というか、大概の事は一人で出来る。
読書、入浴、映画鑑賞、オナニー、洗濯、食事、腕立て付せ、犬の散歩、排便、車の運転、年始の挨拶、広告取り、撮影、パフォーマンス、シャドウボクシング、便所掃除、旅行、靴磨き、出張、ファミコン、漢字ドリル、柔軟体操、
それに比べて、二人いなければ出来ない事といったら、すもうくらいだ。
すもうは、二人でなければ難しい。一人では、独り相撲だ。
若き日の力道山もそれで悩んだ。この戦後の焼け跡から日本国民が立ち上がるには何が必要なのか。しかし、よく考えると力道山はプロレスラーなので、それほどでもなかった。
だからといって、すもうをスポーツ化しようという動きは手放しでは歓迎できない。大体、女性用のコスチュームが間抜けすぎる。依然としてナプキン派が多数派なのも頷ける。
例えば、若乃花は比較的小兵なのに大きな相手に押し勝つ事が多い。その理由は強力な「おっつけ」である。「おっつけ」とは、相手の前腕の肘に近い部分を、自分の前腕や掌で下から押し上げる技である。
しかし、我が国もGNP世界第一位となった以上、西洋列国に追い付け追い越せではもはや通用しない。急激な近代化による公害や環境汚染、モラルの低下や都市犯罪の急増などの負の側面を忘れてはならない。今、極東日本に求められるものはなにか?
それは、愛だ!
愛してる、愛してるといっても、君のそれはエゴではないのか? つまり、相手を自分のものにしようという独占欲に他ならないのではないか。君は愛しているというより、単に嫉妬しているのだ。それはエゴであって愛ではないだろう。
それでは、愛とはなにか?
それは、すもうだ。
中国拳法には寸勁といって、一寸の距離からでも力を発する技術があるが、その秘密は力学的には、エネルギーを胴体に貯えるところにあるという。
実験してみよう。今、ここにコップ一杯(200cc)の水がある。次に、水酸化ナトリウム100グラムと二酸化マンガン20グラムを用意する。すかさず、水をぐいっと飲む。すると、汝の渇きは忽ち癒されるであろう。アラーの奇跡である。
たちまち、インターネットブームだ。昨日はニューメディア、マルチメディアときて何とも騒がしい限りだ。電子レンジが懐かしい。
この様な惨状を大仁田厚が見逃すわけが無い。テレビのニュースを見ると、すかさず自らの運転で被災地へ乗り込んだ。道路は至る所でひび割れ、絶望的な交通渋滞である。しかし、男大仁田こんなところでへこたれるわけにはいかない。大仁田は車を降り、倒れた電柱や道路標識を利用して、忽ち即席鉄条網爆破リングを作り上げた。
「ファイアー!!」
ファイアーじゃねえよバカ。
そうはいっても、なかなか割り切れないものがある。修理に出すより新車を買ったほうが安いのは分かる。だが、何と言っても永年乗り付けた愛車である。たくさんの思い出がつまっていて、愛着もある。大体、何でも新しいものに買い替えて古いものを捨てるというのは、来るべきリサイクル社会にふさわしくないのではないか。人件費等のコストの問題もあるだろうが、買い替える方が安いという経済自体にどこか矛盾があるようにも思われる。アインシュタインもこう言っているではないか。
E=MC2
完全に正しい理論というものは、何ら変革の可能性を持ち合わせていない。そして人間は常に失敗する生き物である。人生はある意味で無数の失敗によって導かれている。彼岸にある普遍の調和へと向かいながら常に生まれるズレこそが、真の意味で変革の契機なのではないのだろうか。
すもうはいい。だが、すもうが人生の総てでもない。
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