残響通信第十五号

後編

主な項目

前回までのあらすじ
線形性とリアリティ
それでも「分からない」!

道徳の道徳による道徳的解体
「無断転載したものは殺す」について
個人
今月の詩・短歌
どうぶつ主義追加情報
書いてるのはこんなひと

道徳の道徳による道徳的解体

 それは失敗を約束された仕事だ。しかし、ある種の人々はそのような仕方によってしか道徳を壊すことが出来ないし、また道徳を壊さないではいられないのだ。私が道徳について語ってきたこと、そしてこれから語ろうとすることは、総てこのような失敗を約束づけられた仕事の一環である。その人生の困難さが理解されてはならないということによって特徴づけられているが故に、人よりは少しだけ困難な人生を歩むことになるであろうこの種の人々にとってのみ、この仕事はささやかなりとも力になる可能性を残している。勿論、私はそのような人々の力になるために書き続けているわけではない。彼らの為に成されたものは、総て彼らの力にはならないだろう。つまり、それが彼らの抱えている困難なのであり、また彼らが(時には道徳を壊すために)何か一言でも言葉を発しようとする度にその胸の内で燃え上がる忌むべき道徳心なのだ。
 彼らはニヒリストと呼ばれることがあるかも知れない。しかし少なくとも、彼らをそう呼ぶ人々の言う意味で、彼らがニヒリストであることはない。彼らは空虚なものを信じてはいないし、少なくとも信じまいとしている。彼らをニヒリストと呼ぶ者達こそが本当のニヒリストなのだ。というのも、その者達は空虚なものを信じることによって力強く生きることに成功しているのだから。それは神であるかも知れないし、金であるかも知れないし、また地位であったり、名誉であったり、名前であったり、正義であったり、義気であったり、時にはわき上がる怒りや衝動、「感じ」「思い」そのものであるかもしれない。神を礎にして立ち上がる者達は、神を信じてはいない。彼らは神の概念や機能を信じているのであり、神の存在を信じているわけではないからだ。常に宗教が神を殺していく。そして置き去りにされた信仰心を最後まで守り続ける者達に与えられる蔑称がニヒリストなのだ。勿論、彼らは決してニヒリストなどではない。彼らは語の真の意味でリアリストなのだ。
 だが人は彼らをリアリストとしは呼ばないだろうし、自分自身でも別の意味で認めることが出来ないだろう。だから蔑みや非難を込めてニヒリストと呼ばれたときでも、しばし逡巡してから肯定の言葉を口にするしかなくなる。この肯定は、二重否定であり、否定の否定であるにすぎない。彼らは絶対の肯定を夢見ながらもただただ否定を繰り返すことしかできない。突破口を開こうとして語り始めても、ますます追いつめられ、結局は沈黙せざるを得なくなる。人は彼らが敗北したと思うだろうし、彼ら自身も思うだろう。だからそれは、要するに、敗北なのである。

 敗北を約束された人々のために。
(この記事の総てのテクストは残響通信11号「キリスト教徒」に関連)

 怒れる人々たちは、しばしば偽善に対して怒っている。彼らは偽善こそが最も憎むべき悪の一つであると考えている。それは、知った顔をしたそれこそ「偽善的」似非宗教家から、自らに潜む悪の可能性を常に告発し続ける(「自己批判」し続ける)社会運動家まで変わらない。しかしそもそも、この偽善とは何者なのか。
 偽善を憎む人々はそれがが巧妙であればあるほどよりそれが悪であると考えるだろう。しかし、こう考えることは出来ないか。偽善とは善くないモチベーションのもとに善いフリをすることだが、善いフリをするということは、要するに善いことなのではないのか。人助けが道徳的に善いことだとすれば、どのような動機の元に人を助けようと、それは善いことではないのか。例えば、非常に巧妙な嘘は真実と見分けが付かない。そして多分それは、真実なのだ。道徳的な意味ではなく、論理的な意味での「正しさ」についてであれば、ニセの「正しさ」などどいう概念は成り立たない。「正しい」フリをするが実は「間違っている」という状態は理解できない。
 しかしこの考えは間違っている。少なくとも、我々の道徳はこの考えを否定する。道徳はもっとずっと深いところまで我々の中に入ってきているのだ。道徳が純粋に社会を健全に保ち互いの利益を守るために機能していた時代(そのような時代があったかどうかはおいて)には、そうではなかっただろう。利他的行為は動機の如何に関わらず「善い」こととされた筈だ。勿論、「悪い」動機がすぐに見える「偽善」、現実にその行為が他人を害する場合はそうではなかっただろう。しかし「悪い」動機が非常に巧妙に隠されていた場合には、たとえそれが後に露見しようとも、現実に何者も害さないものは悪とは呼ばれなかった筈だ。しかし、ある時を境にこのような巧妙な偽善が悪に分類されるようになり、しかももっとも悪しき悪とされるようになった。
 現在地球を制圧している道徳体系は、善悪の判断を結果や現象ではなく、意志によっている(「善意志は光輝く」!)。善い意志で為したことが善なのであり、悪い意志で為したことは、結果がどうあれ悪なのだ。もし道徳の目的が互いの利益の保護にあるのだとしたら(*1)、これは完全に倒錯した状態である。道徳は人の心の隅々にわたって小さな悪の種を探して回る。「お前はそれを善いつもりでやっているが、その裏には利己的な心が働いているのではないか?」。「つもり」まで告発するに至り、意志の後ろにある意志にまで細い光が当てられて検分されるようになる。善いつもりだが実は善くないとは一体何なのか。そんな疑問をなぎ払って道徳は細い針のように心の深層を犯していく。勿論、そんな内奥を他人の知るべきもない。本当の善悪を知るのは神と本人のみとなる。凹面鏡の焦点のように中空に神の概念が浮かび上がる。勿論、本当に知っているのは本人のみだ。「お前は…」と語りかける声の主はその者自身に他ならないが、それが二人称で語りかけてくる(と想定しうる)、あるいは二人称で語りかけてくる者をその者自信であると断じられることは、一つの奇跡である。
 偽善を告発する人々、とみに表面上「道徳的」と評されている言説の偽善に怒っている人々は、道徳の特有の胡散臭さに対して生理的に反発している。偽善を告発する者をやはり偽善であるとしてさらに告発する者達は、一層強い道徳に対する反発心に突き動かされている。しかしその根本的な動機は、とりも直さず道徳心そのものなのだ。
 勿論、「偽善的」と既にレッテルが貼られた行為を告発する場合は別である。彼らは単に偽善的なのだ。偽善の告発の本質は、未だ善とされているものの隠された悪い本質を暴き出すことにあるからだ。だから偽善の告発は道徳(的とされているもの)を対象とせざるを得なくなる。それ故、最も鮮烈に偽善を暴かんとする者は、一見非道徳的に見えるだろう。また重要なことは、その者自身も自分を道徳的な者とは認めないのだ。今や自らを道徳的と評すること自体が非道徳的となった。そして道徳に対峙し、道徳を責めたてる者が最も道徳的なのである。
 問題はこの非道徳的であるが故に最も道徳的な者がその矛盾に気付いてしまった時だ。そうでなければ、彼は単純に道徳の経済の一翼を担っていけばよいだけである。道徳には無条件に翼賛する多くの者と、それに対峙し責められる少数者がどちらも必要なのだ。善も悪も道徳の経済の一部に過ぎない(*2)。重要なのは、悪であることの善に気付いた者がどうするか、だ。
 彼は前に進んでも後ろに戻っても「道徳的(=偽善的)である」として自らを責めたてるだろう。それは悪であることの苦難より遥かに大きな苦しみをもたらすだろう。
 彼らはしばし歩みを止め、考える。「告発すること、暴きたてること、あるいは偽善や不正、いや道徳自体に対して心頭から発する許しがたい何か、それら自体が一種の正義なのではないか」。
 彼が最初にいた場所が道徳の道徳的解体の第一段階である。そしてこれから進む場所が、その第二段階になる。
 
*1:これは自明であると同時に「とんでもない」考えだ。ある人々はこれを自明であり、何故そんなことを取り立てて問題にするのか、と言うだろう。一方である人々はこの考えをそれ自体「非道徳的」なものとして非難するだろう。この人々にとっては、道徳がその外側にある何らかの価値によって説明されること自体が許しがたいのだ。
*2:この点に関し、いわゆる「ワル」「ヤンキー」が割合と早い時期に結婚し子供を設け、「まっとうな」お父さんとして人生を歩んだりすることは示唆的である。

 怒りという感情は純粋な利己心から発されることはない。それは常に一貫した論理=倫理から発せられる。勿論、それが本人以外にとってスジが通ったものである保証はない。それどころか、本人自身にとっても、少し時間を置いて考えたらスジが通ってない場合の方が多いかも知れない。しかし、距離をおいて眺めれば利己心から怒っていたに過ぎなかったような場合でも、少なくともその瞬間、その本人にとってはささやかなりともスジがあったはずだ。これは統計的な問題ではない。文法的な事実だ。我々はスジの通っていない怒りを怒りとは呼ばないのだ。脈絡無く突然わめいたり暴れたりし出した者を見ても、我々は「発狂した」などと思うだけだろう(*3)。
 怒るとき、常に我々には「なんで私がこんな目に!」「こいつ、許せない!」などといったバックグラウンドがある。そうでないようなものは怒りとは呼ばれない。それが外見上いかに利己的に見えたとしても、当人にとって怒りの根拠が自分の外にある(スジが通っていない、倫理的に許せない、不合理だ、、)以上、それは純粋な利己心から起こったことではない。
 ここでスジと言っている外側にある(と当人が信じている)一貫したルールのようなモノを、「義」という概念で置き換えてみることも出来る。「義」から起こる怒りを義憤と呼ぶ。しかし怒りは総て、広義の義憤なのだ。
 勿論、怒り一般を義憤と呼ぶことは通念上の義憤の理解とは相反する。しかしどんな怒りも、なんらかの「義」を出発点としなければ文法的に発し得ないものなのだ。それ故にやはり、総ての怒りは(広義の)義憤なのである。

(余談になるが、ここで「義」と呼んでいるようなものは、当然通念的に正義として認識されるようなもの(利他的なもの)とは限らない。「義」「スジ」「道徳」「正義」とはそういうものなのだ。「正義漢」ほどうっとうしい人はいないでしょう?)
 
*3:よくよく訳を聞いてみたらそれなりに理由があった、という場合は別。また現実には誰にも理解されなかったとしても、理解される可能性があった場合は(理解される可能性を我々が理解できる場合は)、それは怒りであると言える。現実には両者の境界は曖昧だろう。

2・1

 怒りの外見上利己的な理由によって説明づけることにより、利己的な怒りを演出することは可能かも知れない。最初と最後が外にあるものに向かい、真ん中だけが利己性にピン止めされる。このような利己性の演出に意味があるのかは分からないが、全き道義心以外の何者もこの演出を動機付けはしないだろう。(残響通信12号「義憤を殺せ!」参照)

2・2

 倫理的なスジを「義」と呼び、論理的なスジを「理」と呼んでみる。現象に於いては義と理は遠く隔たっているが、極小に於いては弁別し難いまでに接近してくる。両者の出自は共に暴力である。義も理も「我に(於いて)義(もしくは理)有り」と用いるが、両者を併せると「義理」という言葉になる。義理は「我は**に(於いて)義理がある」と用いる。義理は義と理を対象に預ける概念だ。義と理を預け、何かを借り受けることにより契約が成立する。我は一旦去勢され、借りを返すために生きる。あるいは借金自体によって生が成立する。借金を罪と読み替えることはことは可能だが、逆は必ずしも真ではない。ヨ10)

2・3

 利他性に誘発された利他性は利己性による功利的起源を失う。その者の利己的要求と利他的要求は連続性を失い、分裂する。こうして道徳的葛藤、内面の悪と善の戦いがが始まる。愛は一回切りなのであり、キリストは一度だけ犠牲になったのだ。

 偽善が問題なのではない。義憤が問題なのだ。偽善の告発に駆られている者は、その告発自体によって彼の反発する道徳の腐臭にからめ取られている。彼が本当に対峙しなければならないのは義憤であり、それは文法的に対峙しがたいものなのだ(何故なら、総ての怒りは義憤であると言うことが出来るから)。この事に気付いたとき、告発者達の本当の不幸が始まる。彼らは「かわいそうな人たち」と呼ばれるかも知れない。だが本当の「かわいそうな人たち」はずっと遠くにいるのであり、本当の「かわいそうな人たち」は少しもかわいそうではない。何故なら、「かわいそう」と哀れむ人たちは単に無力なだけだからだ。告発者達の不幸は彼らが実は単に素朴な悪人であったことであり、そもそもの始まりは彼らの持つ道徳心にあった(だから「悪人は救われる」し「悪人こそ救わなければならない」のだ! もちろん、神も宗教者も狂人を救うことは出来ない)。彼らが取る選択肢は、道徳的自己憐憫に生きるか、偽善を告発する愚鈍な者を装うか、あるいは本当の「かわいそうな人たち」として道徳の遥か遠方の丘に隠居するか、だ。真実はただウソよりほんの少しだけ外にあっただけであり、街の中央の広場には善人達が屯する。『善人は決して真実を語らない』

 ある種の人々は自分の不幸を墓場の底まで持って行かざるを得ない。というのも、彼らは自分の背負った不幸の重荷を下ろし、いかなる方法によってであれ幸福になるということが道義的に許せないからだ。それは彼らの不幸が、優れて道徳的であるが故に道徳を憎むということにあるからだ。勿論、だからといって彼らは幸福なものを憎んだりはしない。むしろ率直にうらやむことさえあるだろう。彼らの憎むのは善人であり、その憎しみを憎み、憎む善人である自分を憎み、悪人として罰されようとするがそれもままならぬ悪人であり善人である自分を嘆き、しかし嘆きを悟られまいとして同時に悟られまいとする自分を呪い続けるのだ。世界を制圧したキリスト者たちは現世で救われるが、本当のキリスト者はやはり最後の審判を待つより他にない。そして恐らく、最後の審判はやってこないのだ。何故なら、それは既に起こってしまったのだから。

 誠意を善意によって「しか」表せない者と、悪意によって「しか」表せない者がいる。前者は後者を哀れみ、後者は前者を愚弄するが、その本質は共に軽蔑である。ただ前者はそれを愛と呼び、後者は個人的な怒りだととる。後者の主張は一見一貫性があるようだが、その怒りは心頭に発する怒りであり、結局の所ある種の義の精神から発しているものである点において、やはり破綻している。彼らもまた、前者とは異なる仕方で「正しさ」と「善さ」を混同しているのだ。
 前者はいかなる理由によっても後者を許さない。それ故に前者は必ず後者を許さざるをえない(つまり、「愛は勝つ」!)。寛容が不寛容を醸造する。しかし、『善意思は光輝く』と信じる者達は、どうして後者を責めることが出来るのだろう? 後者は選んでそのようなあり方をしているわけではないからだ。「為した」ことから「起こった」ことを引いていったら何が残るのか。この疑問は道徳を意思の善悪によって判断する人々を困らせるだろう。だから前者は何としても「為した」と言わなければならないのであり、実際、「為した」と言うように世界は出来上がったのだ。今日的な意思と道徳の成立は同時的はないかと思われる(*4)。
 前者は「愛は勝つ」と言うが、後者は「勝つもの、それが愛なのだ」と揶揄するだろう。そして後者は「正しい」のだが、残念ながら、後者は既に敗北したのである。前者は将来における愛の勝利を信じて苦難と闘うが、愛は既に勝利したのだ。

*4:この点に関しては「責任1」「責任2」残響通信11号参照。自由意志の問題と関係する。意思というよりは意思する主体。道徳が計量可能になった(今日的な道徳のパース=経済が出来上がった)ことが責任をとるということ(意思する主体が存在する)ことを基礎づけているのではないか、ということ。

 我々の世界に溢れる悪について語るのに、いわゆる性悪説を用いても何も説明出来た事にならない。「悪いから悪いのだ」といったところで、同語反復にすぎない。
 我々が存在する、その事自体は道徳に鑑みて、善と言うより他にない。問題は、善が悪を生むということだ。
 だからやはり、繰り返し繰り返しこう言わなければならない。『君は悪から善を作るべきだ、それ以外に方法がないのだから』。
 しかし本当にそんなことが可能なのか? こう言ってしまった途端にそれは不可能事として先に繰り延べられていってしまうのではないか。ラスコーリニコフの悪夢の様に、限られた人々だけがそれを実現するだろう。そして『その者達を見た者も聞いた者も一人もいなかったのだ』。
 いかに肯定を夢見ても、それは延々と続く否定の言葉の裏返しに他ならない。我々は結局、奇跡に期待するより他にない。それは多分、忘却という名で人知れずやってきて去っていく。『その者達を見た者も聞いた者も一人もいなかったのだ』。
 奇跡は始まりであって結果ではない。奇跡のために我々に出来る唯一のことは、ただ待つことだ。

 狂気に逃げてはならない、まして怒りになど、という「戒律」。

 サカナを持っていた彼女はキリスト者だった。それは間違いない。私と彼女は出会ったが、やがて別れ別れになった。彼女は私を救わなかったし、私も彼女を救わなかった。サカナは結局なんだったのか?
 私は一度感激し、次に絶望し、今密かに失われた密通の意味を考えようとしている。
 サカナは迫害されるキリスト者達の符丁だ。
 今やキリスト者だらけとなった世界を、依然サカナは泳ぎ続けている。かつてローマ人の間をぬってキリスト者達をつないだサカナは、今ではキリスト者の海を泳いでメッセージを運んでいる。
 サカナがたどりつくのは最も弱い人々、それ故に最も「正しい」者達のところだ。
 勿論、現代ではサカナは「正しさ」を伝えたりはしない。「正しさ」は既に余りにも汚れてしまった。「正しさ」程悪しきものは見つけるのが困難なほどに。
 それでも、サカナはやはりある種の「正しさ」を伝える。それなしでは生きることの出来ない貴重なものを伝えている。メッセージの内容は度々流転し、とても同定しがたいまでに変化していくが、その意味は常に一定であり、極論すればそれは「苦しみの意味」だ。
 そしてその弱い人々は意味に食われる。
 サカナは腐臭をかぎつけ、弱り切った人から順に食らいついていただけなのだ。
 彼らはより一層苦しみ、それにより幸福を掴むことが出来るだろう。
 だが「本当は」、彼らは無意味な苦しみの前に悶え、その身を千々に引きちぎられ、陵辱され、何の救いもなく死し、尚その屍を強者達の足で踏みつけにされる「べき」だったのだ!!

 苦しみに意味を見出すことを諦めるとき、一つの潔い方法は、人生の目的が苦しみそのものであると考えることだ。両者は似ているようで違う。苦しみが人生の目的であるというアイデアは、それ以上の説明(何故苦しみが目的なのか?)を何一つ与えてはくれない。それでいてシジフォスの神話の様な人生に対し、一片の阿片として、「善なる嘘」機能する。
 この考えの最大の問題点はおそらく、我々の存在の可能性について何も語ってくれない点だ。我々の存在の可能性は、罪の概念によって初めて開示されるからだ。

9・1

 罪悪感は遍在する。罪の可能性は遍在する。神は遍在する。
 だが借金と罪は同義ではない。借りがあったからといって罪があるとは限らない。
 にも関わらず、存在自体罪ではないようなありようで在る事自体、今の我々にとっては難題になってしまった。

10

 振り返って見れば、数万年前の事だ。何者かが我々の身体に侵入した。「それ」を言語ウィルスと呼ぶ者もあるかもしれない。「それ」はブツブツと誰に語るでもない呪詛を唱えながら、我々の身体の中へと入り込んできた。「それ」は自らの運命を呪うのに夢中で、自分が何者かの内部に侵入したということにも気付かなかった。ともあれ、「それ」は我々の身体に寄生した。
 「それ」は爆発的な速度で増殖し、我々を支配の元に於くまでになった。我々は「我々はかつて存在しなかったが、今は存在する」と宣言した。そして存在以前の存在、すなわち一度も存在しなかったもの、無が機能するようになった。
 「それ」は町から町、集落から集落へと伝わり、瞬く間に伝染していった。「それ」が地上のほぼ総てを手に入れ、世界そのものとなるのにそれ程長い時間はかからなかった。「それ」が世界になったのではなく、世界はこの時誕生したのだ。そして我々は「かつてあった世界は「世界」によって覆い隠された」と宣言した。こうしてかつてあった世界、すなわち一度も無かった世界は無いものとして機能するようになった。
 「それ」は現実を想像することによって現実を排除した。不気味なものは決められた窓から時折顔を覗かせるだけになった。
 「それ」は自らの唱える呪詛により滅びつつあった。闇の中にとけ込もうとする背中が「それ」だった。「それ」は死につつあった。「それ」は死につつあり続けた。我々は我々になったと思った。それはつまり、我々が「それ」になりつつあるということだった。
 「それ」は我々の身体から養分を吸い上げ、管だらけの老人の様になりながら細く細く呼吸し続けた。強健な者は力の限り「それ」の呪いから遠ざかったが、脆弱な者はますますやせ衰えた。弱い者、死にかけの者の中で「それ」は生き生きと死につつあった。落ちくぼんだ瞳を油の様にギラつかせながら、「それ」は弱い者の耳元でささやいた。それでよい、それでよいのだ、と。
 死につつあり続ける「それ」は弱い者には強く、強い者には弱く振る舞った。それ故、最も弱い者の前では絶対君主を演じていた。「それ」は肯定の言葉をささやいた。二重否定の肯定を。
 数千年前になると、「それ」の呪いに弱り切った人々が「それ」の名誉ある奴隷として生きる道を歩みだした。彼等は自らを受け入れ、誇りを持って死の道を選んだ。やがて彼等の名誉を多くの人々が認めるようになり、「それ」は彼等を支持する者達の間で小さな声でささやかれるようになった。人々は死を代償とせずとも自らを受け入れる権利を手にした。小さな声は次第に大きな声となり、時折その不作法を戒める者もあったが、概ね声は大きくなっていった。
 数百年前、ついに悪が善となり、善が悪となった。それ以後善と悪は無限の反復を繰り返すようになった。世界はその動的振幅により指数関数的な拡大を見せた。「それ」は我々そのものとなって地上に王国を実現した。人々は初め悪を探し出し滅ぼそうとし、次に善を見つけだして張り付けにし出した。やがてすべてが白日の下にさらされ、地上には人間しか居なくなった。
 死にかけの者が我々となった。我々は「それ」になった。世界は「それ」になった。風前の灯火となった「それ」に地上で並び立つ者はいなくなった。「それ」は完全無欠となった。
 「それ」は神だ。
 人々は互いに互いのことを信じず、自らも信じず、髪を振り乱しただ神のことを思った。そして限られた人々だけが、自らの呪いの言葉にふるえる弱い神の姿を知り、信仰心を保ち続け、利己性を示しながら利己的に振る舞い、何者の同情も買わなかった。しかし、『その人たちのことを見た者も聞いた者も誰もいなかったのである』。 

「無断転載したものは殺す」について

 上記表現は確か紙媒体の残響通信の奥付、それから残響塾HPのトップページに書いた覚えがある。まあ色々なところで使っているのだろう。この表現を見て、残響塾が大変お世話になっている土屋遊氏は大笑いしたという。また大笑いしたという事について、山村がどう思うかは分からない、という表現もしていたと思う。些細なことなのだが、これもちょっと気になったので書いてみる。
 勿論、これは大笑いしていただいて結構で、他の残響通信のテクスト群と一緒で単なるお笑いとして読んで頂いても全く問題ない。私のとろうとしている手段は基本的にユーモアを介して深層に切り込んでいこうというものだからだ。それはいわゆるブラック・ユーモアというものとは少し違う。イロニーとユーモアは微妙にずれている。ユーモアは皮肉などよりずっと遠くまで行っているものだ(これについてはどこかに書いたので詳しく触れない)。まあ、私のテクストでそれがどこまで成功しているのかは疑問だが。
 ここでは、この表現がそれほどおもしろくないギャグであると同時にどのような含意をもって機能しているかについて少しだけ触れてみる。
 一般に、無断転載を禁止する場合には、殺すなどという物騒なことは言わないで、単に「無断転載を禁ず」という表記が主にテクストの末尾に付されている。私もその事を知らないわけではない。このような表現は、無断転載に限らず、例えば空き地を柵で囲って「許可無く立ち入ることを禁ず」とあったり、「無断使用禁止」とあったり、至る所に見受けることが出来る。しかしこの、「許可」なく使うことを「禁止」するとは一体何のことなのか?
 私も現代日本で二十六年生きた人間だから、このような注意書きの意味が分からないわけではない。私が言いたいのは、「禁ずる」と口で言う(あるいは文字で伝える)というのが一体どういう力を持っているのか、ということだ。
 「禁ずる」というのは、「しちゃイヤ」とか「やめて欲しい」とか、そういうことなのだろうか? 「禁じ」ている人の思いを単に伝えているものなのだろうか? もしそうだとしたら、「禁じ」られていることが分かって尚その禁を破る者に対しては何の力も持たないはずだ。「禁止」のメッセージは一回考慮に入れられた上で捨てられたのだから、「許可無く」空き地に入っている者に対して「君、許可無く入ることは禁じられているぞ!」とは言えない筈なのだ。そんなことはもう分かっているのだから。
 にもかかわらず、一般に無断侵入者に対しては、上のような声が、多分怒りを含めてかけられるはずだ。怒りは正義に由来し、それはその発言が広義の道徳によって基礎づけられているという信念を伝えている。要するに、ここに掲げられている禁止は、単にそれは禁止されているというメッセージを伝えているのではなく、必ずその禁止を守れと訴えているのだ。
 当然の事ながら、禁止の声自体にはそれを守らせる力はない(口で幾ら言われても痛くも痒くもないでしょ?)。その声の裏には「守らんかったらドツくぞ」という裏のメッセージが込められているのである。禁止は暴力に裏打ちされている。そうでなければ、それはただ「勝手に入られたらボクいやだなあ」「勝手に転載しないで欲しいなあ」という弱々しい声に過ぎないからだ。
 これらの例は、現実には著作権その他の法的な根拠をもって暴力と接続される仕組みになっていて、禁止と暴力の間の見えざる飛躍に飛躍について疑問を持つ人はいないだろう。しかし法が整備されたりするずっと以前から、このような禁止と暴力の関係は続いていたのだ。道徳が法を作るのであって逆ではないのである。
 それ故に、「無断転載を禁ず」という但し書きは、「無断転載した者は殺す」と読み替える事もできるのだ。ただ前者は法を通じ権力を媒介して暴力が働くのに対し、後者では命がけの暴力が宣言されている。
 前者の形での暴力を暗示が、権力を醸造していく。組の名前をバックに横暴を働く下っ端がいなければ、ヤクザの親玉も威厳を保てない。暴力はどこにでもあるのに、それを制度化し言語化することによって結局より大きな暴力が函養されていく。暴力を扱えきれずに放り出すこと(名前のない者に預けてしまうこと)が、結局は自分自身を追いつめていくのだ。
 余談だが、「許可無く〜することを禁ず」という掲示は、多くの場合単に「禁じ」ているだけである。「許可無く」に許可がおりることがあるのだろうか。ほとんどの「許可無く」は単にアリバイ的に付されているだけで、そこでは一度可能性が示された後に「合法的」に閉じられている。このようなアリバイ工作に対して法の内側で対抗するのは結局釈迦の掌である。空き地へ飛び出すには制止を振り切って走るしかないのだ(この点に関し詳しくは荒木瑞穂「空き地理論」関連テクストを参照)。
 「禁止」の言葉は「ああ、そう」と受け流すことを許さない。考慮に入れるだけでなく絶対の遵守を砲艦外向で迫ってくる。蛇足だが、そう考えると、かの象徴の「ああ、そう」(圧倒的「ああ、そう」!)も違った見方が出来るかも知れない。


個人

 個人、あるいは個別性を個性に還元してはならない。個性は既に一般性の奴隷である。これは芸術にとっての文化と並行的な関係にある(文化とは「文化勲章」とか、そういうものだ!)。個は愛に通じるが、それは攻撃性と裏腹の危険な賭けなのだ。それが個性、個性一般とは!!

今月の詩・短歌

お腹の中のにゃんこさん

お腹の中でにゃんこさんが丸くなって眠っとる
かわいいかわいいにゃんこさんが丸くなって眠っとる
毛玉になって胃液の底で眠っとる
ふさふさの毛が胃に張り付いて息苦しいよ
吐きそう

せかさない

早くしろ
早くしろとは言うけれど
私の眼鏡どこ
私の眼鏡どこ
せかさない

どうぶつ主義追加情報

 機械=動物のようなものとして存在する。この様なありよう、その様な存在を「マキーナ」と呼んでみる。女性形である。

書いてるのはこんな人

 私は山村たけゆうです。私は平凡な人間なのか、私は何者なのだろうという平凡なことをよく考えますが、最近は犯罪者なのではないかと思っています。荒木瑞穂さんがインタビューの中で、二十代後半になってブルーワーカーで、かつそれを本業とも思わずブラブラしているような人間は、一芸持たねば犯罪者だ、というようなことを言っています。荒木さんは芸を磨いているのですが、私の方はと考えると、これは犯罪者しかないような気がします。私という人間はどこか本質的に犯罪者でしょう。ただ犯罪のしかたがよく分からないので、あまりパっとしたことが出来ていないだけなのです。
 本当はコツコツと畑を耕したりして、質実剛健に生きていくことに憧れています。しかしvocationというヤツには、こっそりやって意味のあることと、ないことの二種類があります。農業ならば一人でやってもよいのでしょうが、モノを作るという行為は否応もなく世界性と対峙していく行為であります。そのような仕事は多分、世界の片隅でコソコソやっていても意味がないのです。それは観客の数とかマイナーとかメジャーとかそういう問題ではなくて、自ら語りかけていくという姿勢がどうしても要求されてしまうのです。世界に5人しか読者がいなくても全然問題はないのですが、ただ農業のようにその仕事自体が価値を持っていてこっそりやろうがおおっぴらにやろうが同じ、という訳にはいかないのです(実際の農業は色々人との関係が重要なのでしょうが、そういう問題ではない)。
 そういう訳で、私は鍬をもって耕しに出かけるのですが、耕しているのがアスファルトだったりゴルフ場だったりするのです。そんな人間ははっきり言って犯罪者でしょう。だからと言ってそれを世の中のせいにしたり、犯罪の存在価値を力説したりするわけではないのですが、ただ一つ言えるのは、犯罪というのは楽しいですね。犯罪一般に楽しい。こういうことを声を大にして言うこと自体、犯罪的なのかも知れないですが、皆さんも本当はそう思っているんじゃないでしょうか。まあ、どっちでもいいんですけど、時々「この犯罪者が!」という目で見られたりするのはやっぱりツラいです、ハイ。


 最近の残響通信は妙に分かり易いというか、サービスがいいのでムカついている人もいるだろう。読んでいて恥ずかしいかも知れない。まあ恥ずかしいのは私の方が恥ずかしいんだから我慢しとけ。
 分かり易いだろうが丸くなっていようが、分かっててやってんだからヤボな事言うな。まあ、分かってりゃいいってもんでもねーけど。


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