記憶力実践 第三回

 コンピューターにより電話が接続された。もしもし、と私は語りかける。返事はない。イタズラか? 再びもしもし、とやる。電話の闇の奥から微かな声。女のあえぎ声。なんだ、もうオナニーしてんのか。ああああ。受話器はどっちの手で持ってるんだ。左手…ああ。じゃあ右手は? …、言ってみろよ、いじってんだろ。うん…。どこ。え…。言えよ。クリトリス…。中指の腹でクリトリスしたからなで上げてみろよ、ほら。ああああ。オマンコぐちょぐちょにしてんだろ、え? うん、すごい…。グチャグチャグチュグチュヌチュヌチョ。欲しい…。どうして欲しいんだよ。入れて…。どこに。オ、オマンコ、あなたのぶっといチンポ、ぐちょぐちょのいやらしいオマンコに入れてください…。グチャグチャヌチャグチョズブリズブズブグチョグチョンヌルリグチャグチャグチャヌプズブリグッチョンツチャグチャズブズブズブズブ。す、すごい、もうダメ、もうダメ。はあはあはあはあ。ダメダメダメダメ。はあはあはあはあ。ダメ、いっちゃうよおおお。はあはあはあ私もイキそうはあはあ。すごい、すごい、イクイクイクイク、ああ、またイッちゃう、すごい、エクスタシーの波がやってくるのです、波が、次々と、そう、やってくるのです、エクスタシーの、次々と、そう、それはまるで、シューメーカー・レビー第九彗星の木星衝突のように!
 うんち歴二〇〇X年、うんちの住む木星は危機にあった。厳密には、『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』であった。というのも、木星の衛生ガニメデには最初のおさるが生まれ、そこからサルベージ船、サルバトール・ダリらと共にフッサールが発生していたからである。
 フッサールはユダヤ系ドイツ人の洋服店主の次男として、モラヴィアのプロスニッツ(現チェコスロバキア領)に生まれた。ライプツィヒ大学に入学、さらにベルリン大学のヴァイアーシュートラースの元で数学を学び、学位取得後、助手に就任。が、ウィーン大学でブレンターノの講義を聞いて、専攻を哲学に変えた。その後、色々苦労して、本もたくさん出した。
 フッサール七十八歳のある秋の日の午後のことであった。フッサールはいつものように思索に耽っていたが、腰に入れたカイロの暖かさに、ついうとうととして、机に向かったままうたた寝をしていた。そうして三十分もたったころであろうか。我に帰ったフッサールは、机の前の窓の外に、バザールでゴザールが顔を覗かせているのに気付いた。この窓からはガニメデの古風な街なみが一望でき、思索の合間にぼんやりと人々の行きかうのを眺めるのを彼は好んでいた。その窓の右下すみから、バザールでゴザールは何か申し訳なさそうに、うたた寝するフッサールの姿を盗み見ていたのである。
 そのバザールでゴザールを見た途端、フッサールの頭に閃光がひらめいた。そうだ、近代の理性主義は物理学主義的客観主義というかたちをとり、さらにそれが実証主義的に矮小化されることによってその本来の動機を見失ってしまったので、さあたいへん。困った困った。困ったフッサールは歌を歌った。
 ♪フッサールふさふさフッサール〜 さるはさるでもフッサール〜 ふっさふっさふっさふっさフッサール〜 私の名前はフッサール〜
 こうして、ガニメデに太陽系初の私が生まれた。私はテレフォン・セックスに夢中で気付かなかったが、フッサールも歌に夢中で気付かなかった。哲学者というのは、そういう生き物なのだ。私は女のあえぎ声を聞きつつ射精し、その途端に何か自分がひどく馬鹿げたことにかまけているような気がして、電話を切ってしまった。電話空間は一挙に閉じられた。女は電話空間に放置された。その途端、女は激しい便意を覚え、体内から七つのうんこを放出した。まるで、シューメーカー・レビー第九彗星の木星衝突のように!
 このうんこは最初の肛門が完成し、そこに退避したうんこたちの第十二世代目に当たる子孫であった。当然、外の世界は知らない。七人のうんこはまず、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。
 うまい! うむ、やはり外の空気は最高じゃ! 肛門の中はうんこ臭くってかなわねえ。こうして外に出られたのも何かの縁、私たちは古い掟に縛られず、いっちょ自由に生きてやろうじゃないか! おうよ! 
 このうんこらは七人の侍と名乗り、黒沢明を生みだした。黒沢明はたくさん映画を撮ったが、そのおかげで目が悪くなり、おまけに当時の地球には客らしい客もいなかったので、いつもしょんぼりして寂しい晩年を送った。
 それはともかく、私は射精の後何とも言えぬ空しさとともに急激な睡魔に襲われ、布団にもぐった。こうして、私は宇宙の記憶からしばし姿を消した。
 急激な電話空間の閉鎖の衝撃によって生まれた七人の侍、こと七人のうんこは、百姓を助けて野武士と戦ったりして、その数を三つにまで減らした。その後のことは映画に出てこないのでよく分からないが、おそらく三人は死ぬまで再び会うことはなかったことと思われる。多分、縁側でお茶をすすったりして晩年をすごしたのであろう。黒沢明よりは充実した一生だった。
 ところで、ガニメデに猿が生まれたのはどうした経緯があってのことだろうか。これには木星に移住したうんちたちのその後が多いに関係している。木星のうんちは抑圧されていた。と言うのも、木星の重力は地球のそれよりずっと大きかったから。うんちは皆一様にひらべったい形になってしまっていた。
 そんな抑圧された暮しに我慢ならなくなったうんちの一部は、木星の衛星への移住を計画した。木星には沢山衛生があって、そのうちのいくつかは簡単な望遠鏡で地球からも観測できたため、ガリレオ・ガリレイが生まれた。これにより、自転が開始した。
 衛星への移住によって本来の形態を取り戻したうんちたちは、急速に進化の階段を登り詰めていった。うんちはさまざまな長さ、形へと分化し、多くのものには毛が生えていった。そして、これらのうちで極度に成長した知性を持ったものが、遂にしっぽを名乗るに至った。
 しっぽから動物へはあと一歩である。木星の衛星、とりわけガニメデの地上には、多くの動物たちが生まれた。中でも支配的であったのは、お猿と猫であった。しかし、動物へと進化したしっぽの多くは、次第に胴体や頭部へその中枢を移し、塔御される立場となっていった。猫の尻尾などは、今でも時折本体の意思とは無関係にうごめいたりするが、ほとんどの尻尾は、本体のなすがままとなった。いぬの尻尾が良い例である。
 一方で、動物へと進化しなかった尻尾は、お猿や猫の支配のもとで、次第に自然の暗部へと押しやられ、退化していってしまった。その残党が、ミミズなどの形で現在でも目にすることが出来る。
 そういえば、犬は三種類に別れていた。そらいぬ、うみいぬ、普通のいぬ。そらいぬは仙人に飼われ、霞を食って生きていて、時々空気を噛むようにして、風の匂いを嗅ぐ。うみいぬは尻尾を舵のように使い、珊瑚の町を散歩する。ふつうのいぬは散歩して、昼寝して、うんちする。犬は巨大化して地上に住めなくなったのだが、浮かぶのはたいそう苦労の要ったことだろう。察してあまりある。それに比べて、近ごろの若い者は気づかいというものがなっていない。まったく、うんざりだ。死にたくなるよ。もう、死のう。


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