残響通信第十六号

前編

主な項目

オットー・リリエンタールとイルカの歯医者さん
イロニー/ユーモア
ホームムービーの不気味

ダメ連への公開質問状
ささやかテロ
啓示報告
社会運動家
メモ/断片
クソ詩

オットー・リリエンタールとイルカの歯医者さん

 大西洋遥か上空の闇を切り裂きながら、オットー・リリエンタールは睡魔と闘っていた。
 史上初の飛行機による単独大西洋横断をめざし、ライアン単葉機<スピリット・オブ・セント・ルイス>がニューヨークを発って、既に二十時間余りが経過していた。食欲は用意したサンドイッチにより満たすことが出来たが、それが彼を襲う睡魔をより一層強力なものにしていた。彼の単葉機には軽量化の要請から正面に窓が無く、ミラーによってかろうじて視界を保つ設計であった。ミラーから窺う上空には満点の星空があったが、下は漆黒の海、彼の意識もまたその闇の中に何度もとけ込もうとしていた。その度に彼は故郷デトロイドで待つ両親、兄弟のことを思い、そして飛行学校時代の苦難を思い出しては自分を勇気づけていた。
 彼がこの挑戦に至る苦難は並大抵のものではなかった。勇気は無謀と解され、嘲笑は彼の家族にまで及んだ。しかし彼の兄弟達は決して彼を責めはしなかった。周囲の人間が彼の狂気を疑った時も、兄弟達は静かにオットーのことを見守り、励ましてくれた。
 大西洋上空のビロウドの夜の中で、彼は左手で自分の太股をつねり、自分自身を叱咤した。耐えろ、オットー。今誘惑に負けたら今までの戦いは何だったのだ。自分はそれでもいい。しかし今まで謂れのない嘲笑にも負けず信じ続けてくれた家族、友人の思いを裏切るわけにはいかない。戦え、オットー、飛ぶんだオットー!
 しかしよく考えるとそれはリンドバーグのことだったので、オットー・リリエンタールには何でもないことだった。

 ひとしきり自分の苦しみを打ち明けると、オットーは恐る恐る先生の目を盗み見た。ヒゲノ閣下先生は軽蔑と諦めの混ざった視線を眼鏡の奥から発しながら、カルテの隅に三種類のクスリの名前を書き込んでいた。「貴方は今、ギリギリの所にいますね。つまり、これ以上いくと帰ってこられなくなる、丁度境界の場所です。クスリをお出しするので、試しに飲んでみて下さい。寝る前に一錠ずつ三種類飲んで下さい。では」
 耳元で小さな声がした。
 飛ぶんじゃないの、オットー?

 オットーはキチガイ扱いされながらも、空を飛ぶことを諦めなかった。村の人々は誰一人としてオットーをまともな人間としては見ていなかった。優しくしてくれる人がいても、その瞳の奥には隠しようもない侮蔑の光が潜んでいた。精神科医であるヒゲノ閣下先生ですら、あからさまにオットーを蔑んでいた。それでもオットーは空を飛ぼうとしていた。翼の形を変え、実験に実験を重ね、ただ大空に羽ばたくことだけを夢見ていた。しかし彼は失敗し続け、村人達はますます彼を疎んじた。
 ある年のクリスマスの夜。オットーの元にもトナカイに牽かれるサンタがやってきた。オットーは完璧なグライダーをサンタに期待していたが、靴下の中に入っていたのは平凡な向精神薬二週間分であった。しかも彼等は、オットーが夢見て止まない空中散歩を、翼も動力もなしでいとも容易にやってのけていた。オットーはうらやんだ。不条理だ、非科学的だと思うよりも前に、ただただ空を飛べる彼等が羨ましかった。
 憮然としながらプレゼントを受け取るオットーに、サンタはその豊かなヒゲをなでながら言った。
「君に必要なのは空を飛ぶ事じゃない。しっかりと地に足をつけて生きることだ。そうだ、君には特別にこれをあげよう」
 そう言ってサンタが手渡したのは、α波ミュージックのCDだった。ジャケットには白衣を着たイルカのイラストがあしらってあった。イルカは歯医者の使うような反射鏡を額につけ、そしてヒゲがあった。

 オットー・リリエンタールにはヒゲがなかった。

 向精神薬を飲むのは不思議な体験だ。効いてくる感触が不思議だというのではない。そんなものは何回か体験すれば慣れてしまうし、自分の精神の一部がある種の脳内物質の増減によって簡単に変化してしまうということを自覚するだけだ。不思議だというのは薬が効いてくる前の話だ。
 コップに水を注ぎ、何種類かの錠剤と共にそれを飲み干す。早ければ十数分、遅くとも一時間以内には自分は別の人間になっている。しかし今はそうではない。この待ち時間が不思議だ。神が降りてくるのを待つような時間。
 薬が効いてくると、今までの苛立ちがウソのように消えていく。嵐のようだった心が凪のように静かになってくる。同時に柔らかい睡魔が体全体を覆っていく。あちこちからレーザー光線のように飛んできていた他人の思念が消えてなくなっていく。心の中には穏やかな自分自身だけがある。誰も自分を責めていない。誰も自分を馬鹿にしていない。焦りもない。不安もない。自分が安らいでいることを他人も自分も誰も責めない。永遠に続くような平和。
 それでも小さな声がする。大きな声でがなり立てるのでもなく、情報を空間化して一気に送りつけるのでもなく、弱々しい呟くような小さな声がする。いつもの声とはまるで違う、無視されることを前提とするような弱い声がする。眠っている恋人に静かに語りかけるような声がする。「もう寝た?」と問うような絶対矛盾の小さなつぶやき。耳を澄ます。
 飛ぶんじゃないの、オットー?

 百二十二回目の飛行実験の失敗で、オットー・リリエンタールは前歯を失った。グライダーの失速と同時に丘の斜面に突き出た岩に顔面から突っ込んでしまったからだ。歯を折ったくらいで済んだのは奇跡的だった。
 訪れたクリニックの歯科医はイルカだった。しかもヒゲのあるイルカだった。オットーはこのイルカの歯医者さんをどこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。そんなことより、今回の失敗の原因を探るので頭が一杯だった。歯医者を訪れたのも顔面を血で染めて丘から帰ってくるオットーを、見かねた村人が無理矢理連れてきたからだった。
 やがてオットーの名前が呼ばれ、白い長椅子のような診察台に彼は言われるままに横たわった。強力なライトをかざされ、ヒゲのあるイルカの歯医者さんの顔がのぞき込んできても、まだ彼はグライダーの事を考えていた。治療の方法を検討する声もどこか遠くで響く外国語の会話のようだった。やがてドリルが細い唸りを上げ、再びイルカの歯医者さんの顔が天井を覆い隠した。突然、両手両足に金属製の枷をはめられた。初めから長椅子に仕込んであった枷が、電気仕掛けで彼の四肢を捉えたのだ。
 オットーは身動きできなくなった。それでもオットーの心はグライダーにあった。痛くないですよ、という声がどこか遠くで聞こえた。瞬間、激痛が彼の体を貫いた。
 オットーは悲鳴を上げ、一気に現実に引き戻された。抗議のために声を声を上げようとすると、またドリルが彼の口内を抉り出した。口を閉じようとすると額と顎をベルトで固定され、口の中に綿を詰められた。イルカの歯医者さんは沢山の鋭利な道具でオットーの口を固定し、再びドリルで彼の歯を削りだした。神経に直接穴を開けるような激烈な痛みが彼の体を貫き、オットーは失神した。
 頭から冷水をかぶせられ、オットーは目を覚ました。再び開いた視界を強力なライトの光が埋め尽くした。イルカの歯医者さんは容赦がなかった。麻酔は、麻酔は、と叫ぶオットーの声を無視して、再びドリルが唸りを上げた。少し痛いですよ、という声が終わらないうちに、またも素人のバイオリンを聞くような神経の痛みが始まった。
 オットーは絶叫し、怒り、それが通じないと分かると泣き叫び、許しを乞い、四肢を緊張させ、それにも疲れて無防備に激痛にさらされ、失禁し、失神した。その度にイルカの歯医者さんは彼を現実に呼び返し、いつ果てるとも知れない治療が続けられた。

 一体どれほどの時間、この責め苦が続いていたのか分からない。オットーは何度となく意識を失い、再び取り戻した。現実の総ては暴力的な光と耳をつんざく金属音、全身を貫く激痛だった。逃げては引き戻され、襟首を捕まれ引きずり倒されるように何の救いもない現実に直面され続けた。
 今自分に意識があるのか無いのかも分からない。治療用ライトは瞳孔を狭窄させ、光と闇の区別も付かなくなった。ただどこか遠くの方で、イルカの歯医者さんの声がした。豊かに蓄えられたヒゲの感触が顎の辺りを微かにかすめた。
「治療は完了しました。よく頑張ったね」
 目を開いても、そこは相変わらず闇の中だった。手足の拘束は解かれているようだったが、相変わらず自由ではなかった。狭く息苦しい空間に無理矢理詰め込まれているようだった。それでもオットーはそれほど窮屈には感じなかった。自由を奪われながらも解放されている感覚があった。微かに風を感じた。耳元で風を切る音が聞こえ、それが音楽のように音程を変えながら遠くになったり近くにやってきたりした。それでも視界は漆黒の闇のままだった。
 オットーはゆっくりと首を左右に動かした。何もなかった視界の隅に微かな光が映った。光は暗闇の中でゆっくりと上下していた。船の上から眺める星空のように揺れていた。しかしその星空は次第に光を強くし、天上ではなく眼下に迫ってきていた。
 オットーの意識は研ぎ済まされていった。少し寒いと思った。同時に体の奥の方から外気に抗するような暖かみが伝わってきた。知覚が空間を浸食していった。もう誰の声も聞こえない。誰も自分を責めてはいない。自分は一人だ。一人であると同時に人とつながっている。しかしそれは向精神薬のもたらすまどろみとは違っていた。意識ははっきりしていた。オットーは完全に覚醒していた。同時に不安も苛立ちもなく、自信を持って一人で立っていた。オットーは飛翔していた。
 妖精のような小さな声がした。飛ぶんじゃないの、オットー? 
 飛ぶさ、オットーは声に出さずに答えた。眼下に光が迫っていた。
 翼よ、あれがパリの灯だ。



イロニー/ユーモア

 一貫性が存在を基礎づけているとき、追いつめられた人間はどうすればいいのか? 孤独と闘うためのいくつかの戦略。道徳を巡る何種類かの態度アティチュード。
 イロニーもユーモアも共に超越論的運動によって成立するが、イロニーの人は本質的な孤独から脱出することは出来ない。
 イロニーの人の怒りは何らかの形で正当性ジャスティスによっているが、ユーモアの人の怒りは単なる「つまらなさ」に対するものだ。
 一次的には、イロニーの人は道徳内的であり、ユーモアの人は道徳外的だ。しかしユーモアにとっては道徳の内外自体がどうでもよくなるのかもしれない。
 イロニーの人は硬直した政治性を帯び、ユーモアの人は真の政治性を背負っている。いわゆる政治は前者を指しているが、本当の所そんなものは政治のうちに入らないのだ。むしろそれは単に外交と呼ばれるべきだ(砲艦外交…)。
 イロニーはその徹底的であることによって自らを特色づけている。正当性に依拠する思考はどこまでも進むことが出来るという信念。彼等は抑圧的なのだ。だからといって、ユーモアの人が解放されているとは言わない。ユーモアの人は単に非抑圧的なのだろう。解放という言い回しは慎重に使う必要がある。単にニュートラルであると言う勇気。運動の力線によって語ると、たちまち人は外交的な怒りにとらわれてしまう。
 本当の問題は両者を弁別することではない。現実の個人の中ではしばしばイロニーとユーモアが混在している。一貫性を希求する運動自体が一貫していないのが現実の多くの人間だ。イロニーを通過してユーモアに至ろうとする人の不幸は計り知れない。それは道徳の内側から道徳を語ろうとする矛盾に似ている(ニーチェ…)。一方で単なる想像的なドラマからユーモアに接近した人は、簡単にただの線形的な視線に毒されてしまう危険を抱えている。線形性は限りなく「現実」に接近するが、それが極大になり世界そのものになった瞬間に、自分自身の精神を一歩も脱していなかったことが明らかになる。それはゼロだ。
 両者の狭間でさまよっている人、孤独の余りイロニーの自家中毒に陥っている人が自分を救うにはどうしたらいいのか? 彼等はしばしば世界や他者のみならず自分自身までもおとしめ自己憐憫にふけり、ついには沈黙するのだが、その沈黙自体を誇示しないではいられない(「見よ! 私は沈黙している!」)。その事自体、彼等の沈黙の救いのなさをよく表している。
 答えは勿論ユーモアなのだが、それだけでは役に立つ答えには成り得ない。ユーモアはアリロニカルな視点で精緻に眺められると、それだけでただのイロニーに堕してしまうからだ。ユーモアは考えすぎてはならないのだ。
 だからといって考えるな、と言うわけにはならない。それはイロニーの人の沈黙と同様の自家中毒を生み出すだけだろう。重要なのは多分、一人で考えないことだ。
 実際に人と一緒に考えろ、という訳ではない。例えば、マルクスと一緒に考えることだって出来るはずだ。
 一人になりたくなかったら、一人にならないこと。そして人と一緒に考えること。



ホームムービーの不気味

見つめること、見ること、見つめているのを見られること

 時々、ビデオの撮影を頼まれることがある。先日も荒木瑞穂氏のイベントの撮影を依頼され、ハンディカムを下げて遊びに行った。
 ビデオを回していて、ふといい知れぬ違和感に襲われた。関係者らしい人から「あの観客の顔も撮っておいたらいいんじゃないのかな?」と指摘されたときだ。指摘の内容はどうでもいい。記録係に対する単純に親切な要請だろう。それよりもまず、何故それを私に言うのか、という疑問、怒りを伴う疑問がわき上がってきた。その疑問が弱い怒りを伴っていたということは、何らかの正当性ジャスティスの「感じ」があったということだ。
 そういう経験は初めてではない。通常劇映画の撮影中にこのような感情はわき上がらないが、「占拠しました」(住宅占拠のドキュメンタリ)を撮影しているときにはしばしば経験した。一番多いのは今回のように気軽にカメラを回すときだ。つまり、一般の人が家庭用ホームムービーを利用するような状況だ。劇映画の撮影中でも、撮影を通行人に見られることには抵抗を感じる。
 これは明らかにナラティヴの問題だ。古典的な語りの問題、作者がどこにいるのか、何人称で語るのか、といった系の延長上にある。誰が誰を見ているのを、誰が見ているのか、という問題だ。それははっきりしているし、以前から気が付いてはいたことだ。しかし一定の感情、苛立ち、怒りがそれらと複雑に連関していることは別の問題だ。一定のナレーションの立場に置かれたとき、私は必然的に怒っている。それはどのような状況なのか。そして何故怒るのか(何の義によって、あるいは理によって怒るのか)。それが気になった。
 それ以前に、見ることと見つめることの違いがある。スティルカメラとビデオカメラの相違だ。私はスティルカメラは専門外で、全く素人同然である。そのせいかも知れないが、普通のカメラでスナップ的にパシャリとやるときには、特別な感情は何もない。仮に玄人であって、カメラを巡る技術的な問題に神経を立てていたとしても(今でもそれが全くないわけではないが)、やはり「記録係」の時の違和感は感じないだろう。パシャリ。それで終わるからだ。私の視線は瞬間の中に封じ込められる。
 しかしビデオカメラの場合は違う。勿論8ミリフィルムでも同様だ(フィルムで「記録」をする機会は今やないだろうが)。この時、私、あるいは私以外の何者かは、対象を「見つめて」いる。パッと見るのではなくじっと見つめているのだ。両者の間には質的な差異がある。前者では時間が無化されているが、後者では時間そのものが問題になっている。視線上をのっぺりとした飴のような時間が這っている。
 スティルカメラの場合、「待つ」のは一方なのだ。時間の延長をそれ自体として感じているのは、撮影者か被写体のどちらか一方に過ぎない。じっと眺めていて知らぬ間に瞬間的にパシャリとやるか、色々ポーズを考えたりしてハイドウゾと言ってパシャリとやるか、どちらかなのだ。ビデオの場合、時間は体内ではなく視線の間を、精神の外側をのっぺりと流れる。「だんまり」を決め込むように。キスのタイミングを図る恋人たちの様に。
 このような「待ち」自体がイヤな緊張感を生んでいる。瞬間的にテンションが高まるのではなく、緊張感が相互に作用しあい変化し探り合う時間。それでもただそれだけであれば緊張感を楽しむことが出来る。劇映画の撮影がそうだ。私はカメラの後ろに控え、時に立ったまま、時にファインダーを通して役者や風景を眺め、黙ったり喋ったり笑ったり苛立ったりして精神の波動を流通させる。つまりそれが演出ということで、時間とつき合うという事なのだろう。女の子を口説くのも同様の時間との戯れだ。しかし今問題にしているのは対象と主体の明晰な関係ではない。これらが判明な場合でも、勿論それ以外の視線や波動が入り込むことはある。いや、常に入り込んでいるだろう。劇映画の演出でも、恋の駆け引きでも、我々は常に宇宙と共にある。だがホームムービーの不気味さはそんなところにはないのだ。
 そもそも、「記録係」とは何事か? そんな「記録」が不可能であることは撮影者が一番知っていることなのだ。それでも「記録」が可能になってしまうのは、常に記録が捏造されていくからだ。それはそれでいい。だが記録を捏造するとき、記録係は記録の捏造者ですらないのだ。といのも、彼は単に記録係に「任命」されただけだからだ。
 すると捏造の責任者、捏造された記録へ著名する者は、今回で言えば荒木氏ということになる。それでは、総ての責任を任命者へと回付することによって問題が解決するのか。しないだろう。実際、その様な責任関係が明白であるにも関わらず、私の内部にその感情はわき上がってきたのだ。
 第一の、それ程大きくない問題は、責任者と記録の制作者は独立しうるということだ。つまり、捏造責任者が別にいるのであれ、ホームムービーを手にした者は自由に風景を切り取ることが出来、そのキリトリにサインするのは結局カメラマンでしかないということだ。見つめられる側もカメラマンを決して透明な存在としては認めない。不気味な黒い単眼を自分に差し向けているのが、他ならぬその背後にいる男であることは明々白々としている。彼がいかに声高に自分の立場を主張したところで、被写体(あるいは被写体にさせられてしまった人)の考えは変わらないだろう。このことは、ゲリラ撮影などが発覚した際に、往々にしてカメラマンが一番最初に攻撃を受けるということからも良く分かる(重い機材を背負っていて逃げにくいというのもあるが)。
 第二の問題は、劇映画のような厳密な監督関係にある場合を除いて、カメラマンは基本的に自由(不等なまでに自由)であり、捏造であるはずであるにも関わらず同時にまごうことなき記録を成立させてしまうと言うことだ。記録は捏造されるものだが、捏造されるものが記録なのだ。だからそれは否応もなく記録なのだ。通常、記録は権力によって裏打ちされていくが、ホームムービーの場合は少し事情が複雑だ。ホームムービーが反権力だというのではない。それは明白な意志をもった一部の自覚的カメラマンについてのみ言えることだ。ホームムービーを手にした者は「それは私ではない」とズレることにより、何者でもない者が記録者になるのだ。「私は記録係ではない」と苛立つことにより、匿名の記録者が立ち上がるのだ。
 それなら運動会で嬉々としてわが子を収めるマイホームパパのカメラマンが健全な記録者であるかというと、それも違う。彼等は苛立つ契機さえ失ってしまっているのだ。彼等は自分が単眼の化け物であることを知らない。自分の記録するものを統御する術を持たないし、やはり記録者は匿名になる。彼等は権力より一層権力的なのだ。
 私は観客や関係者に混じりながらカメラを手にしていて、自分だけが二つの正常な瞳ではなく黒く不気味な単眼のものとして見られていることに苛立っていた。そのような邪な視線が人間の視線の延長として許されているという寛容さこそ、決定的な不寛容を醸造しているのだ。カメラマンはしばしば攻撃の対象にされ、私自身ドキュメンタリでカメラをたたき落とされたりもしたが、彼等の反応の方がある意味でまだ寛容なのだ。
 単眼の者はニンゲンではないし、彼等は差別されなければならないのだ。それ故、猛獣としてニンゲンに統御されるか、あるいは暴力的な形で単眼を売り物にしていく以外にこの社会のなかで存在してはいけないのだ。そのようなカメラの原初的暴力性がすっかり忘れ去られてしまったのは、ホームムービーを初めとしてカメラが日常化し、かつ様々な形で視線が飽和状態に達してしまっているからだ。誰も視線の暴力を正面から受けようとせず、自らも邪視の者とされない為に瞳を羊のように水平化する(斜視の者の不気味さはこの社会に残された貴重な視線の原型である)。視線は飽和し、水平化した羊の瞳が社会をのっぺりと覆い尽くす。それでいてヒトは羊ではないから、誰かに「見られたい」と願い孤独になるし、「見るな!」と叫んでプライドを守ろうともする。視線に対して神経が立っている者は、視線の飽和に対して不適応なだけで、そもそもの視線感覚を保持しているのだ。
 私は邪だ。私は猛獣だ。私は目を開いているし、記録する。私は柔らかな視線に対して苛立っていた。見つめているのを見ている視線に苛立っていた。その視線が優しいものであれ荒々しいものであれ、私は決してそれを見過ごしたりしないだろう。彼等は自らを追いつめている孤独、あるいは自らの小さな平和のために犠牲にされる孤独がどこから来ているのか知らないのだろう。今や視線を解放して良い場所は恋愛とスポーツぐらいしかなくなってしまった。私はこの不幸な視線の隠蔽に対して苛立っている。
 しかし羊の大群に対してはどんな獣も抗する術を持たないだろう。


残響通信16号後編
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