残響通信第十五号

前編

主な項目

前回までのあらすじ
線形性とリアリティ
それでも「分からない」!

道徳の道徳による道徳的解体
「無断転載したものは殺す」について
個人
今月の詩・短歌
どうぶつ主義追加情報
書いてるのはこんなひと

前回までのあらすじ

 苛立ちから始まった残響塾は、妄想科学の力により急速な発展を遂げた。キング・ザーメン238世による月面統治を達成した残響塾は、新たに地上に羊を展開、全世界どうぶつ化の壮大な計画を開始した。これに対し、民主主義人民帝国軍は、新型衛星興奮剤ザ・ワールドの投入により戦況の転覆を図った。ザ・ワールドによって平行四辺形が生成された。ザ・ワールドはもともとは旧帝国陸軍が大陸戦略用に開発したものとも言われてるが、これは平面パース的世界観を醸造するものであった。帝国軍はギフンG、ドートク3、ヨハネ1といった改良型を次々と開発し、羊の毛を刈っていった。ドートク3は、定説では1987年にローマ教会がアメリカ西南部で使用したのが始まりである。ギフンG、ヨハネ1の開発がいかにして行われたかは定かではないが、衛星を利用した薬物という点で、単なるほ乳類である羊を圧倒していた。
 これに対抗するために、残響塾は記憶力エネルギーを利用した兵器を開発、機動戦士の戦線投入を踏み切った。機動戦士ガンダムに続いて開発された量産タイプ機動戦士メリーさんには、ヨハネ1の効力を完全に無効化する力があった。しかし、機動戦士も過剰な物語を創り出すことにより自家中毒状態に陥り、再び残響塾は劣勢に立たされることになった。問題は、有限の物語をいくら集めても現実にはならないということにあったのだ。この事実をザ・ワールド、ドートク3は覆い隠してしまった。
 事態を重く見たキング・ザーメン238世はメリーさんにブラジャーを装備、ソロモンを最終防衛ラインとして決戦の布陣を組んだ。臨界寸前のノーブラ型メリーさんを突入部隊とし、続いてハーフカップ、フルカップの部隊がザ・ワールド亜種を掃討していった。この敗戦により民主主義人民帝国軍は分裂、守旧派が残った衛星兵器による韓半島決戦を唱える中、若手将校等を中心とするグループは残響塾の羊を改造した電気羊を開発、これにより夢を見た。
 革命派は電気羊により守旧派から最終兵器クリスちゃん・ドリームを奪取、電気羊の改良型である電波羊を用いて反撃に出た。クリスちゃん・ドリームは、複数の衛星から構成された複合型抗鬱剤である。その衛星群はマザー・テレサ、マザー・グースといった往年のマザーシリーズにより構成され、これがクリスちゃんのクリトリスを励起することにより約2億年の強力な信仰を作り出すことが出来る。1992年末、クリスマス停戦の賞味期限切れに合わせて計画は実行に移され、地上並びにコロニーの残響塾勢力はほぼ壊滅状態に追い込まれた。さらに電波羊による波状攻撃が月面を襲い、民主主義人民帝国軍はキング・ザーメンの王宮に届かんとしていた。残響塾は風前の灯火であった。
 この危機にあって、特命を受けた最後の機動戦士スペルマ太郎は、残された記憶力エネルギーを携え女の胎内に潜入しようとしていた。王宮を囲む電波羊からは不断の韓国人が続いている。残された方法は、全ほ乳類を用いた核攻撃のみである。しかしその為には何としてもクリスちゃんの処女膜を破らなければならない。ガニメデに隠されていた最後のほ乳類部隊が、核弾頭を抱えて軌道上で突撃のゴーサインを待つ。
 1652年、スペルマ太郎は残響塾の希望の総てを背負い、クリスちゃんの陰毛をかいくぐり進んでいた・・・。 

線形性とリアリティ(失敗)

 山村たけゆうの新作映画企画が進行している。
 長い間停滞していた企画がようやく少しずつ動き始めた。そもそもこの企画は昨年の夏完成を目指したものが始まりだったが、まったく企画が動かないままに立ち消えとなり、その後脚本は完成したものの、これもボツになった。もっと生活感のある、日常の延長として理解できる作品を目指して書かれたものだった。
 どんな平凡なネタでも良い映画はとれるはずで、それならばネタは日常的な方がいい。そう思って始められた企画だったが、出来上がった脚本も納得のいくものではなかった。私には日常的物語を語る才能が決定的に欠けているようだ。というより、私の語る物語が私の日常なのだ。もちろん私が毎日ロボと闘ったりしているわけではない。しかし、我々のリアルな世界の感触というのは、テレビドラマのような線形的なものではなく、本当はもっとバラバラで恣意的連想に満ちたものなのではないか。コンセントと絨毯とお母さんが併置される世界。少なくとも、かつてはそうだったはずだ。そう思えてならない。
 インディーズ映画の世界では、特撮は別として、いわゆる「日芸モノ」、すなわちほとんど日常で少しだけ非日常でちょっとイイ話というのが大変ウケるようだ。勿論それはそれで大いに結構なことだし、そういう映画の中に本当にいいものと認めざるを得ない作品がしばしばあるのは事実だ。しかしそれらの作品が「良い映画」であるのは、その作品が「ちょっと良い話」だからでも日常からのささやかな逸脱を素材としたからでもない。にもかかわらず、多くの観客や映画の権力者達はほとんど全くと言っていいほどこのことに気付いていない。
 私は別段ここで、「日芸モノ」を批判しようとしているのではない。リアリティが物語の線形性に依存しているという信仰を告発したいのだ。
 ある種の人々にとってはそんなことは声高に叫ぶまでもなく、自明のことだろう。ここでこんな事を書きつづっているのも正直言って恥ずかしくてたまらない。それでも敢えて告発せんとするのは、上のような信仰に犯された人々が群を為し、数で権力を構成し、結果として多くの表象芸術をつまらないものにしている現状があるからだ。
 こんなことを書き連ねていること自体に、深い脱力を感じる。映画について私が何を書こうとそれが力を持つことなどないだろうし、仮にこれを読んだ人がいくばくかの共感を覚えたとしても、それはもともと「味方」だったからにすぎない。テクストというのはそういうものだし、いかなる形であれメッセージを伝えうるものは総てそうだ。
 別段映画に義理立てする理由もないし、道義心に駆られて行動してしまうほど恥知らずでもない。私は「映画ファン」でもないし、「映画を愛して」もいない。何を作るにせよ十分に説得力のあるモチベーションなど私にはないし、そんなものは初めからどこにもなかったのだ。未だにそんなことを信じていられるほどお目出たくもないが、お目出たい人間こそが「正しい」のだというのも事実だ。世界はそのようにして動いている。私は犯罪者だ。
 線形性とリアリティについてまとまったことを書いてみようかと思ったが、やはりバカバカしくなって続けられなくなってしまった。このテクストはB級だし、私のテクストは総てそうだ。B級でなくていられるというのは余りにも信仰心がない態度だと思うのだが、まあそんなことはどうでもいい。とりあえず余りにも映画の進行が遅いので、さしあたってもくろんでいることだけ走り書きしておく。 

1 部分部分の意味と全体の意味が連携しない。
2 部分部分は部分として分かり易いが、その解釈の延長によって全体を理解することは出来ない。
3 全体を理解する場合の解釈格子で部分を理解することが出来ない。

それでも、「分からない」!

 私はかつて、残響通信9号で「分からない」という声に対する苛立ちを込めて、「分かる」という事に関する稚拙な仮説を立ててみた(後の引用を参照)。それは概ね次のようなものであった。分かるということは線形性に依存している。概念と概念の連続性が密であれば分かり易いし、疎であれば分かりにくい。しかし結局の所、この連続性は概念間のジャンプによるのであり、究極的にはこの連続も非連続なデジタルな関係の積み重ねによっている。線形性が線形として成り立つには、即ち物語が走り出すには、この原初のジャンプ(分裂病的な連想関係)が不可欠であり、結局の所「分かる」ということは「分からない」ということにささせられているのではないか(これは上で触れた映画の構成における線形性とリアリティの問題とも関係する)。
 最近になって感じることだが、この仮説が仮に正しいとしても、それを置いて尚、「分からない」という声は上のような問題だけでは計りきれない気がする。一つには、冷静に観察するに、「分からない」という人たち一部は、どう見ても上のような思考のプロセスを経て「分からない」と結論づけているようには見えないということ。それは実際に上のような過程を践んでいるかどうかではなく、そのような過程を践むことが可能性として(文法的に)想像できないということである。第二に、私自身が最近になってこの「分からない」という感覚をしばしば覚えるということである。良く考えればこのような感覚は以前からあったものであり、それは明らかに上のようなプロセスを経た上での結論ではなかった。
 断って置くが、上の仮説が間違っていて、人が「分からない」と言うときには別の原因があるのだ、というのではない。「分からない」には二種類の「分からない」があるのではないか、と言っているのだ。
 一つは連続性が疎であるために「分からない」という場合で、これは上の仮説で十分に説明が付く。このような人に「分かって」欲しければ、ただ丁寧に説明すればよい(実際に分かるかどうかはその人の理解力や忍耐力、興味によるが、原理的に可能だ、という意味で)。もう一つの「分からない」を人が発する場合、説明するのが難しいが、その人は対象の前で呆然としてしまっている。ただただ、「分からない」のだ。これは離人症的感覚と類似しているように思う。対象がバラバラの書き割りのようになって、実体感の持てない感じ。
 言うなれば、前者は考えた結果「分からない」(あるいは、実際は考えなかったが、たとえ考えたとしても「分からない」)、後者は考えるも何も「分からない」のだ。これは理解力や忍耐力の問題ではない。後者は本来は「分からない」と表現するのは間違いなのかも知れないが、多くの人が後者のような状態を「分からない」と表現している。「掴めない」「感じられない」とでも言えばよいのだろうか。
 後者のような「分からない」を認めてしまうことは、勿論危険なことではある。感覚に頼ることになりかねないからだ。感覚に訴えるとき、人は共通感覚を通じて何かを伝達しているような気分になるが、実は単にコミュニケーションとを放棄していのだ(「だってほら、いい感じでしょ?」・・・)。それでもなお、このように表現せざるを得ない事態というのが実際にある。
 後者の「分からない」は前者の「分からない」よりずっと根の深いものだ。後者を乗り越えて初めて前者の階級に立つことが出来る。映画を見た感想で「なんだか分からないけれど良かった」という人がいて、かつて私の友人は「なんだか分からないのになんで良いんだ!」と憤っていたが、両者の間では「分からない」の意味が違うのだ。前者の意味で「分からない」にもかかわらず「良い」と感じることは可能だが、後者の意味で「分からない」にもかかわらず「良い」と感じることは文法的に不可能である。その時、この人は「そのものがそこにある」という感覚に到達できていないのだ。
 整理するために、前者の「分からない」を「連続性の分からない」、後者の「分からない」を「存在の分からない」としてみる。連続性によって対象を理解する(理解したと思う、リアリティを感じる)状態は、存在の了解を前提としているが、実は両者は単純な二段重ねの構造になっているのではない。というのも、連続性によって対象を了解する場合でも、上で述べたように最初の一歩は不連続なジャンプ、分裂的な跳躍による筈なのである。それ故に「分かる」は「分からない」に支えられていると言ったのだ。ところで最初のジャンプが可能になるためには、一旦カテゴリーの環が解体され(分裂)、対象が総てバラバラに併置される契機が必要だ。この状態は正に「存在の分からない」そのものではないか。この状態を単に連続性の途切れた状態と誤解してはならない。「連続性の分からない」は「分かる」状態の反射によって初めて成り立っているが、「存在の分からない」は「ただただ分からない」のだ。健常な人間が長時間このような迷妄状態に陥ることはあまりないだろうが、線形的な世界の了解は総てこのような分裂を契機とせざるを得ない。ただそのことに自覚的な人間とそうでない人間がいるだけだ。
 結局、作品や目前の事態に対して「分からない」と人が言うとき、二種類の状態がある。一つは再三私が批判してきた「分からない」で、この時この人は苛立ちやいくばくかの怒りを込めて「分からない!」と叫ぶはずだ。もう片方の人に怒りはない。ただ「分からない・・・」と弱々しく呟くだけだ。
 前者の「分からない」人々に対しては依然として苛立ちを禁じ得ない。彼等は自分が手にしているものが、いかに多くの排除の元に成り立っているかを知らないだけだからだ。彼等は単に「恥知らず」なのだ。勿論、世界は「恥知らず」な人々のものだし、彼等は「正しい」。だから彼等に対して苛立っている私も、ヒステリックに吠えたてる弱い犬と変わらないのかも知れない。私も声を大にして叫ぶ愚か者の一人だ。限られた人々だけが、小さな声で「分からない・・・」と呟く勇気を持っている。彼等は、我々の誰もが世界を前にして呆然と立ち尽くしていることを忘れていないのだ。

 もう一つ、以上の論点とは表面的には独立した問題として、「分からない」ものは「カッコイイ」という点がある。このセンスが単に現代的なものなのか、特殊日本的なものなのか、あるいは特殊近代的なものなのか、ここではっきりと検証することは出来ない。しかしそれが一般的であるかどうかはさておき、このようなセンスが可能なものとして少なくとも我々の時代に存在しているということは確かだ。
 これは例えば、多くの日本人が英語をまともに理解しないにも関わらず(だからこそ)英語のフレーズや歌詞の分からない歌に惹かれるといったものである。スペルもおぼつかない英語のプリントされたTシャツを着て歩くのを、「恥ずかしい」としていさめる向きもあるだろうが、このような批判こそ何かを「知っている」方が「知らない」よりも「良い」とする独善的なドクマにとらわれている。加えて、批判者とその対象では「分からない」レベルが単に違っているのだ。そのような差異を無視(あるいは取るに足らないものとして排除)して「恥ずかしい」などと一方的に感覚を押しつけるのは、感情移入と共同体意識の過剰というものだ(それを分かって尚暴力的に判断を押しつけるのならそれはそれで立派な見解である。私ならそうする)。ヘンテコな横文字や黒人風のファッションが流行るのは、単に今時の若者がクルクルパーだからではないだろう。適度に「分からない」モノが「カッコイイ」とする風潮は、もう少し根が深い筈だ。
 それはつまり、卑近なものは低級に見え、自分から遠いものほど「カッコイイ」感じがするということだろう。自分に近しいものは、細部までよく知ることが出来るだけに底が見え、つまらない、低級に見えるのだろう。これがどこまで一般的な感覚なのかは定かではないが、よくワカラナイものを高貴なものとして畏れる傾向はかなり普遍的であるようだ。
 我々はズレを記号として認識しているのであり、認識の原理から言ってズレが巧妙で在ればあるほど、格好良い、「カッコイイ」印象を持つことは想像に難くない。巧妙というのは曖昧な表現だ。あまりにズレてしまって両者の関係が知覚できないまでになると、それはズレとして認識できなくなってしまう。それ故にある一定のズレ度がカッコイイというラインが在るはずで、それを巧妙なズレと呼んでみる。この一定のラインというのが何によって定められているのかはここでは関係ない。
 ところで、この巧妙なズレというのは、実は最初に扱った方の「分からない」そのものではないか。分裂的なジャンプによる物語の最初の一歩、それはこの巧妙なズレそのものではないか。こうなると「分からない」が「カッコイイ」と言っていたはずが、実は「カッコイイ」とは「分からない」ことなのではないかということになる。「分からない」が「分かる」を醸造し、「カッコイイ」が「カッコワルイ」を函養する。
 だからといって勿論、「カッコイイ」と感じる人がいちいち「わからなさ」を感じている訳ではない。また例えばある作品の感想に「分からない」と言う人がいても、その人は「カッコヨサ」を感じていたりはしない。正にこのような人々を念頭に置いて「分からない」に関する議論をはじめたのだが、結局の所このような人々は単に作品に対する接し方に失敗していただけなのだ(この失敗に作者が何ら責任がないとまでは言わないが)。表象芸術は「わからなさ」、ズレの布置そのものを提示しているのであって、部分の「わからなさ」が全体としての合、一致、「分かる」を構成しているのだ。

「分からない」 (残響通信9号より)

 分からないということと分かるということは究極に於いて同一のものといえる。
 まず、分かるということはどういうことか。乱暴な言い方をすれば、我々が分かると言う時、そこに何らかの連続性を認めているといえる(風が吹くと桶屋が儲かるでは分からないが、間を全部説明すれば分かる)。一方で、この連続性は何によって支えられるか。連続性を分解していけば、いつかは非連続的な断面にぶつかるはずだ。最初に立った猿が全力で走るように、走り出すには立ち上がることが必要だ。連続性とは物語性であり、物語は断絶から始まる。
 この断絶を飛び越えるのは、分裂の力であるといえる。ある整然とした概念の集合と別の集合が無関係恣意的にに(!)接続されることから、物語は展開する(赤い車を見てCIAを連想する・・・)。しかし、そもそもそこにあったのは圧倒的な非連続的断面である。それゆえ、連続性の根源には非連続性が潜んでいるといえる。分からないことと分かることが同一であるのは、この意味に於いてである。
 物語の最少単位はこの様な概念の結婚である。さらに概念の結婚は近縁より遠縁にある方が物語の速度は増し、実際の物語の生成は、まさにインセストタブーのような複雑で無根拠な恣意的必然によって規制され、さらに多くの概念の結婚が複雑に積み上げられている。その多くは単に文化的(いまやまるで信用ならなくなった、あの文化)なものである。(残響通信9号より抜粋、一部加筆)

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