暫定性一般、そして記憶へ

 例えば、「責任ある個人」という仮構があって、これが一種の分水嶺になっている。「責任ある個人」は一つの世界を限界付けている、境界線だ。これに対して内的なものは、経済を成していて、想像力の帝国を形作っている。恐らく、これは、言語交換経済より更に一回り小さな経済圏だ。この経済にはもちろん、様々なレート(恣意的必然)が内在しているのだが、レートは常に(内部に対して)絶対化されようとしている。絶対化しようとするのは経済の中で醸造されている権力である。このレートが内部で動かし難く機能する事には何の問題もないが(1ドル何円、赤くて甘い果物がどうしようもなくリンゴである、)、内部は外部があって初めて内部なのであり、この内部を限界付け、根拠付けているものに目が向けられた時、経済は破綻せざるをえない。更に、この経済が単に仮構によって限界付けられている以上、我々は様々な局面で現実に、外部に、出会わざるをえない。
 芸術と呼ばれるものや、恋愛、あるいはスポーツなどにおいては、何かが賭けられており、この賭けこそが現実である(賭けは後述する確率と対比される)。逆にいえば、その様な場所に経済は名前をつけ、回収しようとするのだ(文化勲章のように)。子供が部屋で暴れると襖に穴が開くが、お母さんやお父さんはこれにサクラの形の紙を貼っつけたりする。穴はサクラによって隠蔽されたのだ。あたかもそこには穴などなく、単にサクラがあるかのごとく。陳腐な事を言えば、鏡像が私にすりかえられているように。更に、これが押し入れの襖だったりすると、ますます面白い。
 レートを本気で信じたり、「分からない」ものを「分かる」ように心掛ける者こそ、権力であると言う事が出来る。(注1)
 
 この様な外部の露出する部分について考えてみる。すぐさま、失敗ヒマ空き地(荒木瑞穂氏)などを思い出さずにはいられない。先ず、失敗から議論をはじめよう。
 失敗というのは、もちろんそのどうしようもなさを基準にそう呼ばれるところの失敗の事だ(言うまでもないが、企図された失敗は成功である)。私が失敗するということ自体、一つの奇跡である。私が失敗するという事は、私の語る言語経済に対して外的な現実が機能しているという事の証明である。そもそも内部は外部に支えられている(外部は押し入れの闇かもしれない)。
 これに対し、言語経済の果てにおいてイメージされる論理、完全に空間化され、あたかもゼロ時間で進行するような論理(それがゼロ時間であるという事は、後から考えたイメージにすぎない)の内部に、失敗は有り得ない。今日ではその様なものの究極の姿を電子計算機が表象代理している(しかし、計算機の計算にも時間のかかるという事実は示唆に富んでいる)。
 このようなイメージは一般に普遍的なものと呼ばれ、これに対して、そこにいたりつく以前の(つまり現実に我々が目にする)ものは暫定的であると呼ばれる。暫定的という人(そういう言葉遣いをあえてする人)の脳裏には暫定的でないもの、つまり普遍的と呼ばれるもののイメージがあるはずだが、言語経済の延長の果てにこれが得られる事は有り得ない。何故なら、論理はゼロ時間ではなく、有限の速度(恐らくは音速)でしか進行しないからだ。普遍的と呼ばれるものは無限の時間の極限にあり、論理がゼロ時間であるという前提のなしにこれに到達する事は有り得ない。ゼロ時間の後験的なイメージが普遍のイメージを醸造している。
 重要なのは、「時間がない」ということだ。この「時間のなさ」が暫定的と呼ばれるものをそれ以上のものへと質的に変容させる
 だからといって、経験則にたち戻れ、などというつもりはない。経験則自体は「単に」暫定的なのであり、ここで変質する可能性があるのはその様なものを包含する「暫定性一般」の事である。我々はいわゆる普遍でも個別的暫定性でもなく、この「暫定性一般」を対象としなければならない。これこそが、語の真の意味で普遍的なものである。

 失敗が奇跡であるというのは、それが追跡不可能だからだ。失敗は因果的に検証する事は出来ない。文法的に不可能なのだ。しかし、確率論までは接近する事が出来る。いつ、どのように失敗するかは分からないが、失敗の確率までは計算可能である。それゆえ、確率論というものは、我々の世界(言語経済圏、イマジナシオンの帝国、、)を限界付けているリミットであるという事も出来る。それは様々な形で不気味な現実としてたち現れてくる。
 例えば、個の論理においては生き延びる事こそ成功であり、死は失敗であると言う事にしよう。しかし、すべての個体が生存する事は、種全体の要請には反する事になるだろう。種にとって、一定数の個体の死こそが成功を意味する。しかし、どの個体が死ぬべきなのか、ということまでは言う事が出来ないし、また必要もない。明示可能なのは確率のみであり、逆にいえば、その様な外部、現実を我々は確率という形で理解する。
 一般にそれは弱者の死という事によって説明されるが、これ自体は本質的な解答になっていない。種が要請するのは単なる死であり、弱さゆえの死でも偶然の死でも変わらないからだ。この様な説明法は、インセストタブーを遺伝劣化によって説明しようとするような危険性をはらんでいる。
 確率が賭けと対比されるのは、文脈の違いという点においてである。確率がリミットであるのは単にそこまでしか追跡できないという事であり、内部の文脈で語ろうとすればそれは確率という他にないと言う事である。だが、一方であらゆる個体にとって生きるか死ぬかはデジタルである。五十パーセントの生存などという事は「現実」にはない。それゆえ、確率と賭けはともに同じリミットを表象しているのだ。前者は、言語経済の延長として、後者は、否応もない現実として。前者をサクラ、後者を穴と呼んでもよい。
 余談になるが、民主主義と呼ばれる仮構は、個の論理、言語経済の極度に肥大した姿と言う事が出来るかもしれない。我々には、もっと「否応もない死」が必要なのだ。どのような形であれ、我々を死にいたらしめる現実は外部である。常に死者が生者を食うのだ。

 しかし、これで話は終わりにならない。右の議論で、死があたかも決定的であるかのように語ったが、究極的には、死すらも「暫定性一般」の中に回収しなければならないだろう。我々の死のイメージはデジタルだが、この分かり易さはそれが言語経済内部のレート、襖にはられたサクラにすぎないことを暗示している。
 我々は誰でも、「暫定的に」眠る。ところで、死は眠りに似ている。しかしこの点については、今回は論旨を鑑み、深入りを避けよう。
 繰り返すが、常に死者が生者を食うのだ。

 私がヒマと言う時、小川恭平氏の居候芸術論を思い浮かべている。
 太陽とヒマは似ている。例えば、バイト先のレンタルビデオ店のカウンターに立って考える。仮に、私が自室でぼんやりと突っ立ていたとしよう。私が何時間立っていたところで、誰も給料を支払ってくれはしない。ところが、ここでは立つ事が時間単位で計量され、貨幣となってかえってくる。穴を掘るとお金がもらえるが、腕立て伏せではもらえない。仮に、自分の部屋に自転車のような機械があって、それをこいでいれば自給七百円もらえるのであれば、こんなに便利な事はない。時間が限りなく有効に利用されるからだ。有効と言うのは正しくないかもしれない。私の時間が資本主義経済の中で、交換価値の循環の中で、機能するのだ(資本主義については、単に交換や循環によっては語り尽くせないが、ここでは論旨を鑑みこれ以上追求しない。残響通信9参照)。
 腕立て伏せで生計が立てられないのは明白だ。というのも、それは交換価値を持たないから。バタイユでないが、降り注ぐ太陽光の如くヒマは無限にあり、かつそのうち我々の交換経済の中へ取り込めるのは極一部にすぎない。我々は太陽の、またヒマの、圧倒的な剰余の中に放り込まれている。太陽と死は直視する事が出来ない。ヒマもまた我々の交換経済の中で捉える事が出来ない。時間は空間化され、メトリックになって始めて交換される(「時は金なり」)。もちろん、交換経済とは、単に貨幣経済でなく、意味の、シニフィエの、交換をも含めての経済を示すのだが。
 居候はヒマだ。ヒマである事自体が、居候芸術論を根拠付けている、と私は解釈する。ヒマは現実なのだ。つまり、ヒマによって我々は隠蔽していた外部と接触する。小川恭平氏は居候を芸術にしようとするが、まさに居候は襖にはられたサクラをはがし、太陽を直視する行為なのだ(それゆえ、居候が「楽」であると言うのは妥当ではないだろう)。
 明らかに、居候は暫定的だ。これもまた、住むということの文法的な要請を反射している。もちろん、単に居候するだけなら、それは個別的な暫定性の枠を出ない。経験則のはかなさのような不毛を乗り越える事は出来ない(単純に虚飾を賛美する事もこれと同様である)。しかし、それを芸術と言い切り、それ自体の中に入りこみ二重化する事によって、氏は暫定性一般へと接近していく(意識化するとかメタ化するという意味ではない、それは際限がない)。

 荒木瑞穂氏空き地という表象を通じて試みている事も、これと平行的なのではないか。空き地もまた暫定であるが、氏もまた空き地を足がかりとして暫定性一般へと飛躍しようとしている。氏は書店のエロ本より、空き地に落ちていたエロ本にエロスを感じたという。陳腐かもしれないが、空き地は太陽であり、太陽は外部なのだ。空き地は外部であり、一つ一つの空き地は単に未建築の土地であるかもしれないが、空き地一般は暫定性一般として言語交換経済を包囲し、無限にエロスを注ぎこみ回転させる太陽なのである。
 空き地も押し入れも子供の遊び場である事は示唆的である。またよく考えると、子供は皆「居候」だ。子供は襖を破り、柵を破る。荒木氏が「飛び出し子供」(横断歩道などによく見かけられる、子供の形をした飛びだし注意の看板)にこだわるのも、頷ける。我々は(「おとな」=人間は)地上を分節し、建築し、道路を張り巡らせ、灰色のコンクリートによってこれが建造物であると宣言し、漆黒のアスファルトによってこれが道路である事と言い切ったが、常に「子供」は「おとな」の制止を振り切って飛び出していく。まさに、飛び出すのだ。しかも、しばしばそれは死へと直結している。「飛び出し子供」においては、その刹那が一般化され、それによって二重化された暫定性、暫定性一般が表象されているのだ。

 子供時代と呼ばれるものもまた、「普遍的に」暫定的である。そして、フロイトの言葉を借りれば、「子供時代は、それ自体としては、もうない」。「もう」ないのだ。外部が「ない」からこそ、内部は「ある」。外部が「ない」というのは、太陽が直視できないということだ。外部は機能する無である(これは当誌の発刊時、私が神について語った言葉だ)。
 こうなると、我々が記憶を対象としなければならないのも理解できるだろう。「もう」ないという事が重要なのだ。「ない」のであって、「なかった」のではない。ここから先に進むためには、暫定性一般、内部や外部といったものを、時間の関数として読み替える必要がある。

 過去は常に既に「あった」のだ。というよりも、その様なものとして過去が規定される場所に我々は生きている。つまり、内部に。かつて私は、中間者という(便利な)仮構について記したが、私が、と語り始めた途端、我々は常に内部にいる。というのも、私は言語交換経済の中で流通しているから。私は、失われた(と信じられている)巨大機構の内の、商品化された卑小な一部であるから。その中で我々は過去を文字どおり過ぎ去ったものとして規定し、「今」「ここに」いる。活動しているといった方がいいかもしれない。活動する、ということが現在を規定している。つまり、否定し、分節する場所として現在は規定されている。だから、現在は常に過ぎ去っていく。現在は活動してるが、存在していない。現在は否定され続けている。
 一方で、過去は活動せず、有用でないが、それ自体において存在している(注2)。それは既に失われた(と信じられている)が、にもかかわらず語の真の意味で存在しているのだ。それはつまり、外部が存在しない(と信じられている)にもかかわらず機能している事と同時的である。存在と現在存在しているものを混同してはならない。過去は現在存在するものではないが、存在する。外部が存在しないというのは(この言い回しはトートロジーだ、つまり文法的に否応もなく真であり、それゆえあまり「意味がない」)、現在存在しないということだ。なおかつそれが機能するというのは、無‐意識が機能するというのと同時的だ。
 分かりにくいかもしれないが、ここで私がなそうとしているのは、外部と呼んだもの、私が暫定性一般と名付けたものを時間の関数として読み替えるということだ。
 理解を容易にするため、具体的に考えよう。例えば、空き地。空き地は存在するか? もちろん存在する、と君は答えるかもしれない。そのとおり、存在する、語の真の意味で。空き地は否応もなく、それ自体において存在している。つまり、それが現実だ。一方で、空き地とはそもそも何なのか。それは「未だ建築されざる土地」である。そうでないなら、単に土地とか地面とか呼べば良い。空き地は暗に建築を含んでいる。つまり、その様な分節の仕方の結果空き地は生成される(あらゆる概念は分節を前提する)。空き地は建築の否定なのだ。
 「未だ」という事に注目しなければならない。空き地の概念に忠実に考えるなら、むしろ建築された土地を想像すべきだろう。例えば、あるマンションに住む住人は考える。「ここはかつて空き地だった」と。つまり、それが空き地なのだ。
 私がここで二つの空き地を示したのにお気付きだろうか。現実として存在する空き地と、現在存在しない空き地。我々が「現在は存在し、過去は存在しない」と言う時、それは後者の文脈に立っている。内部の文脈と言ってもよい。確かに、過去は(現在)存在しない。マンションのある土地に、空き地がないように。一方で、過去は存在する。誰の目にも明らかなように、空き地があるように。
 二つの空き地を統合する言い方を考えるなら、こういうべきだろう。「空き地は(現在)存在しないが、(現実に)存在する」。空き地は過去なのだ。そして、あらゆるマンションは、既に存在しない空き地によって成立している。それが私が外部が内部を回転させると言う事の意味である。マンションという商品(奇しくもそれは本当に「商品」だ)が流通する経済に、空き地はエロスを注ぎこんでいる。

 しかし、過去という概念をそのまま記憶に直結する事には抵抗があるかもしれない。この様な抵抗は記憶を単に記録であると取る認識に支えられているものと思われる。そこでベルクソンの理論を一部援用してみたい。
 記憶は、いかにして保存されるのか? あるいは、記憶はどこに保存されるのか? このような問いに対して、我々は一般に、それは脳の中だ、と答える。すなわち、我々の経験が、脳髄内部の神経細胞の状態に変換され、蓄積されている(脳髄こそが記憶の容器、あるいは基体suportである)というのが通念上の理解だ。しかし、ベルクソンは再三にわたってこの考え方を否定している。
 なぜ、記憶内容souvenirは脳に保存され得ないのか。なぜなら、脳は単にイマージュ(注3)であり、他のイマージュといかなる性質の差も持っていないからだ。イマージュはやってきた運動を何らかの形で返すことしか出来ない。運動は運動しか生じさせることが出来ず、知覚的な振動の役割は、記憶が入り込んでくるある種の態度を身体に刻印することのみである。
 脳は単純な脊椎動物の神経系と程度の差異を持つにすぎず、その役割はただ伝えることだけである。脳の役割は伝動体であって、それは中央電話局に比すことが出来る。
 記憶内容が脳の中に入っているといったところで、その保存について何も説明したことにはならない。これはあるものが別のものの中に入っているという、空間的な比喩に囚われているだけだからだ。この、空間において瞬間的に認められる諸物体の総体、すなわちいわゆる物質的宇宙についてのみしか真でない「いれる」「入る」という関係を、時間における記憶の系列にそのまま適用することは、実践上の理解は容易にするが、真の秩序は転倒してしまう。
 仮に記憶が皮質細胞に貯蔵されているのだとしたら、例えば感覚性失語症において、特定の語のみが失われ、他のものが残存するといった場合がありうるはずだ。だが、実際はそうではない。器質的損傷による記憶障害において、減退するのは機能であり、記憶の数ではないのだ。
 また、もし脳が記憶内容を保存するとすれば、今度は脳がそれ自体を保存することが出来なければならない。しかし、脳は単なるイマージュの一つであり、イマージュにそれ自体を保存する特別な力はない。

 しかし、この脳は、空間の中の延長を持つイマージュであるかぎりにおいて、ただ現在の瞬間を占めるのみである。それは物質的宇宙のすべてのほかの部分とともに、宇宙の生成の絶えず新しくなる切断面を構成している。だから、この宇宙は真の奇跡によって、持続のあらゆる瞬間に死にかつ生まれると想定するか、意識には拒んだ存在の連続をこの宇宙に移し与えて、その過去を、残存して現在まで及んでくる実在たらしめるかせねばならない。(Henri Bergson "Matiere et Memoire" P.U.F p165-166)

 それでは、記憶内容はいかにして保存されるのか。記憶内容は、それ自体で保存されると考えるほかにない。記憶内容は何かに変換されたり、何かの中に入ったりするのではなく、それ自体において、即自的に「存在する」のだ。

 以上により、取り敢えず記憶が単にビデオテープに残された映像のようなものないのはご理解いただけただろう。記憶は記録ではない。記録に過去性を帯びさせるのは常に記憶によるのであり、また空想や想像が記憶から区別されるのは、記憶の持つ過去性そのものによる。
 過去を記録するのが記憶なのではない。記憶は過去という概念に回収されない。むしろ、記憶力の対象を過去と呼ぶのである。それゆえ、上で過去という概念によって語られてきた内容は、記憶力の対象として読み直すことが出来る。
 私はかつて「記憶しかない」といったが、これは明らかに逆説的である。というのも、記憶内容すなわち過去は過ぎ去ったもの、失われたものとして規定されているからだ。にもかかわらずこう言わなければならないのは、外部が機能する無であるということだ。別の言い方をすれば、現在が「存在せず」過去が「存在する」ということだ。過去は現在存在しないが、存在するということだ。
 また、私は別の場所で、人間の能力を想像力と記憶力に大別してみたが、それはここで語られたニ種類の存在、すなわち現在存在するものと存在そのものに向かうそれぞれの志向性を示している(この用語が通念上妥当であるかどうかはともかくとして)。
 私が過去という時制よりはむしろ記憶という言い回しを好むのは、とにもかくにも私が「今」「ここに」いる、つまり内部にいてしまっているからである。ここから始めなくては何事も成し得ない。いかに外部が内部を支えているとはいえ、我々は否応もなく内部に投企されている。ここから出発しなければならない以上、確率の文脈で語る事は意味をなさない。我々は賭けなければならない。
 中も外も丸く治まってしまうような(サクラのような)文脈からでも、「外部が存在する」と単に言い切るような(神のような)文脈からでも、始める事は出来ない。重要なのは、取り敢えず今何事かをなそうとするのは「私」であり、「私」に出来る精一杯の事、それが賭けであるということだ。

 以上、暫定性一般、外部、失敗、空き地、ヒマ、居候、子供時代、過去、記憶力といった一連の用語を渡り歩いてきたわけだが、言うまでもなくそれらが目指しているのは総て同一のものである。そして最後に、事実というよりは行動規範として賭けというものを提示した。今まで五号に亙って書きなぐってきた事を分かり易くまとめるつもりで、また書きなぐってしまった(「まとめ」が失敗した!)。そんなことは少しも反省していないが、せめてもの良心として、諸氏が確率よりは賭けを目指して前進する事を願う。


注1 それにしても、政治というものからは絶対に逃れられないらしい。いかに文法に立ち戻った議論をしても、自由にはなれないようだ(つねに自由ではないとは言わないが)。例えば、私のリセットしたやり方(現象を解体・分析し、再構築したやり方)、「責任ある個人」自体の分析に戻って説明すること自体、既に可能的に政治的なのだ。これが「あの」不快感の原因だろう。というより、その様なディスクールがある種の状況では政治的になってしまう。だから、唯一の方法は、「これは政治的である」と言い切ってしまう事だ。それでも、もちろん不快感自体は消えず、なお一層不自由になるだけなのだが。
 また、権力と対峙する時、その矛先は常に全体にむけられなければならない。全体性そのものが問題なのだ。全体性を代理するような名前や著名に固執しても権力の問題は永久に解決しない。ここで私が「この様な者こそ権力」として示すのは、名指す事の出来ない者達の事である。この事は残響通信四号に記した。

注2 『もしも古い現在が現在であると同時に過去にならなかったならば、どうして新しい現在が生き残るだろうか。一つの現在が現在であると同時に過去でないならば、どうしてその現在は過去になるのだろうか。過去は、それが現在であった時と同時に構成されなかったならば、決して構成されないだろう。(中略)過去と現在は、連続する二つの時間を示すのではなく、共存する二つの要素を示している。』Gilles Deleuze {le bergsonisme" P.U.F. p56)

注3 『「イマージュ」というものを、我々は、観念論者が表象と呼ぶものよりは多いが、実在論者が事物と呼ぶものよりは少ない存在と理解する。』(Henri Bergson "Matiere et Memoire P.U.F. p1) すなわち、イマージュとは、我々が通念上「物質」と呼んでいるもの、観念論や実在論が存在と現象を分けてしまう以前の「物質」である。この概念は、このテクストがいわゆる心身問題について論ずるため、その必要な前提として創造されたものであろう。


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