残響通信第十六号

後編

主な項目

オットー・リリエンタールとイルカの歯医者さん
イロニー/ユーモア
ホームムービーの不気味

ダメ連への公開質問状
ささやかテロ
啓示報告
社会運動家
メモ/断片
クソ詩

ダメ連への公開質問状

 ダメ連が現在どれほどメジャーなのかよく分からないが、大手新聞がハデに取り上げたりするくらいだから、既知のものとして語ったとしてもそれほど不親切ではないだろう。全く知らない人のために少しだけ紹介すれば、東京を中心に活動している「平日昼間の男達」「うだつの上がらない」人々のネットワークである(とか言ってしまってよいのだろうか? 興味のあるヤツは自分で調べろ)。
 ダメ連に対しては、色々と複雑な思いを持っている。HP上でリンクした時にも迷いがあった。自分のHPでわざわざ取り上げるくらいだから、別段悪い印象を抱いているわけではない。ダメ連はとにかく気になる人々だ。
 一つにはある部分で問題系を共有しているから(共有していなければ関心の持ちようがない)であり、一方で本質的なところで納得いかない部分があるからだろう。
 私がダメ連の人たちと関わっている部分はほとんどないし、また関係者に顔を合わせたのは一度だけである。向こうは覚えているかどうかも分からない。ダメ連の何という人に自分が会ったのかもよく分からない。中野で私の作品の上映があったときにお客さんとして来ていただいて、その後ささやかな「交流」があった。その時の私のダメ連の印象ははっきり言って悪かった。別段悪意を込めているのではなく、率直につまらなかったということだ。勿論、それだけでダメ連を否定する気は毛頭無い。
 ダメというのはとても気になるキーワードだ。私もよく自分のことをダメだと思うし、また残響流に言えば平面パース的なるものに対するのは多分ダメなものだ。ダメは外部だ。
 ただ私は社会運動家ではないし、ダメを称揚する気もない。私のダメ連認識がどの程度正しいのか判然としないが、私の個人的理解では、ダメ連というのは「ダメでもいいじゃないか!」と言っているような気がする。私も同様にダメを気にしたり気に入ったりしていはするものの、「ダメでもいいじゃないか!」とは言わないし、言えない。最終結論の部分は割と近いのかも知れないが、自分のダメ観では「ダメなものはダメ」だ。だからといってダメを排除したりはしない。私が言いたいのは「ダメなものはダメだが、ダメもなかなかいいですね」とか「ダメだなあ。はははあ」とかいうことだ。ダメでも良いと言ってしまった途端にダメはダメではなくなるのではないか。自分や他人を風景のようにして眺めたとき、そこに浮かび上がってくるダメをニヘラァと笑って眺めるのが私のスタンスだ。この辺でダメ連とのすれ違いが一つ在るような気がする。
 また一つはダメ連の好む「交流」というキーワードがひっかかる。これについても、私が交流を徹底的に拒んだり否定したりという訳ではない。コミュニケーションを断たずに関係するということはとても重要なことだ。それは語り続けるということでもある。沈黙が美徳とされる国でコミュニケーションにこだわり続けることは容易ではないが、それでもなお交流する回路を開く努力を続けることを私自身にも課している。それはいい。しかし交流というのはそんなに簡単なものか。基本的には交流などしたくないものであるのが自然ではないのか。そこまで分かって死にそうな思いで彼等は「交流しましょう」と言っているのか、その辺が判然としない。決死の覚悟までは伝わってこないが、余程バカで無い限り交流の本質的な不幸に気付いていないとは思えない。その辺りをどう考えているのかは是非ダメ連の人から直接訊いてみたいところだ。とりあえず、私は「色々な人と出会いたい」などとは口が裂けても言えない。そういう思いはあるが、はっきり言えば会いたいのは広い意味で都合のいい人だけだ。それ以外の人たちとマゾヒスティックに向き合う義務が、コミュニケーションの基盤だとは思えない。交流は基本的に拒まないが、積極的に「交流」などと口に出すのにはてらいがあるし、そういうやりかたは特殊な状況を除いてかえってコミュニケーションの自然な姿から遠のいているように思える。ただ彼等の置かれているのが正にその特殊な状況なのかもしれないし、安易に批判することは出来ない。だからこそこのテクストは質問状という形式をとっているのだが。
 最後にこれが私にとっては最も重要なことだが、罪悪感の問題がある。彼等のやっていることは罪悪感の払拭であるように見えるが、それはどう考えても甘ったるい「癒し」の効果しか生まないだろう。それでも良いと考えているのか、そうでないのかもはっきり訊いてみたい。「癒し」という言葉が余りにも甘ったるい印象を与えるようになってしまった今、私は「治療」という(歯医者の治療のような)言葉をこれに対峙させて語ってみたいが、ダメと本当に対峙する上で重要なのは癒しではなく治療だ。ダメを治療せよというのではない。ただダメは治療されるべく生まれてきてしまっているという出自を忘れてはならない。ダメなものはダメなのだ。ただそういう罪悪感を抱えたままでも人を救うことは可能だ。それはイエス・キリストのやった方法であり、それ程マイナーなやり方ではない。そのような選択肢の可能性を踏まえた上でダメ連は活動しているのだろうか。罪悪感を捨てた時点で人は生きるチャンスの一つを逃がしてしまっているのだ。それは償いの義務という形で人生を了解するという選択肢であり、語の真の意味でキリスト者的なる方法だ。私はキリスト教と戦い続けているが、それは真のキリスト者であるためだ。
 勿論私は人に罪悪感を強要するわけではないが、罪悪感をベースに生きていた人間から罪悪感だけを取り除くのはあまりに安易で危険な方法だ。ダメ連がそういうやり方をしていると言うだけの根拠はないが、この辺りをどう考えているのかはっきりとした意見を聞いてみたい。
 このような幾つかの点が複合して私のダメ連に対する不信感が醸造されているのだろう。重ねて言うが、私はダメ連が嫌いではないし、活動自体には非常に興味を持っている。だからこそ以上の幾つかの点について何らかの形でレスポンスが得られれば幸いである。ただ私はダメ連発行のミニコミを拝読し、正直言ってつまらないと思ってしまった人間ではある。念のために言っておくが、ダメ連よ、私はお前と愛し合いたいのだ! 私にとってはそれこそが苦痛を伴う「交流」なんだけどね。


ささやかテロ

ささやかテロは可能性の不可能性だ。可能性として残されると同時に封印される暴力。共に生きるための暴力の足跡。ささやかテロは勇気と謙遜の証だが、それはそれ自体として行うことの出来ない、永遠に逃走し続ける否定性の肯定的陰影だ。



啓示報告

 今日啓示を受けた。まただ。
 この前の啓示はバイトの面接落ちて吉野屋で牛丼食べているときだった。
 今回は酒とクスリでボロボロになって心臓痛くて手足の奮えが止まらないかなりヤバい状態にもめげず早朝バイト先に向かってバイクを走らせているときに来た。
 啓示によると、地球は丸いのだ。丸くて、自転している。それだけだったら小学校の時に理科でならったし、余り有益な啓示ではない。まあ有益な啓示なんて在るのかどうか疑問だが。
 地球は小さなゴム球みたいで握ると変形しちゃいそうで、どんどん小さくなっている。小さく小さく握りつぶされながら、指の隙間から光が漏れている。地球は輝いている。小さくなりながら光を放っている。光る地球。光る心臓。それは私だ。それは私だ。それは私だ。
 その日、バイト中に二度吐いた。


社会運動家

ゴドバ虫の張り付き中毒。こんなこと言って直観的に理解できるヤツがいるのかね。
一方、ゴドバ虫の分離病では現在地消滅が起こる。どちらも困ったものだね。


 社会運動家にも演劇人にもどこか似た臭いがあって、それは主体の一貫性(内面の一貫性と言ってもいい)に対する信仰や正当性といったもののような気がする。あなた達は私のことを責めるのだろうけれど、私が気にしているのは声の一貫性なのだ。私を頼りなげに眺めるあなた達の正当性は、余りにも皮肉に満ちて見える。それがあなた方の独自のものでもあなた方を他から際だたせるものでもなく、今や単なる一般的な空気になってしまっているものだということに自覚的であるべきだ。
 もっとささやかなもの。もっと小さいもの。小さな声で「私は知らない」と呟くもの。
 勿論それは無力だし、今や本当に無力になってしまった。かつて「無力だ」と声に出して言っていた人々までもが、ただ沈黙せざるを得ないまでに。


メモ/断片

謙虚と卑屈を取り違えてはならない。卑屈は傲慢の証だ。それは私か。



無理が通れば道理が引っ込む。
無理は無理で通るのだろうけど、その時は道理が引っ込んでいる。
無理が通るからといって、通っていることに慢心していると道理を見失う。
逆に言えば、通っていなくても道理を守ることは出来る。
道理を通すことは至難の業だが、結局はそれが早道になる。
『技から入るは上達遅し、理から入るは上達早し』(千葉周作)



「精神病的ではなく神経症的だからといって、その事でとやかくいわれる筋合いはない!」



「私はそんなにおかしくない」というのは「私は近代の人です」というのと同じ意味なんでしょうか?




 薬物の利用は人格の相対化という恩恵をもたらす。人格などというものは、単なる信念の一形式であって、なんら不変のものではない。アイデンティティなどという馬鹿げた考えに張り付いて、正に己の「アイデンティティ」を醸造している人間は、自らの矮小な循環論を自覚すべきだ(勿論自覚しない方が幸いなのだが)。
 人格も個人の記憶も世界の中心にはなり得ない(残響塾の言っている記憶はそんな卑小な意味ではない)。更に言えば世界に中心などないのだ。中心は周縁に向かって無限に後退していくのであり、それは死に続ける神の残響だ。
 私はたわしと同格になる可能性を残し続けながら、常に異化され、後退を続ける。それは世界の中心でもなければ、世界を眺める透明な視線でもなく、世界を巡る有限の神経パルスにすぎない。




 私は文章が書けなくなった。映画も撮れなくなるのでは、と密かに期待している。書いているではないか、と言われるかも知れない。確かにこれは日本語の文章だが、もはや文章とは言えないにもかかわらずどうしようもなく文章である何かから再出発しようとしている。私はかつてまとまった量の小説を書いていたが、一切そういうものが書けなくなった。小説が理解できなくなったのだ。詩はそれよりもずっと前から全く理解できなかった。残響通信にあるのはただの断片やメモだけだ。どのテクストをとってもそれ自体で完結していない。
 「有機的な」物語の胡散臭さに気付くことなくどうしてテクストを生成出来るのか。それが出来ない人間は、結局物語の罠にはまり続けるしかない。そうでない人間の作品がどうかはともかくとして、とりあえず彼等はクソだ。批評性は物語を遠くから眺めて再構築する一つの方法だが、これにも資質の問題がある。結局特別な資質に恵まれない限り、沈黙せざるを得なくなる。そうでなければ気付かない振りをして物語を語り続けるかだ。どちらも出来ない人間が、たどたどしい断片とメモを書き散らす。



クソ詩

空の低い朝

風の音が轟々
ヘッドホンステレオがチャカチャカ
右を見ても左を見ても
神はいなかったけれど
今日
物質のような心が眠っている僕の胸にゆっくりと降りてきた

ウソ

私、悲しみをグッとこらえてサラサラの嘘をキミに贈るよ
波に乗っかって広がっていく、商標のついた嘘をキミに贈るよ
ゲドゲドの本当の言葉がちょっと漏れて
それがスキとキミが言ったのを忘れてはいないけど
もう嘘しか言わない
サラサラの嘘しか言わない
何がどこまで壊れていくかなんて私もう分からない
だからキミもサラサラの嘘言って
最期の夜を眠りの中で迎えてよ
その時私がキミのとなりにいても
気付かないフリで大丈夫
もう私のことを気にしないで
ウソをウソだなんて、そんなこと言わないで
もう言わないで、お願いだから
私も一緒に
眠るから

よっぱらい

ヒトというものは!
淋しくも淋しくも在り続けることによって
れっとれっと
在り続けるのであります!
私酔ってる?

神様1

私も頑張るからお前も頑張れよ、神様。

神様2

お前も大変だなあ
弱いのに体、よくやるよ
お前が頑張ってるから
私も頑張るよ
神様





寝不足の
ゴミ回収業者の
雨の朝
あと五分だけと
貪り求める




死にたがるな。生きたがるな。踊るな。息するな。




もう寝ろ。と呼ぶ声あり。




玩具というのに遠いと言ってみたり
そのとりとめのない孤独よ
天皇陛下万歳




会いたい
誰に?
見知らぬ友人の
蒼い死顔



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