はしばらく経つと何事もなかったようで、すっかりそんなことは忘れてしまったようですらある。永遠の謎が残る。「本当のところ、どうだったんですか」。犬に問うのは馬鹿げている。私は、素晴らしい犬コロの前で、取り残されている。私は、誰に問えばよいのか。
「どうぶつ合格」な人は「本当のところ」を持っているが、彼等に尋ねに行っても仕方がない。霊界のゴッホ、もしくは「キャン」と鳴いた犬のように、「問いの意味すら理解しない」かもしれない。ならば、総てを諦めて撤退するのか?
 問いは問われ続けるし、表現は止むことがない。私は問うだろう、犬コロに向かって。彼が私に耳を傾けないのなら(そう、彼は常に私には耳を傾けない!)、私は手紙を書くだろう。長い長い物語を綴るだろう。また、彼への想いをキャンバスに叩き付けるだろう。
 ある日、突然に私は聞くのだ、「本当のところ」が私に語りかけるのを。私は草むらのなかで驚き、飛び退くが、すぐにそのことは忘れてしまう。ただ視界の隅で、怪訝そうに覗き込む私の姿を、微かに覚えているかもしれない。
 この瞬間、手にすると共に失われてしまう永遠の瞬間、世界の閉じる夢、これを回復する為に、依然として問わなければならない、何度でも、何度でも、何度でも!


[20011130]
 我々は、常に自分の既に知っていることしか理解できないが、このことには二重の意味が含まれている。つまり一つは、我々の「理解」というものが、一つの幻想の中で意味を回付することにすぎないこと、アナロジーによって、関係の明らかになっている(関係の存在する)ものの間を渡り歩くことに他ならない、という、普通に解されている通りのこと。そして今一つは、我々が学ぶことができる、というより、「学んだ」と呼んでいる経験がある、ということから明らかになること。すなわち、「学んだ」というのが、新たな知識が加わった(「この」幻想が一歩外へ−−この外は「無い」のだが−−へ膨らんだ)ことではないのはもちろん、一方で既に知っていることしか知り得ない以上、それは何か眠っていた呼び覚ました経験である、つまり、「思い出した」ということである、とういこと。


[20011215]
 大丈夫と言いたい。大丈夫と言う為に総べてやっているのだ。決して、「自己実現」のためなどではない! 何にせよ、「本当のところ」が足りない、そのせいで大丈夫どころではないが、大丈夫と言わなければならない。「私が大丈夫」と言いたいが、そこにこだわると、つまり〈私〉と〈私の名〉の関係だけに執着すると、大丈夫もクソもなくなる(運命は常に不幸な運命……)。そこには「本当のところ」がどこまでも欠けているからだ。それを持っているのは〈私の名〉を名付けた者で、〈私〉と〈私の名〉だけの関係からはそこには至れないのだ。〈私の名〉には、〈名付けた者〉の欲望が書き込まれている。(〈名付けた者〉は、名前がないので、名を持つものとしての〈私〉に語りかけようとしたが、その時まだ〈私〉はいなかったので、〈私の名〉を作った。そういうわけで、〈私の名〉に〈私〉が生まれた。不幸な運命、幸運な運命ではなく、我々にはとにかく運というものがあり、それがすべて「良い」と思う場所、つまり「おめでたい」場所が少なくとも一つある。)
 「私が大丈夫」なのではなく「私は大丈夫」なのだ。「私は大丈夫(だから行くのだ、走れ、友よ!)」と言ったらマンガ的に過ぎるが、それが大丈夫ということだ。「私は大丈夫(だから行け!)」という者は、大抵、腹から血を流したりして死にかけていて、ちっとも大丈夫ではないのだが、正にそれこそが大丈夫ということだ。そういう訳で、大多数の人間が子供をもうけるし、それをとやかく言うつもりは全くないが、要は〈名付けた者〉、そして〈名付けた者の、無い−名〉との関係に入れればよいのであって、具体的対処法に思い悩む必要はない。なんだっていい。未来完了で語る時、我々は「私は大丈夫」と言えるし、それは同時に「私が大丈夫」であることだ。
 友よ、走れ! 私は大丈夫だ!!


[20011223]
 「私は大丈夫」というセリフは、酔っぱらいがよく言う、という指摘をある友人から受けた。その通りだ。いずれにせよ、冷静に考えればちっとも大丈夫ではない。
 だから、重要なのはスピードだ。ぐずぐずしていてはダメだ。例えば、「利他性」などと言ってしまうと、すぐさま「利己性」への還元が行われ、にっちもさっちもいかなくなる。「私は大丈夫」は、「私」に先んずるからこそ、「大丈夫」なのだ。そのような速度。非常に素早い、第三者的な固定液。
 「私か、世界か」という振幅に持ち込まれると、認識論的独我論のトラップにはまり込む。「私は大丈夫なのか? ダメなのか? パスしてるのか? していないのか?」。自信とプライドのどうしようもない反復横飛び。点のような卑小な私から始まるにせよ、世界を認識しているのは私だから、私の認識こそ世界であり、世界は私の内にある。しかしそうなると、その素晴らしい私を見てくれる者が一人もいなくなり、結局私は外にでないといけなくなる。屋上の淵から死者の国までは一歩だけだ。
 この二項の関係から生還するには、速度が決定的に必要になる。独我論の構図は、「想像的な揺れ」と言ってもいいだろう。まとまり、統一のあるのは(スーパーモデル)、鏡の向こうの対象か、私か? 対象なら、私は魅了され、緊張し、硬直する。私なら、世界は意味を失い、崩壊する。二者択一の抜き差しならない想像的関係。
 これを仲裁するのは、この関係の時間性を代理するもの、象徴的なものに他ならない。対象を名付けることが、この時間差を固定させ、振り返る猶予をつくり出す。「私は大丈夫(だから走れ、友よ!)」。そうやって時間がかせがれる。腹から血を流して倒れている私(バラバラの私……)は取り残されるが、やはりそれこそが、それだけが、「大丈夫」ということなのだ。
 ゆっくり考えれば、大丈夫ではない。だからすぐさま叫ぶのだ。「大丈夫!」。 誰が? 私が。走り去る友が。


[20020105]
 「何もかも全然分からない」という、夜間飛行のパイロットのような喪失感は、むしろ「分かってしまう」ということに等しい。「分かってしまう」というのは、つまり了解可能な地平が拡大するということで、想像的な先回り(「ヤツはこう考えているかもしれない、だからその裏をかいて」……)に巻き込まれているということだ。「分かりすぎて困る」が拡大すれば、思念の物体化などが起こっても不思議ではない。だからこそ、ギャバに作用したり、直接ドーパミンを低下させる薬が機能するのだ。「何もかも全然分からない」(右も左も等価であるし、時間が流れることが不当に感じる)という状態は、時間的=倫理的階級の欠如、〈私〉と〈私の名〉の解離に問題がある。想像的揺れの振幅だ。時間と存在を回復するには、それらをつなぎ合わせている結節点を前景化することが有効な筈だ。例えば、身体というフィクション(この身体という魔物からは、諸々のパラノイア的物語が湧き出てくるという危険はあるのだが……「骨盤の歪みを正せば総てが治る!」等々)。もちろん、一般に処方されているマイナートランキライザーの効果も侮れない。重要なのは、了解してしまわないこと。「うん、うん、君の言うことはよくわかるよ」……そこから、イメージの罠にはまり込む。「それ」は「分からない」、という点があるはずだ。必要なのは、分からないものを名指す言葉、その言葉さえあれば、「分かってしまう」=「全然分からない」の泥沼から脱出することができるのだ。無い−外部を示す言葉。繰り返される言葉。無−意味へと至りつく運命にある意味ではなく、そのギリギリの淵で反復される意味以前の言葉。死によって生を保証する言葉。


[20020104] 
 抗議されたところで困るのは知っている、あなたの望むようでなくて悪かったな、と、この抗議を受けて、何かそれを発作的なもの、お門違いなものとしてしか見ることができない、そのことは知っている。あなたの思っている通り、私は少し「おかしい」のだが、「おかしい」あなた、つまり私は、私とは関係のない私、つまり私の名であり、この「おかしさ」は、関係の「おかしさ」なのだ。まさにその「おかしさ」
から、私は抗議する、あなたに。望むようでなかったこの罪、罪に責められる、そのことに対する抗議。
 抗議しているのはあなたの名前に対してなのだ、私について、彼の望むようにあれなかったのが、私ではなく私の名であるように。見当違いで当惑しているだろう、あなたは、しかし私も同じように当惑しているのだ。だから、この抗議は、当惑を当惑に返すことであり、その当惑はあなたを越えてあなたに名を与えた者へと、つまりあなたの罪、あなたが引き継ぎ、私へと引き継いだその罪に向かっているのだ。この抗議、よるべない者としての抗議は、やがて私へと向けられ、私を越え私の背後から彼方へと飛ぶものだが、それにはまだ時が満ちていない。この時の満ちなさは、まさに抗議それ自体によっていて、私があなたに抗議する限りで時は満ちない。
 だからここにこうして記そう。出されない手紙、書かれることにより、抗議を満たし、私を抗議とし、私が抗議するのではなく、抗議が私する形となるべき手紙を。その時、初めて抗議は呪いから祝福へとその運の様相を変えうるのだから。出されない手紙、その手紙を書かしめる者、つまり抗議、それは自らが祈りであると、抗議する手紙へと湧き出るその時、私の手を離れて、自らの境位を明らかにする。それは手遅れのようでもあるが、まったく遅すぎはしない、というのも、この遅れこそ、私と私の名の間に欠け、私が見失い、彷徨い歩いていたものなのだから。新年あけましておめでとう。


[20020118]
 ある種の相対主義の最果てに行き着く、「見よ、私は沈黙している!」。つまりは、声を聞いているというわけだ。その声は歌のような、知らない外国語のようで、しかし何を言っているのかは分かる。というのも、語っているのは彼自身だからだ。しかし語りかける相手は、彼ではない。声の主、それは彼を前にして語りかけてはいるが、語られている彼、声を聞き、沈黙を誇示する彼は、異教徒のように言葉を解さない。ただ何者かが、声を聞いている。声は語っているのだ、「聞きなさい、私は聞かれている」と。声を聞く者は、不安に狩られ、叫び出すかもしれない。「誰かの声が聞こえるのです、私はそんなことを考えていないのに、私は何もしていないのに(私は沈黙しているのに!)」。その声は異教徒の言葉のように無気味に響く。声は向こうからやってくる。ただその声は、彼方に向かって、その後ろ姿によって、示しているのだ、語っているのは私である、と。この無理解な者に語り続ける愚行も、その者の名において、狂気ではないと証されるように。赤子に語りかける母親が狂人ではないかのごとく。これこそが、中途半端な自称無神論者、すなわち「神はいない」と言うことによって、神を守り抜く者、証し立てによって初めて語りうることを知らない者(知らないふりをする者)の末路である。数学は神を証すが、我々はしばしば間違える。運のつきはてる場所、その無い場所に、かの者、「理解しえないものをこそ知性と呼びたい」と願われる者、翻訳しきれない言葉を語る者、理性以前の者、それがいる。


[20020125]
 冗談はいつもシャレにならない。joking asideどころか、joking onだ。私の冗談は笑えないし、オヤジのギャクは寒すぎる。しかしそのようなシャレにならない冗談によって、我々はそのものを掠めて飛ぶ。神がココロナイように、ソノココロのない言葉が、どうしようもなく口をついて出る。ソノココロ、それは意味の中に回収されず、とはいえ意味の「外」など示せるわけもなく、もちろん「音自体」でもありえず、ただただそのシャレのシャレであるところを示す言葉に向かって、限界を掠めて飛ぶのだ。だからこそ、「冗談は人を笑わせるためにある」ことになるのであり、笑い飛ばされ、侮蔑されることによってのみ、すなわち禁じられることによってのみ逆説的に許可されている。
 寒いギャクは「暖かくしようとして」失敗したのか? もちろん、意味の領野では、そうとられることによってのみかろうじて敗者復活が許される。一方で、「寒くする」ことを目指したのでもないことは明らかだ。「ヒトノココロを暖める」のでも「寒くする」のでもなく、ただそのネタの、ネタ自体を指す言葉のなさに我慢がならず、「うずいてしまってしかたがない」から、言葉が口をついてでる。突き動かすものが何であれ、結果としては、かのホメオスタシスとも帳尻があう。突き動かすもの、それは完全な無神論が究極の信仰と一致する場所からやってくる。やってきたものは、いっそ反復強迫とでも呼べばよい。寒いギャクは信仰告白である。つまりは、歳をとってすっかり信心深くなってしまったというわけだ!


[20020210]
 教育というものの原理的不可能性にも関わらず、その名の元に何かが行われ、多くの再生産が失敗に終わるとはいえ、成し遂げられたらしい何かがある(誰にとって?)。薫陶はまき散らされる。分かっていることは、人間と人間の間に教育はないということだ。教育の「成功」は、ひとえに子供が人間ではないことに負っている。逆に我々が学ぶ側に立つなら、人間でなくなった方が良い。とはいえ、余りにも我々は人間になってしまった以上、今度は人間でないものに教えを求めるしかないだろう。子供達は何を学んだか知らないし、我々に教える者も、何を教えたか知らないだろう。学ぶということ、世界がめくり出され、開示されていくこと、否応なく時の流れるヒトとして、流れに佇立しつつ、独り合点して意味に帰る時もあり、されど行き場もなく、ただただ参照項の知れない言葉に曝されながら、最期に失墜する時まで、受け取ったものを受け継ぐこと。私が主の言の葉である。


[20020203]
 稼ぐ、稼ぐ、額に汗して時間を稼ぐ。


[20020126]
 今一つ出来の悪い中学生に数学を教えていた時のこと。突然、「体積ってのがようわからん」と言われた。私は驚いて、なんとかその驚きを見せないようにしつつ、体積について卑近な説明をしようとした。「体積ってのは、あれや、カサや。大きさや」。しかしそう言いつつも、私の説明がまるで機能していないのがひしひしと感じられる。そういう問題ではないのだ。もちろん、彼には理解の難しい言葉を使って体積について語ることはできるが、それでは意味がない。いや、それより、詳しく彼の話を聞くうちに、そもそも彼が「分からない」のが、より根源的問題であることがはっきりしてきた。というのも、彼は「タテヨコ高さ」を三つかけ合わせることで、体積が計算される、ということは分かってはいるのだ。彼は数学に関しては中程度の成績を維持しており、計算も苦手ではない。形式的な問題には、むしろよく回答できる。問題は技術の習熟ではないのだ。
 「タテヨコ高さ」の積と、「体積」と呼ばれる何かの間には、ある決定的な溝がある。そうだ。彼が「分からない」ことには、十分な正当性がある。すなわち、これは延長の問題ではいか。延いては、連続・持続の問題の確信を示しているではないか。
 別に体積ではなく、面積でも良い。誰でも積分によって面積が算出されることを学んだ時、何かトリックがあるような、どこかに飛躍があり、それが巧みな詭弁で覆い隠されているような不信感を持つ。そういった疑問は、やがて計算方法への習熟によって忘れされていってしまうのだが、この飛躍は、そもそも面積の概念においても現れているのだ。タテ掛けるヨコ、ここであらわれるものは一つの数字、数えることから遊離した、まとまりとしての数字だ。それは面の「広さ」を指し示して入るが、決して「広さ」そのものではない。確かに、裂け目があるのだ。
 「広さ」、この無気味なものに、一つの象徴行為が、想像的なものを使って蓋をしたのだ。面積、面、これらは想像的なものだ。それらがある開かれた代数空間の経済に組み込まれ、これに支えられる、ということは、象徴的なシステムの介入だ。
 この致命的な亀裂を上げ底で隠ぺいし、法のような計算練習を課すことこそ、「教育」なのかもしれないが、やはり迷いがある。円周率ではなく、円周率の計算方法だけがあるのではないか、という、可能無限的、ひいては相対主義的な「良心」が首をもたげてくるのを止めることができない。彼は彼の世界にとどまる「権利」を持っているように見える。しかし、それでもやはり、私は彼に計算練習を命じるだろう。「何事も慣れや。慣れれば、どうっちゅうことないねん」。それが私の名前なのだ。
 名に背くこと、〈私〉を〈私の名〉に対し優位に立たせること、それはもちろん〈名付けたもの〉への背任ではある。しかしまだ、そのような背任は法によって示されている。もちろん、その礎を法に尋ねるわけにはいかないのだが。
 一方で、名前と心中することにも、一つの罪がある。それは法には書き込まれていない罪だ。間違いなく、彼はただのちょっとボケた中学生であり、この状況でこの疑問を徹底したところで、哲学的地平が開けることはないだろう。その場所に立つ為には、残念ながら、一度は今の場所を捨てて、しかるのちに再発見するより他にない。また一方、完全な動物であり続けることなど、できようもない。だから私は、〈私の名〉において、あるいは一教師として、彼に練習を命じるし、それは法には背いていないはずだ。仁義にもとらない行為であるはずだ。
 それでもやはり、一つの罪が残る。これはもしかすると、山を切り開き、ダムを作るような罪かもしれない。これを「単なる罪」だと思う脳天気サヨクどもはお話にもならないが、一周回って、やはりそこには罪が残る。何に対する罪か? 罪は常に主に対するものだが、主の地上に与えた、人と人の為の法についての罪ではない。また、主自身が、直接に法の名の元にこれを裁くこともない。この罪は、法の彼岸に由来する。そこでは、神は理解できないもの、白痴になる。この罪は、「理解できないものをこそ知性と呼びたい」、そのような不具の白痴に対する罪なのだ。
 今日私は私の使命を果たした。この公正であったことによる罪を、私は告白する。誰に? 迷路のように世界をめぐり、やがて声も拡散し、その残響しか残らないような、巨大な伝声管に。あるいは「シモジモ」の地下水路に向かって。


[20020217]
 伝達可能な何か、それが表され、伝えられ、交わされるということ(「コミュニケーション」……)、この主観性を忘れさせるもの、この馬鹿げた物語が、狂気の証し立てであると共に、逆説的にそこから我々を阻む唯一のもの、すなわち確信を下支えしている。狂気を示すものでもある確信、そこから「狂気ではない」という確信を引き剥がすのは、「その」確信が私を語らず、私に語りかけもせず、ただ私を召命することによる。この正気を示す確信は、意味の経済の中で、単独的な「意味」(私の名の由来)を抹消し、永遠の生命のローン契約を結ばせる。ここで約束された生命、これは名付け人の永久保証付きだが、安心なことに、ローンの払いのほうはせいぜい70年程で終了である。我々は誠実な債務者として、応答するであろう者、正確には応答したことになるであろう者に向かって、呼び掛ける。ローンの支払いが一見無用なまでに長期に設定されるのは、我々が新たな債務者の獲得という、ねずみ講に乗り切れなかった為だ。このことが時に、我々の名に対する根源的懐疑や狂気の引き金となる。返済計画の過剰な余裕は、確信を生む懐疑と表裏一体のように見える。それでも、正常な債務者として健康なクレジット生活を送る決め手は、我々の役目、すなわち「時間かせぎ」ということをよくわきまえることだ。とはいえ、かせがれた時間の流れ出る先について、何も考えないでいることなど出来はしないのだが。


[20020222]
 モナドのように調和を約束する世界すら伴わない、心的孤立体、「ココロのカベ」(!)、「テレパシー」の空想とその同時的否定、この比較的新しいフィクションの中で、我々はのたれ死ぬべきなのか。これを巡って、「自由」と「平等」が倒錯的な戦いを繰り広げている。孤立体と共に死すべし、と叫ぶ者こそ、「自由」、すなわち「弱肉強食」というお伽話の支持者であるようでもあるが、一方で「平等」好きの最後に拠り所にするものも、孤立体を越えるもの(イデオロギ−……)や、孤立体以前の共有されるものであったりする。結局、寄り掛かる場所が、(失われた)文化や大衆であるか、(失われた)王制であるか、はたまた(失われた)地球環境であるかのヴァリエイションでしかないようにも見える。すると、結局は総てを信じず、裏切りの果てに心的孤立体と心中しかなさそうだが、そう言った途端に、孤立体の想定というバイアス、皮相なフィクションを下支えしてしまう皮肉な結果になってしまう。実に決めかねる、迷う所なのだ。そういうわけで、「とりあえず」自殺は延期である!
 かせぐべきは時間であり、考える私という孤立を考えている無闇に流れる時間、そして迫られる決断を前にして、我々の下す決定とは、自殺の順延だ。「考えるのは私(の仕事)ではない」と言うと、「自由」にも「平等」にも叩かれるが、この選ぶ自由ならぬ選ばれた自由こそ、唯一自由の何に値するものであり、脂肪の海に沈みつつあるアメリカ人どもの「自由」にも、アジア人民の真の解放にも、比べるべくもないものなのだ。


[20020303]
 分からないものを、理解しないように気をつけなければならない。理解してしまう、ということは、圧倒的よるべなさを「測り知れる恐怖」へと還元してしまうことだ。とはいえ、これなしで我々は人間ではありえない。ココロナイ荒野で生きるわけにもいかず、我々はオチのある世界に生まれでる。一方、このココロの都(人情長家)にも危険がある。その危険は、合わせ鏡の狂気、「みくびり」による人間合格の危険だ。いわゆる転移神経症が成立し得るのもすべてこの境位においてであり、ワイドショーやデブ、アメリカ人もここにしか住めない。やせ過ぎで死なない代わりに、この場所で太り過ぎて発狂しない為には(きっと太りすぎて部屋から出られなくなるのだ!)、何が必要なのか。ここにこそ、「測り知れない」恐怖の源であり、理解できないものこそ知性と呼ばざるを得ない、そのような「究極原因」の言葉がある。この言葉なしで、分からないものを理解してはならない。そういう訳で、我々は、どんなささいなお喋りの中にも、祈りの言葉が紛れ込んでしまうのを止めることは出来ないのだ。


[20020406]
 誰かが眠れなくて羊を数えている。似姿というだけあって、驚く程我々に似ているが、ただ違うのは、想像を絶するような不眠症に悩んでいるということだ。つまり、体力がハンパじゃない。羊が一匹、羊が二匹。右から左へと一匹づつ羊が横切っていく。ところで、この羊が私です。


[20020405] おしゃべりが実践的な信仰告白だというのは、そこでは預かったものの「間違った使い方」が示されているからだ。喋り好きの主婦や労働者達は、死の際に譲り受けた「大事な箱」を、台所の踏み台に使っている。彼等は始祖の言葉を聞かず、その意味を理解しない限りにおいて、始祖の運動の一項目となり得ている。遺産の箱をただしまっておいて、すっかりペテンにはまっているより、信心深いというものだ。それは丁度、「絶対に開けてはならない」という声への忠実さを徹底するパラノイアの不信仰に対置されるべきものである。遺言は聞き流されたものの、箱は残り、別の用途が発見される。しかしそれでも、ただ踏み台や高枝切り鋏にだけかこまれた機能主義的「環界」には欠けているものがある。高枝切り鋏が高い枝を切るものなら、我々はここに呼び出されはしなかった筈なのだ。箱の仕様書=遺言、すなわち説明に固着することもなく、ただ箱を箱としてある機能や外観の中で了解することもない道とは、いかなるものなのか。我々は遺言を疑いつつ進まなければならない。疑う私があるのではなく、疑いつつある限りにおいてのみ、我々はAmor intellecualis Deiに殉じる箱の真の継承者となることができる。


[20020409]
 「額に汗して時間をかせぐ」というのは、丁度悪夢にうなされながらも眠り続けたり、あるいは労働の疲れで良い睡眠をとるのに似ているが(「人生の目的」としての睡眠……)、その目指す所は、迫りくる生命から、死を守り抜くということである。そんなわけで、春はあけぼのというよりむしろ自殺、春うらら、春眠曉を覚えず。しかし問題は、死を守り抜くということが、ただ何者かの死をまち続けることになってはいないか、ということだ。これを反証するには、ただ我々が既に死んでいるということを証すより他にないのだが、皮肉なことに、後に残るのはどちらも死体でしかない。また待っているのが、我々自身の死だとしても、何者かの代わりに死が君臨するだけの話で、奴隷的身分からの解放には遠く及ばない。ただそれが私の名において選ばれる、ということだけが、英雄的奴隷への道なのだろう。それでもこの英雄的奴隷は、むしろ奴隷的英雄というべきであって、物語の心地よい波乱万丈の一歩外では、たちまち村八分、冒険よりも過酷な獣達の風習にかきまわされ、たちまち「生ける死体」へと転落してしまうのが常である。つまりは生命に対する敗北であり、夢精であり、口元のゆるんだオヤジギャクである。だからこそ、果敢に睡眠を守り抜き、「死せる勇者」の道を歩んだ選ばれし者を、真に英雄と呼ぶことができるのだ。


[20020424]
 もう寝ます。探さないで下さい。寝るだけなので、朝になっても同じ所にいますから。


[20020506]
 おわあぁぁぁぁぁあっこんばんは! 三波春夫です。


[20020507]
 さて、次の問題は、稼がれた時間の流出先、という先に保留しておいたものだ。ここに存在の名を与えることで、ある伝統はボロ雑巾のように疲れ果ててしまった。全体性、それが実体を持つなら神に他ならないが、我々の預かりものはもちろん、欠陥品故に有効なのだから(遺産の「箱」の新しい使い方)、そうは問屋がおろさない。ネットワークと言ってお茶を濁すのが東の流行りらしいが、同じ名を持つ神戸の少年が校門=肛門に置いたコウベにこそ、まだ四次元生け花的ヒントが隠されているというのものだ。つまりは切断、そして「おいおい、ボディはどこだよ?」というわけである。本体はともあれ、喋るのはコウベである。そして多分、オウムのように奇矯な言葉しか吐かないコウベだろう。本体はともかくとして喋り続けるのがこのコウベの仕事である。この仕事を課したさらなるコウベ、つまり時間の最終流出先などを求めては無限背進、というのは自明であり、彼を喋らせる掟は彼のお喋りの中、正確にはその言葉のスキマにこそある。何せ校門におかれているものだから、コウベは叫ぶだろう、「そこで遊んじゃいかーん!」。ところがこのコウベ、震災以来の地盤の変動で、遊び先にグラウンドを指定したりするほど欺瞞的ではあり得ない。彼の禁止は遊ばせないことではなく、むしろ遊ばせること、そして場所の指定である。この場所が、飛び出して空き地、果てはポートピア、ついにはレミングである。子供達は海に飛び込むが、打ち上げられた死体は腐乱の余り身元もわからない。つまり名もなきものとなって帰ってくるしかない、そのような海なのだ。「こんなの、うちの子じゃないわっ!」


[20020509]
 しかし、安穏としたデブども、罪なく一所懸命な勤労者の上に、総攻撃が留保されているのは、いかなる意味を持つのか。もちろん、総攻撃はガス爆発であり、失敗である。自殺については言うまでもない。しかし「できちゃった」結婚が達成されるのは、ただその失敗がミもフタもない失敗であること、つまりこの失敗が成功として送り返される者が、致命的欠如におかされいる限りである。逆に、この失敗が、ある成功として、幻想の中に回付されるのでは、まさに失敗による成功という限りで、これは「大失敗」なのだ。自殺はその典型であり、それを中学生的に喝破した無職は小学生たちを惨殺した。これは時間かせぎとしてはいささかの効果があったが、ワイドショーの前では惨めな成功者でしかなくなっていまうという限りで、自殺と五十歩百歩である。それにしても、急激な行動化とはどっちに転んでもこの程度のものなのか。核のボタンを握る者にとっては、必ずしもそうではないように見える。エレベーターのボタン、あるいはピンポンのボタンでは心もとないが、ぱっと見よりは悪くない。一番簡単なのは、プレステのコントローラーのボタンである。高橋名人は、攻撃の行く末、ビームの飛ぶ先が画面の外であることにおいて、一秒間に16回、己の欲望を裏切らなかった。これがボタンの効果である。
 プレステのない者にも、コンドームがある。ここにもボタンがあるし、核がある。世界を窒息させるこのラテックス皮膜により、我々は最後の総攻撃に参加できる。天皇陛下バンザイである。もちろん、天皇の抹消された限りにおいて、つまりこの時代においてこそ、我々はうっかり「お母ちゃん!」と叫び安コンドームの罠にはまることなく、真に攻撃に参加することができるのだ。一秒間に16回、一日に16回、一週間に16回、やがてお約束の約束がやってくるかもしれないが、それもまた良しというものなのだ。もちろん、そんな「失敗」で気を休める必要はない。我々は無数の弾丸を身体中に巻いたランボーであり、その射撃は、百発撃ってもまず当たらないのだ!
 ただし、はっきり言っておく。デブはヤセより弾に当たりやすい。なぜなら、太っているから。


[20020528]
 おざなりのザリガニが来るわ来るわアメリカから(正確には、何か別の音からザリガニがやってきた筈)。ザリガニが地上を埋め尽くしたので、魚はすむ場所もなく、身体は作り替えられ、大型ゴミ、ひいてはヤフーオークションの有料化にともない、私のすべても有料化した。「減るもんじゃなし」とはいかない有料化のゆえ、熱力学の第二法則には逆らえないとはいうものの、ポピュラーなファンタジーには守られない、つまり対象に消えた飛び水の私すら含まれず、それゆえこの有料化は老衰というよりはむしろ自殺であらざるを得ない。老衰と自殺を分かつものは、肉の機械が絵のどこに描かれるかということであって、背景に溶け込んで恋に仕事にイッショケンメイなら対象たちは神のごときざわめきに見守られているが、このざわめきすら意味におちたノイズという逆説に陥った今や、ざわめきはオンとオフの回路に封じ込められ、臣民はほのめかしによって語るより他になくなる。「お分かりになるでしょう。まあ、私ごときのどうこう言うことじゃありませんよ。気をつけてください。そう、あのイタリック調の文字、車のヘッドライト、分かるでしょう?」。機械は絵の前景にはっきりと描かれ、それは複雑で目的の分からない機械であって、それが機能するのは背景にある時だけであった以上、今や働きを失い、失業者対策によって世界を粉砕するミンチ製造機へと就職してしまった。それゆえ、有料化は自殺である。人々がコインを入れると、世界と身体が血しぶきをあげて粉砕され、骨(難問)すら粉々にくだかれ、問いは残らない。残滓はザリガニのエサになるが、その後のことは知らない。


[20020618]
 演劇において、私はボケでもツッコミでもなく、傍観者である。客である限り、私は「映画」においても、監督ではない。私は一人の倒錯者だ。残りが見ている。このことが明晰になった以上、必要なのは、ただ全体としての客を考えること、客を人とも思わないこと、この祈りという欲望を引き受け、音楽のように声をバラバラにすることだ。残りが見ている。


[20020622]
 先日演劇がどうのと言ったのでついでに漏らせば、「やみいち」以外の芝居が何故あれほど不快なのかというと、客がいないからだ。正確には、客を人間だと思っているからだ。「お客さまは神様です」と三波春夫も言っているではないか。それを人間扱いしてシャアシャアとしていて、怒りを買わない訳がない。神様扱いしろというのではない。神はひとりなのだから(ひとりもクソもない)、ヒトのいかなる形も神とは似ていない。ある種の全体性、あり得ない全体性のことを言っているのだ。客をヒトと思う傲慢にあるうちは、数字が問題になり、アメリカ人のように統計に溺れるだけだ。しかも太る。ここで「いや、うちは客を大事に扱っている! 客にウケるよう、がんばってるし」などと考えていたら問題外。沈みなさい。さて、そうでなかったとしても、たとえば「やみいち」の関係者から、「別に神だとは思っていない」と言われるなどということはまずありえないながらも、心の片隅で少しは思ったりくらいはあるかもしれない。だがこの神がスピノザの神-1だとすれば、それもまた見当違いということは自明だ。客は現前している。いかなる形でもこれを逃れることは出来ない。いないのは対象であり、ネタである。いない以上、場において表象(代理)される。この境位において語り、呼び掛けに答えられるかどうかに総べてがかかっているのだ。今日の一日報告を忘れてしまったような若者は、恋愛でもしていなさい。
 とはいえ、この-1のことは気になる。ここに作品性、あるいは主語性、つまり服従性がある。だから「実験」だけが作品でありうる。実験は統計に還元されず、ただ欲望の登記簿として精神から精神へと返送される。「作家」が男であっても女であっても同様である。ただどちらなのか、それをどうやって確かめるかは、まあ確かに一問題ではあるが。


[20020627]
 ある医者が、自らのファミリーネームの綴り始めでもある女性定冠詞に斜線を引き、その総称性の否定を「イマージュの中にサンボリックに」(つまりこれは無rienではない)示したのは有名な話だが、我々としては、むしろこれに省略記号としてのピリオドを二つ添えてみたい。つまり、L.A.と。
 N.Y.には斜線が引かれ、そこで総称性を一身に背負った双児(つまりは、3に一つ足りない女)が崩れ落ちたが、恐るべきはアメリカ人の肥満ぶりであり、ここを空き地ではなく、公園、「メモリアル・パーク」にしようとする計画すらあるらしい。
 だからN.Y.では足りないのだ。まして五角形や白い家では、アメリカのトラップにますます嵌まるばかりなのである。ニュース映像の最後にはシュワルツェネッガーの名前がロールしてくる。斜線を引くべきはL.A.であり、そこでこそロシア人がハリアーの翼に乗ってロデオしているのだ。
 ここでは本質還元論的フェミニストよろしく、L.A.なるものの総称性が捏造され、DVDに乗って垂れ流されている。何が行われているかというと、動くものの乗っ取りである。つまり、ハリアーにロデオしているのだ。奇しくもこのフィルムは逆説によって題づけられていたが、この逆説はそれにより真理を示しているのはなく、あたかも禁止により欲望から身を守るがごとく、全体へのほのめかしだけを残して真理を抹消しているのだ。つまり、示されたのは心理であって、しかも大衆心理である。これは経験主義とプラグマティズムの幻想に彩られ、「真理はない、でも心理はある、ほらここに」と踊っている。
 このようにしてL.A.は動くものを乗っ取り、それを閉じた物語の基体であるかのごとく、一秒間に24回やってくる「ココロノカベ」を演出している。まるでその壁を破るものこそ心理であるかのように。ゲシュタルト主義の成れの果てと呼ぶべきだろうか。
 我々はL.A.に斜線を引かなければならない。そのためには、心理ではなく真理が証される次元を、動くものの形で表す必要がある。それは映画の証言であり、証言の映画である。ここにおいて、名を持たぬ第三者がかろうじて示されうる。翻って、この弱き神においてこそ、L.A.に斜線を引き、まさにL.A.のある限りで、L.A.に欠如のあることを、証すことができるのだ。
 監督が死んだ後、「残りの者たち」が映画を仕上げる。これはヴェンダースが示したことだが、何度でも繰り返すべき半欠けの真理である。


[20020724]
 もうメンドーなんで色々率直に書きます。
 私は要するに不妊症の女です。女なら出産と子育てで治ることがありますが、私には創作と中性化しかありません。また、薬の関係もあり、生理前の女に非常に似た存在です。
 そういうわけで、命名、shooting cure。おまえら伝染れ! 映れ! ただ悪いことばかりじゃないぞ。伝染って尚すすむことにこそ、「神への知的愛」があるのだ。
 ここまで書いて分からないヤツは、無能の権化なので、すぐ自殺してください。
 いや、ゴメン、ちょっと言い過ぎた。近く論文と試論、それから重大な作品を発表するから、死ぬのはその後でも遅くないです。ごめんね。


[20020726]
 病人よりは変態がいいし、変態よりも詩人がいい、と「私」が思う。子供に返るというよりはむしろ、「私」の中の生まれそこないの子供が、大人の私というざわめきの片鱗をinstrumentとして使って、孕ませてくれる。「産むのは苦しいよ、育てるのも大変よ。でも何とかなるのよ、これが不思議と!」。
 Ce n'est que moi qui parele. JE PARELE en effet comme un sujet.


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