残響通信第十九号

前編

主な項目

前編
水中ハウス
世界の終わり
「人世の目的は睡眠である」
ご先祖様の恨み

後編
環境論を巡る道徳哲学の特別な位置?
「これを映像化する意味があるのか」
ミサイルを表現する/心霊写真
「趣味で決める」について
音楽に曝される
「人は常に祈っていますよ」
職人に騙されるな!
高速悪単子
てんじくねずみのうた

水中ハウス

 私たち一家が水中ハウスに住み始めてから、おおよそ一ヶ月になる。
 我が家は、金沢八景近くの磯浜から1キロほど沖合の海底にある。丁度二階建ての一戸建て住宅を、そのまま水底に沈めた形だ。
 父や私の通勤の便、弟の通学路などを考え、先代から引き継いだボロ屋を売り払って引っ越したのだ。
 一ヶ月の内に家族はみな、高速で水中を進んだりトビウオのように空中をジャンプする能力を身につけていた。室内には水面から酸素が取り込まれてくるし、想像以上に快適な生活だ。
 ところが、そんな平和な生活をうち砕く大事件が発生した。
 ある日ふと窓の外に目をやると、家の前の水中を奇妙な赤い帯が流れていたのだ。あわてて父親に尋ねてみると、
「そこだけ潮の流れが違うんじゃないか」
 不審に思った私は、その帯の流れに沿って泳いでみることにした。たどっていくと、赤い潮は工事現場にあるような青い軟質ビニールパイプを太くしたような物から出ていることが分かった。流出物の圧力はかなりのもののようで、パイプが時折うねって水面に出ると、嘔吐のように口から生ゴミや糞尿をまき散らしていた。
 私は激昂し、父親にも声をかけて、凄まじいスピードでパイプの元をたどっていった。陸に着くと、パイプの元は水中ハウスを販売している建設会社の工場で、私の怒りは心頭に達した。
 私は会社の事務所に殴り込みをかけ、抵抗する社員をナイフや催涙ガスで制圧しながら進んでいった。社長室まで辿り着き扉を蹴破ると、意外なことに社長だけは物わかりの良い人物だった。じっくり話すと事情を分かってくれ、一件落着かと言うところに、理事を名乗る男が現れた。
 彼の出現のお陰で、我々はまた一から事情を説明せざるを得なくなった。急遽十数名による会議がその部屋で催された。そのメンバーの中には、どういう訳か私の大学の先輩である大岡さんが混じっており、状況の説明と称して自分の過去を延々と語り始めた。別の社員の注意にも耳を貸さず、自分の女遍歴や学生時代の思い出を話し続ける。その中には、小学生の時に覚えた柔道の技や、服を脱がずに水着を着る方法が含まれていた。

 大岡さんと言えば、私と大岡さんは学生時代同じ映画サークルに属していた。このサークルの仲間達で、ある重要人物を追跡したことがある。
 その男は傭兵部隊の裏切り者で、この裏切りによって日本経済が傾き、核の冬が訪れていたのだ。
 我々は二台の車に分乗し、気づかれないように男の車を尾行していた。男はBLKという黒い車に乗っている。車が有料道路に入った途端、我々は渋滞に巻き込まれた。
 蓮沼さんが居眠り運転をして追突しそうになったので、もう一台に車に乗っていた基維さんが運転を替わった。結局私と基維さんと小林の三人の車だけが追跡を続行することになった。
 BLKは横浜市の中にある起津市に入った。西山京浜自動車道を走っていくと、次第に周りが住宅街になっていく。男の車は大きな家の前で停まった。
 尾行を悟られないように一度そのまま通り過ぎ、すぐそばの海水浴場まで行って停車する。基維さんはここで他の人たちや警察に連絡しようとしたが、私が無理を言って、歩いて現場へ行ってみることにした。
 海のそばには、平屋建てのカメラのサクラヤがある。基維さんと小林はそのまま何事もなく通り過ぎたのだが、私が何気なく「困ったなあ・・」と呟くと、突然カメラ屋のババアが「何でもお助けします!」と寄ってきた。
 私が無視して進もうとすると、ババアは私の行く手を阻んでくる。催涙ガスを使うが全く効果が無く、更にカメラ屋の男達までやってきたので、仕方なくナイフで男を刺した。
 しかし男達は後から後から際限なく現れて襲ってくる。そこへ小林が新左翼のようなヘルメットをかぶって戻ってきて、なんとか一緒に逃げる事が出来た。
 「間違いなくあいつらだ!」
 やむなく追跡を諦め、図書館であの家の場所を調べることにした。起津市の場所が最初は分からなかったのだが、私のアイデアで発見することが出来た。かなりのところまで絞り込むことが出来たのだが、家そのものまでは限定する事が出来なかった。
 我々は「1025」という地図の番号を控え、図書館を後にしたのだった。

 大岡さんの話がいつまでも終わらないので、私は気づかれないようにこっそりと社長室を抜け出した。
 我々の暴力的な乱入にも関わらず、建設会社の社員達は普段と変わらずに業務をこなしているようだった。廊下を歩く内に、コピーの束を抱えた女子社員や、せわしなく歩き回る背広姿の男達と何度もすれ違った。
 ビルは予想以上に大きいらしく、たちまち私は自分の所在を失ってしまった。迷路のような廊下を進む内に、次第に人気が少なくなっていった。同じ作りの扉が一定間隔で並んでいたが、その扉に記された部署名は、知らない外国語で書かれていた。
 無数の階段を上り下りし、曲がりくねった廊下を歩いたが、一度も窓を見ることがなかった。気が付くと、嫌に天井の低い金属質の通路を歩いていた。まるでSF映画に出てくる宇宙船の通路のようだった。
 通りがかった部屋の中で、ピッチリとした銀色の服を着た二人の男が、入れ歯のパーツについて語り合っていた。実はこの世界全体が巨大な入れ歯であるらしい。
 長い長いダクトのような通路の突き当たりの扉を開くと、建物の外に出ることが出来た。私のいた建物は、町一つくらいの大きさの巨大な物らしい。あたりは薄闇で、夕暮れが迫っているようだ。空には真っ黒な重い雲がゆっくりと流れており、一方向に風が吹いている。
 私のいた建物の緻密さに比べると、外界はただただ草原の続く異様に空虚な空間が広がっていた。生命活動の総てが背後の巨大建造物の中に押し込められているようだった。
 暗い広大な草原の向こうに、点のような家屋の陰が見えた。草原の中央には、地平線まで続くような一直線の道があった。その道路沿いには、灰色の3,4階建てほどのビルディングが疎らに建っている。いくつかの建物の窓には明かりが見え、何者かが活動しているらしかったが、どれにも生活感が感じられず、まるで遺跡のようだった。灰色のビルにいるのは人間ではなく、ヒト以外の知的生命体らしかった。
 草原には等間隔で巨大な高圧送電塔がそびえていている。電線はどこまでも続き、地平線の彼方で闇に溶け込んでいる。草原(麦畑にも見える)には一直線の道路以外にも、これに垂直に交わったり併走したりする細い道路が微かに見えたが、車も人影もなく、また交通標識や信号機もなかった。道幅は車がやっとすれ違える程度で、ガードレールもなく、古い木製の電柱が一定間隔で続いている。電柱に付いた暗い蛍光灯が、時折瞬きながら青白い光を放っている。
 私は一直線の道を歩き始めた。いくら歩いても同じ道が続いているが、それでも少しずつ景色が変わっていくのが分かる。1時間ほど歩いたとき、やっと別の道に交わった。それまでは全く気づかなかったが、その交差点には五本くらいの道が集まってきていた。斜めに走る道路など見あたらなかったのだが、交差するためだけに短い道路が造られているようだ。
 交差点の付近にはいくつかの商店や事務所めいた建物が集まっており、古びたラブホテルもある。商店のシャッターは下り、もう何年も営業していないようだ。ラブホテルの中には複数の生きて動くものの気配があり、それらが突然喧嘩でも始めたかのようで、嫌らしい高い叫びを発し、物が倒れる音がする。この世の物とは思えないような、ぞっとするキチガイじみた声だ。私はそのまま道を進んだ。
 いつの間にか道が下りになっていた。草原が林に変わり、木々に紛れて次第に道が分からなくなる。それと共に斜面がきつくなり、私は慎重に足場を探りながら林を降りていくことになる。所々に踏み固められた人が通った跡あるので、これを足がかりにして一歩ずつ慎重に下っていく。斜面は更に急になり、転落を避けるのに神経を費やすようになる。自然と小学校の校歌が口をついて出てくる。斜面の先は闇に溶け込んで見えないが、微かにバスや自動車の通る音が聞こえる。私は校歌を歌い続ける。





世界の終わり

 世界が終わろうとしている。
 東京は灰色の雨に沈もうとしていた。雨は何ヶ月も降り続け、我々のバスがかろうじて水没をまのがれた高架道路を通過したときには、すでにほとんどの道路がヘドロのような海の底になっていた。それでも灰色の雨が止む気配はなかった。
 重い黒褐色の雲がたれ込める低い空の下で、消防隊が必死の救出活動を続けていた。彼らの努力が虚しいものであるのは明白だった。それでも人類の微かな理性の灯を守ろうとするかのように、彼らは今や余りにも価値の薄いものとなった、小さな人間の命を救おうとしていた。
 例え一時的にこの災厄から逃れたとしても、もう人間の生きる場所などどこにも残っていなかった。生き延びた人々も、多くが「悪辣な病」に犯されていた。この病にかかった者は、心が悪意のみによって満たされ、誰も人を信じず、ただひたすらに人を傷つけ続けるのだ。
 人間ばかりでなく、動物達も死に絶えようとしていた。いや、人間より先にほとんどの動物が絶滅してしまっていた。地球全体が死に瀕していたのだ。
 東京の残された浅瀬には、イルカやクジラが無数に打ち上げられていた。彼らの灰色の皮膚はぶよぶよに腐っていた。
 世界の終わりに瀕して、初めて動物と言葉が交わせる方法が見つかったそうだ。しかし動物たちは、ただ「淋しい、淋しい」と繰り返すだけで、孤独以外の何も心にはなかったということだ。
 我々のバスには、私と私の映画に出演する予定の女優、そのマネージャー、それから一組の夫婦と二人の女子高生が乗り合わせていた。それぞれが何かの目的で京都から北海道へ向かっていた。
 私は東京の惨状を見て、もう京都へは戻ることが出来ないかもしれない、と思った。もはや何の為に映画を撮るのかも分からなくなっていた。しかし引き返すことは出来ない。私は北海道で、たった三人で映画を撮らなければならないのだ。
 道中でたくさんの「悪辣な病」に犯された人々に出会った。彼らは私を嘲笑し、私の心を見透かし、蔑んでいた。彼らの嘲笑は私の心に言いしれぬ恐怖を生んだ。「悪辣な病」は心から心へと伝染していく病気だ。彼らの邪視を浴びると、最初は恐怖を感じ、純粋な心が生まれる。しかしそれが段々と、自分以外の総ての人間に対する悪意へと変わっていくのだ。
 北海道に着いたときには、私の心にも「悪辣な病」が巣くっていた。私は次第に疑心暗鬼に捕らわれるようになり、そうやって変わっていく自分に恐怖した。
 私はもう会えないかもしれない恋人に電話をかけた。彼女は、驚いたことに、世界の終わりに気づいていなかった。私は彼女の純粋さに胸を打たれると同時に、彼女だけはこの病から守らなければならないと思った。
「いいかい、テレビを見ちゃだめだ。例え見ても、それに影響されちゃだめだ。私がいなくてもしっかりやっていくんだぞ」
 電話を切ってから、私はバスに乗り合わせた人妻と交わった。
 ホテルに居合わせた小男の芸能人が、女子高生を陵辱しようとしていた。彼は「最近ダンスを始めたんですよ」と言っていたが、彼の本当の欲望は明らかだった。
 ホテルでは父が待っていた。父は日本中を旅しながら仕事をしているようだった。子供の頃から疎ましく思っていた父が、何故か頼もしく思えた。世界の終わりに際し、父は私に告白した。
「旅をするのに力を付けなくてはならないから、フランス料理を食べたいと言っていたんだよ」
 そう言う父はひどくはにかんでいたが、私にはそれが恥ずべき事だとは思えなかった。
 北海道のホテルでは、足の裏のホクロ占いが流行っていた。私の足の裏は大変な幸運を意味しているらしかったが、星座占いを併用している所を見ると、このホクロ占いは信用できないと思った。
 ホテルの窓から見える光景も、東京と変わりなかった。降り続く灰色の雨を見ながら、私の映画はたぶん完成しないだろう、と思った。そもそも、この映画の企画自体、私が女優を口説き落とす為の口実でしかなかったのだ。私はベッドに横たわりながら、女優との性交を夢想し、自慰した。
 果てる瞬間に、私は素晴らしい映画のタイトルを思いついた。しかしその直後に深い眠りに落ち、目覚めたときにはすっかり思い出せなくなっていた。





「人生の目的は睡眠である」。

 このアイデアは前にも書いたが、今回は非常に幼稚なところから、順を追って睡眠人生目的説を考えていきたい。

 例えば、「どうせ人間は死ぬんだから、頑張ったって仕方ない」という子供(多分中学生)の幼稚な理屈は、ある意味筋が通っている。普通の大人ならこういう子供に対して、「死ぬからこそ生きている時間を有意義に過ごすのだ」とか「たとえ自分が死んでも自分の子供や社会が引き継いでいくものがあるじゃないか」とか「いずれ死ぬからこそ生きた証を残すのだ」などと言うか、あるいは黙って張り倒すだろう。これらは世の中で適当に生きていくための信仰としては悪くない考えだし、また黙って殴るのも素敵なアイデアだが、理屈だけなら子供の方がずっとマシだ。
 第一の大人の論駁は、そもそもいかに有意義に生きようがそれが死によって無化されるのでは、という子供の大前提を無視しているので、反論にならない。第二の論駁でも、子供の前提が理解されていない。子供は今生きてここにいる私性を唯一のよりどころとして論理を展開しているのであり、社会や子孫が何を引き継いでも全く関係ない。第一、自分が死んだ時点で世界が消滅するという非常にあり得そうな前提の元に、子供の論理は成立しているのだ(つまり、素朴だが強固な独我論)。この〈私〉以外の何が何を受け継いで自分を評価しようが、問題にならない。第三の論駁も同様だ。死んだ後のことなど自分には関係ないからこそ、「仕方がない」と言うのだ。その前提を共有した上で反論するか、前提そのものを論理的に突き崩すのでなければ、それは批判とは言えず、単なる暴力であり、黙って張り倒すのと同様だ(それが「悪い」と言うわけではないが)。ただし、「生きた証を残している気分」「社会に貢献している気分」は生きた自分が経験するものであり、意味はある。ただし、それも死によって無化されるので(そういう前提なので)、生に価値を与えることはできない。
 もしこの子供の理屈に問題があるとすれば、それは時間の問題に無神経な点だ。論理が原理上無時間的なものであるからこそ、この理屈は成立するのであり、あらゆる計算が有限の時間を要求することを考慮すれば、この論理は必ずしも成立しない。現在生きている自分が将来の死に対して無時間的に接続されることから「人生の虚しさ」は生まれるのであり、論理の遅延、生きている〈私〉(*註)とその生との距離という要素を導入すれば、事態は変わってくる(実際に人生が70年とか、そういうことは全く関係ない。経験的時間ではなく論理的時間)。〈私〉と私の人生の間には遅延回路が働いている。〈私〉の論理はゼロ時間の論理だが、実際の人生は数えられる空間的な時間に支配されている。それ故に、論理は常に人生に対して手遅れになる。つまり、「人生は虚しい」が、その主張は「人生にとって虚しい」のだ。
 これは、いわゆる「ニヒリズム」に対する「ポジティヴシンキング」の称揚とは全く異なる。そもそも、いわゆる「ニヒリズム」は人生の空虚という真実を正面から捉える意味において真性のリアリズムであり、これに対して上の大人の理屈や、宗教的な信念(つまり、根拠無き信念)をあてることこそニヒリズムなのだ。「人生は虚しい」という主張が「人生にとって虚しい」ものだとしても、それは「じゃあ明るく前向きに生きていきましょう!」には直結しない。勿論、そのような選択は可能だが、必然ではない。依然として人生は虚しいままなのだ。
 実際に人生は「虚しく」すぎていくのであり、それが日々「虚しい」と感じられないとしても、それは単純に心理的な問題であって、「忙しくて孤独を感じている暇もないよ!」というのと同じである。多くの場合このような鈍感さは幸いに作用し、いつの間にか時間が経ち、否応もなく死を迎えるのだ。そしてそのような仕方以外に死を迎える方法はないし、生を全うする手段もない。電話をかけてから手紙を出すようなバカバカしさが、人生には常にある。ともあれ、その手紙は出してしまったのだし、受取人は待たなければならない。その待っている時間が人生なのだ。だからその人生に無理に色をつけようとしたら、「電話と手紙のニュアンスの違い」くらいしかあり得ない。
 本論からはそれるが、この「ニュアンスの違い」は些細なようで非常に重要だ。つまり、意味のシステムの内部では等価であるにもかかわらず、形式の差異、物質的な差異、記号的な差異が全く別の経済を通して伝達されるということだ。だからそれは、正確に言えば「ニュアンスの違い」などでは決してないのだ。物質的な差異、意味を剥奪された空虚な記号が人生なのである。人生は無―意味だが、その無は意味のシステムの外部(存在しない外部)から機能している。

 さて、このようにすれば、非常に「聡明な子供」は説得できるかもしれないが、普通の「聡明な子供」を説き伏せることは依然としてできないだろう。というのも、彼らは意味の地平を信じているし、形而上学の内部にどこまでもとどまろうとするからだ。ここまでは哲学の文脈だが、ここからはやや思想の文脈になる。つまり、哲学を諦念し、退歩する。上で「本論からはそれるが」と断ったのは、このテクストでの私の趣旨が哲学の徹底にはないからだ。ただし、以下のテクストが有効なのは「思考の徹底」にある程度捕まっている人だけだろう。この段階がクリア出来たところで、次のステップに進もう。つまり、いかにしてお茶を濁すか、ということをこれから考えたい。
 上のとりあえずの結論から退歩すると、人生の目的を空虚そのものとして捉えるという考え方が出来る(これは意味のシステムへの拘泥から生まれる倒錯的な着想だが、このテクストでの私の興味は正にその倒錯的な着想にあるので、ここではこちらを(間違った答えの方を)徹底する)。人生の目的を空虚そのものとするというのはつまり、「人生は虚しい」(=目的が無い)というテーゼを「人生の目的は無である」と言い換えただけである。これはさらに、「人生の目的は死である」と読み替えることもできる。何故なら、この理屈の大前提で「死=無、空虚」と規定されているからである。

 この「人生の目的は死である」というのは、なかなかもっともらしいアイデアではないか。実際、我々は死ぬために生きているような部分がある。いかなる死を迎えるか、ということは通念的にも人生の意味付けの一翼を担っている。「有意義な人生」を目指す大人達でも、その有意義さを最も良く表すのが死の場面である、と誤読してくれそうだ。科学的言説との危険なアナロジーを犯すなら、種の存続のためには個は死を迎えなければならない。
 さらにここで、おそらく件の子供が信じているであろう前提をミックスしてみる。彼は「人生は虚しい」として、その内部での感覚の経済のみを信じている。だから楽しいことは究極的に好いことだと考えるだろうし、苦しいことは最終的には好ましくないことだと考えるだろう(道徳的な善悪ではなく、功利的な好悪であることに注意)。ついでに言えば、彼は「人生は虚しい」からこそ、趣味的に(論理的にではなく恣意的に)ポジティヴシンキングを選ぶ可能性は大いにある。ここで彼が功利主義的な好悪を重んじ、道徳などその他の価値一切をこの基準に回収しようとするのは、〈私〉の外部に〈私〉を説明づけるようなもの一切を認めないことと並行的である(そしてその態度は「正しい」)。彼は〈私〉の外部の一切を〈私〉へ回収してみることから世界を理解しようとしているのだから、死後の世界も認めない。正確には、死後に世界があるとしたらそれは単なる世界であって、「死後の世界」ではないから、もしそれが存在するなら死は存在しないと考えるだろう(あるいは「二番目の世界」の終わりに「本当の死」が待っているか・・。余談だが、これは『ドラゴンボール』末期の構造だ)。当然彼は「耐え難いまでに苦しむなら、死んだ方がマシだ」と思うだろう。つまり彼は苦しみと死を天秤にかけることができると信じている。もし苦しみと死が同質的なものなら、上のテーゼは「人生の目的は苦しみである」とも書き換えられる。これは非常に仏教的な印象を受ける。私は仏教についてまるで疎いので、正確には全く的外れの可能性が高いが、少なくとも通俗的な仏教理解には似て見える。
 仏教云々はともかくとして、多くの宗教がこの「無」を言い換えること、つまり「人生の虚しさ」に理屈をつける為に成り立っているのは事実だろう。上での度重なるダビングの結果、当初のリアリズムがいつの間にか通俗的なニヒリズムへと転化していってしまった訳だが、比較的聡明な宗教家の論理というのは、このようなものではないかと思う。ただここでこだわりたいのは、そこまで意味化した人生解釈ではなく、もう少し「人生の虚しさ」に拘ったものなので、一度軌道を修正する。

 もう一度「人生の目的は無である」に立ち返ってみる。これは「人生は虚しい」というテーゼを読み替えただけなのだから、ここでいう無というのは、「虚しさ」一般のことだ。
 ここで「苦しみ」とか「贖罪」などという中途半端に抽象的なことを言わず、大きく飛躍してみる。つまり、「人生の目的は睡眠である」へと。
 死と睡眠を類比的に見る見方は新奇なものではない。入眠はしばしば死を想像する際の契機として用いられる。睡眠は一般に一日のサイクルの中での虚無の時間である。勿論睡眠の意義を説く科学的言説は無数にあるが、いずれも覚醒主体文脈の副流としてのものにすぎない。我々が眠るのは、起きて活動するためであり、一般的な睡眠の解釈は休息である。動物でも、補食したり交尾したりすることが主であって、それを支える休息として睡眠があると考えられる。眠っている間にも脳は活動しており、例えば夢を見たりするというが、その夢の解釈も起きている間の記憶の整理とか、覚醒時の記憶を契機とするといった、覚醒主体のものである。
 ここで逆に、睡眠こそが目的だと考えたらどうか。普通なら仕事をするために眠るかもしれないが、仕事も食事も睡眠の為だとも捉えてみる。空腹では睡眠に差し障るし、食べるには仕事が必要だ。また充実した仕事は深い睡眠をもたらす。セックスなど、その後の淵に落ち込むような深い睡眠の為にあると言っても、なかなかもっともらしく聞こえる。我々は覚醒している状態からしか睡眠を認識できないのだから、睡眠は常に覚醒の文脈、非―覚醒としてしかとらえられない。それは外部であり、無である。外部が内部を駆動している。無が機能している。
 念のために言っておくが、睡眠の話題になった途端に論理が破綻しているのは、承知の上である。また、大まじめに本気で睡眠こそが人生の目的などと主張しているのではない。睡眠を絡ませる過程で使ったのは、総て類比によるトリッキーな屁理屈だ。また、仮に睡眠が人生の目的だとしても、そう語ること自体覚醒側からしか出来ないという点を見逃してはならない。言うまでもなく、そのような逆説を含意しての「人生の目的は睡眠である」なのだ。
 「人生の目的は無である」という仮説を立てた時点で、我々は徹底的に考えることを放棄し、論理をうち捨て、哲学から思想へ、さらに宗教へと堕落していっている。繰り返すが、ここで試みているのは、そのような堕落の過程で生まれる倒錯的な着想の探求である。だから、これは新しい宗教の提案でもある。勿論語の真の意味での宗教ではなく、宗教の皮肉にしかすぎないのだが。
 「人生の目的は睡眠である」は、広義の宗教(「人生の虚しさ」を紛らわす為の善なる嘘)をいかようにも受け入れられない人のためのささやかな気晴らしだ。「人生は虚しい」という主張は「人生にとって虚しい」という事を受け入れた子供にとっても、依然として人生は虚しい。またさらにその先へと、意味のシステムの解体へと進んだ子供でも、やはり人生は虚しい。勿論彼らは功利的解釈に先んじて道徳を受け入れたり出来ないからこそ、そのような過程をたどったのであり、いかに人生が虚しくても、そこで道徳や宗教へと妥協することは正に彼らの「道義心」が許さないだろう。正確には、彼らが趣味的に道徳や宗教やその他の「阿片」を用いることは、何ら「人生の虚しさ」へと至った論理と矛盾しないのだが、おそらく彼らはそのような選択には逡巡するだろう。要するに彼らは幼稚なのだが、完全な子供以外の大人達は彼らを道義的にも論理的にも責めることはできない。何故なら、幼稚とは大人と子供の狭間にあるものだからだ。

 幼稚な人に幼稚な人から幼稚なユーモアを贈ろう。「人生の目的は睡眠である」。

(このテクストは残響通信15号「道徳の道徳による道徳的解体」に関係する)

註:「〈私〉」という表記は永井均氏の用法に準じる。一般的な「私」、あなたも彼も自分にとっては「私」という意味での「私」、あるいは自己意識、などといったものと区別し、「この」私を支持する意味で用いる。勿論〈私〉も、次々と後退し、この〈私〉、この〈この〈私〉〉となりうる。このテクストの前半部分には永井均氏からインスパイアされた部分が非常に大きい。〈私〉について気になる方は、私(山村たけゆう)のテクストなどより永井氏のテクストを参照されたい。





「ご先祖様の恨み」

 「ご先祖様の恨み」が気になる。別に後ろめたいことがあるのではない。「ご先祖様の恨み」を巡る言語活動が気になるのだ。
 我々が現在やっていることを考えれば、どちらかというと子孫に恨まれることを気にした方が良さそうだが、少なくとも伝統的には、専ら先祖の恨みが問題になっている。これは死後の世界の信仰に支えられているようで、実は別々の問題系だ。死後の世界があろうとなかろうと、先祖の恨みを想像することが出来る。我々は、現在いる死者の霊を恐れているのではなく、既にいない者を恐れているのだ。亡霊とは無い者の表象であり、厳密には初めから無かったかもしれないものの表象だ。
 「ご先祖様の恨み」や「呪い」では、過去が、既に過ぎ去って今はないものが、機能している。呪いは痕跡であり、仕掛け爆弾だ。重要なのは、その痕跡があるとははっきり言い切れないことだ。そうでなければ、それは匂いと変わりない。昔の人がいかに迷信深くても、一部の「超能力者」を除けば、はっきりと今ある痕跡を知ることが出来たわけではない。「あるかもしれない」ことが重要なのだ。それは一度もなかったかもしれない過去を恐れることだ。
 このテクストは走り書きのようなものなので、呪いの構造について深く立ち入っては語らない。ただ我々には過去を、もしかして一度もなかったかもしれない過去を(そして過去とはそういうものだ)恐れる習性がある。我々は過去に隷属している。

 かけ離れた文脈のようだが、ふと、これが自己家畜化という語り口と重なって見えた。自己家畜化というのは、人間は自分を家畜化した種である、という視点だ。犬と狼、豚とイノシシといった関係を考えると、人間とチンパンジーというのは非常に類比的に見える。実際、形態的・行動的に、人間は様々な家畜と類似した点が見られるという。ただ人間の場合は、自分で自分を家畜にしているということだ。
 これは一見自主管理という様に見えるが、そうではない。かつてはそうだったのかもしれないが、少なくとも現在の我々の意識は、専ら見えざる者に管理されている立場だ。パノプティコンの表象がこれに当たる。
 我々を管理している者を権力と呼ぶが、自己家畜化は種自体の家畜化を言っているのであり、単純に階級社会の告発と取り違えてはならない。また少なくとも現代の社会は、国家元首や王族と言った分かり易い形の権力者が支配しているわけではない。結局自己家畜化の文字通り、自分で自分を家畜化していると言うより他にないのだが、我々の意識はそうは捉えないのだ。
 ここで権力を時間的に読み替えていく必要がある。すなわち、過去こそが我々を隷属させている、と。過去とは我々自身でもあるのだが、これを分かり易く表象すれば、「ご先祖様の恨み」になる。実際、自己家畜化のシステムが成熟するにつれて、我々は管理する面よりも管理される面を尊重するようになった。システムが完成に近づけば近づくほど、システムの創造よりそれへの隷属の方が重要になってくるからだ。
 人類は進化の過程で急速に大脳を肥大させてきたが、ネアンデルタール人以降はほとんど形質的に変化していないという。これが自己家畜化システムの成熟による隷属によると断じるのはもちろん早計だが、「ご先祖様の恨み」はこれと重なって見える。

(念のためだが、私はこのような「奴隷化」に抗って「狼になれ!」などと言っているのではない。家畜が家畜の幸福を追求することを責めることは出来ないし、それはそれで生きる知恵だ。自主管理、主体性をあまりに強調する思想は危険であるし、自己家畜化を社会的比喩へ安易に持ち込みすぎである。社会進化論のような幼稚さを感じざるを得ない。社会システムの枠を越えてまでこれらを主張したい人は、一人でサバンナにでも行って欲しい)


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