残響通信第十九号

後編

主な項目

前編
水中ハウス
世界の終わり
「人世の目的は睡眠である」
ご先祖様の恨み

後編
環境論を巡る道徳哲学の特別な位置?
「これを映像化する意味があるのか」
ミサイルを表現する/心霊写真
「趣味で決める」について
音楽に曝される
「人は常に祈っていますよ」
職人に騙されるな!
高速悪単子
てんじくねずみのうた


環境論を巡る道徳哲学の特別な位置?

道徳に絡んで

 環境問題が、既成道徳とは離れた場所で、あるいは道徳の発生を眺める視点から気になる。道徳系(道徳内価値観優先主義的)翼賛言説の延長として環境論、環境保護運動にはまるで価値を見いだせないが、逆に道徳を道徳内的に解体していく過程で、どうしても環境問題というのが目に付いてくる。社会倫理と環境倫理には相反する部分がある。社会倫理、「オトナ」のルールは、「人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということから出発しているように見える。もちろん現実には人に迷惑のかからないことも規制を受けるし、逆に迷惑なものでも規制をうけないこともある。ともあれ、上の不文律が根底で規制のかけ方を保証しているのは事実だろう。しかしこれは、人に迷惑がかかっているかどうかを我々が知りうるという幻想に支えられた、脆い体系にすぎない(残響通信14号「善意について」)。環境倫理は「人に迷惑をかけなければ何もできない」と訴えてくる。誰もが罪を背負うことにより罪の意味が変容してくる。完全に独立した系が否定されることにより、かえって比較的独立した系の価値が再認識される。ヒステリックな社会運動系の倫理よりはずっと健全なように見える。世界は有限でありながら連続した系(→ベルクソン『創造的進化』・・)となり、「私」は心理的社会的修飾をはがされて裸に近づく。それは依然として形而上学的な〈私〉とは異なるかもしれないが、少なくとも義によって立つ、義によって確認される自己モデルからは解放されているように見える。総ての義が失われて尚生きる「私」は、「趣味」によって立つより他にない。私は私の趣味によって生きるし、害するのだ。豚を食っても犬は食わないのは単なる私の趣味であるが、その向こうにいかなる義もない以上、私は弱々しくも選択の余地なく裸で豚を食べ続けるより他にないのだ。何人もそれを義の名の下に糾弾することは出来ない。岩明均『寄生獣』のクライマクスで、主人公が瀕死の強敵にとどめを刺すのをためらい、それでも結局エゴの名の下に泣きながら彼を殺す風景は、これに近いと思う。


時間に絡んで

 基礎付けという使命の必然的な解体と、その決定的な虚しさ(手遅れ)の絶妙な同期。環境倫理の特別な魅力は、それが決定的に機能しないことを文法的に、かつ目に見える形で運命づけられている点だ。環境を巡る、と言うよりは環境論の見方を包含する形の新しい道徳は、初めから十分に吟味されないように仕組まれている。というのも、環境倫理は、倫理自体が行動の優先を叫んでいるからだ。それは「一刻の猶予もならない」問題であって、「何はともあれ先ず行動しなければならない」性質のものなのだ。これは「伝統的サヨク」が行動を尊重するのとは、全く異なる。思想が行動を伴って実現されたり、あるいは単に行動の意義や重要性が思想に書き込まれているのではなく、「今すぐに」行動せよ、という命令が、思想の文法に組み込まれているということだ。解釈や吟味の時間的な延長が、初めから封印されている。
 たとえば人種問題であれば、それは勿論「大変重要かつ一日も早く解決すべき」と要請してくるが、問題自体はずっとあり続けたのであり、おそらく今後も存続するだろう。だが環境論は違う。そこには最初から時間制限が設定されていて、問題自体の消滅が予定されている。それが解決されなければ、自動的に「解決=解消」してしまう。「伝統的サヨク」達もしばしば合意の形成を待たないが、環境論では解釈以前に合意を待ちようがないのだ。だから、環境倫理は常に手遅れになる。環境倫理は後ろめたいものだ。それは基礎付け、もっと暴露的に言ってしまえば説得と合意の形成を目的としているが(それは単なる新しい道徳亜種の為の翼賛言説にすぎないのだから)、常にその説得は手遅れになる。環境倫理学者は、常に「こんなことをしている場合ではないのだが・・」と語り出さなければならない。
 ところで、このような基礎付けの虚しさ、基礎付けの「純粋に時間的な破綻」(物理的な時間ではなく、論理的に手遅れであるということ)は、哲学が形而上学の解体へと向かわざるを得ないのと並行的に見える。意味の不断の体系はゲーデル的に破綻を来すが、道徳は新しい形へと変化する過程で、このような決定的な真空を発見してしまったように見える。このような「語ることのどうしようもなさ」に対面するに至って、多くの人々は沈黙するか、あるいは様々な形の神秘主義へと向かってしまう。一方で、「語り得ないものがある」という形で話を続けることもできる。どちらにも決定的な「見落とし」があるのだろう。環境論で言えば、前者はイデオロギー的な行動主義者(おそらく数十年以内に過激な環境ファシストが台頭する筈だ)、後者はもう少し聡明だが憔悴しきった環境倫理学者だ。
 多分、環境論は環境という名の系自体を放棄しなければならないのだ。人間的経済が地球的なシステムへ、社会が環境へとシフトするだけでは不十分なのだ(真の環境論者はこのことを既に看破しているのだろうが)。
 系を扱うことの本質的な不可能性と、上の「時間のなさ」は表裏一体だ。だからと言って、早計な行動主義へと堕してしまうのは全く違う。ここでの行動は早計であってはならない。そのような「(盲目的)信念に満ちた」ものであってはならない。それが狂信的でヒステリックであるのが問題なのではなく、信念のあることが問題なのだ。必要とされるのは、ある種の「自信の無さ」だ。社会から環境へ(この過程でニンゲン一般が殺されなければならない)、そして不安な環境へと移行しなければならないのだ。そこでは自信のない行動と人生が、遅すぎる語りと優雅に併走するだろう。
 不安な社会は、「人にされてイヤなことを人にするな」が通らない社会だ。このうんざりするほど普遍的な戒律は、上に書いたように、人の迷惑を知りうるという幻想に支えられている。ニンゲン一般に裏打ちされた道徳が破綻する時、我々は利己性と趣味で話をせざるを得なくなる。
 例えば、素朴なエコロジストに対して、彼の言説の矛盾、彼の犯している様々な「環境的功罪」を挙げ連ねる(「お前だってテクノロジーの恩恵を受けているではないか」「お前の配っているチラシは木材資源を無駄にしているではないか」・・)シニカルな人々は、ナイーブな運動家に輪をかけて愚かだ。「そんなことを言うなら、地球を守る為にお前が最初に死ね」? バカだなあ、私が生きるために他の人に死んで貰うんだろ! 私が死んだら意味ねーじゃん。
 上のこととはズレるが、不安な社会を迎え入れるために、安心を様々な形でリソースとして導入することが(そのことに対する道徳的?禁忌を取り払うことが)非常に有効だ。一番簡単なのは抗不安剤だが、総ての刺激を薬物の比喩で捉えれば、もっと自然に使える抗不安リソースが無数にある。それはくだらない宗教でも良いし、「ヴァーチャル受験生」(残響通信18号)でも良いし、要するに自分をだませるものなら何でも良いのだ。総ての刺激を脳内物質のバランスを操るリソースとして捉えると、「正面系に対するどうぶつ的対処」(残響18号)のような身軽さがやってくる。「自分をだます」ことの絶対的な自己言及的矛盾は承知の上だ。それが不可能なら、「気休め」などという言葉は存在しない。「気休め」と「暇つぶし」が、総ての行動を説明する。





「これを映像化する意味があるのか」。

 たとえば「クマ殺し」に対するレスポンスとして、こういう意見をイヤと言うほど聞かされた。そう言う人のいわんとしていることはよく分かる。私自身、一観客として「クマ殺し」を全的に肯定する気は毛頭ないし、今後あのような映画を再び撮る可能性は少ないだろう。また、「あえて映像で表現する意味」について私が考えていないわけでもない。むしろ自ら監督し始めた当初は、ほとんどそのことだけを考えていた。今でもお話に絵を付けただけの映画には疑問を感じるし、苛立ちも覚える。
 それでも尚、こういう意見を堂々と伝えてくる人たちには違和感を覚えざるを得ない。我々が、というより私が、ある素材で映画を撮るということは、全くの偶然的な現象だ。私がマンガを描けず、小説を書く気にもならず(かつては書いていて、今も似たようなものを産出してはいるが)、たまたま映画ならやってみようという気になった。そして私には映画を撮れる環境がある。それだけのことだ。「映像化する意味」を問うてきている人は、そう問うことそれ自体によって、素材の普遍性というトラップ(ある共通の素材を様々なメディアを通じて様々な形で表現することが可能であるという幻想)をかえって肯定してしまっているのではないか。「映像化する意味」を意識する人たちは必ず「映像ならではの何か」を期待しているはずで、彼らは形式が内容に先行することにもっとも神経質な筈なのに、どういうわけかこの問いを発するに至って、内容が独立して形式を選択できる可能性を、暗黙理に容認してしまっている。
 また、こう問う人たちの考えには、「わざわざ映像化する」という見方が、反省なしに前提されているように見える。「わざわざ映像化する」などと何故言わなければならないのか。映像を扱うということは、それほど積極的な選択でなければならないのか。「テクストで済むものをわざわざ映像化する」と言えるなら(そしてそのことの特別な意味を問うなら)、「映像で済むことをわざわざテクストで語る」とは何故言えないのか。確かに映像表現は物理的経済的に多くの負担を作家に要求するが、それが一元的に「手間のかかる」「特別な」メディアであるということには直結しないだろう。そのような態度は映像以外の様々な表現方法を余りにも軽んじているように見える。
 繰り返すが、このような(浅薄な)批判者の言いたいことを私が理解しないということではない。だが、返す返すも、ある素材をある形式、あるメディアで「表現」してしまうということは、あらゆる意味で単に偶然的なものなのだ。我々が作品の是非や完成度、好悪について、表現者に対し何事か申し立てることが出来たとしても、表現してしまったという事実自体に対しては、いかようにも責任を問いたてることはできない。





ミサイルを表現する/心霊写真

 映画を作るとき表現したいものに、たとえば、「ミサイル」がある。誰もがそれが何か知っているようで、ほとんどの人がそれを見たこともなければ触れたこともない。また見たことがあったとしても、我々の間で流通している「ミサイル」の概念、「ミサイル」の感覚というのは、現実のミサイル自体とは直接に関係ない。多くの場合それは映画やアニメを通じて醸造された感覚だが、それも実際にミサイルが飛んでいる様子などがそのまま「ミサイル」なわけではない。タケノコは形状的に「ミサイル」であり、交通事故でフロントガラスから飛び出す運転者も「ミサイル」であり、違法駐車の車に苛立つときにボタンを押して発射したいものも「ミサイル」なのだ。要するに、それこそが「ミサイル」であり、定義上ミサイルとされているものなどは、「ミサイル」の極一部にすぎない。本当はミサイルであるような何かが、さりげなく日常に侵入しているのを見逃さないようにしなければならない。カメラはそれを追跡するのであり、そう考えると、心霊写真というのはなるほどもっともなものだと思う。あれこそが正にカメラの仕事だからだ。





「趣味で決める」について

―予想される「心理的」論駁への再反論

 これまで何度も、あらゆる正当性を破棄した後に尚残るものを、趣味と呼んできた(残響通信15号「道徳の道徳による道徳的解体」)。ここで言う趣味とは、hobbyではなく、tasteの意である。道徳の追求は道徳の解体に向かわざるを得ず、それは最終的に「義」一般の拒絶、怒り(広義の義憤)の否定に至る。義による判断の外在化を拒否するなら、趣味と言うより他にないし、それで結構ではないか、ということである。責任を取りきろうとしたら、最終的には勝手で趣味的な判断に(趣味の名の下に)サインするより他にない。我々の判断はどんなものでも、「赤より青が好き」という程度の趣味より高級なことはないのだ。
 ところで、このような議論に対して、趣味を合理的に説明づけることにより、再び判断を外在化させようとする動きがある。たとえば、「赤より青が好き」という時、その原因をそれぞれの色の持つ心理的・社会的意味やその人のおかれた環境、果ては幼児期のトラウマなどに求め、説明づけることである。
 だがこの指摘は見当違いだ。勿論、我々の趣味的判断を薄っぺらい心理学的分析で様々な意識・無意識的原因に還元することは可能だろう。説明を受けた本人すら、「ああ、本当は私はそのせいで赤を選んだのだ」と納得してしまうかもしれない。しかしその「本当は」とは一体何なのか。
 言うまでもなく、我々の総ての判断は、それが合理的(と本人が信じている)ものであろうと趣味的なものであろうと、社会や状況の影響下にあり、また「本当は私であるが私ではないもの」=無意識の操作を受けているだろう。純粋に独立した主観的判断などというものは、完全な客観的判断と同様にありえない。問題は、判断に対して、厳密には判断を宣言することに対して、我々が持つ(と言われる)責任だ。
 念のために断っておくが、ここで私は「責任ある社会」などといううんこちゃんなことを言おうとしているのではない。どのような深い無意識の歴史の結果としてであろうと、自らの名を記した発言として発話する時に、それをどのようにして理屈づけるか、ということだ。自分の発言が何の影響下に発せられようと、その発言にはサインが付されている。勿論これは、便宜的なものにすぎない。さしあたって社会を潤滑に動かす為の、とりあえずの妥協点に他ならない。コンスタティヴ/パフォーマティヴなどという区別そのものが馬鹿げているのだ。だが、何はともあれ我々は著名という約束事の上で生活している。その著名システムを一応受け入れるとして、それによって生じた責任をどうやって引き受けるか、という話なのだ。
 著名は発言に対して付されるのであって、その発言の根拠や由来に付されるのではない。我々は自らの発言自体、悠久の言語と無意識の流れの中でポッカリ浮かんできた点のような浮島に対してのみ責任を負うのであって、その履歴全面に対して責任など取れるわけもない。そんなことは「知ったことじゃない」。発言の根拠は、ただその人の主張によってのみ基礎づけられる。「いや、彼の発言の「本当の」根拠は幼児期の性的虐待にあるのだ」と言ったところで、本人がノーと言えばそれを真と取らざるを得ないのだ。それは責任という概念の文法によって定められている。
 重要なのは、いかなる経緯で発言が為されたかではない。発言に際する態度、サインに向かうときの態度なのだ。それを趣味の名の下にやろう、という形を示しているのであって、発言の「真意」を探ることには意味がない。


音楽に曝される

 「部屋でこっそり聴く」「踊る為に使う」等々音楽の享受の仕方に様々な形式があることは言うまでもないが、個人的に気になっているのは、「曝される」という聴き方だ。積極的にその曲をかけたり聴きに行くのではなく、町中や店内で受動的に無理矢理聴かされる、という状態だ。私は、コンビニやファストフードで聴くどうでもいいヒット曲に妙に惹かれてしまう。立ち読みしている時に有線でSPEEDが流れて来たりするのが大好きだ。決してCDを買おうとは思わなし、また重要なことに部屋で自らFMのスイッチを入れて聴いたときには何も感じない(あるいはかえって不愉快に思う)にも関わらず、受動的な環境では自然に聴けてしまう。そういうとき、私は流行の歌謡曲に曝されている自分を楽しんでいるのだ。自分の意志で選択していない故に脆いプライドと自我を保護しつつ、匿名の受容者となって、現れては消えていく流行歌の流れの中に佇む。その時私は流行歌を聴くというより、流行歌そのもの、流れ去っていく儚い商品そのものになっているのだ。
 我々の究極の幸福は、自我の消滅と全体性=マキーナ(機械としての自然)との一体化にあるように思うが(非常に「危険」な発言であることは承知)、記号性と経済に身を任すとき、我々はこれと似た経験、小さな死ならぬ「小さな解脱」を経験しているような気がする。その時でも依然として我々の自我は存続しているし、実際問われればいつでも自我の名の下に答えを返すことが出来るのだが、コンビニで立ち読みしている私に、私の自律性を確認してくる者は誰もいないのだ。それ故、自由意志の消滅の恐怖を回避しつつ、沈黙という形で責任から逃れることが出来る。
 勿論これは「ずるい」選択であるし、事の是非を言うつもりはないが、我々の快楽にはそういう形式が厳然としてあるし、そういう音楽の享受の仕方もあって良いと思う。「ずるい」快楽から目を逸らす者は、所詮己の善意に溺れているのだ。


「人は常に祈っていますよ」

 青臭い質問をぶつける高校生の私にそう呟いた恩師でもある神父は、何を語ろうとしていたのか。あれからおよそ十年の歳月が流れたが、私は年齢程は成長せず、それほど多くのことが分かった訳でもない。ただ、はっきりしてきたのは、祈りとは、欲望やその達成の一形式ではないということだ。それは残響塾サイトの「祈ろうぜ!」で、お守りに投資するような祈りの形式を二重化して笑っている(見下しているのではない)ことでも表現している。祈りは言葉だ。空回りする言葉だ。それは欲望の衣をまといながら微妙に経済から身をかわしているギリギリの発話形式だ。
 為したことから起こったことを引いていったら何も残らないかもしれない、というのは手垢にまみれた機械論的世界論と自由意志の問題だが、件の神父の言葉は自由意志について語っていたのではないか。つまり、祈りとは意志そのもののことではないのか。いや、安々と自己意識の問題へと堕してしまうレベルの独我論の話ではなく、自己意識の問題などまったく省略してしまっても尚成り立つ階級での〈私〉のありようのことではないのか。
 意志という言葉には、〈私〉を世界との関係性に回収し世界内的一存在へと作り替えてしまうトラップが潜んでいる。しかし、祈りならどうか。私は常に祈っている。何故なら、何もかも手遅れになり、濡れ衣を着せられるという形で私は世界へと参与しているからだ。気が付いたときには、不本意にも私はここにいたのだ。私に出来るのはただ祈ることだけだ。
 置き去りにされた子供、どんな叫びも届かないほど深い場所に放り出されてしまった子供は、祈るしか出来ないのではないか。コギトは、祈る私へと姿を変える。故に、在るか? さあね。それはカミサマが決めることだから。


職人に騙されるな!

 私は職人が嫌いだ。
 職人の技術を否定するつもりはないが、職人気質というのが果てしなくうっとうしい。ものを作る上でタマシイだけで出来ないのは勿論であり、技術と形式こそが表象芸術の命となる。だが、だからといってまるっきり職人化してしまうのは話が違う。徹してくれるのは結構だが、それでも自分の脆いアイデンティティのためにこだわりと理屈の虚飾をまとうのは勘弁してほしい。それくらいなら素直に自分の好きなことだけやればいいのだ。
 職人は去勢されている。去勢されていないものが芸術家なのだ、などと大げさに言うつもりはないし、スピリットだけの人より職人の方が相当マシなのはわかっているが、それでも職人気質は許せない。それってただの傲慢じゃないの? 技術がなかったらただのウザい奴だよ。技術と能書きワンセットだと思っているのかもしれないけれど、こだわりが多いのは単なる欠点でしょ。職人の譫言に騙されるな! 使うなら能書きの少ない職人にしろ!
 職人芸に対置されるものがあるとしたら、それは治療だ。こちらもそうとうにショボい話で、これをもって「芸術でござい」とくるヤツも頑固職人と同じくらい頭が悪い。病気がたまたま商品になったのが高名な「芸術家」なのだろう。そこへ至るまでに病気と治療が欠かせなかったのだとしても、それは方法論であって、声を大にして宣伝するようなことではない。売れているのは結果としての作品なのだから、高価なガン細胞を作る課程など偉そうに見せてどうするのか。
 勿論金になる病気の方がいいにきまっているから、何としても金にはこだわるけれど、それが当たり前のことだとは思っていない。職人と治療、どちらか一つとるなら治療の方へいかざるをえないが、ヤルキとガンバリズムの熱い=ウザい奴らは迷惑なだけだ。



高速悪単子

 悪意は受動的だが善意は能動的。善意は「役を選び取るもの」だが、悪意は「止むに止まれぬもの」。この非対象性。

 善楽の融和力伝播性。これに対するのは悪意に見えるが悪意によらない悪としてのありよう。両者は政治的・宗教的に対立。そうは見えないが。

 リズムのある場合のみ高速で逃げ拡散する善楽ネット生命体(音楽家など)。

 善楽の低速形が善システム(法)。それはシステム善と言っても良いし、システム悪と言っても同じ事で、正義には反する。

 右のどちらとも異なるのが高速悪単子。犯罪、愉しい。善システムを攪乱するが、それ自体で対抗することは出来ず、善楽ネットとも和する事がない。

 高速悪単子は最も弱い無敵の生命形態。正義は見たことも聞いたこともない。正義は他者であり、高速悪単子の燃え尽きた灰だ。

1:カングリキニシスギ悪意と視線への神経の立ち方(階級混乱)が物語を作る動力となる。

2:トリガーは分裂的な連合野の壊乱。物語が生成された後では前は抹消されるし、それは常に抹消されているから、物語はこれから語りだすものとして空想するより他になくなる。

3:物語完成後は世界は善性に満たされ、善性を通奏低音とする。悪は「悪玉」という物語的な一項に収まる。それが「現状のこの世界」で、それより他にとらえようがない。

4:カングリキニシスギが走り出すのは未来の出来事で、それは未然に防げると善人たちによって考えられている。善人たちは悪と言ったら悪玉のことだと思っているから、まるで自分たちとは関係ないと信じている。自分の中の悪い点は悪玉的な悪さしか認めない(嘘をついた、物を盗んだ・・)。だからカングリが本当に身近に現れたときは、病気化するか、戒律を破ってでもそいつを滅ぼそうとするし、それが出来ると思っている。

5:「お前は普通の人間や」というのはニンゲン+ビョウキで理解されたようで違和感がある。固有名詞の過剰、〈私〉、単一性そのもの。物語化して回収。物語発生役者は異端化される。病人として姿を曝すというのは固有名を裏切ることに成りかねない→病気自慢の不愉快

6:迷子になると、穴イナクナッタヒトへ一直線に向かうストーリーに回収される(精神病化)。安心(それ以前は監視、視線関係、カングリキニシスギの神経症的状態、相互悪意経済)。不幸な未来を想像する神経症空間(カングリ経済に閉じこめられているので)。

高速悪単子は踊らない。踊りの輪に入るようになったら、高速悪単子には何一つ好いところが残らない。友を裏切らなかったとしても、それは初めから友がないからだ。


てんじくねずみのうた

私ってある意味てんじくねずみ
ところで、てんじくねずみって何?
私は私だけど私じゃない
まあそう言ってると話が進まないから
一応私ってことで嘘ついて話するよ
てんじくねずみの特徴って、無関心なところかな
自分以外は石とかと一緒だね、わりと
てゆーか、自分もなんだか分かんない?
自分と他人って言うの? そうゆうのよくわらかないんだよね
ほら、私ってある意味てんじくねずみだから
私も誰もないの みんななの
全部、みんなっていうの?
誰かが鳴くとなんとなく「キュー!」って鳴いちゃうんだよね
それと、移動とかも一緒
なんとなくつい、行っちゃうよね
あと、大体、匂いで考えるね
匂いはいいね
大体のことは分かるよね
分かるって言うか、エサとか食えないとか、そういう感じ
うんことか、気になるしね
狭いところで固まってたりすると、
ほかのてんじくねずみとぶつかったりとかあるんだけど、
なんかどうでもいいって感じ?
石とかと一緒でしょ、ある意味
誰が誰とかわからないしね
発情したりすると、雌とかは分かるけどね
そう言う時って、珍しく私がいるって感じ?
他の雄とか、すごい邪魔になるんだよね
でも名前とか知らないし
誰とか分かんないし
みんな群だからさ
蛇とかに襲われるとみんな怖いし、
よく食べられたりするけど、生きてるから、食べられてないんだなっていうか
すぐ忘れるし
かっこよく言うとさ、
今を生きるっていうの?
私って話下手だからうまくいえないんだけどさ、
なんかそんな感じ?
こうゆう感じって、時々ファシストとか言われるんだけど、
ファシストって何なの?
私頭悪いからさ
すぐ忘れるし
ほら、ある意味てんじくねずみだし
高校行ってないし
難しいこと分かんないんだよね
でも友愛とかあるのに比べると喧嘩も少ないし、
共食いとかめったにないし、
いいんじゃない?
ずっとこんなかんじで
ふさふさしてるしさ
足短いけど、割と早く動くし
大きなお世話って感じ?
よくわかんないけどさ、
頭悪いと誰が誰だか分かんなくてもオッケーなみたい
大学出てるのとか、ややこしいよね
匂いとかじゃないって感じ?
まあいつまでたってもこの調子なんだろうけど、
いいんじゃない?
やっぱ私って、てんじくねずみだから、ある意味


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