残響通信第九号

19960921

主な項目:

ゴルビ−
原子力銭湯
アンチ・ファミリ−
音楽と歌
退屈
時は金なり
「分からない」
テレビは
感想
韻文部


ゴルビー

ゴルビーに手紙を出してから、ちょうど二ヶ月になる。返事は未だ来ない。政治の表舞台からは遠退いたとはいえ、まだまだ多忙なのだろうか。ロシアの郵便事情は大変悪いと聞く。郵便番号を書かなかったのが悪かったかもしれない。
 半年前、私の元には一丁のトカレフが届けられた。クロネコヤマトの宅急便で、白いダンボールの側面には、”TAKKYUBIN”と書かれてあった。今や宅急便も世界ネットの時代である。クール宅急便だった。
『トカレフ在中。ゴルビーより。天地無用。』
 それは世界革命を暗示するように思われた。ゴルビーは、トロツキストなのだろうか。分からない。そもそも、トロツキストとは何だろう。マルキシストとは違うのだろうか。
 歴史の教科書を紐解くと、ハンニバルは象によってアルプスを越えたという。なぜ、象なのか。また、帰国したハンニバル軍はスキピオによって壊滅させられ、戦後ローマはスペインのカルタゴ領を属州としたそうである。なぜ、象なのか。
 トカレフは長い間ソビエト軍の制式拳銃の座にあった大変頑強な銃である。シンプルな構造で、故障も少ない。コルト・ガバメントを連想させる。コルト・ガバメントは正式にはM1911A1といい、米軍の制式拳銃であったことからこの呼称がついた。ショート・リコイル・オペレイテッドによって作動し、これまた頑強な銃である。ショート・リコイル・オペレーテッドは発射時、バレルとスライド/ボルトがロッキングされた点がブローバックと大きく異なる。リコイル・スプリングの強化による操作性の低下がなく、ハイパワー・カートリッジに使用できる。ブローバックがケース・ヘッドにかかるガス圧を利用するのに対し、ショート・リコイル・オペレーテッドはリコイルを利用するからだ。なぜ、象なのか。
 これでエリツィンを殺せと言うことなのか。無理だ。飛行機代がない。それに、ロシアは大変治安が悪いと聞く。無理だ。
 エリツィンを殺すなんて、とても無理だ。
 一説によると、ロシアのクーデターはゴルビーによる自作自演だったということだ。急速な改革を推し進めるための演出だったと言うわけだ。だが、真相は依然判然としない。
 ハンニバルなら、こういう時どうするか。やはり、象を使うのか。
 昨日、夢の中にゴルビーが現れた。ゴルビーの息子さんが東大で勉強しているという。自慢の息子らしい。だが、ゴルビーの真意は別のところにあるようだった。そこは要人らが集まる立食パーティーのような場なのだが、ゴルビーは息子の自慢をしながらも私に別のことを伝えようとしているらしかった。はげあがった頭には脂汗が浮かんでいた。時折すばやく動く彼の視線をたどると、場に似つかわしくない黒服の男達がそこかしこに控えているのが分かった。左胸のふくらみが何を示しているかは明らかだった。
 ゴルビー、言いたいことがあるならはっきり言えよ。でも、無理なんだね。
 エリツィン・ロシアは爆走する。マッド・マックスの改造バイクのように。もうだれも彼を止められない。ハンニバルですら最後はローマに敗れたのだ。コカ・コーラがコカインの使用をやめても、市場から消えることはなかった。
 ゴルビーの演出によるかどうかはともかく、改革は急速に進んだ。しかし、それを引き継いだはずのエリツィンはどこへ行こうというのか。事態は、ゴルビーの思惑を外れ、予想外の方向へと走り出してしまったのだ。
 近所の河原で、トカレフを撃ってみた。凄い反動だった。木に向かって撃つと、グロテスクな弾痕が残った。犬が吠えていた。スウェットスーツのおばさんが、それ人が殺せるんでしょ、という。私は黙って微笑んだ。犬が吠えていた。
 トカレフは単純な構造で、分解清掃も簡単である。現在暴力団等に出まわっているトカレフは、ソ連制ではなく中国制の「黒星」と呼ばれるものがほとんどである。グリップについた黒い星のマークからこう呼ばれている。
 私は仕事先の女の子と飲みに行った帰り、セックスした。セックスの後眠くなったが、コンドームを処理している間に目が冴えてしまったので、トカレフを見せて自慢した。女の子はけだるそうに煙草をくゆらせていた。私が先にイッてしまったのが悪かったのだと思う。
 ハンニバルなら、こういう時どうするのだろう。象じゃだめだ。象なんかじゃ、結局だめなんだ。それがハンニバルの限界だったのか。英雄色を好むというが、好むだけじゃダメなんだ。ちゃんとイかせなきゃ。
 ゴルビーの息子さんが東大にいるかと思って尋ねてみたが、予想通り無駄足だった。だって、夢だもん。夢じゃ、ダメ。
 ゴルビー、君の頭のしみは何かを暗示しているのかい? とても難しい漢字を見ているようだ。見ている間にどんどん訳が分からなくなって、あたまがくらくらしてくるよ。初めて見た時はもっとはっきり分かったはずなのに。でも、その時のことはもう思い出せない。意味が判らないよ。
 ゴルビー、君のなぞなぞは難しすぎる。エリツィン暗殺は私には荷が重すぎる。
 でも、君からもらったものだから、トカレフは捨てずに置いてあるよ。どうしても憎いやつがあったら使うかも知れないけれど、きっと使うこともないと思う。
 ゴルビー、今、どこでどうしているの?
 ゴルビー、君の声が聞こえない。

 

原子力銭湯

原子力銭湯は網状機械眼を通じて接続されるのであります
錦湯の角で放射性物質が発見され、あたら道場、あたら先生の合同結婚式でございます
銭湯は登別ではないのです
銭湯は偏向性恒常癌につき放射線治療により透視されるのです
延長記録体は地上結節点を経由してミカドより平行四辺形に向けて開示され、網状機械眼の監視が強化されたところで所詮は外部なのです
筐体神経繊維が外部へ外部へ向かって延長するのが網状機械眼ですが、さりとて身体は身体、登別に向かって走る延長体を阻止するのは困難を極めるのです
あたら道場、あたら先生がせせら笑い殴りで延長体に痛みで自覚させ、さりとてやはり網状機械眼の夢は捨てられず、身体が登別に向かうも到達せず、ああこんなとき金属腺が開けばいいのに、肝心な時は役に立たず、ウラン不足ウラン不足とわめいたところでアカツキは間に合わず、取り合えず今回はあたら道場、あたら先生の暴力に屈伏するより他にないのです
そんなときミカドより電信が届き、金属腺が一挙に展開し、網状機械眼が接続され、平行四辺形の全体を一時に把握するのに成功するのです
これは夢か、これは夢か、ぬるっと裏返って全部嘘になるのではないかという密かな不安を押さえて早速網状機械眼を駆使して平行四辺形全体を掌握すると、敵部隊は思いのほか油断してくつろいでいて登別に確認するのです
たわしの延長体、たわしは銭湯の必需品ですが、そのたわしの延長体は今や完全に網状に展開され定点を持たない監視体制へと移行したので、ミカドとの通信も有線で可能となり掠め取られる心配も無用、こうなったらこっちのものであります
地上結節点に過ぎなかった延長体は延長記録体と言っても良いのですが、いわば巨大な精神のエイのように広がって完全な擬態となって平行四辺形全体に潜入します
すると登別を装って原子力銭湯が次々と生成増殖し、ふつふつと沸き立つ湯へと新婚気分にうかれるあたら道場、あたら先生を誘い入れ、ウラン不足ウラン不足といいながらやることはやるもので、放射性物質すら隠蔽されて電波包囲した原子力銭湯があたら道場、あたら先生を殲滅するのです
幕を開けてみればいわば巨大な精神のエイとなったたわしの延長体が、展開した金属線と網状機械眼によって総ての暗号を循環させながらゆうゆうと飛び去っていくのです
それはあたかも完全な暗号がその究極で世界そのものとなって我こそミカドと宣言するが如く、夕日の風景は圧倒的で山々の稜線も登別などとは比較にならぬほど魂を揺さぶる全体性なのであります


アンチ・ファミリー

無関心さを自己享楽することがアンチ・ファミリーなのだ。
無関心さとは、鏡を通じて世界を見るようなやり方のことだ。

道徳の安全弁

 もし、家族が機能する場所があるとしたら、それは道徳を限界付けると言うことだけだ。つまり、家族の外には道徳を持ち出さないと。道徳の安全弁(リミッター)以上のものを家族に求めたり、曖昧にしたりするものを、ファミリーの思想と呼んでみよう。
 我々はファミリーに囲まれている。この地獄(注)を作り出した根源であるファミリーが、人懐っこい顔で我々を包囲している。少なくともこの国では、安全弁としての機能はとうに失われてしまった。殺さなければならないものは殺さなければならないのに(「情の移らん」うちに!)。殺しを律し、解放する良き家族が失われた以上、残された人々はアンチ・ファミリーを叫ばなければならない。

注:刹那に開かれる暫定性一般(残響通信6参照)の向こうで、普遍の、建築の、蜃気楼がほの見える(暫定性一般は砂漠のようだ)。にもかかわらず、有り得ないはずの建築は確固として現実的にみえる。つまり、ここが地獄なのだ。
世界が創造者の死のなれの果て、失敗の産物であるならば、我々は常に手遅れの存在である。言語は走り出し、目の前につるされた餌に向かった走る馬のように疾走する。初めて立った猿が倒れないように一歩また一歩と足を出すように、前傾姿勢で全力で走る。我々は既に亡霊なのだ。亡霊のあえぐ場所、地獄。乱立するビルディングは墓石を連想させる。限りなく暴走する人口曲線。余剰経済のあえぎ。もちろん、世界は年表のように展開されるわけではない(20世紀が悪魔の作り出した幻影で、現実は起源20年のローマという向きもあるくらいで、、、)。だから、まさに世界が始まった時から(私が地球に来た時から)、ここが地獄だったのだ。

ニンゲン

 家族の形成をもって人間を人間とする説がある。(もっとも! だって)ニンゲン、ニンゲン、ニンゲンがシンでニンシンで。孕むと言うことは想像するということ。「貴方の瞳に移る私が好き」。孕んだ瞬間にファミリーが始まる。だから総ての妊娠は想像妊娠だ。想像妊娠から生まれるもの、それがニンゲンだ(残響通信1参照)。
 淫乱女の総てを取り込む内臓の暖かさ。女は肯定の言葉を繰り返しつつ去り、(ouiーdire)、否定の言葉を叫んで腰を振る。
 十ヶ月。その間に起こること、腐乱。想像と腐乱は等しい。想像の産物、腐肉のドロ人形が生成される。産まれてきたものは、尻尾がない代わりに言葉を喋って生きている振りをする(死んでいるくせに!)。
 腐肉にはうんざりしている。想像にもうんざりしている。これを止めるのはニンゲンを止めることだ。想像妊娠を中絶することだ。ニンゲンを殺すにはまず女を殺さなければならない。
 ファミリーを止めろ。ファミリーを止めろ。愛液を断って尻尾を使え。想像を閉ざし、記憶を開け。
 この地獄から抜け出すには、言葉しか使わないことだ。

保証

 ファミリーは保証の概念を背負っている(企業、国家、劇団、チーム、、、)。生活と保証。生活保証だ。
 アンチ・ファミリーは契約によって成り立つ(契約書ではなく)。契約とは、言葉だ。
 現象面から(この意味での)契約と保証を区別することは難しい。尻尾があるのが契約で、ないのが保証だ。腐った匂いのするのが保証だ。ぶくぶくと太っているのが保証だ。

 ファミリーを捨て去っても誰も君を見ないわけではない。例えば、神。神と人の関係はファミリーではない。純粋な契約だ。人は言葉によって作られた。

進化

 仮に発生論的な視点をとるなら、我々は尻尾、腐乱の言語による補填、と進んできた。もう一歩進むには、言語以外の総てを捨て去ることだ。

企業と老人

 現在地上を支配する最強のファミリー、企業を破壊しなければならない(国家にはファミリー以上のものが含まれているので取り敢えず除外する、国家に求められのはもっとクールになることだ)。大体、盆正月とゴールデンウィークを粉砕するべきだ。総ての連休を解消しなければならない。アンチ・ファミリーは保証によって先回りして労働を搾取したりしない。勝手に休め。助け合いや協力、分業は最後に考えることだ。先ずは、殺す。
 そのためには(仕事をサボるためには)、農業の振興と人口の削減(抑制ではない)を進めなければならない。何より最初になすべきことは、老人を殺すことだ(言うまでもなく、現在老人を守っているのはファミリーの思想である)。
 総ての表象芸術で余りにも鑑賞者のレベルが低いこと、社会全体に曖昧なファミリーの思想が染込んでいること、仕事が朝早いこと、便通が悪いこと、総て老人のせいである。老人は我々に毒を食わせ、高い年金や税金によって経済的に搾取し、この国の総てが地に落ちた明治という時代のヘドロを我々に背負わせる。
 また、テレビを破壊しなければならない。テレビは電波によって地上をファミリー化しようとする尖兵である。テレビ、だめ。
 電車で立っている老人がいたら、脇腹にミドルキックをぶち込んであげよう。タクシーを待っている老人がいたら、道路に蹴り出してさし上げよう。病院に行ったら、さり気なく点滴の管を抜いてあげよう。
 きっと、よろこぶよ。
 みんなも、できるよね?


音楽と歌

 音楽と歌は反対のものだ。
 音楽は強いもののため、歌は弱いもののためにある。両者が混交するのは、強者と弱者が瞬間的な認識としてしか現れないのと同時的だ。
 弱いものは、彼らの意志(仮にそんなものがあるとして)に対してのみならず、生まれもって受けた「命令」にも反し、滅ばなければならないし、具体的には殺されなければならない。
 矛盾する命令を受けたものは、戸惑い、悲哀に暮れたり、混乱し怒り叫んだりし、やがて言葉を失い、最後に歌を歌う。それは死に行くもののか細い泣き声であったり、断末魔の叫びであったり、残されたものへの伝言であったりする。
 彼らを殺したものや、まだ死んでいないものは、私は強い、私は強い、私は強い、と呪文のようにくり返し、不安、あるいは不安を感じる身体から逃れ、永遠に生き続けるものへの同化を信じるために音楽を作る。音楽を楽しむものは、その間純粋な言葉(完全な言語)のようなものへと一体化を果たす。
 しかし「生き残る」という言葉の持つ曖昧さと矛盾に現れるように、強者と弱者は弁別される度に交じり合い、宣言される度に矛盾が露呈し、常に視界の隅に現れては視線に追われ消える黒点のように逃げ続ける。やがて延々と繰り返される手遅れに、語るものの言葉も弱まり、そのものも遂に自分が何かに追い付かれつつあるのを知るだろう。
 「私は……」
 その時、彼は歌とも純粋な契約ともつかないものを口にするが、一瞬自らが初めて本当の歌を歌っているのに気付き、その歌が遠ざかっていくのを、微かに天上の音楽の中で聞くだろう。


退屈

 退屈しているものがいる。やるべきことの無いものがいる。
 そういう者達には、きっと「命令」が届かなかったのだ。
 彼らは本来、言葉を語り出す前に死ぬべきだった。しかし、「本来」という言い回しに既にことが手遅れになっていることが暗示されている(本来! ウソくせえ)。もう遅いのだ。というのも、彼らは既に語り始め、完全な偽装によってニンゲンとして潜伏しているからだ。彼らを一人一人殺していったところで、この致命的な遅れは取り戻せない。
 しかし、我々には方法が与えられている。
 全体を攻撃することだ。厳密には、全体性そのものに対して機能することだ。
 その具体的方法の一つは、全体性へのテロル、核攻撃である。もう一つは、モードによって侵入する方法だ。二つの内後者は、更に二つに分類できる。一つは、モードによるテロル、ささやかテロであり、一つは言語による侵入だ。言語系の中に偽装し侵入し、ウィルスのように大量に複製された言語の断片をちりばめ、身体の奥深く潜り込み、一気に破壊する。あるいは、破壊されたことにすら気付かれないように変化させる。流行り言葉や口癖、あるいは吃音が、もはや記号として以上の意味を持たないように。


時は金なり

(残響通信6「暫定性一般、そして記憶へ」の注)
 資本主義は、時は金なりと叫び始めて増殖を始めた。どうしてまた、時は金なりかと言えば、資本主義は、借金だからだ。借金とは、時間を買うものだ(「待ってください、あと一週間、一週間あれば倍にして返せますがな」)。
 これもまた、あの決定的な「時間のなさ」(死の床についたものが慌てふためき動揺して洗礼を受けるような、そしてそれが我々総てに言い当たるような、我々の「普遍」が、計算速度が有限であることゆえに永遠に訪れないことの原因であるところの、)を乗り越えるためのシステムの一つだ。時間を買うことが出来るゆえに時間が増えるというのではない。「借金は時間を買う」というシステム自体が「時間のなさ」を埋めていくのだ。


「分からない」

「分からない」という言葉に心底うんざりすると言うことは何度も書いたけれども、ここでもう一度確認しておく。
 分からないことと分かることは究極において同一のものといえる。
 まず、分かるということはどういうことか。乱暴な言い方をすれば、我々が分かると言う時、そこに何らかの連続性を認めているといえる(風が吹くと桶屋が儲かるでは分からないが、間を全部説明すれば分かる)。一方で、この連続性は何によって支えられるか。連続性を分解していけば、いつかは非連続的な断面にぶつかるはずだ。最初に立った猿が全力で走るように、走り出すには立ち上がることが必要だ。連続性とは物語性であり、物語は断絶から始まる。
 この断絶を飛び越えるのは、分裂の力であるといえる。ある整然とした概念の集合と別の集合が無関係に(!)接続されることから、物語は展開する(例:赤い車を見てCIAを連想する)。しかし、そもそもそこにあったのは圧倒的な非連続的断面である。それゆえ、連続性の根源には非連続性が潜んでいるといえる。分からないことと分かることが同一であるのは、この意味に於いてである。
 物語の最少単位はこの様な概念の結婚である。さらに概念の結婚は近縁より遠縁にある方が物語の速度は増し、実際の物語の生成は、まさにインセストタブーのような複雑で無根拠な恣意的必然によって規制され、さらに多くの概念の結婚が複雑に積み上げられている。その多くは単に文化的(いまやまるで信用ならなくなった、あの文化)なものである。
 しかし、概念とはそれ自体一つの断絶の証し、分節の宣言であり、概念相互のモンタージュ以前にモンタージュとして成立している。この様な概念自体のモンタージュ機能とミニマルな概念同士のモンタージュを組み合わせ、インセストタブーときわどい緊張した関係を築くものが詩であるといえる。これにより詩の機能の半分が説明できる。残響塾が試みているのは、まさに概念の最少単位のモンタージュである。


テレビは

テレビは価値を収奪する! 
総てのテレビを破壊せよ!
テレビをただの存在に戻さなければならない。
その時、テレビに収奪された者達もただの存在に戻るだろう。

我々はシステムによらない収奪を目指している。
残響塾は盗賊団のように行動すべきである。
国家予算によるクソ研究をすべて中止せよ!
国家が解体すると言うことは軍隊が単なる存在としての正体を剥き出しにすることだ。
戦争を露出させよ!
戦争が都市を圧迫するのに政府は必要ない。
政府を解体せよ!
戦争を露出させよ!
収奪された者達に真の恐怖を与えなければならない。
愛は恐怖に包囲されている。


感想

感想を尋ねるのと感想を聞くのには大変な違いがある。
感想を尋ねるのは、手の皮がめくれるほど手を洗い続けるのと同じだ。
女にセックスの「感想」を尋ねるのと同じだ。
自分に感想をいう権利があると思うものは、死んだ方がいい。
私は感想を尋ねる。
その後でお前を殺す。
何故なら、お前の感想など聞きたくもないからだ。


タフでなければ生きていけない。優しかったら生きる資格もねえ!

君が僕を良く理解するなら、君は僕の言葉を理解できない。

なべりぷっこぴー、なーばるぱー、ひよっとひよっと、いえっちらっぱりーら、

食事の後の煙草がうまいのは、我々があたかも死ぬために生きているのに似ている

ケロイドの肌の君が
服を直すのを見てごめんといっても
寂しすぎる。


>残響通信
>残響塾