「芸術とは吐きたての吐瀉物を見せるものではない」とある人は言った。にもかかわらず、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは悩んでいた。というのも、一九二九年彼が再びケンブリッジに舞い戻った年、彼は大学のトイレでとても長いうんちをしてしまったのだ。いや、長いうんちが問題なのではない。問題は、それが流れなかった事だ。だから、うんちが長かった事が問題であるともいえるし、ケンブリッジのトイレの排水能力の低さが問題であるともいえる。しかし、そんなことは実はどうでも良い。結局のところ重要なのは、そのうんちが何者かによって持ち去られたということだ。
 持ち去られたうんちは、様々なルートを経て闇のマーケットへと流れ、ヴィトゲンシュタインのうんちとして大変な高値が付けられた。これに対抗するように前期ヴィトゲンシュタインのものといわれるうんちが市場に出回り、両者は競合するように高値を更新していった。これらは彼の死後発見される事になる著作の名をとって青色本とか茶色本などと呼ばれ、哲学ファンの憧れの的となった。この事がマスコミで報じられると、途端にこれまで顧みられる事のなかったうんちがコレクションの対象として注目を集め、どこから出てきたのかデカルトのうんちやらスピノザのうんちなどが売りに出され、果てはソクラテスのうんちなどという怪しげなものまで現れた。
 それで、ヴィトゲンシュタインは悩んだのだ。この様な狂乱状態を作り出したそもそもの原因は私にある。私のうんちの不始末が原因だ。あの時、恥知らずにも長すぎるうんちを捨てて逃げた自分が情けない。長いからってなんだ。うんちはうんちなのだから、ちゃんと自分で責任をもって処理すべきだった。犬のうんちだって飼い主が持ってかえるではないか。そうだ、あの時トイレットペーパーを手に巻いてでも、うんちを分断し、少しずつ流せばよかったのだ。そう考えるだけの余裕はあったはずだ。にもかかわらずそれをしなかったのは、自分が可愛かったからだ。ああ、私は自分のうんちの始末も付けられない半人前だ、何ということだ、私という人間は……。え、でも本当にそうなの?
 よく考えると、うんちなんて所詮排泄物なのだから、そんなものにまで責任を持つ謂れがあるのだろうか? まあ、確かに流さなかった事については問題もあろう。後に入る人の事も考えなくちゃだめだ。しかし、それを勝手に持ち出した者がいたって、そんな所までは面倒見切れないよ。ましてそれを売り買いする奴がいたからって何だ。そんなこと、自分には関係ない。いや、確かに関係はある。しかし、この様なうんち高に対して責任があるというのではなく、その恩恵にあずかる権利があるということだ。そもそも、売り買いされているのは私のうんちなのだから、本来、収益は私のところに帰ってくるべきなのではないか。少なくとも、一割マージンくらいは欲しい。いや、断然とるべきだ!
 そこでヴィトゲンシュタインはうんちブローカー相手に訴訟を起こし、見事自らの権利を立証して見せ、うんちによって巨万の富を得た。その富によって彼は自らの邸宅に彼好みの美少年やら美青年やら美中年やらをはべらせ、毎日毎晩掘ったり掘られたり、それはもう色の限りをつくした。しかし、それによって彼には新しい悩みが生じてきた。それは、痔である。
 と、いうのが普通だろうが、実はそうではなかった。度重なる肛門性交によって、彼の肛門は徐々に広がり、うんちがとても太くなってしまったのだ。いや、太いならまだいい。場合によってはそれはうんちの形をなさず、うんちと言うよりはむしろ薄茶色い排泄液となって彼の肛門から流れ落ちたのだ! びちゃびちゃびちゃー。
 彼は何とか肛門を正常な状態に戻そうと考え、括約筋のトレーニングなどに勤しんだが、一度広がった穴はそう簡単には元に戻らなかった。大好きなアナルファックも断ち、再びあの程よい硬さの堅実なうんちを取り戻そうと、血の滲むような努力を続けた。しかし、結局、来る日も来る日も出るのは情けない鳥の糞のような排泄液ばかりで、とうとう普通のうんちが彼の手に戻ってくる事はなかった。
 それでも、彼がかつて排泄したうんちは相変わらず高値で売買され、毎月大変な金額が口座には振り込まれ続けた。自暴自棄になったヴィトゲンシュタインは酒浸りになったりもしたが、あいにく下戸であったため、飲んでもすぐに吐くばかりだった。そして吐きたての吐瀉物が便器からはみ出ているのを見て、自分の排泄物を思い出し、また鬱々とするのだった。
 こう穴が広がってしまっては、かつて彼を愛した男達も一人また一人と去っていった。「ルードヴィッヒ、君ってはっきり言って、ゆるいんだよ」。堅実なうんちも男も失い、それでも金だけはあり余るほどあった。もう彼の心の穴を埋めるものは金しかなかった。彼は巨大な邸宅に一人、金を湯水のように使って暮らした。豪勢な食事、贅沢な衣類、好きでもない女を買ってみたりもした。それでも彼の孤独は癒されるはずもなく、彼は一年足らずの間に老人のようにふけこんでいった。
 そんなある冬の朝、豪奢な天涯の付いたベッドからガウンに包まれた体を物憂げに起こし、ヴィトゲンシュタインは引きずるような足取りで毎朝の憂鬱な日課、トイレへと向かっていた。金色のノブを引いて個室に入り、ウォッシュレット付きの便器にまたがると、またいつものように茶色い液体が音を立てて水の中へとながれ落ちていった。そしてふと見ると、ある筈の場所に肝心なものがないではないか。紙がない!
 そう気付いても、ヴィトゲンシュタインは動じなかった。いまや、形のあるもので彼に手に入らないものなどないのだ。彼はおもむろに紙幣を取り出すと、それで丁寧に肛門をぬぐい、便器の中へ投げ棄てた。便器の茶色い混濁液の中で、丸まった紙幣が揺れていた。彼はふと思い立って、札入れの中の紙幣を総てその中へばらまいてみた。トイレの水面がポンドで覆われた。さらに小銭入れの中身もぶちまけてみた。飛沫を上げてコインが沈んでいった。便器の中では、往年の面影を失った哀れな彼の排泄物と、無数の紙幣と硬貨が交じりあっていた。彼は何故かとても寂しげな目でその様子を見つめながら、ゆっくりと、レバーを引いた。
 さようなら、うんち。さようなら、さようなら、私のうんち。


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